書籍化のお知らせ>片側の未来・2


1/2/3/ *お知らせ

 

 

「透(とおる)?」

  もちろん知ってはいたものの日常は口にしていなかった彼の名前が、私の口からもどかしげにこぼれた。そのときの私は、何とも複雑な表情をしていたのだろう、槇原くんの方は何だか楽しそうだ。

「そう、千夏は俺のことそう呼んでいた。同じように呼んでくれたら、もしかして何かをきっかけに思い出すんじゃないかと思って」
「は、はあ……」

  そうは言われても、いきなり同僚のことを、しかもファーストネームで呼び捨てにするのは気が引ける。これではまるで恋人同士みたいじゃない。あ、いえ。今の私たちはそれよりもっとすごい「夫婦」って関係らしいのだけど。そんなことは今の私に知ったことじゃないもの。
  夕方、槇原くんが五時過ぎに戻ってきたときにはどんなにかホッとしたことか。玄関に子供たちと共に出迎えに出た私に、彼は思わず吹き出していた。それって、ひどい。こちらの苦労も知らず、あんまりにも失礼だと思う。

「だって。あんまりにも情けない顔するんだもんな」

  彼はくすくすと笑いながら、レタスをむいている。
  子供たちはやはり夕方のお子様番組に子守して頂いて、私たちはとりあえず、槇原くんが戻りに買ってきてくれた材料を使って夕食を作っていた。すごいなあ、テレビって有能なベビーシッターになるんだわ。
  対面式のカウンターキッチンは結構広く造られていて、使いやすい。我ながらきちんと掃除をしていたらしくぴかぴかのシンクに惚れ惚れした。つり棚には食品保存用のパックが整然とに並んでいて、買い置きのラップやホイルもある。流し下の戸棚にも鍋やボウルなどの調理道具が取り出しやすくしまわれていた。どれも初めて見るものなのだけど、やはりどこか懐かしいような不思議な気分になる。
  一日中ボーっとしていても仕方がないので、朝からずっと勝手の分からぬ家の中をうろうろして、そこら中を物色していた。不法侵入でもしているみたいで気が引けたけど、よくよく考えたら私の家なんだもの。それでもいちいち不思議な気分だった。

「そんなこと言ったって、本当に大変だったんだから。 梨花ちゃんときたら、抱っこしてればとてもご機嫌なのにおろした途端に私を追いかけ回して大泣きするんだもの。ト、トイレにすら入れなくて……泣きたくなったんだから」

  今夜は菜花ちゃんの好物だというハンバーグを作っている。挽肉をこねながら、何ともやるせない気分になった。
  私は三人姉弟の一番上で、当然下の弟と妹の世話はしていた。でもさすがに赤ちゃんのお世話なんてしたことない。早く結婚した友達や従姉の赤ちゃんを抱っこさせて貰ったこともある。でもこんなふうにひとりきりで何時間も面倒見たことはないし。得体の知れない未確認生物との接触は、想像以上に体力と精神力を消耗した。

「千夏、結構子育てを楽しんでいるみたいだったんだけどな」

  雑談を続けながらも、ものすごく器用な手つきでスパゲッティーのサラダが仕上がっていく。銀杏切りのリンゴと缶詰のみかんは子供仕様かしら?

「槇原くんって、料理が上手なんだね」

  思わず、口をついて出てきてしまう言葉。不思議そうに私を見上げた顔が、そのまま嬉しそうに、にっと笑った。

「改めて言われると、それはそれで嬉しいもんだな。学生時代、レストランでバイトしていたんだよ。だから家で普通で食べるメニューなら、一通り何でも作れるよ」
「ふうん。で、私より、上手だったり……した?」

  自慢じゃないけど、私の料理の腕はたいしたことなかった。一人暮らしでもほとんどコンビニやスーパーのお総菜に頼っていたもの。おみそ汁でさえ満足に作ったことがなかった。作って作れないことはないのだけど、ほらひとり分を作るのってかえって不経済だったりするでしょう。
  そう言えば、さっき槇原くんはわざわざ煮干しでだしを取っていたな。私、顆粒のだしの素しか使ったことないのに。

「あ、とりあえずハンバーグの焼きは俺が担当するから。千夏のは表面は素晴らしく焦げ色付けて、生焼けなんだよな」
「……そう」

  私は手にしたフライパンをそのまま彼に手渡した。何だか今までの日常が目に浮かんでくるようで悲しい。私はこの人の前でどれくらい多くの失態を演じてきたんだろう。
  じゅうじゅうと言う音にお膳立てをしながら振り向けば、彼はハンバーグを焼いたフライパンの中にケチャップやソースを入れて、即席のデミグラスソースもどきを作っている。ハンバーグって、焼いたのにお皿の上でケチャップをかけるんじゃなかったのね。そんなこんなで出来上がった夕食はほとんどが槇原くんの手によるもの。正直、とてもおいしかった。
  食後、彼は当然のように食器洗い機に汚れ物をセットしてくれて、コーヒーをセットする。良い香りが部屋に漂い始める間に、私は洗濯機の使い方を聞いた。
  そうなの。まあ、やることないし、洗濯でもと思って、午前中に洗面所に入って驚いた。当たり前と言えば当たり前だけど、電化製品も洗濯機を含め全てが私の知っているものとは姿を変えている。ボタンがたくさん付いていて、どこを押したら動き始めるのか悩んじゃって……結局そのままにしちゃったのね。
  こんな風に事実を突きつけられて行くと、次第に私の中にある「担がれているのかな」という期待が徐々に消えていく。でもやっぱり、そうであっても受け入れるにはこの状況変化は大きすぎる。絶対に無理って、槇原くんだってきっと分かってくれるよね……?

 菜花ちゃんと梨花ちゃんはお昼寝をほとんどしない代わりに夜早く寝る。お風呂は戻ってきた途端に槇原くんが入れてくれたので、ご飯のあと、簡単な寝かしつけて休んでしまった。
  でも。このお風呂が……また。だって、入れてくれるのは彼でも「もういいよ」と言われてバスタオルを持って行くのは私。がちゃっとバスルームのドアが開いたら、湯気の向こうに……あの。
声にならない悲鳴を上げて、慌てて顔を逸らしちゃったわよ。でも、こういう時って、やっぱ、一番に目がいく場所が……ううう、一瞬、見ちゃったじゃないの。

「ママ、どうしたの? お顔が真っ赤」

  ドアに背を向けたまま、うずくまっていた私に不思議そうに菜花ちゃんが聞いてくる。子供相手にいつまでもうなだれているわけにも行かず、びしょびしょのはだかんぼうをタオルで包んで拭き上げた。で、菜花ちゃんはいいのだ。だって、自分で歩いて出てくるから。問題は……。

「ほら、千夏。 梨花が出るよ」

  すぐ背後で声がした。そうなの、梨花ちゃんは足元がおぼつかない赤ちゃんだから、滑ると大変。いつも手渡しで受け取るらしいのだ。

「う、うん」

  腰にタオルでも……ああ、巻いてくれてないな。仕方ないから出来るだけ顔を背けて、正面を見ないようにしながらバスタオルを広げて受け取る。

「何だよ、千夏」

  そのまま、くるんと回れ右をした私に槇原くんが呟く。
  だから〜もう!分かってよ…男性ヌードを鑑賞する趣味はないんだから。まあ彼にしてみれば、妻である(らしい)私に今更照れることもないだろう。でも私は、今の私には槇原くんとはただの同僚だと思っていた六年前の記憶しかないのだ。日常生活とはいえ、こう言うのは困る。
  後ろのドアは元通りに閉められて、彼はシャワーを浴び始めたらしい。硝子のドアにしゃわしゃわと水の当たる音がする。マンションと名が付いていても、やはりお風呂は狭いのだ。それでもまあ、ユニットバスだった私のアパートよりはいいかな。

「あああ、もう〜っ!」

  私はバスマットの上にしゃがみ込んで、今日、何度目か知れないため息を付いたのであった。

 


「飲む?」

  カットグラスをふたつ出してきた槇原くんは、その片方を私の目の前に置いた。いつもこんな風に私の分の飲み物を用意してくれるのかな、とても慣れた手つきなのね。もちろん有り難くいただくことにする。
  ようやく小さな子供たちがいなくなって、ふたりきりでゆっくり話が出来るようになった。あの子たちがいると五分もおかずに途切れなく何か言いつけられる。
  梨花ちゃんも赤ちゃんの筈なのに、自己主張が強くて三歳上のお姉ちゃんと対等におもちゃを取り合うのだ。引っ張り合って、取られた方が大泣きをする。そう言うやりとりも頻繁に起こった。もうどうしていいんだか分からない。
  菜花ちゃんはひとりじゃトイレに行けないし、梨花ちゃんに至ってはおむつだ。しかも誰がしつけたのか、お尻が濡れると新しいおむつを出してくる。いいことだと素直に感動していたら、どうもおむつを持って歩くことそのものが彼女のマイブームだったらしく、いつの間にか納戸がおむつだらけにされてびっくり。包みの端っこを器用に指でこじ開けて、買い置きしてあったらしい三パックがすべてが床にばらまかれていた。とても一歳三ヶ月の赤ん坊の仕業とは思えない。
  とぷとぷとぷ、注がれたのはロゼのワイン。これと同じ瓶が納戸にいっぱい置いてあって何かと思ったら、ボーナスの一部が現品支給だったと聞いて驚いた。ウチの会社はワインを扱っていないよ、そうじゃなかったのかと聞いたら、取引先がお金で払いきれず、ワインで払ってきたという。そんなことってあるのだろうか。 今は物々交換の時代なのかしら。

「で、何か思いだしたの」

  ワインを一口飲むと、槇原くんはおもむろに切り出した。いきなり核心を突いてくる、きっと一日中聞きたくてうずうずしていたんだと思う。。
  今、私たちはご飯を食べていたダイニングテーブルではなくて、テレビの前に置かれたソファーの方にいる。それはいわゆるラブチェアーと言う奴で、槇原くんにどかっと腰を下ろされると私の座る場所はない。避けて貰って座ればいいのだろうけど、なんとも微妙な距離感に躊躇しまうのね。
  結局、低いテーブルにしがみついてラグマットの上にじかに座り込んだ。槇原くんとは九十度の位置。でも今までの私はどうしていたんだろう、当然のように彼の隣に座っていたのかな。ううん、そんなこと。未だにこの目の前の元同僚と結婚して当たり前に生活していたなんて信じられないのに。

「ごめん、何も」

  首を横に振る。すごく申し訳ない気分になる。その後、そっと槇原くんの顔を覗き込んだ。

「何?」

  瞬きをふたつ。眉間にしわを寄せて難しそうな顔をする。

「別に……何でもありません」

  彼の顔を穴が開くほど凝視してみたところで、何かが浮かんでくるわけでもない。六年の時間を飛び越えた同僚が、私が知っているよりもずっとラフな格好でソファーに身を沈めているだけだ。

  昼間のこと。

  マンション散策の途中。廊下に造り付けられた戸棚の扉を開くと、一番下にずららっとアルバムが入っていた。菜花ちゃんと梨花ちゃんの産まれてからのものがそれぞれに数冊。それから、真っ赤な表紙を見つけて開いてみたら。そう、それはまさしく結婚式のアルバムだったのだ。仮装大会としか思えない私と他でもない槇原くんの和装と洋装の式服姿がいっぱい。自分の写真なのに、何とも気恥ずかしい。ウエディング・ケーキの入刀、キャンドルサービスに花束贈呈。真っ赤になりながらそれでも一通り見ていると、いつのまにか横から覗いた梨花ちゃんが嬉しそうにDVDを持って歩いてきた。

「あい、……あい」

  そうか、これが観たいってことね? そう思って一応再生してみたら……ぎゃあ〜、何コレ! 結婚式を録画したものじゃないのっ! 動いていると更に恥ずかしさ十倍! でも、コレの存在を赤ちゃんの梨花ちゃんですら当然のように知っていると言うことは、もしかして何回も観てるってこと? しかも家族で。そんなの止めてよね、全くもう〜。

「なあ、こんな言い方すると信じてないようで悪いんだけど。本当に、俺のことをからかっているんじゃないよね?」

  そう言いながら、彼はタバコに火をつける。一応、子供たちの前では禁煙しているみたい。蓋の付いた吸い殻入れを棚の上から持ってくる。空気清浄機を自分の方に向けて、フーッと息を吐いた。

「からかっているんじゃ、ないもの。そんなことして、何か私にメリットでもあるの?」

  ここまで言われると、さすがにムッときた。そりゃ、信じられないのは分かるけど、やっぱり嫌な気分。そんな私の視線に気付いたのだろう、槇原くんは照れ笑いした。

「ごめん、ごめん……だって、昨日の今日だし」

  ……は? 昨日の?

「どういうこと?」

  そのとき、ふたりの間の空気がわずかに揺れた気がした。思わず、本能的に後ずさろうとすると、それよりも素早く槇原くんの右手が私の左腕を取った。彼は左手に持ち替えたタバコをもみ消す。

「ななな、何? ちょっと、離してよ!」

  マジでやばいと思った。何なのよ、いきなり何するのよ!
  ふるふると震えている私の腕を掴んだまま、彼はその笑顔の色を変えた。――何というのか、意味深で……それに、何かを含んでいるような。

「千夏が、言ったんだよ、今夜から解禁にしようって」
「……え?」

  わたしはそのままバランスを崩して、仰向けにラグの上に倒れ込んだ。その上に勢いよく覆い被さってくる槇原くん、あんまりのことに言葉も出ない。驚きの上に恐怖の色を上塗りした表情でいるだろう私に、天井に埋め込み式の白熱灯を背にした彼が言い放つ。

「三人目、そろそろ作ってもいいって言ったんだよ。だから、生理が終わったら、生で出来るって」
「……え……」

  あまりのことに、声がひっくり返ってしまう。喉の奥でくぐもる裏声。何よ、何よっ、それって! どういうことなのよ!
  心と身体の全てがパニックの極みにいる私に対して、どこまでも余裕の笑みを浮かべる槇原くん。両方の手首をマットの上に押さえつけられて、これじゃ身動きも出来ないじゃないの。
  ふわっと。顎の当たりに髪の毛の気配。音もなく、彼の身体が私に接触してくる。首筋に生暖かいものを感じた。
  間違えなくこれは槇原くんの吐息だ。次の瞬間、もろに首筋にくっついた感触。生ぬるくてちょっと湿っていて、これは……その。

「千夏」

  左の首筋からするすると降りてきたそれが肩に辿り着いたとき、初めて離れる。それから鎖骨をつつっと通って、そのまま胸元に潜り込んで来た。その時になって、ようやく身体に血の通った感覚が戻って来る。

「やああっ! やめて! 本当に、やだっ! 離してっ!」

  完全に槇原くんのペース、このままでは本当の本当にやばいと思った。とにかく力の限り手足をバタバタと動かして抵抗する。どう見ても力の差は歴然としていたが、それでも彼が一瞬ひるんだ隙に飛び退いた。そのまま一気に掃き出し窓の所まで身体を移動する。まあ、これで背後に逃げ場がなくなった状態でにじり寄られたら対処のしようがないけど。ああ、まだ心臓がばくばく言ってる、今にも泣き出しそうな涙腺。どうにかなっちゃいそう。

「千夏?」

  対する槇原くんの方はぽかんとして、そのままの位置で起きあがると姿勢を正した。

「槇原くんっ、ひどい! いきなり何するのよ!」

  はだけた胸元をぐぐっと押さえて、精一杯威嚇する。これ以上何かしてきたら、今度は反撃しちゃうから。私だって、やるときはやりますからね!

「何って、あの、やっちゃいけない? それがきっかけになって、思い出すかも知れないし」

  何なのっ、この人。いきなり襲ってきたくせに、しゃあしゃあとよく言えるわね!

「信じられない! 常識のある大人が、いきなりこういうコトするっておかしいわ。ちょっとっ、コレは一歩間違えばレイプよ、レイプ! 槇原くんなんて、警察に連れて行かれちゃうんだから」

  ぜいぜい、肩で息をしつつも私は必死。だって、この人は今このときだって気を抜いたら何をやり出すか分かったものじゃない。柔らかな物腰で聖人君子みたいに見えるけど、そんなの見かけだけのものだったんだわ。

「……レ? ……おい?、千夏。俺たちは夫婦なんだぞ、夫婦だったらこう言うの当たり前じゃないか。それに君が『解禁』何て言うから、こっちは滅茶苦茶期待して―― 」

  しどろもどろになりつつも、言うべき点はしっかり押さえつつ意見してくる。さすがやり手の営業マン―― と、そんなことに感心している場合じゃなかったわ。こっちは貞操の危機に直面しているんだから。

「ま、槇原くんがどんなことを考えて、どんな風に期待したかは知らないわよ。でもっ、私は絶対に無理! そんな気にはなれない。槇原くんはただの同僚だもの、それ以上の感情はないから」

  そうだもの、まさしくその通りだもの。私、間違ったことは言ってないよね?

「感情って、それ何なんだよ? だいたい千夏、俺たちもう六年もこういうことしてきてるの、当たり前に。君が忘れてたって、事実はそう言うことなんだから」

  そこまでしっかり言い切られると、さすがにうろたえてしまう。確かに彼の言うことはもっともなことかも。夫婦の夜の生活、仮に週に1度のペースだったとしても……もう何百回も宜しくしていることになるんだ。
  でも、そんなこと言われたって「はいそうですか」とは納得できない。私は、今の私は、槇原くんの彼女でも奥さんでもない。身体はすでにそういうものなのかも知れないけど、気持ち的にはそうなんだから。
  今日は朝からいきなり言葉も通じない赤ちゃんと幼児を相手することになり、何が何だか分からないままの1日を過ごしてきた。受付のカウンターの前に座ってにこやかに「いらっしゃいませ、どちらにご用でしょうか?」と言う生活を続けていたはずの私が、おむつと鼻水と着替えと幼児用ヨーグルトとオレンジジュースと、その他諸々の見たこともないパーツに囲まれて。それでも相手が赤ちゃんと子供だから、聞き分けがないのは当たり前だと我慢してきた。
  でも、槇原くんはとっくに大人じゃないの。私の置かれた状況を正しく理解してくれたっていいはずだ。少なくとも、今の私には彼以外に頼れる人間も見つからないわけだし。それがこんな、考えようによっては子供よりも余程始末の悪い行為に出ないで欲しい。

  息も絶え絶え、涙目で睨み付ける私の視線の先に、困ったような情けないような表情の槇原くんが佇む。お風呂に入ってばらばらと落ちている前髪のせいで、昼間の姿よりも若く見える。あれから六年経って今年三十になったそうだ。対する私も二十七歳になっているらしいから、それも当然なんだけど。

「それに千夏、君だってこう言うの決して嫌いじゃなかったぞ。身体は絶対に反応するって、そうすればあとから気持ちも必ず付いてくるから――」

  うわっ、この期に及んでまだそんなことを言うの。信じられない人だわ。

「嫌! 嫌と言ったら嫌なの!」

  仕方ない。こっちは大きなクッションを抱きしめて、前方のガードに入る。こうなったら、パフォーマンスで気持ちを伝えるしかないわね。

「……千夏」

  それでもなお半開きのままの口元、切なそうな瞳の色。私の一メートル先で発せられるうねった空気。
  どうしてこんなことになっちゃんだろう。槇原くんは女性社員の中でもダントツに人気のあった人だ。芸能人にはあまり詳しくなかった私には分からないけど、なんとかって若手の俳優の名前を挙げて似ているという声もあったほど。少なくともルックス的には同期の男性陣の中で抜きんでていたと思う。背だって割と高い方だし。
  飲み会があればお酌に行って言葉を交わす位のことはしていた。やり手の社員だと聞けば、どんな感じの人かと興味を持ったりもするでしょう。受付嬢の中にも熱を上げている人はいたし――でも私にとって彼は「それ以上」の存在ではなかったのだ。それが、何で、どういう経緯で私たちはこんな関係になったの?
  この距離感って、とてつもなく危険。私がちょっとでも承諾の表情を見せれば最後、襲われてしまうのは必然だ。それだけは回避したい。

「や、何があっても駄目だから! そう言うことするつもりでいるんなら、今から実家に帰る! この時間ならまだ電車はあるでしょう、駄目ならタクシー拾ってでも帰る!」
「な、何を言い出すんだよっ」

  薄手のスウェットを着た槇原くんが慌てている。でも私は本気だもの、こんなのって困るんだから。槇原くんとそう言うことするなんて、想像も出来ない。絶対の絶対に、無理だから。
  しばらくは無言の睨み合いが続いた。でも彼にどんな怖い顔をされたって私は平気。クッションから詰め物がはみ出るくらいきつく抱きしめて、こちらも負けじと睨みを返した。

「――分かった」

  やがて。深くため息をついた槇原くんがラグの上から立ち上がる。そして髪をかき上げながら、元通りソファーに深く腰を下ろした。

「今日のところは退散する、だからそんなこと言うなよ。今出て行かれたら正直困る、俺はともかくとして子供たちはどうするんだ、そう頻繁に休みが取れる立場じゃないんだからな。今週末の休みは予定を入れないようにするから、そこまで君は母親業に専念して欲しい。でも、千夏がこんなに強情だとは思わなかったな」

  ずるい、そんな言い方しなくたっていいじゃない。それに何か、私の方が悪者みたいに聞こえるよ。

「強情なんて……そんなじゃないもの」

  そんな言い方、しないで欲しい。私だって、自分がなりたくてこういう風になったわけじゃない。そうは思うものの、私を見る槇原くんの視線が本当に悲しそうでちょっとだけ切なくなる。
  どちらかというと、追う恋愛ばかりをしてきた。だからこんな風に強く求められることもなかったし、正直あの時には六年後の今にこんな風になっているなんて夢にも思わなかった。結婚願望がそれほど強かったわけではないし、何となくあんな感じで縁遠く生きていくんだろうなとか諦めてた。
  あー、そんなこと考えたら自分が可哀想になってきたじゃない。私はずるずるとテーブルの所まで戻ると、さっきのワインを一気にあおった。甘酸っぱくて、その後すごい渋味が追いかけてくる。

「もう少し、飲む?」

  槇原くんは座った姿勢のまま、前のめりになってワインを注いでくれる。目の前でグラスが満たされていくのをぼんやり見たあと、顔を横に向けると至近距離で彼と目が合った。

「あんまり、考え込まないで。本当に悪かったって思ってる」

  そんな風に言いながら、大きな手のひらがぽんぽんと私の頭の上で弾む。何だかじんわりと温かかった。まだとても気を許すつもりにはなれないけど、このぬくもりは嫌いじゃないなと思う。
  私は一体、この目の前の人とどんな風に長い時を過ごしてきたのだろう――そんなことをふと考えてしまう。切り取られてしまったその時間を覗いてみたい気もする。でも、それをきれいさっぱり忘れてしまったのにはやっぱり何か訳があるんだよね? そう思うと、このままでいいかなとも思う。

「ううん、私の方こそ……ごめん」

  そう言いながら、ワインを口に含む。さっきよりも渋みが強く口の中に広がっていった。

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