…26…
竜王様の御館への街道は、いつもながらの賑わい。色とりどりの人の頭をかき分けながら、どうにか自分たちの進みたい方向へ流れる人波を見つける。そうしながら、ふたりはどちらからともなく手を取りあい、互いの温もりを確かめていた。
「あのときのこと、まだ怒ってる?」
不意に話を振られて、奈瑠は視線を若様の方へ向けた。こちらを見つめる瞳は少し切ない色に見える。
「果瑠が言ってた、お前が髪を泥だらけにして戻ってきたその日から、とても頑なになったって。それって、……あのときのことでしょう?」
奈瑠は小さく頷いた。別にとりたてて隠すまでのことはない、ふたりのやりとりなのだからお互いの心の中にはっきりと刻み込まれていても当然だ。
「……いいです、もう。過ぎたことですから」
いきなり頭から水を浴びせられたときの衝撃は、今も身体じゅうに生々しく残っていた。思い出すたびに、自分があまりに情けなくて哀れで、どうしようもない気持ちになる。
「あんな乱暴なやり方、してはいけなかったのに、あのときの僕は頭に血が昇ってしまって自分を止めることができなかった。ずっと謝りたくて、でもできなくて、今日まで来てしまったんだ」
触れ合う指先から、心の痛みが伝わってくる気がする。だけど、その理由が、まだ奈瑠にはわからなかった。
「奈瑠が、どうしてあんなことをするのか、あの頃の僕にはそれがどうしてもわからなかったんだ。この世には他に代わりがないほどに美しいものをわざわざ汚すなんて、そんなことあってはならないって。本当は、もっと別のやり方で教えるべきだった、本当にすまなかったと思っている」
若様が空いている方のお手で、奈瑠の髪にそっと触れる。そして指先で一房をすくうと自分の方へとたぐり寄せた。
「始めはこのきらめきに夢中になった、でもそのうちに心までが欲しくなった。いつだって僕は奈瑠のことばかりを見ていた、他の奴とは話をさせるのも嫌だと思ってた。あの頃は奈瑠だって、僕をとても慕ってくれていたんだよ。今となっては、そんなことひとつも覚えていないとは思うけど」
そう仰ると、若様は懐から小さな布包みを取り出す。しっとりと赤い絹の中から取り出されたのは、奈瑠にも見覚えのあるものだった。
「……これは」
「受け取って欲しいんだ、僕の気持ちだと思って」
真昼の明るさの中に、きらきらと輝く玻璃の小花たち。夜店の棚でちらりと見ただけのそれが、何故か目の前にある。
「髪に挿してあげる。簡単なやり方を教えてもらったんだ」
「えっ、そんな……いいです、恥ずかしいですから」
いきなりの提案に慌ててしまうが、若様は涼しいお顔のままで言う。
「なにを言うの。これくらいのこと、都では誰も気にも留めないよ」
一房をくるくると器用に結い上げ、そこにかんざしが差し込まれる。
いったい自分がどのように変わっているのか、それを知る手だてもなく気恥ずかしさばかりが前に出る。そんな奈瑠の耳元に若様は囁いた。
「玻璃の誓いを知っているよね? これを受け取ってくれた時点で、奈瑠の気持ちはもらったも同然だから」
ハッとして見上げた場所にあったのは、目映いばかりの笑顔だった。
ようやく巡り会えた書庫長は、いかにも厳格そうな初老の男だった。
「これはこれは、月の若様。ご無沙汰しておりました、館の皆様もお健やかでいらっしゃいますか?」
しかし、微笑んだお顔はとても優しそうだ。当然のように同席に座らせられ身の置き場のなかった奈瑠は、それを見てホッと胸を撫で下ろす。
「このたびは大変なお役目、誠にお疲れ様でした。先だってお預かりした文は、無事先方へお届けしました。月の御方のご意向もしっかりとお伝えすることができました。やはりまだまだ落ち着かないご時世ですから、このように皆が志をひとつにできることは国の将来のためにも必要不可欠なことであると思われます。――月の御方におかれましても今少し時勢が落ち着きましたら、是非一度ご夫婦でこちらにお上がりくださいとのことです」
それが誰のお言葉であるか、はっきりとは口に出されない。それほどに内密にしなければならない事柄であるのだ。改めて、自分たちのなし得たことの重大さを思い知らされる。
「こちらが、奥方様ですか。お目に掛かるのを大変楽しみにしておりました、とても才のあるお方と聞いておりましたが、お姿もとてもお美しくいらっしゃる。こうしておふたりが並ばれるとこの上なくお似合いでいらっしゃいますね」
両手放しで褒めそやされて、こちらは身の置き場もないほどに恥ずかしくなる。すると書庫長は不意に話を変えた。
「そういえば、若様。以前うかがったお話は、そのまま進めてもよろしいのでしょうか? すでに手続きなどはすべて済ませておりますものの、一番大変なのは人材の確保かと思われますが……」
「ああ、そのことならば心配はいりません。ここに最適な者がおりますから」
そう言って、若様は奈瑠の方を指し示す。何が何やらわからぬままにぼんやりしていると、彼はふっと微笑んだ。
「領地の一角に、大がかりな書庫を造るつもりなんだ。もちろん、周辺の者たち皆が自由に利用できる国から委託された公共の施設としてね。奈瑠にはそこの管理を手伝って欲しいんだ」
「え……?」
「領主の奥方をしているだけでは退屈になってしまうだろうしね、一日中好きな書物に埋もれて暮らすのもいいかと思って」
それはあまりにも思いがけない提案であった。しかも、ずいぶん前から計画されていたことだと知ってさらに驚く。
「何とも豪快な贈り物ですね、でもこれからお忙しくなりますよ。お務めに没頭されすぎて、若様をお忘れにならないようにしていただかないと……」
その先の言葉は、少しも耳に入らなかった。すべてが夢のようで、あまりにも実感に乏しすぎる。旅の終わりが来ても、その先にもさらに道が続いているのだろうか。掴みきれない未来の姿が、今はまだ陽炎のように奈瑠の心を漂っていた。
「このぶんだと、あと一刻ほどは歩けそうだな。こうなったら、なるべく早く里に戻りたいものだ。このたびのことを皆に報告するのが待ち遠しくてならないよ」
書庫長との面会を終えて、竜王様の御館をあとにする。その先は、戻りの道中が待っているだけだった。あまりにも急ぎ足で進まれるので、あとを追う奈瑠の方は息が切れるばかりである。せっかくだから、少しは周囲の風景も楽しみたいのに、先を急ぐお方にはそのような気持ちもないらしい。
だいたい、街道沿いに点在する宿所はほとんど等間隔に置かれている。日が落ちる前に辿り着ける場所はすぐ先のひとつと決まっているのだから、今少しゆっくり進んでも良さそうなものを。
「奈瑠、遅いぞ」
ようやく追いつくと、すぐに腕を取られた。この先は同じ速度で歩けと仰るのだろうか、よくよく考えれば昨夜も多少は寝不足なのである。もう少し、労って欲しいものだと思う。
「でも、若様―― 」
「早く宿についてゆっくりしたいとは思わないのか」
こちらが何か申し上げようとしても、あっという間に遮られてしまう。しかし、その眼差しは昨日までのものとはまったく違いとても優しい。見つめられると、身体ごと心ごと包み込まれるような心地になってしまう。
「僕は早く奈瑠とふたりきりになりたい、お前はそうじゃないのか?」
当然のように言い切られてしまったが、しばらくはその言葉の真意がわからずにいた。そんな奈瑠に若様はにっこりと微笑む。
「鈍い奴だな、今朝の続きをしようと言ってるんだ」
ようやく何が仰りたいのかに気づき、その瞬間に奈瑠の頬は真っ赤に染まる。
「こうなったら、玄太に早く孫の顔を見せてやるっていうのもいいな。今まで散々小物扱いされてきたからな、このあたりで盛大に感謝されてみたいものだ」
さらに追い打ちを掛けられ、今度こそすべての言葉を失ってしまう。
そして、そのまま引きずられるようにいくらか進んだところで、不意に前方に人影を見つけた。
ゆるやかに流れていく気に、たなびく朱色の髪。
「おーいっ、こっち、こっち! 良かった〜、すれ違いにならなくて!」
まだ目を凝らしてもその姿はちらちらと霞んで見えるばかり。だが、声の主の方はとても嬉しそうに大きく手を振っている。
「……あの声は……」
そう、思い出した。行きの道中で謎の男たちに襲われそうになったところを助けてくれた、あの元気な娘ではないか。そんな風に考えているうちに、彼女はあっという間に奈瑠たちのところにやってきた。
「おかえり! じっちゃんに頼まれたんだ、あんたたちの帰りの道中を付き添うようにって。お役目が無事に終わったからって、油断は禁物だよ。近頃は物騒な奴らが、そこらじゅうにうようよしてるからね!」
どういうことか、今回はきちんと旅装束を整えている。菅笠を手にしてしゃんと背筋を伸ばしていると、驚くほど娘らしく見えた。
「へっぴり腰な兄ちゃんは用がないけどさ、やっぱ姉ちゃんのことは心配だからね。だけど、あたしが来たからにはもう大丈夫! 夜中だって姉ちゃんのことをしっかり守ってやるから安心して」
その話を聞いて、若様はあからさまに嫌な顔をなさる。
「冗談じゃない、お前の世話などいらない。さっさと自分の家に戻れ、はっきり言って迷惑だ」
「へーんだ、そうはいかないからね!」
初音は勝ち誇ったように胸を反らせると、声高らかに宣言する。
「あたしっ、月の御方のお屋敷でしばらく修行することになったんだ。立派な姫君になるために頑張るって決めたから、そこまで案内してもらわないとね。ふふ、もう少し先で合流しても良かったんだけど、早く姉ちゃんに会いたくてさ〜っ!」
そう言って奈瑠の腕にしがみつく娘を、若様は強引に引きはがす。
「馬鹿言うな、お前とは部屋を別にする! 間違っても邪魔するんじゃないぞ、わかってるんだろうな!」
「そんな話、聞かないもんね! それに、あんまり意地悪すると、月の御方やお方様に言いつけるよっ」
罵声と笑い声が天高く響き渡る。
これから先は、さらに賑やかな道中になりそうだ。きっと忘れられない旅になる、と奈瑠は思った。
了(110519)
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