…24…
自分がなんて馬鹿げたことをしているのか、そんなことは承知の上だった。
若様はただご冗談で仰っただけなのに、それを真に受けるなんてどうかしている。身の程知らずもいいところだと思う。
でも、今夜の奈瑠は自分の心にも従えなくなっていた。嘘でもいい、もしもひとしずくの希望だけでもあるのなら、今はそれにすがってみたい。
あの大男たちの好きにされそうになったとき、どんなに後悔したことか。同じことならば、心から好いた相手がいい。もしもそこに確かな想いがなかったとしても、そんなことは関係ない。一度だけでもいい、愛されたという確かな思い出が欲しい。
それさえあれば、……これからひとりきりでも生きていける。
しかし、若様からの返事はなかった。布団から出た身体があっという間に凍えてくる。やはり、あり得ない話だったのだ。もう諦めるしかない。そう思ううちについには息苦しくなってきて、心がどんどん乱れてくる。何も持ち合わせていないちっぽけな自分が、若様のためにできることはない。それなのにこのまま離れてしまうことが、辛くてならないのだ。
「……いいのか?」
わずかにその背が震えた気がした。そして、次の瞬間信じられないことが起こる。奈瑠の目の前で、掛け布団が大きく舞い上がり、それが元どおりに落ちてくるまでの間に、限りない熱の中に抱きすくめられていた。
「途中で止めると言われても、応じられないぞ」
あまりの強い力に息ができない。もしやこのまま絞め殺されてしまうのではないだろうか、だがそれならそれでいいと思った。
「え、ええと……」
願いが叶ったはずなのに、どうして戸惑っているのだろう。
「は、初めてなので、……なにもわかりませんが。それでも、よろしかったら……」
互いの視線が熱く絡み合う。しばし無言で心を伝え合ったあと、おもむろに口を吸われた。初めての行為に戸惑いながらも、あっという間に夢中になってしまう。
「それなら、もう遠慮はいらないな」
耳元に、首筋に、熱い吐息が次々に落ちてくる。大きく開かれた胸元から熱い手のひらが入り込んでも、臆することなく受け入れることができた。ここで躊躇っていても、得られることはなにもない。ようやく夢が叶うのだ、一瞬たりとも見逃さず聞き逃さずにいたい。
「お前の身体は、こんな甘い香りがするんだな。こんな暗がりでは、よく見えなくて残念だ」
「そっ、そんなことありません! 十分に、恥ずかしいです……!」
いつになく甘い眼差しが蜜のように絡みついてきて、それだけで気が遠くなりそうだ。だが、そう思っているうちに新たなる刺激が身体じゅうにもたらされて、そちらの世界に行くことを阻止する。目の前に若様がいることを、どうしても受け入れるほかない。
―― 殿方は、このように女子を求めるのだ……。
胸を揉まれ、吸い付かれ、そのたびに気が遠くなりそうになる。初めて見る夢はあまりに鮮烈で、ひとつの場所に留まることをどうしても許してくれない。
「……あ……」
しかし、貪欲にも思えるその手が新たなる場所を求めてきたとき、奈瑠は初めて激しい抵抗を見せた。
「どうした?」
太股を探っていた、お手が止まる。その瞬間にも、奈瑠はこみ上げてくる恐怖と必死に戦っていた。
「怖がるな、大丈夫だ。……僕の目を見ていればいい」
わかっている、これは若様のもの。それなのに、やはり怖い。あの大男が押し入って来そうになったときの恐怖が、未だに身体に焼き付いている。
「あいつも……ここに触ったのか?」
足の付け根に指を這わせ、若様が怒りを押し殺した声で訊ねてくる。だから、奈瑠は必死で首を横に振った。
「そっ、そんなこと! もしも、そうなっていたら、今頃は舌を噛み切って死んでます!」
必死に返事をすると、若様はホッと笑顔になる。
「良かった、もしも一瞬でも触れていたら―― 今から奴らの元に戻って息の根を止めてやるところだった」
与えられたその言葉よりも、むしろ真っ直ぐにこちらに向けられた微笑みの方に心を奪われていた。
こんな風に、何もかもがすべて手にはいるなんて、このような幸運があっていいのだろうか。
本当の恋人同士のように、永遠を誓い合った夫婦のように、そっと寄り添ってみたかった。柔らかく抱き寄せられて、その腕の中で甘えてみたかった。そんな感情の裏返しで、些細な言葉や態度に怯え続けていたのかも知れない。
いくらお側において欲しくても、希望に叶うような何もなければ仕方ない。誰からも疎まれるだけの身の上では、願うだけ無駄なことだ。
―― でも、今なら。今だけなら、すべての願いが叶うかも知れない。
「……あっ……!」
濡れそぼった場所に指を差し込まれ、突然のことに腰が引ける。でもそんな抵抗にも動じず、若様はさらに奥へと進んでいった。
「我慢しろ、あとで辛い思いをするのは奈瑠なんだからな。少しでも受け入れやすいように慣れておかないと」
男女のことについては、知識としてひととおりは知っている。初めて月のものを見たときに、それについて母から教えられた。まさかそのようなことが我が身に起こることはあるまいとそのときは考えていたが、そんな予想も外れてしまったらしい。
「で、でも……」
若様の侵入を、自分の身体が拒否している。このままいくと、心までが丸裸になってしまいそうだ。身体の外側からだけではなく、その内部までも暴かれなくてはならないのか。
「大丈夫だ、ひどくはしない。僕の熱を冷ますことができるのは奈瑠だけなんだ、だから応えて」
「……若様……」
嘘でもいい。そんな風に言ってもらえるなら、すべてをお任せしなければ。
閨の内ならばこのようにやさしくしていただけるなら、もっと早く機会を持てば良かった。そうすれば、一度だけではなく、二度か三度か、それよりも多く愛していただけたのに。
―― いえ、それも。若様がお望みにならなければ、果たされることのない夢。
「そろそろいい? もう待ちきれない」
その瞬間の痛みを、身体がふたつに裂けるような衝撃を、決して忘れまいと思った。ふたつの身体がぴったりと寄り添い、まるで心までがひとつに戻ったような心地がする。
「ああ、奈瑠……温かい……」
こちらはとても体温などをゆっくりと感じる余裕はない。だが、それでも幸せだと思った。宝物のように、またとないもののように、大切に扱っていただける。それだけで、天にも昇るような心地だ。
それから先は、激しい熱が荒れ狂う波のように繰り返し繰り返し襲いかかり、それを受け止めるだけで精一杯だった。熱に浮かされ、何度も気が遠くなりながらも、それでも愛されているという錯覚に陥る。もしかしたらこのまま、ずっとこの波間を漂っていられるのではないだろうか。二度とふたつの魂が離れることのない場所へ、行き着くことが叶うのではないだろうか。
……いや、そんなこと。でも、もしや。
互いの指と指を絡め合い、ひときわ大きなうねりの中でそのときを迎える。
「……奈瑠っ……!」
残念ながら、同じ想いを受け止めることは叶わなかったが、それでも胸に留まりきれずにどんどん溢れてしまうほどの感激があった。
「奈瑠、……奈瑠、奈瑠……っ……」
顔中に身体中にその吐息は落ちてきたのではないだろうか。じんじんと身体を覆う熱は、いつまでも冷めることはないように思われた。そして熱い腕の中にしっかり抱きしめられて、逞しい胸に顔を埋める。そんなことを許される今が、信じられない。
時が止まればいいと思った、この旅が終わらなければいいと願った。そのようなことが叶うはずもないのに、いつの間にか自分はとても欲張りになってしまったようだ。
その夜は当然のようにひとつの布団にくるまって眠る。そうすることが当然であると、心から信じられた。
目覚めたとき、夜はすっきりと明けていた。
だが、そのことに気づくのに少し遅れてしまう。何故なら、あるはずのないもうひとつの温もりがすぐ側にあったから。
「……どうしたの?」
まぶたを開けたそのときからそこにあったお顔を、穴が空くほど見つめてしまったからだろうか。少しも視線を逸らしてくれないその人が、やがてくすぐったそうに眼を細めた。
「今朝は……ずいぶんと、のんびりなさっているのですね?」
いつもとても早起きな方だった。こちらだって、それほど寝坊しているつもりもないのに、寝起きにはいつもすっきりと身支度を終えられたこの方と遭遇することとなっていた。
「もう、早く起きる必要がないからな」
そう言いながら、若様はこちらに腕を伸ばしてくる。そしてあっという間に、新しい熱で抱きしめられていた。
「……えっ、あのっ……」
信じられない出来事に、大慌てに慌ててしまう。
「もう離さないからな、僕がそう決めたんだ。だから、奈瑠には黙って従ってもらうしかない」
そんな馬鹿な、あり得ない。
そう告げる前に口を塞がれてしまい、それ以上のものが言えなくなってしまう。
「奈瑠は僕の妻になるんだ、そしてあの館でずっと一緒に暮らす。わかったな、駄目だとは言わせないぞ」
―― もしかしたら、まだ夢が続いているのではないだろうか……?
「あっ、……駄目です! そんな、朝から……」
「駄目だとは言わせないって、言っただろう?」
こんなことですべてがなし崩しになっていいはずはない、こんなの絶対に間違っている。
そう思いながらも、奈瑠は昨夜覚えたばかりの快感に、早くもその身を囚われようとしていた。
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