…22…
土産物を包んだ風呂敷も片手に余るほどの重みになり、奈瑠の買い物もようやく一息ついた。
手渡したときのそれぞれの顔を思い浮かべながらの作業は本当に楽しくて、いつまでも続けていたくなる。普段なら対面式の店でゆっくりと商品を選ぶことなど頼まれても嫌だと思うほどだったが、気軽な都の雰囲気の中では頑なな心も解けていくようだ。
「ほら、こちらの店はどうだ? なかなか趣味の良い品揃えだぞ」
一方の若様の方といえば、買い物らしい買い物もせずに過ごしているご様子。それでは退屈ではないかと心配になってしまうが、そのお顔は意外なほどに明るい。
「飾り紐ひとつとっても、驚くほどの種類が揃っている。ここの土地の女たちは髪を結って紐を結ぶのが普通らしいな。御館務めの者たちもずいぶんと派手に飾っていたじゃないか」
その言葉も、奈瑠にとってはとても思いがけないものであった。確かにこの三日間、竜王様の御館へ足繁く通っていたが、その道中に若様が周囲の者たちに目を配っている様子など一度もなかったはず。だが、それもこちらが気づかぬだけのことだったのかも知れないが。
「そうですね、……でも妹たちにはまだ早すぎるでしょう。こちらのお品は落ち着いた色が多いですし」
それよりも、紐を花や蝶の姿にかたちどったものを付けたかんざしなどの方がずっと喜びそうな気がする。そんな風に考えて、脇の棚に置かれたものをひとつずつ手にしていると、その向こうにどこか懐かしい気がする品が見えた。
「おや、お客さん、お目が高いですね。それはとんでもない掘り出し物ですよ、なんたって正真正銘、混ざりっけのない玻璃ですから」
指の先に載るほどの小さな玻璃の花が三つ飾られたかんざし、一見簡素に見える造りだが、店主の言うようになかなかの値打ちものであることに間違いはない。
しかし、しっとりとした毛氈(もうせん)の上に恭しく置かれたそれは、手にすることすらはばかられるような雰囲気。奈瑠は心を惹かれながらも、すぐに目線を他に移した。
その店先を離れ、また少し歩いたところで、若様が不意に立ち止まられる。
「ちょっとここで待っていろ、すぐに戻るから」
何ごとかと思ってそのお顔を見たが、その中に真意は読み取れなかった。
「勝手に動くんじゃないぞ、このあたりはとても物騒な様子だからな」
若様はそれだけ言うと、あっという間に人波の中に消えてしまう。慌ててあとを追おうとも思ったが、もう手遅れであった。
―― どうしよう……。
しばらくは言われたとおりに道の端に立って待っていたが、いつになっても若様はお戻りにならない。目の前をたくさんの人々が横切っていくのをぼんやりと眺めながら、奈瑠は自分がだんだん夢の中に取り込まれていくような気がしていた。
この地では若い男女が連れ立って歩くことはごくごく普通のこと。しかもただ並んで歩くだけではなく、人目もはばからずに腕を組んだり腰に手を回したり。中にはほとんど抱き合っているのではないかと思われるほど身体を密着させている者たちも見受けられる。
初めのうちこそはそのような場面に出くわすと、慌てて目を逸らしていた。だが、いくら顔を背けても、またその方向には別の男女がいる。そうしているうちに気を遣うのも馬鹿馬鹿しくなってきてしまい、ついにはそのようなふたりが眼に入ってきても当たり前のようにやり過ごせるようになってしまった。
―― あのような者たちに比べたら、私たちはなんてよそよそしいふたりに見えることでしょう。
そのことを心のどこかで寂しいと感じてしまう自分がいる。誠に心が通じ合っていれば、あのように甘い時間が過ごせるのに、そういう将来もあり得ないのだ。いや、違う。そのようなことは最初から望んでなどいなかった。若様とは始めから偽りの関係、互いがそう認識しているのだから、今更なにが変わることもない。
と、そのとき。
奈瑠は、さきほど通り過ぎたある店で見つけた品を思い出した。確か、ここからならあまり離れていない場所だったはず。それならば、すぐに戻ってこられるだろう。
そう思って、記憶を頼りに歩き出す。そして目的の店は程なく見つかった。
「おやこれは、お帰りなさいまし」
驚いたことに、店番の男は奈瑠のことを覚えていた。もう一度訪れたことを目ざとく当てられて、かなり気恥ずかしい。そうなるととても長居はできない気持ちになって、すぐに希望の品物へと手を伸ばした。
「おや、こちらひとつで宜しいのですか?」
店主は明らかに落胆の表情を浮かべる。が、頷く奈瑠を見るとすぐに銭を受け取り品物を渡してくれた。
「またどうぞ、お越しくださいませ」
その声に見送られながら、店を早足で離れる。ああ、何ともやりにくいことだ。傍らにもうひとりの人がいるのとそうでないのでは、まったく勝手が違う。
しばらく進んでから、人垣を避けて道の脇に寄り、奈瑠は片手にしっかりと握りしめていたものを確認した。それから、懐よりもうひとつを取り出す。
―― やはり……。
なんという偶然なのだろう、両手に載せたふたつの匂い袋はまるで対になるように造られたように同じに見えた。外袋の織りもそこに小さく施された刺し文様も、互いが互いを求め合っているように思える。
それだけのことなのに、何故か胸の鼓動が走り出していた。ひとつは昨日、若様がくださった濃緑のもの。そしてもうひとつはただいま買い求めたばかりの菫の色。……つまり、奈瑠の瞳と同じ色だった。
それがどうしたと言われたら、答えようもない。だが、たったこれだけのことが、奈瑠の心を熱く火照らせた。
―― これをせめて、このたびの思い出に……。
同じ道中を行き、寝起きを共にして、向かい合って膳をとった。このようなこと、もう二度と我が身には起こるまい。もしも将来、どこかの誰かに望まれたとしても、首を縦に振ることはないだろうと確信できた。
この気持ちを里の両親に伝えたら、彼らはどんなに嘆き悲しむだろう。何よりも娘の幸せを願ってくれている、かけがえのない人たちを裏切ってはならないとは思う。しかし、それ以上に自分の心を偽ることはできないと考えた。
ただお側にいるだけで、こんなにも心が惹かれてしまう。そのような相手に二度と出会えるとは思えない。どんな人と一緒になっても思い出から逃れることができないのなら、最初からひとりだけの苦しみの中に留まっていた方がいい。
奈瑠にはもうわかっていた、自分の気持ちが今どこにあるのか。どんなに冷たくされても、突き放されても、それでも抑えることのできない想いがある。だがそれも、封印しなければならない。せめてこの旅の終わりまでは。
甘い雰囲気の男女を見るたびに気恥ずかしくなったのは、心のどこかで自分もああなれたらいいと望んでいたからだ。なんと卑しい心であろう、こんな想い気づきたくもなかったのに。だが一度自分のものとして認めてしまえば、最初からなかったことになどできなくなる。
いや、このようなところにいつまでも留まっているわけにはいかない。早く元の場所へと戻らなくては。
そう思って、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をする。そしてようやく自分の目で周囲を確認したときに、奈瑠はとんでもないことに気づいた。
「……ここは?」
どういうことだ、今来た道を戻っているのだとばかり思っていたのに、どうも様子が違う。同じような店先にも見覚えのある品がひとつもない。
―― もしや、途中で道をたがえてしまったのか。いや、まさかそのようなこと。
このまま進んでいいのか、それとも一度戻ろうか。自分ひとりでは判断が付かず、奈瑠は途方に暮れてしまった。そうしている間にも参道を行く人の数はどんどん増えていく。このままでは今に身動きも取れなくなってしまうのではないか。
「―― どうしましたか?」
そのとき、背後から不意に声が飛んできた。振り向くとそこにあったのは見覚えのない顔。奈瑠と同じ金の髪をしたその男は、仕立ての良い衣を身につけていた。その姿から竜王様の御館に仕えている者ではないかと推測される。
「先ほどから様子をうかがっていましたが、何かお困りでは? 良かったら、力になりますよ」
親しげに向けられた笑顔につい応えてしまったのは、同郷のよしみというものであろうか。
「あの、人を捜しているんです。どうも途中で道を間違えてしまったみたいで……」
「ああ、そうですか。それなら、こちらにどうぞ。案内所がありますから、そこで聞くといいですよ」
それならばひとりでも平気だと思ったが、その者は親切にも同行してくれるという。申し訳なく思いながらも断り切れず、仕方なく連れ立って歩くことにした。
「ずいぶんと大荷物ですね。重いでしょう、お持ちしましょうか?」
「あ、いいえ、結構です。かさばるだけで、それほど負担にもなりませんし」
その後も馴れ馴れしくいろいろ聞かれたが、奈瑠にとっては煩わしいばかりだった。もしかすると、この者は自分の苦手な人種かも知れない。そう思い始めていた頃、あたりが急に寂れてきたような気がした。
「……あの、本当にこちらで宜しいのですか?」
うるさく話しかけられることに気を取られていて、周囲の様子にも気づかないでいた。これでは参道から逸れてしまっているのではないか。先ほどの分かれ道まで戻ってみた方がいい気がする。
そう思って、引き返そうとしたとき。不意に腕を掴まれた。
「待てよ、どうせ暇をしているんだろう。だったら、ちょっとつきあえよ?」
「……えっ、ちょっと! 待ってください、困ります……!」
急に態度が変わった男に押さえ込まれそうになり、慌てて身を翻す。そして急いで道を後戻りしようとしたとき、今度は行く手にまた別の者たちが現れた。
「困るなあ、ここで逃げられちゃ楽しめなくなるじゃないか。ほら、大人しくしろよ。そうすりゃ、そっちも痛い目を見ずに済むから―― 」
背後にひとり、目の前にふたり。前後の道を塞がれてしまっては、どうすることもできない。
そこでようやく、奈瑠はこの者たちがどういう目的であるのかということに気づいた。
「こっ、困ります! そのっ、私、本当に急いでいて―― 」
こうしているうちにも、若様がさきほどの場所にお戻りになっているかも知れない。言われたとおりに待っていなかったことに、またお怒りになるだろう。
「おやおや、ずいぶん威勢のいい姉ちゃんだな。いいねえ、活きのいいのは大歓迎だ。だが、少しは手加減して欲しいもんだな」
「いいじゃん、早いとこヤっちまおうぜ。そうすりゃ、嫌でも大人しくなるって」
冗談じゃない、どうにかしてここから逃げなくては。
そう思ったのに、後ろから抱きつかれてそのまま落ち葉の敷き詰められた地面に投げ出されてしまう。
すぐに覆い被さってくる黒い影。頼りない衣の裾が割れ、その中に薄汚い手が入ってくる。
「―― 嫌っ、やめてっ……! ―― ……」
続けて、何かを叫んだ気がした。だけど、それがきちんと声になったかどうかはわからない。
そして。
絶望の色に心が覆い隠されていこうとしたそのとき、遠くから大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
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