TopNovel>水面に揺れて・19


…19…

 

 南峰の集落こそが終の棲家と思い始めた頃から、その土地の名産である焼き物に強く心を惹かれるようになっていった。
  彼の地で一番値打ちがあるものと言えば玻璃細工であろうが、あれは庶民には到底手の届かぬ存在。その技法も門外不出で、それ故にさらに希少価値が高まっていく。奈瑠なども直接目にしたことのある玻璃は、ほんの小指の先ほどの珠くらいのもの。それもずいぶん昔にたった一度きり、今ではどんな輝きであったのかの記憶も曖昧になっている。
  その一方で、地元の山より産出される良質な土を使った陶器もまた、南峰の地を潤す大切な収入源のひとつとなっていた。こちらは焼き窯が各地に点在し、その手法は遠くは都までも伝承されている。赤土に白土、もしくは鉄分を多く含んだ黒土など、それぞれの特色を生かした仕事は色もかたちもそれぞれであり、見る者を圧倒した。
  あるものは土の感触が手のひらに直に伝わってくる素朴な仕上がりであり、またあるものは良質の上薬をふんだんに用いて艶のある滑らかな手触りである。
  そのひとつひとつにどのような歴史があり、どのように変化を遂げて現在の姿にまでたどり着いたのか。月の御方の書庫にあった書物の中から該当する箇所をひとつふたつと探していくうちに、奈瑠の中にある探求心はますます膨らむばかりだった。
  どうせなら、もっと詳細に書かれた資料はないものだろうか。どれもこれもが似たような記述ばかりで、もう少し掘り下げて説明してくれないかと口惜しく思ってしまう。こういうことはむしろ、直接窯元に出向いて話を聞いた方が良いのか。しかし、女子の身でそのような場所を訪れたところで門前払いをされてしまうに決まっている。ああ、それならばどうすればいい。
  ―― しかしながら。
  そのような希望を自ら口にしたことは過去に一度もなかったはずである。一言願い出れば、お優しくまたご自分も相当の知識人である御館様であるから、手を尽くしてできる限りの資料を集めてくれたことであろう。だが、自分などのためにお忙しい方のお手を煩わせることがあってはならない。そう思って諦めていた。
  それが、どうして若様の口から。

「焼き物、でありますか? もちろん、その手の資料もこちらには多くございますが……具体的にはどのような種類のものをご所望でしょう」
  李雨はすぐに承知して、さらに深く訊ねてくる。
「そうだな、まずは南峰の焼き物についての資料が欲しい。特に赤土の素焼きのものに限定できれば有り難いな」
「畏まりました」
  そう告げて一度退座する男の背をぼんやり見つめながら、奈瑠はたった今目の前で繰り広げられたやりとりを未だ真実として受け止められずにいた。
  そんな彼女に対し、若様は後押しをするように言う。
「ほら、あちらに閲覧用の机がある。資料そのものの持ち出しは許されていないが、希望の箇所を書き写して持ち帰ることは可能らしいな」
  指し示された方を見れば、その言葉どおりに机上では手持ちの冊子や巻物に忙しく書物の内容を写し取っている官人たちが多く見受けられた。皆、一刻を争うような真剣さである。この地には長期に滞在して任につく者の他に、所用で短期間だけに限定して訪れる者も多くいると聞く。彼らはまさに、後者に該当する者たちなのだろうか。
  確かに少ない時間で多くの知識を頭の中に植え付けることは到底不可能だ。中には世にふたつとない貴重な資料もあるため決して紛失することがあってはならないが、かといってひとつの場所に押し込めているばかりでは宝の持ち腐れである。
  都という場所は人々が多く集まり交流が深まるだけではなく、彼らが持ち寄る知識や情報もまたかけがえのない財産となって様々にやりとりされていく。その結果、国全体が豊かになれば申し分のないことである。
  古くから築き上げられてきた政治体制を、今の竜王様は大幅に改革なさろうとしていると聞く。私利私欲に走る一部の人間だけが得をするような世の中では、その足下に潰される民たちが顔を上げることもできない。確かに険しい道のりではあるが、その成果は少しずつ目に見えるかたちになってきているのだと実感した。
  しばらくすると、李雨は一抱えほどもある資料を重そうに運んできた。
「とりあえず、思い当たるものはこちらでございます。該当箇所に付箋を挟んでおりますので、どうぞご覧ください」
  渡された書物は、古いもの新しいものさまざまである。そのどれもが、初めて目にするものばかりであった。
「このような情報は、なかなか一冊にまとまっているものがなくて……私どもも大変困っております。該当箇所を抜き出して編集すれば良いのですが、残念ながらそこまでは手が回らないのが実情でして」
  良質の資料を多く集めているとはいっても、さすがに限界があるらしい。優秀な文官が多く配置されていたとしても、なかなか細かいところまでは行き届かないのだろう。それでも奈瑠にとってはまたとない幸運であった。たとえひとつの書物で必要な箇所が数頁であっても、これだけの量が集まればたくさんの知識を得ることができる。
「紙や筆、硯などはあちらにございますので、ご自由にお使いください。では、どうぞごゆっくり」
  その後もしばらくは、奈瑠は目の前の書物を手にすることもできずにただぼんやりと過ごしていた。
  あまりにも信じられない夢のような出来事に、胸がいっぱいになってどうすることもできない。この場所にたどり着くまでにも不思議な体験は数えきれぬほどしてきたが、ここに来てまた自分の頬をつねって現実を確かめる必要が出てきた。
「どうした、さっさと取りかからないと時間がないぞ。これだけの量だ、写し取るだけでも大変だろう」
  そんな奈瑠を後目に、若様はさっさとたすき掛けをして筆を手にする。
「お前はそっちの山を片づけろ。ぼやぼやしているんじゃないぞ」
  これもまた、予想だにしなかった成り行きであった。しかし、いつまでも惚けているわけにもいかない。どうにか気を取り直して、奈瑠も紙と筆を手にした。そして、左手に資料を開き、そこに書かれている文字を無我夢中で写し取っていく。
  正式に師について手習いをしたことはなかったが、幸い両親に相応の才があったために見よう見まねで読み書きは覚えることができた。今では難しい歴史書なども読み進めることができるようになっている。それもこれも、話し相手もなくただ書物に囲まれて過ごしていたから得られたことであるのかも知れない。
  外見だけで値踏みされるのはどうしても耐えられなかった。せめて自分ひとりの力で生き抜いていくだけの知識は身につけていたい。
  作業の途中にふと見れば、となりの席に座る若様はとても真剣な眼差しで資料と向かい合っている。細かく記された数行を指で辿り、そのあとに筆を執って書き写していく。こちらの視線にはまったく気づかないほど集中しているようだ。
  ―― もしやこれは、若様ご自身が持ち帰りたい資料なのだろうか。
  焼き物にご興味をお持ちとの話は一度も聞いたことがなかったが、里にいた頃にもほとんど交流のなかった相手であるから詳しいところはわからない。それに、そのように考えてしまった方がしっくり来る。だいたい、若様に自分の心内が読めるはずもないのだから。
  そう思うと多少心の重荷が取れ、作業に集中できるようになった。夕刻にはこの書庫も閉館する。そうなれば、いったんは宿に戻って出直さなければならなくなる。待ち人が戻るには数日の猶予があるのだから、自らが強く望めば明日も明後日もこの場所を訪れることは可能だろう。だがそれでも、今日中にできる限り先まで進めておきたい。

 その日は昼餉もそこそこに、ずっと机にかじりついたままで過ごした。そろそろ閉館だと告げられても、未だに少しの疲れも感じないどころか、この場所から離れることが名残惜しくて仕方ない。
  そんな気持ちをどうにか抑え込んで、奈瑠は席を立った。そして同じく帰り支度をしている周囲の者たちと同じように、書き溜めたものたちをひとまとめにする。
「―― これも一緒に揃えてくれ」
  目の前にうずたかく積まれたひと山の上に、若様がさらに数束を重ねる。そして、さらにこう付け加えた。
「自分の荷物くらい持てるよな、それほど重いものでもないだろうから」
  驚いて振り向いた奈瑠の視線を振り切るように、彼は一足先に書庫を出て行ってしまう。慌てて追いかけた背中は、今日一日の疲れなどどこにもなく、むしろとても清々しいものに見えた。  

 翌日もまた、朝餉を終えるとすぐ宿をあとにした。
  どこへ行くかを改めて告げられなくても、奈瑠には迷いもない。きっとあの場所へと向かってくれるのだという確信があった。
「今日は人が多いな」
  予想どおり書庫の前までやってくると、若様はぽつりと呟いた。
  なるほど、そのお言葉の示すとおりである。人ひとりがようやく通れるほどの狭い入り口から中を覗けば、閲覧用の机はどこも人でいっぱいであった。
「おはようございます、犀月様」
  ふたりの姿をいち早く見つけた李雨が、すぐにこちらへとやって来る。そして彼はすまなそうに言った。
「申し訳ございません、本日は西の集落から視察の者が多く参っていてこのような有様です。すぐにお席を探しますが……少々お待ちくださいませ」
  別に彼の手落ちという訳ではないのだから、あまりに低姿勢に謝られてしまうとこちらの立場がなくなる。そしてどうしたものかとしばらくその場所で待機していると、やがて彼は浮かない顔をした戻ってきた。
「一番奥の席がひとつだけ空いていました。……如何いたしましょう?」
  李雨の視線が自分の方へ向けられていることを何となく感じ取りながら、奈瑠は若様の方をちらりと見た。
「こちらの蔵書を閲覧するのに特別の手続きは必要なのか?」
  少しばかりの間をおいてから、若様ははっきりした口調で訊ねる。
「いえ、そのようなことはございません。身元確認さえできれば、自由に館内をご覧いただいて結構です」
  その説明が予想通りだったのだろう、彼は満足そうに頷く。
「それならば、奈瑠はしばらく書庫棚で好きな本を探せばいい。資料の写しは僕が進めておくから」
「え、でも……」
「僕の方がお前の三倍は作業が早く進むからな」
  若様は有無を言わせぬ口ぶりでそう言いきると、渡された資料を手に奥の席へと向かっていった。

 

<< 戻る       次へ >>


TopNovel>水面に揺れて・19