「透(とおる)?」 もちろん知ってはいたものの日常は口にしていなかった彼の名前が、私の口からもどかしげにこぼれた。そのときの私は、何とも複雑な表情をしていたのだろう、槇原くんの方は何だか楽しそうだ。 「そう、千夏は俺のことそう呼んでいた。同じように呼んでくれたら、もしかして何かをきっかけに思い出すんじゃないかと思って」 そうは言われても、いきなり同僚のことを、しかもファーストネームで呼び捨てにするのは気が引ける。これではまるで恋人同士みたいじゃない。あ、いえ。今の私たちはそれよりもっとすごい「夫婦」って関係らしいのだけど。そんなことは今の私に知ったことじゃないもの。 「だって。あんまりにも情けない顔するんだもんな」 彼はくすくすと笑いながら、レタスをむいている。 「そんなこと言ったって、本当に大変だったんだから。 梨花ちゃんときたら、抱っこしてればとてもご機嫌なのにおろした途端に私を追いかけ回して大泣きするんだもの。ト、トイレにすら入れなくて……泣きたくなったんだから」 今夜は菜花ちゃんの好物だというハンバーグを作っている。挽肉をこねながら、何ともやるせない気分になった。 「千夏、結構子育てを楽しんでいるみたいだったんだけどな」 雑談を続けながらも、ものすごく器用な手つきでスパゲッティーのサラダが仕上がっていく。銀杏切りのリンゴと缶詰のみかんは子供仕様かしら? 「槇原くんって、料理が上手なんだね」 思わず、口をついて出てきてしまう言葉。不思議そうに私を見上げた顔が、そのまま嬉しそうに、にっと笑った。 「改めて言われると、それはそれで嬉しいもんだな。学生時代、レストランでバイトしていたんだよ。だから家で普通で食べるメニューなら、一通り何でも作れるよ」 自慢じゃないけど、私の料理の腕はたいしたことなかった。一人暮らしでもほとんどコンビニやスーパーのお総菜に頼っていたもの。おみそ汁でさえ満足に作ったことがなかった。作って作れないことはないのだけど、ほらひとり分を作るのってかえって不経済だったりするでしょう。 「あ、とりあえずハンバーグの焼きは俺が担当するから。千夏のは表面は素晴らしく焦げ色付けて、生焼けなんだよな」 私は手にしたフライパンをそのまま彼に手渡した。何だか今までの日常が目に浮かんでくるようで悲しい。私はこの人の前でどれくらい多くの失態を演じてきたんだろう。 菜花ちゃんと梨花ちゃんはお昼寝をほとんどしない代わりに夜早く寝る。お風呂は戻ってきた途端に槇原くんが入れてくれたので、ご飯のあと、簡単な寝かしつけて休んでしまった。 「ママ、どうしたの? お顔が真っ赤」 ドアに背を向けたまま、うずくまっていた私に不思議そうに菜花ちゃんが聞いてくる。子供相手にいつまでもうなだれているわけにも行かず、びしょびしょのはだかんぼうをタオルで包んで拭き上げた。で、菜花ちゃんはいいのだ。だって、自分で歩いて出てくるから。問題は……。 「ほら、千夏。 梨花が出るよ」 すぐ背後で声がした。そうなの、梨花ちゃんは足元がおぼつかない赤ちゃんだから、滑ると大変。いつも手渡しで受け取るらしいのだ。 「う、うん」 腰にタオルでも……ああ、巻いてくれてないな。仕方ないから出来るだけ顔を背けて、正面を見ないようにしながらバスタオルを広げて受け取る。 「何だよ、千夏」 そのまま、くるんと回れ右をした私に槇原くんが呟く。 「あああ、もう〜っ!」 私はバスマットの上にしゃがみ込んで、今日、何度目か知れないため息を付いたのであった。
カットグラスをふたつ出してきた槇原くんは、その片方を私の目の前に置いた。いつもこんな風に私の分の飲み物を用意してくれるのかな、とても慣れた手つきなのね。もちろん有り難くいただくことにする。 「で、何か思いだしたの」 ワインを一口飲むと、槇原くんはおもむろに切り出した。いきなり核心を突いてくる、きっと一日中聞きたくてうずうずしていたんだと思う。。 「ごめん、何も」 首を横に振る。すごく申し訳ない気分になる。その後、そっと槇原くんの顔を覗き込んだ。 「何?」 瞬きをふたつ。眉間にしわを寄せて難しそうな顔をする。 「別に……何でもありません」 彼の顔を穴が開くほど凝視してみたところで、何かが浮かんでくるわけでもない。六年の時間を飛び越えた同僚が、私が知っているよりもずっとラフな格好でソファーに身を沈めているだけだ。 昼間のこと。 マンション散策の途中。廊下に造り付けられた戸棚の扉を開くと、一番下にずららっとアルバムが入っていた。菜花ちゃんと梨花ちゃんの産まれてからのものがそれぞれに数冊。それから、真っ赤な表紙を見つけて開いてみたら。そう、それはまさしく結婚式のアルバムだったのだ。仮装大会としか思えない私と他でもない槇原くんの和装と洋装の式服姿がいっぱい。自分の写真なのに、何とも気恥ずかしい。ウエディング・ケーキの入刀、キャンドルサービスに花束贈呈。真っ赤になりながらそれでも一通り見ていると、いつのまにか横から覗いた梨花ちゃんが嬉しそうにDVDを持って歩いてきた。 「あい、……あい」 そうか、これが観たいってことね? そう思って一応再生してみたら……ぎゃあ〜、何コレ! 結婚式を録画したものじゃないのっ! 動いていると更に恥ずかしさ十倍! でも、コレの存在を赤ちゃんの梨花ちゃんですら当然のように知っていると言うことは、もしかして何回も観てるってこと? しかも家族で。そんなの止めてよね、全くもう〜。 「なあ、こんな言い方すると信じてないようで悪いんだけど。本当に、俺のことをからかっているんじゃないよね?」 そう言いながら、彼はタバコに火をつける。一応、子供たちの前では禁煙しているみたい。蓋の付いた吸い殻入れを棚の上から持ってくる。空気清浄機を自分の方に向けて、フーッと息を吐いた。 「からかっているんじゃ、ないもの。そんなことして、何か私にメリットでもあるの?」 ここまで言われると、さすがにムッときた。そりゃ、信じられないのは分かるけど、やっぱり嫌な気分。そんな私の視線に気付いたのだろう、槇原くんは照れ笑いした。 「ごめん、ごめん……だって、昨日の今日だし」 ……は? 昨日の? 「どういうこと?」 そのとき、ふたりの間の空気がわずかに揺れた気がした。思わず、本能的に後ずさろうとすると、それよりも素早く槇原くんの右手が私の左腕を取った。彼は左手に持ち替えたタバコをもみ消す。 「ななな、何? ちょっと、離してよ!」 マジでやばいと思った。何なのよ、いきなり何するのよ! 「千夏が、言ったんだよ、今夜から解禁にしようって」 わたしはそのままバランスを崩して、仰向けにラグの上に倒れ込んだ。その上に勢いよく覆い被さってくる槇原くん、あんまりのことに言葉も出ない。驚きの上に恐怖の色を上塗りした表情でいるだろう私に、天井に埋め込み式の白熱灯を背にした彼が言い放つ。 「三人目、そろそろ作ってもいいって言ったんだよ。だから、生理が終わったら、生で出来るって」 あまりのことに、声がひっくり返ってしまう。喉の奥でくぐもる裏声。何よ、何よっ、それって! どういうことなのよ! 「千夏」 左の首筋からするすると降りてきたそれが肩に辿り着いたとき、初めて離れる。それから鎖骨をつつっと通って、そのまま胸元に潜り込んで来た。その時になって、ようやく身体に血の通った感覚が戻って来る。 「やああっ! やめて! 本当に、やだっ! 離してっ!」 完全に槇原くんのペース、このままでは本当の本当にやばいと思った。とにかく力の限り手足をバタバタと動かして抵抗する。どう見ても力の差は歴然としていたが、それでも彼が一瞬ひるんだ隙に飛び退いた。そのまま一気に掃き出し窓の所まで身体を移動する。まあ、これで背後に逃げ場がなくなった状態でにじり寄られたら対処のしようがないけど。ああ、まだ心臓がばくばく言ってる、今にも泣き出しそうな涙腺。どうにかなっちゃいそう。 「千夏?」 対する槇原くんの方はぽかんとして、そのままの位置で起きあがると姿勢を正した。 「槇原くんっ、ひどい! いきなり何するのよ!」 はだけた胸元をぐぐっと押さえて、精一杯威嚇する。これ以上何かしてきたら、今度は反撃しちゃうから。私だって、やるときはやりますからね! 「何って、あの、やっちゃいけない? それがきっかけになって、思い出すかも知れないし」 何なのっ、この人。いきなり襲ってきたくせに、しゃあしゃあとよく言えるわね! 「信じられない! 常識のある大人が、いきなりこういうコトするっておかしいわ。ちょっとっ、コレは一歩間違えばレイプよ、レイプ! 槇原くんなんて、警察に連れて行かれちゃうんだから」 ぜいぜい、肩で息をしつつも私は必死。だって、この人は今このときだって気を抜いたら何をやり出すか分かったものじゃない。柔らかな物腰で聖人君子みたいに見えるけど、そんなの見かけだけのものだったんだわ。 「……レ? ……おい?、千夏。俺たちは夫婦なんだぞ、夫婦だったらこう言うの当たり前じゃないか。それに君が『解禁』何て言うから、こっちは滅茶苦茶期待して―― 」 しどろもどろになりつつも、言うべき点はしっかり押さえつつ意見してくる。さすがやり手の営業マン―― と、そんなことに感心している場合じゃなかったわ。こっちは貞操の危機に直面しているんだから。 「ま、槇原くんがどんなことを考えて、どんな風に期待したかは知らないわよ。でもっ、私は絶対に無理! そんな気にはなれない。槇原くんはただの同僚だもの、それ以上の感情はないから」 そうだもの、まさしくその通りだもの。私、間違ったことは言ってないよね? 「感情って、それ何なんだよ? だいたい千夏、俺たちもう六年もこういうことしてきてるの、当たり前に。君が忘れてたって、事実はそう言うことなんだから」 そこまでしっかり言い切られると、さすがにうろたえてしまう。確かに彼の言うことはもっともなことかも。夫婦の夜の生活、仮に週に1度のペースだったとしても……もう何百回も宜しくしていることになるんだ。 息も絶え絶え、涙目で睨み付ける私の視線の先に、困ったような情けないような表情の槇原くんが佇む。お風呂に入ってばらばらと落ちている前髪のせいで、昼間の姿よりも若く見える。あれから六年経って今年三十になったそうだ。対する私も二十七歳になっているらしいから、それも当然なんだけど。 「それに千夏、君だってこう言うの決して嫌いじゃなかったぞ。身体は絶対に反応するって、そうすればあとから気持ちも必ず付いてくるから――」 うわっ、この期に及んでまだそんなことを言うの。信じられない人だわ。 「嫌! 嫌と言ったら嫌なの!」 仕方ない。こっちは大きなクッションを抱きしめて、前方のガードに入る。こうなったら、パフォーマンスで気持ちを伝えるしかないわね。 「……千夏」 それでもなお半開きのままの口元、切なそうな瞳の色。私の一メートル先で発せられるうねった空気。 「や、何があっても駄目だから! そう言うことするつもりでいるんなら、今から実家に帰る! この時間ならまだ電車はあるでしょう、駄目ならタクシー拾ってでも帰る!」 薄手のスウェットを着た槇原くんが慌てている。でも私は本気だもの、こんなのって困るんだから。槇原くんとそう言うことするなんて、想像も出来ない。絶対の絶対に、無理だから。 「――分かった」 やがて。深くため息をついた槇原くんがラグの上から立ち上がる。そして髪をかき上げながら、元通りソファーに深く腰を下ろした。 「今日のところは退散する、だからそんなこと言うなよ。今出て行かれたら正直困る、俺はともかくとして子供たちはどうするんだ、そう頻繁に休みが取れる立場じゃないんだからな。今週末の休みは予定を入れないようにするから、そこまで君は母親業に専念して欲しい。でも、千夏がこんなに強情だとは思わなかったな」 ずるい、そんな言い方しなくたっていいじゃない。それに何か、私の方が悪者みたいに聞こえるよ。 「強情なんて……そんなじゃないもの」 そんな言い方、しないで欲しい。私だって、自分がなりたくてこういう風になったわけじゃない。そうは思うものの、私を見る槇原くんの視線が本当に悲しそうでちょっとだけ切なくなる。 「もう少し、飲む?」 槇原くんは座った姿勢のまま、前のめりになってワインを注いでくれる。目の前でグラスが満たされていくのをぼんやり見たあと、顔を横に向けると至近距離で彼と目が合った。 「あんまり、考え込まないで。本当に悪かったって思ってる」 そんな風に言いながら、大きな手のひらがぽんぽんと私の頭の上で弾む。何だかじんわりと温かかった。まだとても気を許すつもりにはなれないけど、このぬくもりは嫌いじゃないなと思う。 「ううん、私の方こそ……ごめん」 そう言いながら、ワインを口に含む。さっきよりも渋みが強く口の中に広がっていった。
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