TopNovel>水面に揺れて・25


…25…

 

 すっかり冷え切ってしまった朝餉の膳と向かい合っていた。
  そして、目の前にはまたとないご馳走に巡り会ったかのように、それらを美味そうに平らげていく方がいる。あまりにも勢いが良すぎて、飯粒がこちらまで飛んできそうだ。
  どれくらいの間、黙ったままそのお姿を見つめていたのだろう、ようやく奈瑠の視線に気づいたその人が箸を止めた。
「……どうした、残すつもりならこちらによこせ」
  そして、膳ごとご自分の方へと引っ張ろうとするのだからたまらない。慌てて身を乗り出して、それを制した。
「いっ、いいえ! まだ、いただきますのでご心配なく」
  こちらとしても、食事をしようという意思はあるのだ。だが、残念なことにあまり箸が進まない。一口含むごとに腑に落ちない思いが胸の奥に広がり、食欲を抑えてしまう。
  ―― これはいったい、なにがどうなっているのだろう……?
  いくら考えても、適当な答えが見つからない。昨夜のことはお互いの合意の上で行われたことであったし、今更それを蒸し返そうというつもりは毛頭ないのだが、それにしても目の前の人のここまでの変わり様をどうやって説明したらいいのだ。
  彼はあまりにも快活であった、たった一晩で別人のように変わられてしまっている。
  ようやく寝所をあとにして身支度を始めてからも、あれこれと話しかけ世話を焼いてきた。そして、隙あらば後ろから抱きつこうとするのだから油断ができない。たかが衣を改めるだけで普段の倍以上の時間が掛かり、そこまででたっぷりと疲れてしまっていた。
「どうにも腑に落ちないという顔をしているな」
  茶碗に残っていた飯を必死に口に押し込んだところで、ご自分の膳のすべてを片付けてしまった若様がまた声を掛けてくる。そして、口の中にものが詰まっていてこちらが返答できないことを見込んだ上で、さらなる言葉を重ねた。
「だが、これはもう決まってしまったことだ。今更、覆すことなんてできないぞ」
  そう言って、皿の上に残していた焼き魚を頬張る。それで、奈瑠の膳もすべてが殻になった。
「……勝手なことを仰らないでください。決まったもなにも、そのようなことお約束した覚えはありません」
  奈瑠はふたつの膳を重ねると、障子戸の前まで運んだ。お役目そのものは簡単であるから造作もないことだが、そこまでの一部始終をじっと見つめられていると思うと溜まらない。しかもその眼差しは、こちらの反応をいちいち楽しんでいるかのように思える。
「ふうん、こんな風になってもまだ意地を張るんだな」
  その言葉には、無言のまま冷たい視線だけを返す。
  どうしてこのようにふざけたことを仰るのだ。冗談にしても、度が過ぎている。これ以上相手にしていても仕方ないと思い、そのお方の前を素通りしてまとめた荷物の方へと進む。
  だが、奈瑠の歩みはすぐに止められてしまった。
「ならば、力ずくでも首を縦に振らせるようにするしかないということか」
  後ろから抱きつかれ、あっという間に動きが封じられてしまう。
  このような不意打ちにはまったく慣れていなかったから、いったいどのように切り抜ければいいかも見当がつかない。
  そのまま勢い余って背中から床に倒れ込み、それでも束縛は解けなかった。首筋に熱い吐息が掛かり、衣の上から敏感な場所をまさぐられる。いやいやと首を横に振ってみたところで、その指先は更にきつく食い込んでくるばかりだ。
「……おっ、お止めくださいませ。このようなこと、困ります……!」
  こうしている間にも、障子戸の向こうからは廊下をせわしなく行き交う足音が聞こえてくる。もちろん宿の者たちは、こちらが呼ばない限り部屋を訪れることはない。それはわかっていても、やはり心穏やかではいられなかった。
「どうして?」
  髪がかき上げられて、首筋に唇が吸い付く。
「……嫌なの?」
  奈瑠は無我夢中で首を何度も横に振っていた。そのたびに髪が左右に大きく揺れ、後ろの方のお顔にも掛かっているに違いない。それなのに、まだ束縛は解けなかった。
「昨日はお前の方から言い寄ってきたんだぞ」
「そ、それは……」
  若様がお望みになったからではないですか、という言葉をあとに続けることはできなかった。そうやって何もかもを人のせいにしてしまうことは簡単だが、そこに真意はない。確かに最初に言い出したのは自分ではないが、その提案に有り難く乗ってしまったのもやはり自分だ。
  こうして今、逞しい腕の中に取り込まれているだけで気が遠くなりそうになる。もしも夢を見ているだけならば、このまま永遠に覚めなければいい。
「……これ以上、困らせないでください」
  惨めな気分なら、今までの人生で嫌と言うほど味わってきた。その理由のほとんどが、周囲の皆と異なるこの外見のせいだ。もうこれ以上は我慢ならないと思ったから、親も弟妹も住み慣れた家もすべて捨てる覚悟を決めたのである。そこにもうひとつの想いも置いていくことになることに自分自身も気づかずに。
  ―― ずっとこのまま、忘れたふりをしていられれば良かったのに。
  ほとんど消えかけていた記憶。思い出の始まりとも言える幼い頃、幸せだった自分は若様が大好きだった。何かと気に掛けていただき、一日の大半をご一緒に過ごしていた気がする。他にもたくさんの子供たちがいたのに、どんなときにも真っ先に奈瑠の名を呼んでくれた。
  あの日も、綺麗に着飾った自分を早く若様にお見せしたいと思った。……だけど、その願いは果たされないまま。その後もずっとすれ違いばかりが続いた。
「そう言われてしまうと、こちらも強く出られなくなる。こう見えてもかなりの臆病者だからね、好いた女子の前ではどうしても弱気になってしまう」
  その言葉に、思わず振り向いてしまった。驚くほど近くに若様のお顔があり、叫び声こそは上げなかったもののそこで表情が固まってしまう。
「ずいぶんと意外そうな顔をしてくれるな」
  さすがにばつが悪いのだろう、若様も面白くなさそうなお顔をしている。
「だ、だって……」
「なにを今更、と言わんばかりだな。……ま、こっちにも多少の落ち度はあると思うが、ここまで嫌われていたとは心外だ。だが、この勝負はお前の負けだ、素直に従ってもらうほかはない」
  話がまたふりだしに戻ってしまった。唇を噛みしめる奈瑠に、若様はさらに言う。
「このことは、お前の父と母も、僕の両親も、皆が認めていることだ。残るはお前の気持ちひとつ、そこまで来ているのに、まだ意地を張るつもりか」
「……え……」
「本当に、何も気づいてなかったんだな」
  奈瑠の肩先にこつんと額を当て、若様は小さく溜息を吐いた。
「お前にいくつもの縁談話が舞い込んでいると聞いたときには本当に焦った。さすがに本家の従兄殿から声が掛かったときにはこれまでか、と覚悟を決めたな。もちろん、僕だって奈瑠以外の女子は考えられなかったから、そういう話が出るたびに両親には繰り返し申し上げてきた。だけど、一度だって色よい返事はいただけなかった。こちらから話を切り出せばそれは命令になる、有無を言わせぬ立場にお前を置いて無理矢理従わせることなどあってはならないと言われた」
  そんな馬鹿な、そのような話は一度だって聞いたことはない。そう反論したかったが、残念ながら声にならなかった。
「それならばと、玄太や果瑠に話をしてみたが、結果は同じだった。皆が一様に奈瑠の肩ばかりを持つ、本当に面白くなかった。そのうちにお前が南に下る覚悟を決めているという話を聞かされて―― 」

 その日、いつものように持ちかけられた縁談に気乗りをしないでいるときにその話は出た。
「すでに奈瑠の気持ちは固まっている。それを無理強いするわけにはいかないだろう、いい加減に諦めろ。あの娘の心は最初からお前になど向いていないのだ」
  月の御方のお言葉は容赦なかった。たとえ我が息子であろうとも、曲がったことは決して許さない。己の立場を利用して相手を屈する行為は上に立つ人間としてはあるまじきことだと言い放った。
「しかし……」
「これ以上、どんな話をしたところで無駄だ。すでに結論は出ている」
  それでも諦めきれなかった若様は、次なる手段を考えた。どうにかして奈瑠の両親を説き伏せよう、あの者たちだって、娘がこのまま館に留まってくれることを望んでいるはずである。そのためになら、何らかの手を貸してくれるだろう。
  そして、持ちかけられたのがこのたびの話だった。もちろん、相応の危険は伴う。一筋縄ではいかない方法であることは皆が承知していた。

「時間はたっぷりある、その中で奈瑠に僕の存在を認めさせればいい。最初に話を聞いたときにはそれほど難しくはないと考えた。だけど実際は……何をやっても裏目に出るばかりで、どうしようもなかったな。今回くらい、自分の無能さを実感させられたことはないよ」
「そんな……」
「ようやく願いが叶ったかと思ったのに、また逃げるのか。僕は奈瑠以外の女子を妻に迎えるつもりはない。だからお前に断られてしまえば、その場所は永遠に埋まらないままだ。互いに寂しい人生を過ごすことになるが、それでも構わないのか……?」
  にわかには信じられない話である。だが、確かにあの両親が切り出しそうな内容ではあった。そして御館様やお方様もこの乱暴とも言える提案を柔軟に受け入れそうである。
「で、でもっ……私は使用人の娘ですし、そのような立場にはとても……」
「玄太は父上の一の侍従だ、なんの不足があるものか。館の者たちの中にも、不平を言う者などないだろう。どうする? あとに残るは奈瑠の言葉ひとつだけになったようだな」
  八方ふさがりとはまさにこのことだ。言い訳を並べようとしてもその行く手を次々に阻まれ、いつの間にか身動きが取れなくなってしまう。
「奈瑠、返事を聞かせて」
  甘い瞳にじっと見つめられても、どうしてすぐに頷くことなどできよう。顔を真っ赤にして俯くことしかできない奈瑠に、若様は言った。
「じゃあ、続きは夜にしよう。そろそろ出掛けないと、約束の刻限に間に合わないからね」

 

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