報われない恋、と言うものがある。 ゆっくりと立ち止まる風景の中、ただぼんやりとそんなことを考えていた。 「君の気持ちには、応えられないから。――ごめん」 大好きな人の唇から、不思議な言葉がこぼれてくる。自分に向けられているということははっきりと分かっているはずなのに、まるで他人事みたいだ。黒のアタッシュケースを抱え直す長い指。その先に縦長の爪が綺麗に並んでいる。 「……永峰(ながみね)さん」 かすれる声をどうにか吐き出すと、そのまま視線を足下に落としていた。音もなくきびすを返して立ち去っていくブラウンのシューズ。それが辛くて目を閉じたのに、今度は靴音がだんだん遠ざかっていくのが耳元に大きく響いて来る。諦められない想いが何かに思い切り引っ張られた気がして、それが一瞬、ピンと痛いくらい張りつめてから、ぱちんと音を立てて弾けた。 ――もう、泣いてもいいだろう。 私の合図を待っていたかのように、両目からどっと涙が溢れてきた。それは「やっぱり」と言う気持ちと、「どうして」と言う気持ちのせめぎ合い。懲りることなく何度も経験して、もういい加減慣れろよって感じだけど。駄目だな、私。
布団から腕だけ出して、手探りで止めた。もう朝が来たらしい。やっぱりって感じで、熱もなければ悪寒もしないわ。どうして私、こんなに頑丈に出来てるの。もうちょっとしおらしく出来ればいいのに。 なかなか開かない瞼のまま、心の中で舌打ちする。こんな日は思い切って年休を使っちゃってもいいのかな。だけど、やはりどこも具合が悪くないのに休むのはやっぱり気が引ける。それに今日から先輩がひとり休みを取っているんだっけ。そうなると頭数もギリギリ。 大体、昨日はどうしたんだっけな。良く覚えてないけれど、クレンジングでメイクを落としたくらいでそのままベッドに潜ってしまったに違いない。あんな状態では何にもしたくなかったし、食欲もなかった。大丈夫かなあ、ファンデーションが浮いちゃったら悲惨だわ。そんなことをうだうだ考えつつ、ぐるんと寝返りを打つ。 ――がん! 「……え?」 何だか変だなと気づいて、慌てて瞼を開いた。目の前に見慣れない花柄の壁紙。思い切り、鼻のてっぺんをぶつけてしまった。良かった、鼻血は出ていないみたい。でも場所が場所だけに、あとから赤く腫れ上がったりしたら嫌だな。 ――むにゅっ! 「えええっ?」 今度の今度はさすがに飛び起きていた。だってだって、投げ出した左腕が何かに当たったのよ。それも、すごく柔らかいものに……。 ちゅんちゅん。 晴れ渡った窓の外、さえずる雀の声。マンガやドラマでお決まりの朝の風景だ。でも、そんなことはこの際関係ない。 「……うう、痛いよぉ〜ママ……」 ハッとして。先ほどのむにゅ、の方を見た。そう言えば、最初に驚いたのはあの違和感だったんだっけ。その後の衝撃が大きくて、すっかり忘れていた。 「菜花(なか)のお顔、ばんってやったら痛いでしょ。ごめんなさいしてっ!」 くるくるの丸い目、ビー玉みたい。ああ、そうか。この子って、子猫に似てる。それにしても可愛い子だな、ちびっ子モデルになれそうなレベルだよ。 「……あ、ええと。ご、ごめんなさい……」 あまりの勢いだったから、条件反射で答えていた。でもそのあとようやく、もっと大変なことに気付く。「ママ」? 今、確かにそう呼ばれたわよね。何を勘違いしているの、この子。だいたい何で、私のベッドにこんな小さな子が一緒に寝ているのよ。 「あの――」 そう話しかけようとしたとき。女の子はデジタルの時計を見て、叫び声を上げた。 「大変っ! ママ、幼稚園バスが来ちゃう! お寝坊だよ〜ねええ、早くご飯作って! それからお着替えを出してっ!」 とにかく彼女にとってはとんでもない緊急事態らしく、ぐいぐいと力任せにパジャマの裾を引っ張られた。え? え? どういうことなの? どうなっているの! もうもう、頭は大パニック状態。一体何がどうなっているの。だって私は「ママ」なんて呼ばれる筋合いはない。ぴかぴかのOL一年生で、今朝だってこれから出勤するんだ。 「ママ?」 あ、また忘れていたわ。我に返ってみれば、さっきの女の子が不思議そうな眼差しでベッドの横に突っ立っている。うう、ごめん。悪いけどあなた邪魔なの、どいてね。 「ねええ、ママ。今日のママは何か変だよ。おはようのきゅうは? どうしてしてくれないの?」 だ〜か〜ら〜っ! 何なのよ、それは。こっちはそんな場合じゃないの!。 「なあ、千夏(ちなつ)? グレイの靴下が片方、ないんだけど。昨日洗ったはずだよな」 がちゃり。硝子格子の入った目の前のドアが開いた。もちろんこれも見覚えのないもの。でも現れたその声の主には、思わずこんな叫び声が出た。 「ま……槇原……くん!」 そうだ、間違いない。この人は同期入社で営業部の槇原くんだ。その人がどうしてここにいるのよ? 何故私の名前を呼び捨てにするの。昨日まで彼は私のことを「墨田さん」と姓で呼んでいたはずなのに。 「千夏?」 槇原くんの方はちょっと呆けた顔になる。うわっ、今気づいた! 彼、上はワイシャツを着ているけど、下は……何なのっ、下着1枚じゃない! きゃあ、いきなりこれはないでしょう。目のやり場に困っちゃう! 「ななな、何で。何で、槇原くんがここにいるの。っていうか、ここはどこ? 一体、何がどうなっているのよ!」 目をそらしても、どうしても脳裏に今見たばかりの残影が残り、知らないうちに頬が赤くなってしまう。え〜ん、自慢じゃないけど、男の人の下着姿なんて父親と弟のしか見たことないんだから。ばっちり確認しちゃったわよ、赤地にペイズリー柄のトランクスが頭から離れない。 「どうしたんだよ、何寝ぼけているんだ? おい、千夏。どこか具合でも悪いの? 今朝はいつまでも起きてこないと思ったら……」 自分でも知らないうちに腰が抜けていたのね。カーペットの上にしりもちを付いて呆然としている私に、槇原くんは遠慮なく近づいてくる。どうにかして視線を逸らしていたのに、とうとう視界にすね毛の生えた筋肉質の足が入ってきた。こんなものをまじまじと見ていても仕方ないもの、ゆっくりと顔を上げていく。 「ねえ、これって一体どうなっているの。どうして、いきなり槇原くんが出てくるの?」 しかも下着姿で―― とはさすがに言えなかったけど。それなのに、どういうこと。私の必死の質問に、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。眉をしかめて、嫌みのひとつも言いたそうだ。 「ま〜!!きゅう〜!!」 軽くてあたたかいものがあっという間に膝の上に乗っかって、胸にしっかりしがみついた。ぽよぽよの薄い茶色の髪が私の顎の下で揺れている。さっきの女の子よりも小さいな、それにこっちはつるつるの直毛だ。 「あ〜ずるいっ! ママ、梨花(りか)ばっかりじゃ、やだ! 菜花も〜きゅう〜!」 傍らにいた女の子の方も、負けじと飛びついてくる。慌てふためく私を置き去りにして、ふたつのむにゅむにゅが押し合うように膝の上でうごめく。甘くて優しい子供の香りが辺りに充満した。 「あ、あの……槇原くん……?」 本当に何がどうなんているのか、どうしていいのか分からない。いよいよ途方に暮れて、傍らで私を見下ろしている顔に話しかけた。 「これって……この子たちって……もしかして、槇原くんの子供?」 そう言えば、さっきの女の子。目元の辺りとか確かに彼に似ていた。間違いない。でも、子持ちなんて聞いてなかったよ? 結婚しているってことも知らなかったし。 「この子たちが俺の子供って……あのなあ、千夏?」 そう言いつつ、彼は私の顔を覗き込む。でもその眼差しにさっきまでの苛立っていた色は消えて、心底、戸惑った顔に変化している。そして、一呼吸置いてから彼はとんでもないことを言ってくれた。 「そいつらは正真正銘君の子、君が産んだの。で、父親は俺。ちょっと待てよ? 今朝はマジでおかしいぞ、頭でも打ったか?」 すごく困っている様子なのは分かる。でも、そうは言ってもこっちだって――。 「……はあ?」 何が何だか。パニック状態の頭で、ほっぺをつねったり瞬きしたり。でも全然夢から覚めてくれない。これぞまさに晴天の霹靂。そんな風にして、私の新しい朝が始まっていた。
会社に「直接、営業先に回るから」と連絡を入れてから、彼はこちらにくるりと向き直った。さすがにあの格好のままではいられなかったらしく、今はちゃんとスラックスをはいている。自力でグレイの靴下も探してきた。アイスグリーンのシャツに合わせてモスグリーンの幾何学模様のネクタイを締めて、髪もきっちり整えてすぐにでも出勤できる体勢。 「ふざけている訳……ではないんだよね」 自分に言い聞かせるみたいにそう言いながら、コーヒーの入ったマグカップを目の前に置いてくれる。それから自分の分も同じように用意して、彼ははす向かいに座った。よく見ると、このカップもペア。イラストは違うけど明らかに同じ作家によって描かれたもので、色は槇原くんのが黄緑色で私のがオレンジ。今ここで言う必要もないかもだけど、実はスリッパも同様ね。 「そ、そんなわけないでしょう、冗談でこんなこと言えないわ。何度も説明したとおり、私は昨日までちゃんと会社に通っていたのよ。それが、目が覚めたらいきなりこんなことになっていて……本当に、何がどうなっているのか分からなくて……」 営業のノウハウでたたき込まれた槇原くんの態度にすくんでしまう。うう、この人には敵いそうもないわ。じっと相手の目を見るどこまでも穏やかな眼差しは、決して標的を逃すことはない鋭さも同時に兼ね備えている。彼は今、私の真意を探っているのだ。でも、そうであっても私はひるんだりはしない。何が何だっておかしいんだから、この状況。 いつまでもパジャマのままじゃ変だし、私の方もとりあえず普段着らしき服装に着替えた。それがね、教えてもらったクローゼットを覗いて、またびっくり。出勤に使えそうなスーツ類はほとんどなくて、あるのはニットスーツやスエット地のラフなもの。それどころか時々、え? と思うような花柄のフリフリな服を見つけたりして。 私はすでに退職していて出勤木になる必要はないみたい。それならばとクリーム色のニットスーツを着た。髪にクリームをなじませて整えると、カチューシャで形作る。鏡の前に立っている自分がどう見ても「OL」ではなくて「若奥様」であるのに気づき、ため息が出た。 「う〜ん」 槇原くんは腕を組んで目を閉じてしまった。そうしている間にも、何か考えているのかも知れない。 「若年性痴呆症と言うのも確かにあるんだけどな、それにしても急すぎるよ。だって、昨日の晩までは全く普通だったんだから。でも、千夏が今までのことをすっぽり忘れてしまったんだと言うなら、今はそれを信じるしかないよな」 真剣にそう話す彼の後方では、こちらに背を向けてTV画面に釘付けになりながら、あうあうと声を上げて座ったまま身体を揺らしている梨花ちゃんがいる。 「で、六年前までのことは覚えているんだね?」 「はい、……そうです」 質問に答えつつ、何とも気恥ずかしくて落ち着かない気分になってしまう。おずおずと目の前の人を見る。槇原くんは私にとってただの同僚、ずっとそう思っていた。一体どういう経緯で私たちは結婚したのだろう。で、そうだよな。本当に子供をふたり産んだのだとしたら、最低でも二回は……その、あの……そうなんだよな。 「――ま、仕方ないよ。こんなに簡単に忘れたんだったら、きっとすぐに思い出すと思うし。しばらくは気楽に考えて、ゆっくりしてなよ。それでいいじゃないか」 「え……?」 何とも簡単に結論が出て、こちらは驚くばかり。 「ちょっと、待ってよ。まさか、槇原くんはこのまま仕事に出かけちゃうんじゃないでしょうね? 私をここにひとり置き去りにして」 あり得ない、絶対にそれはないって言って。祈るような気持ちで答えを待ったのに、彼は容赦ない。 「まさかって、そりゃそうだろう。取引先との約束はすっぽかすわけにはいかないよ、そのくらい千夏だって分かってるだろ」 そんな風にあっさり言わなくたって。ねえ、もう少し何か名案がないの? 「ええ〜、私、ちっちゃい子の面倒なんて見たことないわ。おむつだって取り替えたことない、本当に困る、絶対に出来ない!」 ここまで来ると、いい加減駄々っ子だ。大人げないもいいところ、でも駄目。引き下がれない。 「大丈夫だよ、今はパンツ型のおむつだから。時々覗いてみて、濡れていたら交換すればいいんだよ。あ、おむつは燃えるゴミね、毎回ちゃんと袋に入れて始末しないと臭うからそこだけ気を付けて」 彼はチラリと時計を見ると、さっさと席を立つ。これから出かけて、丁度いい時間なのだろう。 「え、え? 待って! 待ってよっ、槇原くん」 慌てて、彼のシャツの袖を掴んだ。話は分かるんだけど、すごく分かるんだけど。でも、ここに置いて行かれたらやっぱり困る。夢ならば今すぐにでも覚めて欲しい。こんな悪夢はさすがにないと思う。 「だって、本当に何にも覚えてないのよ。と言うか、悪いけど今までの槇原くんの話だって信じられないもの。これから菜花ちゃんのお迎えだってあるんでしょう、道端で誰かにあったらどうするの。いちいち何も覚えてませんって言うの? それに、もしも電話がかかってきたら? 誰かが訪ねてきたら? 行かないで、本当に私、どうしていいのか分からないのよっ!」 朝の日差し眩しい気持ちの良いリビングとはあまりに対照的に、私の心は不安で今にも押しつぶされそうだった。こう言うのを錯乱状態と言うのだろう。心の中に疑問符が湧いてそれが次々に分裂していく。握りしめた袖に穴が開くくらい爪を立てて、ギリギリと音を立てる。必死で槇原くんを見つめていた視界がだんだんぼやけていく。 「……千夏」 ぼやけた視界に佇む槇原くんは、本当に困った表情になって目を細めた。私の大きく震えている腕を静かに解く。固く握りしめていたはずの手がするりと抜けてしまう。そのくらい暖かくて自然な行為だった。 「分かってくれよ、今日の商談は今後を決める大切なものなんだ。俺がいないと大口の注文がフイになっちゃうんだから。会社にそんな損失を与えることはこのご時世出来ないの。もちろん、今日は出来る限り早く帰ってくるから」 テーブルの上のティッシュを取って、私の顔を丁寧に拭ってくれる。顎の方まで回った涙の滴まで残さずに。その後、呆然としたままの私に彼はにっこりと微笑んだ。 「バスは角の所に着いて、そこで降りるのは菜花ひとりだから先生に御礼を言えば大丈夫。もしも誰か近所の人が通りかかったら、きっと菜花がすぐに声を掛けるから。適当に相づちを打っておけばいいよ。別に千夏がみんな忘れちゃったこと話すことはないだろう。きっとすぐに思い出すんだから」 「……槇原くん……」 穏やかな説得口調に段々乗せられていく。ぽんと頭の上に置かれた手が、やがてするすると髪を滑りながら頭の後ろに回る。にわかに指先に力が込められて、そのまますっと抱き寄せられた。 「……!」 あんまりに驚いて、反射的に払いのける。やだ、いきなり何するのよ。 「やっぱり、覚えてないって本当なんだ。そうなると駄目か、こう言うの」 一方の彼は首をすくめて、ちょっと残念そう。 「駄目かって、当たり前でしょう。私と槇原くんはそんなんじゃないもの、私にはちゃんと他に好きな人が―― 」 そう言い掛けて、ハッとする。次の瞬間、見上げた槇原くんの顔が何とも複雑な色を見せていた。 「ふうん、好きな人。そうなんだ」 ああ、そうか。あれから六年も経っていたんだっけ。 で、長い時間が経過して、私の今現在の気持ちはどうなっていたんだろう。 「え? ええ? あの……何だか混乱しちゃって……」 しどろもどろ、この気持ちをどうやって説明したらいいのか分からない。 「ま、戻ってきたらまた続きの話をしようよ。とにかく、行ってくるから。今日は家から出ないで大人しくしてればいいよ。午後から雨だって予報だし、そうなればさすがに菜花も公園に行こうとか言わないだろう」 今度こそ、本格的に時間が押しているらしい。さっきよりきっぱりと言うと、彼は上着を羽織ってコートを手にした。 「じゃ、気を付けて。―― 梨花〜、パパは行ってきます、だよ〜」 声色が変わり、甘い響きで梨花ちゃんに声を掛ける。TVの画面を見ていた背中がくるりと振り向き、すっくり立ち上がった。 「ぱぱぱ〜、……ちゃい〜」 多分彼女は『パパ、行ってらっしゃい』と言っているつもりなんだろう。ぽてぽてぽてと歩いてきた小さな娘を嬉しそうに抱き上げて頬ずりする。そんな元同僚のすっかり父親している姿を、私はとても不思議な気持ちで眺めていた。 「は〜い、梨花。いい子でいるんだよ〜」 彼はそう言うと、私の方をくるりと向き直り、おもむろにそのひよこ色の小さな生き物をこちらに手渡してきた。 「じゃ、頑張って」 柔らかい温かさに気を取られているうちに、彼はにっこりと微笑むとさっと手をあげる。 「ちょ、ちょっとお〜槇原くんっ」 ドアの向こうに消えていく唯一の頼りを、途方に暮れて見送る。腕の中のひよこが身体が揺れるぐらい大きく手を振り続けていた。あんまり元気が良くてずり落ちそうになったお尻を支えて揺り上げる。
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