…23…
刹那、身体がふっと自由になる。
その次の瞬間に、奈瑠の目の前では信じられない光景が繰り広げられていた。
見覚えのある、藍の衣。それが大男たちに殴りかかっている。もちろん、やられた方もすぐに応戦しようとするが、その動きにも勝る速さで拳が次々に打ち込まれた。
目の前の獲物に心を奪われて、戦いの態勢に入るのが遅れたこともあるのだろう。三人の男たちはあっという間に折り重なるようにその場に倒れた。
だが、それでもまだ攻撃の手を止めるつもりはないらしい。もう抵抗する力もなくなったものたちの上に乗りかかり、さらに次の拳を打ち込もうとした。
「……おっ、お止めください! これ以上は、……この者たちが死んでしまいます……!」
はだけた衣の前を押さえることもせず、奈瑠はその背中に必死でしがみついていた。先ほどとはまた違う恐ろしさが、心を大きく揺らしている。どうにかしてお止めしなければ、その気持ちだけでようやく身体を支えていた。
「駄目です! このような者たちのために、若様のお手を汚すわけには行きません……!」
もう無我夢中だった。どうすれば正気に戻ってくださるのか、それもわからないまま、思いつく限りの言葉を叫び続ける。そして振り上げたその腕を、そっと制した。
「……わかった」
大きく肩で息をしながら、若様はようやく奈瑠に応えた。そして腕を下に降ろすと、ゆっくり立ち上がる。それから投げ出されたままになっていた風呂敷包みを拾い、そのあとこちらに腕を伸ばしてきた。
「立てるか?」
そのときになって。
ようやく奈瑠の心に、恐怖が戻ってきた。そのあまりにも禍々しい姿に、頭が大きく打ち付けられた気分になる。身体は大きく震え、自分の言うことを聞くこともなかった。
「……あ……」
それでも言われるがままに、のろのろと立ち上がる。力の入らない足に、落ち葉や泥がたくさんついていた。そしてそれを払う気力も起こらない。
「おい、……大丈夫か?」
その姿が、とてもまともじゃないように見えたのだろう。若様も心配そうにこちらを見守ってくださる。でも今は、その眼差しを受け止める勇気もなかった。
「……っ……!」
奈瑠の両の目から、涙が溢れてくる。それを拭うよりも早く、目の前の人の胸に顔を埋めていた。そして、広い背中に腕を回し、必死にしがみつく。そのまま、わあっと泣き崩れていた。
「……すっ、すみません、申し訳ありませんでした。私が、……私が……っ!」
いったい自分がなにを叫び続けているのか、それもわからなくなっている。今この瞬間が真のことなのか、それとも夢を見ているのかも判断が付かない。でも、ちゃんと温もりがある。それを感じ取ることができる。ただそのことだけが頼みだった、あとはなにもない。
そして、どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。ようやく落ち着きを取り戻しつつある奈瑠の腕は、自分以外の意思によって静かに解かれた。
「そろそろ戻ろう、ずいぶん遅くなった」
何ごともなかったように背を向けられてしまう。そのままずんずんと歩き出されてしまえば、否応にもあとに従うしかなかった。
足早に進みながら、見苦しくない程度に衣を改める。参道近くまで戻ると、元どおりの喧噪が耳を覆っていく。若様はそこで当然のように、奈瑠の手を取った。
「もう、はぐれるんじゃないぞ」
その瞬間に恐怖が嘘のように遠のいた気がする。この背中についていけば、いつでも安全なのだ。これまでの旅路もずっとそうして続けてきたのだから。
どこからか遠く、祭り囃子が聞こえてくる。だがその賑わいから自分たちは次第に遠ざかっていく。
「―― 戻ったら、荷造りをしろ」
「え……?」
急に話しかけられて、それまでぼんやりしていた頭を必死に呼び起こす。そんな奈瑠の耳に、非情なまでに整然とした声が届いた。
「明日、書庫長にお目に掛かったら、その足で帰路につこう。無事に戻り着けば、それでお役目は終わりだ」
静かな夜が続いていた。
もともとが簡単な旅支度であったから、その片付けなどはあっという間に終わってしまう。宿の精算もその夜のうちに済ませ、そうしてしまえば、もうやることもなくなる。
部屋に戻ってからのふたりには、会話というものがなくなっていた。もしかすると、最初から「言葉」というものを用いて心を通わせる習慣などなかったのではないか。まるでそう思えてくるほどに。
一足早く床についてしまった人を背に感じながら、奈瑠は今一度、自分の荷を改める。
明日の着替えの間に、そっと隠した匂い袋。そのふたつの柔らかな香りはまったく別のものでありながら決して喧嘩することもなく、互いに互いを認め合っているように感じられた。
「……っ……!」
思わずこみ上げてきそうになる想いを、奈瑠は必死に抑えていた。
ああ、駄目だ。こんな風にしていて何になる。どうにかして抑え込まなければ、そうしなければ戻りの道中を無事に過ごすこともできなくなるではないか。
何故、気づいてしまったのだろう。このような想い、胸の奥にしまい込んだまま、一生知らぬ振りをして過ごしたかったのに。ああ、こうしているうちにも心が焼け落ちそうだ。この先は、いかにして生きていけばいいのだろうか。
しかし、いつまでも物思いに耽っているわけにもいかない。
明日からはまた、長い旅路を行くことになる。身体が思うように動かず、若様の足手まといになることなどあってはならないことだ。
そう、眠りなど訪れなくてもいい。ただ、横になって休んでいよう。
寝間着の襟元を整え、奈瑠は静かに立ち上がる。そして、奥の寝所に向かえば、若様はいつものようにこちらに背を向けてすでに寝入っていた。掛け布団の枚数も増え、昨晩までのように寒さに震える心配もない。同じことならもっと早くこのことに気づけば良かったのだ、それに思い当たらなかったことに今更ながら恥じてしまう。
幾晩もふたつの枕を並べて休んできた。その当たり前の日々を、これから先は「残りいくつ」と数えることになる。そしてそのたびに、自分の心が少しずつ千切れていくのだと奈瑠は実感した。
しかし、この夜は少し勝手が違うようだ。奈瑠がしとねに潜り込んだのとほぼ同時に、となりの布団が動いた。
「……奈瑠?」
一瞬はどきりとしたが、すぐに仰向けになられただけなのだと気づく。相手の動きにいちいち心を奪われてしまうことが情けなく、またそんな自分を恥じていた。
「はい」
あと何度、このように名を呼ばれることがあるだろうか。そしてこうして返事をすることができるのだろうか。ほの暗い天井を見つめながら、そのようなことを考えていると、たちどころに視界がぼんやりと霞んでくる。
「お前は、このたびのお役目が終わったら、南に下るのだろう?」
思いがけないお言葉に、奈瑠はハッとして若様の方を振り向いていた。しかし、当のご本人は静かな横顔を天井に向けたままでいらっしゃる。
「……はい、そのつもりです」
自分の意思で告げた言葉に、胸がちりちりと痛み出す。お答えする声がひどく震えてはいなかっただろうか、それが心配だ。
「そうか」
淡々とした口調に、自分ひとりだけが置き去りにされてしまったような心細さを感じる。
どうしてご存じなのだろう。このことは両親と、その他には月の御方ご夫妻にしかお話ししていないことだ。もちろん、その方々の跡目であるこの人に話が伝わることは十分に考えられる。でも、そのような素振り、今の今までまったくお見せにならなかったのに。
「お前もずいぶんと親不孝な娘だな。親を捨てて出て行くなど、最低の行為ではないのか? 残された彼らの嘆きをどうするつもりだ」
またひとつ、冷たいものが心に降りてくる。そのようなことは、数え切れないほど何度も考えた。そして悩んで悩んだ挙げ句に、出した結論ではないか。いくら若様といえど、そのことに異を唱える権利はないと思う。
「もう、……決めたことですから」
家に戻ったら、早速荷造りを始めようと思う。そして、できるだけ早くあの地をあとにしよう。いつまでもずるずると予定を引き延ばしていては、未練が募るばかりだ。離れたくないと思ったそのときに、新たな苦しみに心が覆われてしまうのだから。
「……だろうな」
そこで沈黙が戻るのだとばかり思っていたが、違った。若様が次の言葉を探している。すぐに隣で横になっていれば、そのかすかな動きすら感じ取れてしまうのだ。
もしや、と心のどこかで期待し、次の瞬間にはそんなはずはないと打ち消している。それでもまだ「行くな」と引き留めてくれることを願っていた。この人の言葉ならばあるいは、と思う。
しかし、その後に奈瑠の耳に届いたのは、そんな希望とはまったく違うものだった。
「ならば、今宵は僕のものになってもいいな? あとくされがないなら、お互いそれが一番いいだろう」
「……えっ?」
想像を遙かに超えた問いかけに、真っ先に自分の耳を疑っていた。だから、すぐにそんな声が出た。
「―― 冗談だ、真に受けるな」
若様はそう仰ると、すぐにこちらに背を向けてしまう。そしてそれきり、動かなくなった。
「……」
一瞬のうちに心を通り過ぎていった嵐を、奈瑠は少し遅れて受け止める。
こんなの、本心から出たお言葉であるはずもない。そう、ただお戯れで仰っただけなのだ。
そうやって自分に何度も言い聞かせる。だけど一度湧き上がってしまった気持ちは、なかなか元の場所に戻らなかった。
「……その、若様……」
呼びかけた背中は動かない。すでに寝入ってしまわれたのだろうか。それならそれで構わないと思った。
奈瑠は自分の布団から抜け出ると、もうひとつの布団にそっと寄り添う。
「私などでお役に立てるのなら、……お慰めさせてください」
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