書籍化のお知らせ>片側の未来・3


1/2/3/ *お知らせ

 

 

 次の朝は目覚ましの合図ですっきりと起き上がることが出来た。習慣ってすごい、身体はちゃんと覚えているって本当なんだな。一方、槇原くんは向こうのベッドでまだまだ夢の中。

  眠い目をこすりながら身支度を整え、キッチンでごそごそと朝食の準備をしていると程なくして「おはよう」と声がした。顔を上げると、カウンター越しに昨日の晩のことなんて忘れてしまったように見える彼の笑顔。

「あ……おはよう、槇原くん」

  私の受け答えに、彼の顔がふっと曇った。どうも向こうは記憶が戻っていることを期待していたらしい。

「千夏に『槇原くん』と呼ばれると、急に遠い存在になった気がするんだよな」

  そんな風に言われたって、困っちゃうんですけど。

「だって、仕方ないでしょう。私には『槇原くん』なのよ、他の呼び方なんて出来ないわ」

  そう答えつつ、冷蔵庫から卵をパックごと取り出す。本当は私のことを呼び捨てにされるのもちょっと違和感あるの、でもそこまで禁止したらさすがに申し訳ないかと思うし。

「あ、目玉焼きだったら、俺は卵二個。両目にして、半熟ね」

  頭だけシャワーで濡らしたみたい。肩から下げたタオルで滴を拭う。伸びかけたお髭、洗いっぱなしの髪――正直、男の人のこんな朝の姿を見るのは肉親以外では初めてのことだ。ちょっとドキドキするね、口には出さないけど。
  うーん、これってどう見ても夫婦のひとコマだよなあとか、そんなことをつい考えてしまう。そうは思ってもこの目の前の元同僚が自分の夫であるとは未だに認識出来ないけど。したくもないけれど。

「はい、どうぞ」

  カウンターの上に朝食のお皿を乗せる。両目の目玉焼きとトマトとレタスと…昨日の残りのスパゲッティーサラダを一口。それを受け取る槇原くんがくすりと笑う。

「どうしたの」

  つい敏感に反応してしまう、今度は何を思ったの。

「あ、ごめん、ちゃんといつもと同じ皿が出てくるから、不思議だなあって。でも俺はトーストにはジャムじゃないんだ」

  そう言いながら、冷蔵庫の方に回って自分で「つぶつぶピーナッツバター」を出している。あら、コレは菜花ちゃんのものかとばかり思ってたんだけど、実は槇原くんのだったのね。

「やっぱり覚えてないんだな」

  そんな風に納得していたりして、ちょっと可笑しい。
  身体が覚えていることはある。お皿の位置とか、冷蔵庫の中でどこに何を入れるかとかの細かい配置とか。でも槇原くんがどのワイシャツにどのネクタイを合わせるかとか、コーヒーにはクリームじゃなくて牛乳をとぽんと入れることとか、そう言うことは忘れてしまっている。
  だからまだ、何となく納得出来ていない。私がこの人の妻だったこと、私たちが夫婦だったこと。それと同じように槇原くんの方も私が本当に記憶をなくしているのか分かってないようだ。時々探るようにこちらを観察してる。

「今日は水曜日だから、園バスが早いからね。1時半に来るから気をつけて」

  確認されて、思わずメモを取る。うん、忘れずに行かなくちゃ。

  あのあとふたりで話し合って、身内を含めて周囲の人には私のこの状況をあえて知らせないことにしようと決めた。接触することがあったとしても、何となく話を合わせればいいと言うことで。丸一日を過ごしてみて分かった、記憶が抜け落ちているだけで生活に支障はないのだ。
  あまり近所づきあいのない土地柄だと言うし、隣近所は共働きで顔を合わせることも少ない。どうにか乗り切っていこうと言うことになった。もしかしてあっという間に記憶は戻ってくるかも知れないし、そうなったときのことを考えるとあまり大事にしてかえって煩わしいことになりそうな気もして。

「困ったときはすぐに連絡して」

  仕事用とプライベート用のふたつのナンバーとアドレス、私の携帯にはそのどちらもが一番最初に表示されるように登録されていた。付けているストラップもお揃い、ちなみに彼の待ち受け画面は家族四人で撮った写真になってる。
  落とした記憶の破片がそこらじゅうに散らばっていることに、いちいち驚かされていた。どこを見ても幸せな日常ばかり、でもあまり度が過ぎているとかえって嘘くさく思えてくるのは、私があまのじゃくだから?

  その上、出掛ける彼を玄関まで見送ると、信じられないことまで言う。

「行ってらっしゃい、って。ここにキスしてくれるの、毎朝。しかもとびきり甘い奴。それだけじゃないよ、このまま離れたくないって抱きつかれて困ることだって頻繁なんだから」

  はあ?

  思わず目と口を開きっぱなしで、槇原くんの指した場所を見る。右の頬に……本当に? そしたら次の瞬間、彼はぷっと吹きだした。

「楽しい、思い切り本気にしたな?」

  ワンテンポ遅れて、やっとからかわれていたことに気づいて唖然。

「ままま……槇原くんっ!」

  トマト色の頬になってしまった私を嬉しそうに眺めてから、彼はドアレバーに手を掛ける。

「いって来るよ、今日も一日、頑張って」

  もう、槇原くんがこんな人だとは思わなかったわ。どちらかというと口数も少ないほうで、そんな人がどうして営業成績を上げられるのか不思議だったっけ。
  目の前で閉じたドアを見つめながら、色々な最近(でも、実は六年前までのなんだけど)の記憶がじわじわと甦ってきた。

 


  私には恋愛運がない。それは自分でも良くよく分かっていた。

  最初は幼稚園の時の初恋。
  覚えたての平仮名で折り紙の裏に手紙を書いた。なのに彼(注・もちろん同じクラスの幼稚園児)は実はまだ字が読めなかったのね。とうとう私の気持ちを理解することなく、その後彼はお気に入りのゲームを一緒にやってくれる子と付き合いだした。
  こんな風に思い出すとあまりに馬鹿馬鹿しいけど、この出だしのつまずきがその後の人生に深い影を落としたのではないかと思うこともある。

  小学校時代もいくつかの思い出したくない記憶がある。まあ、小学校のほとんどはガキ大将タイプの男の子に目を付けられていて「俺のスケ」状態だったのだ。あれでは好きな男の子が出来ても相手が引く。別にその悪ガキのことなんてどうでも良かったのに、どうして相手が私のことに執着していたのか分からない。
  中学生になってそいつと学校が別れたときには、やれやれと思った。そして中三の時、同じクラスになった男子と結構いい感じになる。彼はサッカー部のレギュラー、颯爽としたその姿はたまらなく格好良いのに全然気取ったところがない。ほんわかと少女漫画のような恋をした。体育館の裏でキスしたり、お弁当を持って練習試合の応援に行ったり。
  でもねえ、早熟な彼が身体を求めてきたときはさすがに躊躇した。いくら何でも中学生だ。授業で性教育を習ったとはいえ、怖かった。もしもニンシンとかしたら、どうするの? 産むの? まさかねえ、堕ろすんだろうなあ。そういうのって、嫌だな。
  で、そんなこんなしているうちに、別の中学の女子に彼を寝取られてしまった。呆然としている暇もなく彼の方は相手の女の身体に夢中になりそれっきり。少女マンガな恋は開く前に散っていったってわけ。その後彼は成績も下降の一途を辿り、どんな馬鹿でも受かると言われていた高校にまで落ちて、プータローになってしまったんだけど。それを考えるといいところで難を逃れたと言うべきか。

  高校に入ってからは、ずっと『思う人には思われず、どうでもいい奴ばかりが寄ってくる』という最悪の方式の中にどっぷり入り込んでしまった。

「あんたは、理想が高いのよ。女は好かれた相手と付き合うのが幸せよ。たくさん貢いで貰えばいいじゃないの、馬鹿ねえ」

  スカートをパンツが見えるぐらいまで短くした友人は私のことを馬鹿にしてそう言う。みんなやりたいようにやって青春を謳歌していた。援交してる子だって少なくなかったと思う。一回寝るだけで何万も貰えると聞いたときはちょっと心が動いた。でも、クラスメイトが腕組んで歩いていたのが、頭のつるつるないかにもヤーさん入った悪徳商売やってます風のおじさまで――いくら何でもあんなのは嫌だなあと思った。
  でもって、それなら同じ高校生や大学生の中からチョイスするかと頑張って合コンに出たりする。でもそこでも巡り逢うのは究極の勘違い男が多い。まるで私の磁気に吸い寄せられるかのように、とんでもない男性ばかりが寄ってくる。ああ、そんなことを言ったらさすがに失礼か。でも、やっぱり人間は感情の動物だよ。好みというものがあるでしょう?
  どうも私は、本当の自分よりもずっとしっかり者に見えるらしい。だからマザコンが強いような男性ばかりに好かれる傾向にあった。その手の輩は「君の全てが素晴らしい!」とかなんとか息巻いて、始末に負えない。ちょっとお茶してあげたら「俺の女」状態、ご飯を食べたら次はママに紹介? どうなってるの、今時の女性週刊誌だってここまで大袈裟じゃないわ、と言う感じだった。
  何度か痛い目を見たあとに懲りて、その後は言い寄る立場に転換した。しかし、これがこれで振られ人生の幕開けだったのである。

 誰かを好きになる。その瞬間はいつも突然にやってくる。私は友達に言わせれば結構面食いな方らしいけど、自分では意識したこともなかった。

「こんにちは、良く会いますね?」

  そう言って、声を掛けてきた人。実はこちらとしても気になっていた。短大の一年の夏休み。ようやく受験戦争から脱出したんだから今年くらいは楽しもう。そう言ってシングルの友達と企画した北海道旅行だった。
  休みの前半はふたりとも死にものぐるいで資金稼ぎ。丁度お中元のシーズンなので、デパートの商品包装のバイトがいくらでもあった。指紋がなくなるぐらい頑張って働いて、ささやかなお給料袋を手にする。
  ユースホステルと安いビジネスホテルを渡り歩いて、ほとんど全土を回っていた。暇はあっても金はない、私たちみたいな貧乏学生は夏休みという時期もあって他にもたくさんいる。服装や素振りでそれは一目で分かった。白いTシャツとブラックジーンズのライダーさんがいて、行く先々で彼を目にする。あるとき広い丘で休んでいると、爽やかな笑顔で近づいてきた。
  白い歯がこぼれて印象的で。真っ青な広い空の下、私の胸がどきんと鳴った。

「そう、今時、巨人ファン。しかも名古屋でさ、もう肩身が狭いったら」

  適当に話題を振っていたら、いつの間にかプロ野球の話になっていた。肩身が狭いなんて言いながら、彼はとても楽しそう。

「それだったら、杏奈ちゃんと一緒だね。杏奈ちゃんは東京ドームでバイトしてるんだよ?」
「へえ、そうなんだ」

  私と一緒に旅行していた友人は大のGファン。短大からそれほど離れているわけではない巨人の本拠地・東京ドームでビール売りのバイトをしていた。観客席を歩いて、声を掛けられると売る、と言うあれだ。

「じゃあ、対戦も見放題なんだね」

  分かりやすく身を乗り出した彼は、羨ましそうに友人にそう訊ねる。

「実はそんなことないの。試合がいいところになると、お客さんも次々と声を掛けてくるから試合なんて見ていられない。あのバイトはあまり良くないわ」

  杏奈ちゃんは首をすくめて、つまらないのよ、と微笑む。
  さらに彼は高校球児だったと言った。何と甲子園に行ったんだって、夏の。一回戦で負けちゃったけど、県優勝をしたときは観客席のフェンスを叩いて、大泣きしてしまったと言っていた。大学でも野球をやっていたけど肩を壊して、選手生活を終えそう。さっさと就職も決まり、こうして最後の学生生活を楽しんでいるんだって。
  彼の言葉に私はぐいぐい引き込まれた。日常生活から切り取られた世界がそうさせたのかも知れない。刹那の出会いで私は彼に恋をした。

  旅行が終わって。私の手に残ったのは彼の携帯の番号とメアドだけ。それも本人が言っていたようにほとんど留守電で、なかなか繋がらない。

「これは、積極的に行くしかないわね」

  杏奈ちゃんは明るく笑いながらそう後押ししてくれる。彼女は短いショートカットで少年っぽい感じの子だった。私はシャンプーの宣伝宜しく、さらさらにケアしたロングヘア。その頃背中の半分くらいまで伸ばしていた。そりゃ、TVタレントと比較したら相手にならないだろう。でも…それなりに魅力はあるんじゃないかなあと思っていた。

「でもどうしたら、いいのかしら?」

  そうはいっても、何だか自信がない。夏休み前には、合コンで知り合った先輩に玉砕している。何と彼女がいるのに頭数あわせで参加しただけだったんだそうだ。落ち着いた物腰で、女目当てでガツガツしているとか言うところがなくオトナだと思っていたら、とんだ茶番だったってわけ。

「まずは、じゃんじゃん連絡をいれることかしら」

  彼はバイトや何やらでなかなか捕まらない。それでも3回に1回ぐらいは捕まった。他愛のない話をした。

「今度、学会があって。教授について上京するかも知れない。その時、みんなで会いたいね」

  旅の終わりの頃には何となく顔なじみのグループが出来て、夕食とか一緒に食べるようになっていた。その十人ぐらいのグループでは最後の日に再会の約束をしていた。もちろん口約束だったけど。
  数ヶ月の間に、何度となく電話したことだろう。東京と名古屋は思ったよりも遠くて、会いに行くのは無理だった。パスケースに入れていた写真が段々色を変えていく。私の悪いところは飽きっぽいところかも知れない。

「何だか、脈もないなあ」

  とうとうある日、杏奈ちゃんに弱音を吐いた。彼女はちょっと困った顔をした。

「あの……千夏」

  彼女はとても言いづらそうにバッグの肩ひもを弄ぶ。

「実は、この前の日曜日に彼と会ったの」
「―― え?」

  私はあんまりにびっくりして、そう聞き返していた。

「急に、こっちに来る用事が出来たんだって。みんなに連絡したけど、私しか捕まらなかったって言うの。あんまり可哀想だったから、飲みに行ったんだけど。今度はみんなで、って言っていたよ?」
「そう」

  ああ、日曜日は親戚の法事だった。連絡くれてても出られなかったしな。本当に間が悪いなあ。その時はそう考えた。

  そのまま、忙しさにかまけていつの間にか彼のことを忘れていて。やがて本格的な就職活動の時期になった。うちの短大は結構縁故が強くて、この不況下に色々とコネがきく。だから私たちはリクルートスーツを着て、あっちこっちに先輩訪問をする。自分のことに夢中だったから、一番近くにいたはずの杏奈ちゃんことも忘れていた。
  ある日、何かがきっかけでふと杏奈ちゃんの就職はどうなったかなと思う。卒論の研究室が違うこともあって、その頃ではお互いあんまり顔を合わせることもなくなっていた。共通の友達に聞いてみる。そして、とんでもないことを聞いてしまった。

「杏奈、卒業と同時に結婚するんだって。名古屋に行くから、就職はしないんだって」

  思わず、我が耳を疑った。どういうこと? 名古屋って、まさか――。その夜、さり気なく彼女を夕ご飯に誘い出した。

「ごめんね、千夏」

  席に着くなり、泣き出しそうな声で彼女は詫びてきた。

「私も、彼のこと好きだったの。だから電話がかかってきて、何度か会って付き合おうと言われたとき頷いちゃった。そりゃ、千夏のことは気になったけど、あなたはいつの間にか彼のことを口にしなくなったいたから。もしも、千夏がずっと彼のことを好きなら、私は身を引いてもいいと思っていたのよ」
「ふうん、そうなんだ」

 私は気もなさそうに答えた。

「早く、言ってくれたら良かったのに。何をそんなに心配しているの、全然気にしてないわよ」

  私の言葉に杏奈ちゃんはホッとして表情を崩した。

「良かったあ、千夏のことがずっと気になっていたの。言えなくて、ごめんね」

  その日の帰り道、駅で杏奈ちゃんと別れてホームに上がる。通過電車が強い風を伴って通り過ぎたとき、私の涙腺が緩んだ。ふらふらとそのままベンチに腰掛けて俯く。後から後から涙が溢れてきた。

  彼は。私を選んでくれなかった。どうしてなんだろう。

  杏奈ちゃんと較べて、ルックスだってスタイルだって負けてないと思う。じゃあ、性格?私のどこが悪いの? どうして私はいつも好きになった人に振り向いて貰えないの?

  悔しい、どうしてなんだろう。本当にどうしていいのか分からない。そんなことの繰り返しだった。

  だから、この前(と言っても六年前)、永峰さんに振られたときも悲しかったし、ショックだったけど……心のどこかで「ああ、やっぱり」と妙に納得していた気もする。

  でも同じ受付の友達はどんどん彼氏持ちになっていく。同じ様に親しくなって、同じ様に告って――どうして私だけが駄目なのだろう。合コンに行っても、男関係のトラブルに巻き込まれることが少ない。友人達の愚痴の聞き役に徹しながら、実はいつでも悲しい気持ちでいっぱいだった。

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