TopNovel>水面に揺れて・番外1


…番外・1…

〜ふたりが帰館した夜、月の御方夫妻の話〜

 

 本館から長い渡りを進んだ奥の対は、今宵も変わらぬ静けさに包まれていた。表の庭では、闇色の気が帯となって流れていく。それが美しく手入れされた植木の枝をかすめ、水の泡が弾けるような音を響かせる。
「それにしても、驚きましたね」
  縁の近くの柱にもたれ掛かっていた人が、ようやく口を開く。
「まさか本当にやってのけるとは。あの奈瑠の心をこじ開けるのは、さすがに無理だと思っていましたが」
  夜着の上、垂らしたままの赤毛が揺れている。いつになく子供っぽく見えるその横顔に思わず吹き出してしまいそうになるのを、燈花は必死で噛み殺す。
「それは、……やはりお血筋でございましょう」
  そして、驚いて振り向く人に笑顔で応えた。
  賑やかな一行が到着したのは、日没をずいぶん過ぎてからであった。先だっての文もなく突然の帰館だったため、家人は皆度肝を抜かれたが、それよりも驚いたのは舞い戻った息子・犀月の報告である。使用人たちの前では平静を装っていた夫も、心内ではかなり混乱していた様子だ。
「しかし、……早速今夜から部屋を同じくしたいというのはあまりにひどい。いくらなんでも、順番が違いすぎます」
  月の一族といえば、西南の集落にあっては大臣家の「三本柱」と呼ばれる重臣のひとつ。その一派ともなればいくら分家筋とはいえ、軽々しい振る舞いは控えなくてはならない。ましてや、このたびは跡目の婚礼であるのだから、まずは親戚知人へのお披露目が先であろう。
  そういうことも忘れて浮かれまくっている姿は、我が息子ながらあまりになさけない。この一件については奈瑠の取りなしにより難を逃れたが、もしも他の女子であったならとてもあの息子の勢いを止めることはできなかったと思う。
「それだけ嬉しかったのでしょう、犀月のあのような笑顔は初めて見ました」
  この人こそが自分の妻だと奈瑠の手を引いて来た息子の姿は、とても晴れやかであった。幼き頃から愛嬌があり、誰にでも親しげに振る舞うことのできる子であった。しかし、その奥に彼が抱えていたものをふたりはとうに知っている。
  静かな夜の庭を眺めながら、同時に安堵の溜息をついていた。
  ……と、不意に傍らの人が意味ありげにこちらを覗き込む。
「そういうあなたの方も、今宵はどこか違って見えますね」
  その言葉に、燈花は一度大きく目を見開いた。そして、慌てて自分の髪や身なりを確かめる。互いに寝装束に改めてはいるが、そこには普段と変わったところは見受けられない。
「―― 姫」
  懐かしい名で呼ばれ、ふわりと右手が温かくなる。
「どうしてそのようにお隠しになるのです。あなたの胸元にあるのは、それほどに大事なものなのですか?」
  そっと身を乗り出して、わざと耳元でこっそり囁く。そのようにしなくても、この場所にはふたりきりなのに。熱い息が頬にかかり、覚えず胸が高まる。
「それは……」
「犀月が誰にも気づかれぬようこっそり手渡していたのを、私が見ていなかったと思ったのですか?」
  確かに、夫が言ったとおりだ。だが、わざと隠していたのではない。一度に色々なことが起こりすぎて、今の今までそのことを忘れていたのだ。
「待ちに待った文が届いたのでしょう」
  燈花は空いた方の手で懐を改めると、そこから一通の書状を取り出した。そして、夫の前に置く。
「これは――」
  文の形式は取られているが、その面には何も記されていない。使われている紙もありきたりなもので、決して人目を引くような様子ではなかった。
「どうぞ、……殿の手でお確かめくださいませ」
  静かにそう告げると、夫は信じられないという様子でこちらを向き直る。しかし、燈花はそれ以上の言葉を発するつもりもなかった。
「……いいのですか?」
  返事をする代わりに、静かに頷く。夫の震える手が、書状を開いた。
  しかし、その中にあった折りたたまれた文も白紙のまま。まるで謎解きのような有様である。……と、そのとき。紙片の端から何かが床へこぼれ落ちた。
  それは……指の先に載るほどの、小さな折り鶴。
「これは、いったい……」
  美しい千代紙で丁寧に折られたそれを、夫は呆然と見つめている。しかし、燈花にはその鶴が伝える言葉をしっかりと受け取っていた。
「あの婚約が成立した頃、まだわたくしたちはとても幼くて、文で心を伝え合うことができませんでした。でも、ゆくゆくは人生を共にするお相手。折々に触れて文を交わすことは当然のことと考えていました。そしてどうしたらいいのかと思いあぐねているときに……これと同じような文が届いたのです」
  ほとんど人目につかない、一番奥の対。美しい庭が花の盛りでも、許しがなければそこを歩くことも叶わない。まるで囚われの身であるような幼年時代に、時折届く文は心のよりどころだった。
  しかし、お互いが筆を手にして自分の想いを綴れるようになると、急に面倒なことが起こった。こちらがお届けする文もあちらから届いた文も、本人たちが目にする前にたくさんの大人たちに「検閲」されてしまう。今から思えば無理もない話であるが、当時はそのことがあまりに煩わしく、自然と本当の気持ちを表に出せなくなっていた。
  幼い恋は、あちらに新しい想い人が現れるよりもずっと前に、すでに壊れていたのだと思う。華やかに見える殿上人の生活も、その裏ではあまたの勢力がひしめき合いしのぎを削る一筋縄ではいかない一面があった。西南の大臣家はその絶大な勢力が故に敵も多く、その矛先はまだ幼かった燈花にも当然向けられていたはずである。
「たぶん、……あちらの御方も、その頃に戻りたいとお思いなのでしょう」
  今もあの頃のことを思い出すと、胸が締め付けられる想いがする。忘れてしまえればいいのに、どうしてもそれができない。長い長い年月を経て、傷は癒えたと信じていたのに。
「……姫」
  震える腕が燈花を抱く。そして次の言葉を発することを、長いこと躊躇している様子だった。
「一度、あちらに上がりますか? もしも……あなたがそれをお望みならば」
  書庫長が息子に託した言葉を、ふたりはすでに耳にしている。文字にして残すことの叶わない密約。そこに込められた想いはそれぞれが自分の胸で思い描くほかない。
「私はあなたに謝らなくてはなりません。今までにも何度もこのように申し出る機会はあったのに、それがどうしてもできませんでした。……長い間、苦しませてしまって……申し訳ありません」
「殿?」
  夫の言葉にただならぬものを感じ取って、燈花は思わず声を上げていた。
「何故そのようなことを仰るのです。わたくしは今の今まで、一度としてそのようなこと願ったことはございません……!」
  伝えきれない想いが、堰を切って溢れ出す。自分の頬が濡れているのを感じて、初めて涙を流していることに気づいた。
「わたくしは、この館を終の棲家と思って生きてきました。それをお許しくださったのは、殿ご本人でしょう? だから、お願いします。そのように悲しいことを仰らないで……!」
  温かな腕に包まれ守られながら、幸せに酔いしれるままに大事なことを見過ごしていたのかも知れない。自分の心がどこにあるのか、それを伝えることを怠ってはいなかったか。そうだとしたら、今このときにはっきりと示さなくてはならない。
「……すみません。こんな泣き言など、見苦しいですね」
  気づけば、夫も泣いていた。その頬を燈花は指で触れる。
「殿、一緒に都に上がりましょう」
  刹那、夫の瞳が怯えた色に揺れる。燈花はその顔を静かに見つめ返し、やがて花のように微笑んだ。
「わたくしの大切な夫を、かの御方に自慢したいと思います」
  西南の大臣家とは縁続きの自分たちに、そのようなことが叶うかどうかはわからない。だが、やってみなくてはわからないではないか。
「私の大切な姫君は……相変わらずとても気丈な方だ」
  長い時間を共に過ごし幾人もの子をもうけても、それでもまだ伝えきれない想いがある。どんなに愛おしく思っても、それぞれが違う人間。どうしても相手の心をそのまま見透かすことはできない。
「……気の強い女子は、お嫌いですか?」
  わざと拗ねたように聞き返す。その返事は、最初から予想しながら。
「いえ、大好きですよ」
  そっと触れ合う唇、重なり合うふたつの影。
  そんなふたりの姿を、燭台の炎に照らし出された折り鶴が恥ずかしそうに見つめていた。

 

了(110528)

 

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