TopNovel>水面に揺れて・21


…21…

 

 その夜は、ひときわ深く冷え込んだ。
  昼間、あまり身体を動かすこともなく書物に没頭していたこともあるのだろう。薄い掛け布団にすっぽりと身体を包んでみても、手や足の指先が凍えて仕方ない。このような状態ではいくら待っても眠りが訪れるはずもなく、ただ震えながら時間をやり過ごすしかなかった。
  ―― と。
  奈瑠の縮こまっていた肩先が、一瞬だけぴくりと反応する。一枚きりのしとねのあちら側、背を向けて休んでいる人が小さく咳をしたのだ。さらに続けて、二度三度。ご本人は深く寝入っている様子だが、それでもかなり辛そうである。
  ―― 仕方ないわ、これきりの掛け布団しか用意されていないのだもの。
  もともと二枚重ねて用いるものだということは承知している。しかし自分たちの場合は一枚ずつ分け合っているのだ。自業自得と言われればそこまでだが、仕方のないことではある。だが、今宵の寒さは尋常ではない。ここでお互い体調を崩してしまっては、後に控えた帰郷の途にも差し支えるのではないか。
  しんと静まりかえった部屋で、奈瑠はしばらくじっと考えていた。正直、自分自身も我慢ができないほど寒くて仕方ない。しかし、このような夜更けに宿主を訪ねてもう一枚の布団をもらうのも不可能だろう。
  ならば、いったいどうしたらいいのか。
  奈瑠はゆっくりと身を起こすと、自分がかけていた布団をずらした。途端に耐えきれぬほどの冷たさが肌を刺してくる。それに耐えながら、少しずつ身を動かしていく。傍らの人を決して起こさぬように細心の注意を払いながら。そしてようやく腕を伸ばせば届く近さになったことを確認してから、自分の掛け布団の左半分を、若様の上にふわりと掛けた。
「……」
  予想よりも大きな音を立ててしまったために一瞬はひやりとしたが、幸いなことに若様がお目覚めになることはなかった。昼間、あまりに根を詰めておいでだったから、たいそうお疲れなのだろう。しかも帰り道にはあのようなことまで。こちらが止めるのも聞かずにどんどん行動してしまうから、本当に肝を冷やした。これではお目付役としては失格である。
  その後、少し考えてから、奈瑠も二枚の掛け布団の下へと潜り込む。こんなことを若様ご本人がお知りになったら、激怒されるに違いない。でも大丈夫だ、少しだけ休むだけだからと自分に言い聞かせる。
  大きめの布団であったから、決して身体が触れ合うことのないように一定の距離を置いても、互いの身体がそこからはみ出ることはなかった。それでもすぐ側まで近づいたことで、今までは決して感じることのできなかった自分以外の体温を知る。それは奈瑠にとって、眠りを誘うのに十分すぎるものであった。

 しまったと思ったときにはもう遅かった。
  次に目覚めたときに、部屋の外はすっかりと明るくなっていた。表に面した手前の部屋の障子戸から、目映い朝の陽射しが注ぎ込んできている。
  すぐに慌てて起き上がったが、若様の姿はどこにもなかった。あんな状態でよもや寝過ごすことなどないと思っていたのに、とんだ失態である。
「ずいぶんとゆっくりしたものだな。もう、朝餉の膳も届いているぞ」
  慌てて身支度を整えて表の間に出ると、ちょうど若様がお戻りになったところだった。その手には薄い掛け布団が抱えられている。
「これを奥に運んでおくぞ。今夜からは余計な気遣いは無用だ」
  吐き捨てられるように告げられたその言葉を耳にして、奈瑠は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
  ―― ああ、そうなのだ。余計なことをしてくれたものだと、ご立腹されているに違いない。
  感謝の言葉などは、最初から期待していなかった。しかし、だからといってここまで疎んじられてしまうとは情けない。やはり、少しばかりの凍えなど耐えるべきだった。そうだ、たかだか一夜のことではないか。
  その朝はいつも以上に会話が少なく、朝餉もどこに入ったのかわからないような状態のまま宿を出る。行き先は今日も同じだった。
  この道を進むのも三日目であるから、少しは歩き方もわかってきた気がする。無理に人の流れに逆らおうとはせずに、同じ方角へ行く者の背中を追えばよい。慣れてしまえば、拍子抜けするほど簡単なことであった。
  本日の書庫は、まずまずの人の入り。ふたりはすぐに席を確保することが出来、作業を始められた。もうすっかり顔なじみになった李雨も、頼もしい助っ人である。自分でいろいろ調べたり詳しい者に訊ねてくれたりしたらしく、昨日までとはまた違う資料をいくつも渡してくれた。
「残念なことですね、もう少し滞在期間が長ければご希望のものを新たに他方より取り寄せることもできるのですが」
  そんな風に告げられると、たいそう恐縮してしまう。厄介ごとを頼んだのはこちらの方なのに、ここまで世話を焼いてくれて感謝のしようもない。短い時間にこれだけのものを集めることが出来たのだ、この上に何を望めばいいというのだ。
  原本から写し取る作業にも少しは慣れてきたのだろう。昨日よりはいくらか早く帰り支度を始められた。それでも日が西に傾いてくれば、あっという間に冷え込みが深くなる。今日は一枚多く羽織ってきて正解だったと思う。
  時は夕暮れ。
  竜王様御館の表庭は、天真花(てんしんか)の花園だけではなく、あたりを流れゆく気までが鮮やかな朱色に染まっていた。背後から差し込む輝きで、照らし出された明るい部分とその影となる暗い部分とにくっきり分かれている。
  この地では目の映る何もかもが夢のようだ、と奈瑠は思った。
  あの朝、生まれ育った地をあとにしてからというもの、短い期間に数えきれぬほどの経験をした。いくら望もうとも決して叶わぬと思われるものまで容易く手に入れ、ひとつひとつの出逢いが新たな希望を与えていく。そして、傍らにはいつでももうひとつの影がある。
  花畑の間を通る細道は、木々の枝ぶりに合わせて右へ左へと曲がりくねっていた。ここでの主役はあくまでも草木であることを改めて教えられる。多少は歩きづらくとも、人々は皆、決められた道を歩く。そうすることによって、秩序は守られるのだ。
  すれ違う者は皆、見知らぬ顔ばかり。それでも、奈瑠にとってこの土地は安全であった。
  多種多様な民族が入り乱れているこの場所であれば、自分を特別視する者もいない。人目を避けながら隠れて歩く必要もなく、とても清々しい心地であった。この快適さを味わうことができるのもあとわずかになると思えば悲しい。
  中央の通用門をくぐると、そこは人々で溢れていた。昨日までよりも、さらに人手が増えた気がするのは気のせいだろうか。
  奈瑠が不思議に思っていると、若様は戻り道とは逆の方向へと歩き始めた。
「まだ、宿に戻るには早い。今夜からこの先の社で春の祭りが始まるそうだ、少し覗いてみよう」
  思いがけない申し出に戸惑っていると、若様はさらに続ける。
「お前も里の妹弟に土産物のひとつも買ってやった方がいいだろう。夜祭りならば出店も多い、きっと珍しい品も並んでいるはずだ」
  その言葉に、一気に現実に引き戻される。夢のような御殿やその御庭でふわふわと漂い続けていた心地が、急に地にしっかり足を下ろしたように。それでも参道の両側に吊された提灯が揺れながら続いていくのを眺めていれば、記憶の奥底から蘇ってくる想いがある。
  ―― 祭りなんて、もう長いこと足を運んだこともなかった。
  月の御方の領地は豊潤で実りの多い土地柄であり、それに倣うように季節ごとの祭りもそれはそれは賑やかで盛大なものである。訪れる顔ぶれもその土地の者だけには留まらず周辺の村々からも多くの民が足を運び、夜どおしで飲めや踊れやの騒ぎとなる。
  また村祭りには、もうひとつの「顔」があった。若い男女を巡り合わせ愛を結ぶ橋渡しとなる役割だ。実際、祭りのあとには季節の花々が競って咲きほころぶように何組もの新しい夫婦が生まれている。
  しかし、それも奈瑠にとってはまったくの他人ごとな話でしかなかった。
  そもそも人がたくさん集まる場所になど、足を向けたいとも思わない。祭りは幼い子供たちにとっても楽しみであったから、妹や弟にも「連れて行け」と急かされたが、そのたびにあれこれと理由を付けては断っていた。
  だから彼女の記憶の中にある「祭り」とは、物心がつくかつかぬかの頃に父の肩に乗せられて訪れた光景がすべてである。高い場所から見下ろす人の頭、爆竹の弾ける音、色とりどりの水風船。甘い綿菓子の香りもぼんやりと思い出すだけであった。
竜王様の御館からほど近い社には、館に使える官人や女衆、そしてすぐ側の宿所の者たちまでが集い、大変な騒ぎとなってる。四方八方、どこを見ても人人人……これではどこをどう進めばいいかもよくわからない。
「おい、はぐれるんじゃないぞ。その荷物もこちらによこせ」
  若様は奈瑠の手から、書きためたものをまとめた風呂敷包みをひったくり、続けて彼女の腕を掴んだ。自分の手首に感じる熱っぽさに、ぼんやりと感じ入ってしまう。そう、それは、昨夜に奈瑠を包み込んだもうひとつの「熱」。
  大柄の方が「盾」となってくれるため、人に強く押されることもなくここまで歩き続けることができた。歩みの速い方に歩幅を合わせるやり方も、この数日でだんだん上手になってきたと思う。だが、そうであっても、奈瑠は何故かこの瞬間を期待していた。
  どうしてこのような気持ちになってしまうのだろう。月の御方の館にあっては、誰よりも遠く決して相容れないと思っていたその人であったのに。知らない土地で他に頼る者がないというのも理由のひとつになる。だが、近い将来には見知らぬ者ばかりの彼の地に去ることを決意していたほどなのだ。いざとなれば、ひとりでもどうにかやっていけると思う。
  しかし、それがわかっていても、今はこの人のお側にいたいと願ってしまう。相手が自分のことを快くは思っていないことも、それどころかひとつのしとねで休むことも疎んじられていることも知っているのに―― それでも。
  最初の鳥居をくぐると、道は少し広くなった。そしてその両側にはずらりと出店が並んでいる。すでにほの暗くなった春の宵に、明るい提灯が揺れていた。
「ほら、安いよ! 安いよ!」
「ちょっと、兄さん! 足を止めて、見てってくれよ……!」
  威勢のいい呼び込みもひっきりなしで、店そのたびに鼓動が高鳴る。ふと心を惹かれた数件の前で足を止め、小さな巾着袋や独楽、横笛などを次々に求めた。こういうときに妹弟が多いと大変である。
  出立の際に渡されたささやかな餞別はみるみるうちに減っていったが、物珍しい品々の中からひとつふたつと選び出す作業はとても新鮮でいつまでも飽きることがなかった。

 

<< 戻る       次へ >>


TopNovel>水面に揺れて・21