次の朝は目覚ましの合図ですっきりと起き上がることが出来た。習慣ってすごい、身体はちゃんと覚えているって本当なんだな。一方、槇原くんは向こうのベッドでまだまだ夢の中。 眠い目をこすりながら身支度を整え、キッチンでごそごそと朝食の準備をしていると程なくして「おはよう」と声がした。顔を上げると、カウンター越しに昨日の晩のことなんて忘れてしまったように見える彼の笑顔。 「あ……おはよう、槇原くん」 私の受け答えに、彼の顔がふっと曇った。どうも向こうは記憶が戻っていることを期待していたらしい。 「千夏に『槇原くん』と呼ばれると、急に遠い存在になった気がするんだよな」 そんな風に言われたって、困っちゃうんですけど。 「だって、仕方ないでしょう。私には『槇原くん』なのよ、他の呼び方なんて出来ないわ」 そう答えつつ、冷蔵庫から卵をパックごと取り出す。本当は私のことを呼び捨てにされるのもちょっと違和感あるの、でもそこまで禁止したらさすがに申し訳ないかと思うし。 「あ、目玉焼きだったら、俺は卵二個。両目にして、半熟ね」 頭だけシャワーで濡らしたみたい。肩から下げたタオルで滴を拭う。伸びかけたお髭、洗いっぱなしの髪――正直、男の人のこんな朝の姿を見るのは肉親以外では初めてのことだ。ちょっとドキドキするね、口には出さないけど。 「はい、どうぞ」 カウンターの上に朝食のお皿を乗せる。両目の目玉焼きとトマトとレタスと…昨日の残りのスパゲッティーサラダを一口。それを受け取る槇原くんがくすりと笑う。 「どうしたの」 つい敏感に反応してしまう、今度は何を思ったの。 「あ、ごめん、ちゃんといつもと同じ皿が出てくるから、不思議だなあって。でも俺はトーストにはジャムじゃないんだ」 そう言いながら、冷蔵庫の方に回って自分で「つぶつぶピーナッツバター」を出している。あら、コレは菜花ちゃんのものかとばかり思ってたんだけど、実は槇原くんのだったのね。 「やっぱり覚えてないんだな」 そんな風に納得していたりして、ちょっと可笑しい。 「今日は水曜日だから、園バスが早いからね。1時半に来るから気をつけて」 確認されて、思わずメモを取る。うん、忘れずに行かなくちゃ。 あのあとふたりで話し合って、身内を含めて周囲の人には私のこの状況をあえて知らせないことにしようと決めた。接触することがあったとしても、何となく話を合わせればいいと言うことで。丸一日を過ごしてみて分かった、記憶が抜け落ちているだけで生活に支障はないのだ。 「困ったときはすぐに連絡して」 仕事用とプライベート用のふたつのナンバーとアドレス、私の携帯にはそのどちらもが一番最初に表示されるように登録されていた。付けているストラップもお揃い、ちなみに彼の待ち受け画面は家族四人で撮った写真になってる。 その上、出掛ける彼を玄関まで見送ると、信じられないことまで言う。 「行ってらっしゃい、って。ここにキスしてくれるの、毎朝。しかもとびきり甘い奴。それだけじゃないよ、このまま離れたくないって抱きつかれて困ることだって頻繁なんだから」 はあ? 思わず目と口を開きっぱなしで、槇原くんの指した場所を見る。右の頬に……本当に? そしたら次の瞬間、彼はぷっと吹きだした。 「楽しい、思い切り本気にしたな?」 ワンテンポ遅れて、やっとからかわれていたことに気づいて唖然。 「ままま……槇原くんっ!」 トマト色の頬になってしまった私を嬉しそうに眺めてから、彼はドアレバーに手を掛ける。 「いって来るよ、今日も一日、頑張って」 もう、槇原くんがこんな人だとは思わなかったわ。どちらかというと口数も少ないほうで、そんな人がどうして営業成績を上げられるのか不思議だったっけ。
最初は幼稚園の時の初恋。 小学校時代もいくつかの思い出したくない記憶がある。まあ、小学校のほとんどはガキ大将タイプの男の子に目を付けられていて「俺のスケ」状態だったのだ。あれでは好きな男の子が出来ても相手が引く。別にその悪ガキのことなんてどうでも良かったのに、どうして相手が私のことに執着していたのか分からない。 高校に入ってからは、ずっと『思う人には思われず、どうでもいい奴ばかりが寄ってくる』という最悪の方式の中にどっぷり入り込んでしまった。 「あんたは、理想が高いのよ。女は好かれた相手と付き合うのが幸せよ。たくさん貢いで貰えばいいじゃないの、馬鹿ねえ」 スカートをパンツが見えるぐらいまで短くした友人は私のことを馬鹿にしてそう言う。みんなやりたいようにやって青春を謳歌していた。援交してる子だって少なくなかったと思う。一回寝るだけで何万も貰えると聞いたときはちょっと心が動いた。でも、クラスメイトが腕組んで歩いていたのが、頭のつるつるないかにもヤーさん入った悪徳商売やってます風のおじさまで――いくら何でもあんなのは嫌だなあと思った。 誰かを好きになる。その瞬間はいつも突然にやってくる。私は友達に言わせれば結構面食いな方らしいけど、自分では意識したこともなかった。 「こんにちは、良く会いますね?」 そう言って、声を掛けてきた人。実はこちらとしても気になっていた。短大の一年の夏休み。ようやく受験戦争から脱出したんだから今年くらいは楽しもう。そう言ってシングルの友達と企画した北海道旅行だった。 「そう、今時、巨人ファン。しかも名古屋でさ、もう肩身が狭いったら」 適当に話題を振っていたら、いつの間にかプロ野球の話になっていた。肩身が狭いなんて言いながら、彼はとても楽しそう。 「それだったら、杏奈ちゃんと一緒だね。杏奈ちゃんは東京ドームでバイトしてるんだよ?」 私と一緒に旅行していた友人は大のGファン。短大からそれほど離れているわけではない巨人の本拠地・東京ドームでビール売りのバイトをしていた。観客席を歩いて、声を掛けられると売る、と言うあれだ。 「じゃあ、対戦も見放題なんだね」 分かりやすく身を乗り出した彼は、羨ましそうに友人にそう訊ねる。 「実はそんなことないの。試合がいいところになると、お客さんも次々と声を掛けてくるから試合なんて見ていられない。あのバイトはあまり良くないわ」 杏奈ちゃんは首をすくめて、つまらないのよ、と微笑む。 旅行が終わって。私の手に残ったのは彼の携帯の番号とメアドだけ。それも本人が言っていたようにほとんど留守電で、なかなか繋がらない。 「これは、積極的に行くしかないわね」 杏奈ちゃんは明るく笑いながらそう後押ししてくれる。彼女は短いショートカットで少年っぽい感じの子だった。私はシャンプーの宣伝宜しく、さらさらにケアしたロングヘア。その頃背中の半分くらいまで伸ばしていた。そりゃ、TVタレントと比較したら相手にならないだろう。でも…それなりに魅力はあるんじゃないかなあと思っていた。 「でもどうしたら、いいのかしら?」 そうはいっても、何だか自信がない。夏休み前には、合コンで知り合った先輩に玉砕している。何と彼女がいるのに頭数あわせで参加しただけだったんだそうだ。落ち着いた物腰で、女目当てでガツガツしているとか言うところがなくオトナだと思っていたら、とんだ茶番だったってわけ。 「まずは、じゃんじゃん連絡をいれることかしら」 彼はバイトや何やらでなかなか捕まらない。それでも3回に1回ぐらいは捕まった。他愛のない話をした。 「今度、学会があって。教授について上京するかも知れない。その時、みんなで会いたいね」 旅の終わりの頃には何となく顔なじみのグループが出来て、夕食とか一緒に食べるようになっていた。その十人ぐらいのグループでは最後の日に再会の約束をしていた。もちろん口約束だったけど。 「何だか、脈もないなあ」 とうとうある日、杏奈ちゃんに弱音を吐いた。彼女はちょっと困った顔をした。 「あの……千夏」 彼女はとても言いづらそうにバッグの肩ひもを弄ぶ。 「実は、この前の日曜日に彼と会ったの」 私はあんまりにびっくりして、そう聞き返していた。 「急に、こっちに来る用事が出来たんだって。みんなに連絡したけど、私しか捕まらなかったって言うの。あんまり可哀想だったから、飲みに行ったんだけど。今度はみんなで、って言っていたよ?」 ああ、日曜日は親戚の法事だった。連絡くれてても出られなかったしな。本当に間が悪いなあ。その時はそう考えた。 そのまま、忙しさにかまけていつの間にか彼のことを忘れていて。やがて本格的な就職活動の時期になった。うちの短大は結構縁故が強くて、この不況下に色々とコネがきく。だから私たちはリクルートスーツを着て、あっちこっちに先輩訪問をする。自分のことに夢中だったから、一番近くにいたはずの杏奈ちゃんことも忘れていた。 「杏奈、卒業と同時に結婚するんだって。名古屋に行くから、就職はしないんだって」 思わず、我が耳を疑った。どういうこと? 名古屋って、まさか――。その夜、さり気なく彼女を夕ご飯に誘い出した。 「ごめんね、千夏」 席に着くなり、泣き出しそうな声で彼女は詫びてきた。 「私も、彼のこと好きだったの。だから電話がかかってきて、何度か会って付き合おうと言われたとき頷いちゃった。そりゃ、千夏のことは気になったけど、あなたはいつの間にか彼のことを口にしなくなったいたから。もしも、千夏がずっと彼のことを好きなら、私は身を引いてもいいと思っていたのよ」 私は気もなさそうに答えた。 「早く、言ってくれたら良かったのに。何をそんなに心配しているの、全然気にしてないわよ」 私の言葉に杏奈ちゃんはホッとして表情を崩した。 「良かったあ、千夏のことがずっと気になっていたの。言えなくて、ごめんね」 その日の帰り道、駅で杏奈ちゃんと別れてホームに上がる。通過電車が強い風を伴って通り過ぎたとき、私の涙腺が緩んだ。ふらふらとそのままベンチに腰掛けて俯く。後から後から涙が溢れてきた。 彼は。私を選んでくれなかった。どうしてなんだろう。 杏奈ちゃんと較べて、ルックスだってスタイルだって負けてないと思う。じゃあ、性格?私のどこが悪いの? どうして私はいつも好きになった人に振り向いて貰えないの? 悔しい、どうしてなんだろう。本当にどうしていいのか分からない。そんなことの繰り返しだった。 だから、この前(と言っても六年前)、永峰さんに振られたときも悲しかったし、ショックだったけど……心のどこかで「ああ、やっぱり」と妙に納得していた気もする。 でも同じ受付の友達はどんどん彼氏持ちになっていく。同じ様に親しくなって、同じ様に告って――どうして私だけが駄目なのだろう。合コンに行っても、男関係のトラブルに巻き込まれることが少ない。友人達の愚痴の聞き役に徹しながら、実はいつでも悲しい気持ちでいっぱいだった。
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