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案内された書庫棚は、想像していたよりも奥に深くあまりにも広大であった。
その場所にさまざまな蔵書が項目ごとにきちんと分類されて収められている。ひとことに「蔵書」といっても、冊子になったものから昔ながらの巻物、そして紙片に写し取られて一枚きりのものまでその大きさや形状はそれぞれである。話によると、毎日のように新しい資料が各地から運び込まれ、それを的確な場所に並べるだけでも一苦労で多くの手間暇が掛かってしまうという。
この国の歴史、いにしえよりの物語や伝承、ありとあらゆる分野の情報がこの場所にある。そう思うと、急に現実が遠ざかり足下がすくわれるような思いがした。
奈瑠の知っている「書庫」とは、月の御方の館の隅にある小さな小屋がすべてである。あの場所にすら、まだ紐解いていない資料が多くあり、それを一度も開かぬままに遠き地へと去らねばならない自分がとても悲しいと思っていた。
だがいったい、この場所は……想像の域を遙かに超えている。
李雨は取り立てて急ぎの仕事も入っていないらしく、素人にはわかりにくい場所をゆっくりと案内してくれた。彼の文官らしい穏やかな口調や身のこなしが、初対面に近い間柄であることを忘れさせる。多くの紙束に囲われたこの場所は、奈瑠にとってとても安全であるように思えた。
「それにしても、犀月様がこのように素晴らしい奥方様をお連れになるとは。私などはまだまだ独り身ですから、羨ましいばかりです。昨日もおふたりのお姿をとても眩しく拝見しておりましたよ」
急に関係のない話に切り替わり、奈瑠はぼんやりと声の主を見る。
「昨日にちらりと拝見しましたが、犀月様は相変わらず素晴らしいお手蹟(て)でございますね。西南の大臣様の御館でご一緒させていただいたのはもう何年も前のことになりますが、その頃からあの方はすべてにおいて他の者より抜きんでていらっしゃいました。あのとき、こちらにご一緒いただけなかったのが、とても残念でなりません」
「……え?」
そういえば、この者と若様は以前西南の大臣家で交流があったと聞いている。でも彼が話す思い出話の中には奈瑠のまったく知らない情報も含まれていた。
「おや、ご存じありませんでしたか。当時都への出仕話が持ち上がったとき、真っ先に名前が挙がったのが犀月様だったのですよ。でもご本人はあっさりとお断りになってしまいまして、西南の大臣様も犀月様の御父上もそれはそれは残念に思われたようです」
もちろんそれは初めて耳にする話であった。奈瑠の父は月の御方の御館にあってはお側に仕えるひとりになるのだが、その口からも一度も聞いたことのないことである。
「こうして久しぶりにお目に掛かって、ますますご立派になったお姿を拝見するにつけ、片田舎にくすぶっていてはならない方だと確信してしまいますが……ご本人のご意思ならば致し方ございませんね」
とてもお世辞を言って持ち上げようとしているようには見えない。心のままに告げられた言葉だと信じられるからこそ、そのすべてが驚きを伴って奈瑠の中に受け入れられた。
―― 本来ならば、この地で活躍されているはずだった方……。
若様は月の御方の跡目であるが、そのような身分であっても都への数年の出仕は当然のこととして受け止められている。将来多くの民を治める立場になる方ならば、むしろ広い世界に触れることが必要だと考えられているのだろう。だがしかし、若様はそうはなさらなかった。
面倒ごとのお嫌いな方だと言うことは知っている。自由気ままに日々を楽しく暮らしていく方が、堅苦しい政(まつりごと)を行うよりもずっと望ましいと思っていらっしゃる様子であった。しかし、都への出仕となれば話は別ではないか。この地ならば、他では決して体感できないような暮らしをすることができる。堅苦しい身分制度からも解き放たれ、若様にとっても好ましい状況と言えるだろう。
……ならば、どうして。
我が身の明日すらも容易には思いつかない立場でありながら、他人の心内まで推察することなど無理に決まっている。しかし、今までは想像もつかなかった若様の一面を新たに教えられたことで、自分が思っていたよりも多くのものを抱えているお人なのだと言うことに気づく。
それならば、何を思ってこの地に上がったのか。そして、彼を送り出した月の御方ご夫妻の真意は? 考えれば考えるほど、わからないことばかりである。
その日は新たに興味深い素焼きの書物をいくつか見つけ、書庫の隅に置かれた椅子でゆっくりと眺めることができた。途中、昼餉に差し入れられた握り飯をいただいたが、その時間以外は書物に埋もれて過ごしたと言ってもいい。
遠く都まで上がったというのに、やっていることは月の御方の御館にいるときと少しも変わっていない。それでも自分の一番幸せな時間を容易に手に入れられる今が、とても幸せだと思った。
昨日と同じように閉館ギリギリまで粘ってから外に出る。夕刻の町並みは賑わい、さらに増えた人の頭で真っ直ぐに歩くことも難しい。通行証を見せて表門を出たあとに、若様は当然のように奈瑠の手を取って歩き出した。
この場所を通るたびに感じることではあるが、田舎暮らしでは到底味わえないほどに若い者たちの姿を多く見ることができる。たぶん、彼らは竜王様の御館に出仕している侍従や侍女という身の上の者たちなのだろう。男も女も皆、目映いほどの美しい衣をまとい、とても華やいだ表情をしている。
―― この中に、若様も当然のようにいらしたはずだったのだ……。
いったいどんなお気持ちでこの情景を見守っていらっしゃるのだろう。そのことが気になってならないが、先を進む人の表情を見ることはできない。ただ、手のひらから感じ取る温もりだけが、彼の存在感を示していた。
「おや、あのような場所に的場が」
そして、若様の足が急に止まる。前を行く人の早足に合わせて少しばかり急ぎ足になっていたから、もう少しのところでその背にぶつかりそうになった。
なるほど、指し示された方を見れば、店先から少し入った場所に的場が設置されている。そしてその周りには人だかりができていた。
「行ってみよう」
ふたりが近づいていくのとちょうど同じ頃、集まった人々の中から大きな歓声が上がる。何ごとかと覗き見ると、そこではひとりの若い男が皆から口々に声を掛けられはやし立てられているところだった。
「どうも、あの的に当てると景品がもらえるらしいな」
とは言われても、そう簡単にいく話ではなさそうだ。夕刻の気は流れが速く、一本の糸で頼りなくぶら下げられたその部分は始終右に左に揺れている。しかも射位(しゃい)から的までがずいぶん離れているようにも見受けられた。
「あ、あのっ。若様―― 」
集まっているのは、あまり柄の良さそうな連中ではなさそうだ。奈瑠の目からそう見えるだけかも知れないが、ここは用心した方が良いのではないか。しかし、若様は静止を振り切ってさっさと人の輪に入ってしまう。
「ああそうかい、挑戦してみたいって言うなら誰でも遠慮はいらない。だが、道具は貸し出しだ。その代金は頂戴するよ」
……そんなところだろうと思った。そして、支払った銭は見事的に当てれば戻ってくるが、そうじゃなければあっちの懐に入ってしまう。しかもその金額がべらぼうに高額であった。
だが、そんなことで躊躇するような御方ではない。若様はさっさと言われたとおりの銭を支払うと、代わりにあまり手入れの良くなさそうな道具を渡された。素人目から見ても、あのような品で勝負になるはずもないとわかる。
「じゃ、始めるぞ」
見知らぬ飛び入りが現れたと言うことで、集まった者たちは興味津々に魅入っている。渡された矢はわずか三本。初めから負けが決まっているようなものだった。
―― しかし。
「うぉっ、当たったぞ!」
「し、信じられねえ……」
その声にようやく恐る恐る的を見れば、今も大きく揺れるその場所の中央に矢は真っ直ぐに刺さっていた。そして、若様は間髪入れず次の矢を放つ。今度は人々の口から言葉が消えていた。
「何だ、思ったより簡単だな。……じゃ、これで最後だ」
一同が静まりかえった中に、若様の声だけが高らかに響く。そして、的は矢が刺さった途端に大きくふたつに割れてしまった。
「……ひっ、ひいいいいっ……!」
店番をしていた男が、情けなく腰を抜かしている。若様はその手から先ほど渡したばかりの銭をむしり取ると、さらに顎で促した。
「さて、……景品とやらはどこにあるんだ」
その信じられない様子を、奈瑠は人だかりから少し離れた場所で眺めていた。しかし、今は自分の背後にもたくさんの見物客が集まっている。いつの間にか若様の快進撃は皆の注目の的となっていたらしい。
しばらくして、何ごともなかったかのように若様が店の奥から出てくる。そして特に自慢げな表情を浮かべることもなく、さっさと先に歩き出した。
「とんだ子供だましだな、あんなことで面白がる奴らの気が知れない」
しばらく歩いたあとで、若様はようやく口を開いた。そして、ゆっくりと立ち止まる。
「ほら、こんなのが景品だと。どうしようもなくしけた奴らだ、よくあんなで商売が成り立つな」
振り向きざまに、乱暴に投げ出されたもの。慌てて手のひらで受けると、それは小さな匂い袋だった。手のひらにすっぽり収まるほどのその表面には綺麗な刺し文様が施されてはいたが、あれだけの偉業を遂げた代償にしてはあまりにもささやかな品である。
「そんなもの、僕が持っていても仕方ない。だから、お前にやる」
こちらが礼を言う間もなく、若様はさっさと先に歩き出した。次第に場末に近づいているため、少し離れていてもはぐれることもなさそうである。そう思って、奈瑠はしばらく歩みを止めていた。
―― いただいてしまっていいのだろうか。
ご本人がそう仰るのだから、こちらが異を唱えるまでもない。だが、手のひらに僅かに感じる重みが、たとえようのないほど貴重なものに思える。
それは、若様の瞳の色と同じ、深い緑に染まっていた。
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