…沖くんと梨緒・1 …
あの日。 お色直しで純白のウェディングドレスに身を包んだ私。恥ずかしそうに振り向くと、迎えに来た彼と目があった。驚いた瞳で全身をなぞるように見つめられる。思わず胡蝶蘭のブーケを握り直した。 「あの…どこか変? おかしい?」 すると彼は観念したようにひとつため息を付いて、それからこちらに歩み寄った。ふわっと長いベールをつまみ上げて、耳打ちする。 「こんな、きれいな人が俺の嫁さんになるんだなあと思ったら、緊張した」 その言葉に真っ赤になって俯く。妊娠7ヶ月だったことを抜きにすれば、完璧なラブラブシーンだったと…思う。
………
「が〜〜〜っ!! 何でこんなに散らかせるのかな〜」 そのうちに、だだだん、とすごい音を立てて、階段を降りてくる。 「ちょっと! 黄色いゴミ袋!!」 …私にまで怒鳴ることないじゃない。ふくれっ面で、燃えるゴミの袋を差し出す。 「私だって、片づけなさいって言ってるんだから。でもぜんぜんやらないのよ! あの子たち…」 「だ〜か〜ら〜、小さいうちは親が手伝ってやらなくちゃ片づかないって言ってるだろう!?」 「私は親に部屋を片づけさせた事なんてありません! 沖くんこそどうなのよ!?」 「俺は小さい頃は自分の部屋なんてなかったから、片づけたこともない」 そう言い捨てると、ばんばんと音を立てて、階段を駆け上がっていく。 2階で子供たちを怒鳴り散らす声がする。あれは私に対する怒りだと思う。ボロボロに疲れて戻ってくると子供部屋はごちゃごちゃ。それだけでなく家全体が埃っぽい。それは分かってる。でも私だってパート帰りで疲れてるんだから。沖くんみたいに好きな時間に戻れる訳じゃない、小学生が戻ってくる3時過ぎには家に着くように、もう必死なんだから。それから、一息ついて、今度は保育園にお迎え。その後は、ごった返した子供たちで大運動会になる。 「何なんだかな〜」 そう言いながら、洗剤まみれのあわあわの手を眺めた。何だか餃子の香りがまだ残っている気がする。そうなのだ、私の仕事は中華料理店の餃子包みなんだ。 その左手、とっくに当たり前になって輝くマリッジリング。付けてるか付けてないか考えることもない。 もう一度。洗い桶に腕を突っ込む。水道を全開にすると、大きくため息を付いた。
………
「いいご主人ね」 愛想が良くて、腰が軽い。沖くんは小学校の先生なんだけど、本当によく働くみたいだ。管理職以外に男性陣が少ない職場だもんね。床の張り替えから、校庭の樹木の枝おろし、PTAのお偉方との飲み会から、旅行の幹事まで。何でも『気働きの前川』と言われているらしい。大学はラグビーをやっていたというガタイの良さからは想像付かない細やかさで、周囲に気を配る。 そりゃ、私だってそう言うところに惹かれたんだ。専任講師になって小学校に初めて行ったとき、ぱぱっとスリッパを出してくれ、ついでにお茶を入れてくれた。てっきり用務員さんかと思ったら先生だったので驚いた。 内緒だけど、プロポーズしたのだって私からだ。沖くんはなかなかはっきりしてくれなかったから、別件でお見合いの話が来ちゃった。慌てふためいて、問いただすと、降参したように結婚してくれると言った。 そこから人生を滑り落ちるように速攻で妊娠して、出来ちゃった結婚をするとは思わなかったけど。 ついでに、こんなにぼこぼこ子供が産まれるとは思ってなかったけど。
そして。 今、安楽椅子にぼ〜っと座って、腑抜けな顔でサスペンスを見ているのが、その気働きの男。アナウンサーや噺家が家に戻ると無口になるように、沖くんも家では疲れ切っている。 それでも頑張って子供たちの世話をして、上の2人は小学生なので宿題を確かめて、音読カード(今時の学校ではこれがある。私たちの頃はなかったよね? 毎日、読むんだよ教科書を2回ずつ、長い話だと30分かかるんだって)をやって、お風呂に入れて洗ってくれる。昨日は沖くんが飲み会で居なかったから、当然のようにお風呂をパスさせた。よって今日彼は5人の頭と身体を洗った。そこまでやらせる私も私だが、ついつい甘えてしまう。 「ねえ、沖くん〜」 「う――」 よく分かっていらっしゃることで。 私が話しかけた瞬間に、身体を向こうに動かす。毛布を顔まで上げてガードする。 さすが、今度の結婚記念日でスイートテン。私の行動パターンなどとっくに読んでいる。 「沖くんてば〜」 「男はそこは感じないの! いつも言ってるだろ?」 それから。馬鹿にした顔で私を見る。 「そんなに舐めたいの? たっだら、身体を貸してあげてもいいけど?」 「…嫌です!!」 だ〜、何て短絡的な男なの! 飲み会、飲み会、と続いているウチに生理が来て、気付いたら半月のご無沙汰だよ!! そろそろどうにかして貰わないと。そう思っても沖くんの方は何ともないんだよね。男の生理は良く分かんない。 ここは毎日必死に餃子を包んで、住宅ローンを支えている奥さんに奉仕してくれてもいいんじゃないの?? 「もう〜、あんまり邪険にすると、奥さんぐれるからね〜〜、暴れるよ〜」 「はいはい、家を壊さないでね。ローンだけ残ると大変だから」 「え? 寝るの!?」 「…疲れてるから。ごめん」 沈黙。ちょっとショックだった。
そう言えばこの間、言ったんだよね〜。 「女の30代は女盛りなのよ〜、男の10代後半と一緒なんだからね!!」 そしたら、うんざりした顔で何て言ったと思う? 「だったら、オトナのおもちゃを買ってきてあげる。自分で処理すれば?」 30代後半の働き盛りってこんなに淡泊なものなの!? ぶっちゃげたこういう話をする仲間もいないから、本当の所は分からない。 一緒にパートしている恵美ちゃんは新婚、子供なし。はっきり言ってそのラブラブ振りには当てられている。毎晩なんて当たり前で、1日最高何回とか…あああ、30の大台に乗ったおばさんに話すなよ〜と言う感じだ。 私と沖くん。彼が忙しくて、デートは週イチだった。だから、とりあえずえっちも週イチ。でもって結婚式は式場の関係で妊娠7ヶ月だったけど、子供が出来たのが分かってからすぐに入籍して、私は彼のアパートに転がり込んだ。妊娠初期だって、やってたからね、週に3回ぐらい。今考えるとすごいペースだ。多分、その時おなかにいた長男はものすごくスケベなオトナになる気がする。 「あ〜あ」 何だか、空しい。本気で浮気してやろうかと思う。あまりに手持ちぶさたなので、年末の福引きで当たってしまった場所取りのぬいぐるみをぎゅ〜っと抱きかかえる。 ちょっと、涙が出た。夫婦なんて空しいだけかも知れない。
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翌日。 昨日の流れで、すっかりメロウなモードに入った。ボーっとしながら子供を送り出し、ボーっとしながら洗濯を干して、パートに行く。で、パートでも恵美ちゃんの話も上の空でボーっとしていた。 …私だって。独身時代はもてたんだから。結婚が決まったときはしつこく無言電話が入って電話番号を変えた。受話器から漏れる吐息で相手は分かった。その時は沖くんに夢中だったから、邪険にはねのけたけど、もしも彼と結婚したらどうなっていたんだろうなあ。 沖くんは押しの一手で手に入れたようなものだから、どうしても立場が弱い。相手が拝み倒してきた結婚だったら、大事にして貰えたのではないかしら。私は選択を早まったのかも知れない。 今更、どうなることでもない。もしも今、沖くんが事故や病気で死んじゃったとしても、私の再婚は無理だろう。小学校3年生を筆頭に5人ものちまちました子供たちが居る。とりあえず自分が作ったものだし、責任がある。ちゃんと成人させないと。
夕ご飯はあまりに疲れて、スパゲッティーをゆでたのにミートソースをまぶした。それにグリンサラダ。申し訳程度に缶詰のコーンスープを開けた。 これには、さすがの沖くんもため息付いた。 「簡単なもので、申し訳ないです」
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…で。お風呂から出て。 「沖くん〜」 「わあああああ〜〜〜〜!!」 この頃はえっちのときもキスがない。違うところはしつこいくらい舐め回すのに、どうしてキスしないのか不思議で仕方ない。短絡的な沖くんにはキスの重要性が分かってないらしい。ムネもあそこも感じるけど…やっぱり、キスって…大切だよね。何か言ってやってよ!! いつもなら、この後、抱きついたり触りまくったりするんだけど、今日の私はメロウだからそのまま背を向けた。この前買ってきた直木賞作家のちょっと危ない小説を広げて読み出す。もう、妄想の世界に入るしかない。 そうしながらも、やはり背中の後ろが気になる。3回目に振り向いたとき、ぱちっと目が合ってしまった。じろりと睨んで、向き直る。 「…うきゃあ!!」 ふいに背中が重くなる。がばっと後ろから抱きつかれた。 「どうしたの〜? 顔が怖いよ〜」 止めてよ!! いきなりムネかい? わわ、下着の下に沖くんの手が滑り込む。 「…いいよ、そんな。無理しなくたってさ!」 「そんなこと言ったって…もう乳首が立ってるでしょ? カラダは正直なんだよ〜」 「感じてなんかないもん、今日の私は心が荒んでるから感じないもん! 沖くんは疲れてるんなら、早く寝れば?」 わわわ、もう、片手がパジャマのズボンの中に…この、いい加減にパターン化した動作はどうにかならないのかと、ちょっと悲しい。うう、今日は拒否してやるから。さんざん馬鹿にしてくれて、私は怒ってるんだから。 「梨緒〜〜〜」 「こんなに濡れちゃって、…身体はやる気だよ?」 「心はやる気ないんです!! 私、もう寝るから!!」 「あのさ…」 ちょっと気落ちした声が床の上から聞こえる。 「何よ!!」 「…今朝、鼻血、出ちゃったんだ…」 …はあ??? 振り返ると丸く背中を折り曲げた頭が見える。心持ちてっぺんが薄い気がするのはこの際、見ないことにする。沖くんの、お父さん、つるつるなんだよね…。 「何よ、それ。高校生じゃあるまいし…」 「俺もびっくりしたよ。で、気が付いたら…先月からやってなかったんだよな〜」 …あんまりにも馬鹿馬鹿しくて。 ぺたんと座ってしまった。 「…と言うわけで」 ずるずると。…スエットのズボンとトランクスを一緒に脱ぐんだからな…もしもし〜。 「可愛がってあげてよ、大きくしてよ」 「…一人でやれば?」 「梨緒〜〜〜」 大きく、ため息ひとつ。ちょっと考えてストーブのスイッチを入れた。
………
「今日、大丈夫なんだっけ?」 「う〜ん、多分ね…」 「梨緒の多分、は信じられないなあ…」 そう言いながらもゆっくりと動いてくる。 そうなんだ、多分大丈夫、で出来たんだよな、息子。妊娠7ヶ月でドレスが着られたのは奇跡だった。初産の事もあって、おなかがほとんど目立たなかった。えっちの後、沖くんは私のおなかをなでながら、 「大きくなるなよ〜我慢しろよ〜」 「ああん、いいかも知れない…」 まあ、久々にこういうコトすると。やっぱ気持ちいいんだな…。 「ほらあ、もっと足広げて。…こっちの方がいいのかな〜」 「いやああ、…うんっ」 「ほらほら〜、もっともっと感じて…声だしなよ〜」 うちの子たちのすごいとこは寝たら最後、起きないことだ。このお陰で、子供が3時間おきに授乳していた頃から、ちゃんとえっち出来た。私の方はさすがに身体が休まらなくて辛かったけど…好きモノ夫婦だなあ、全く。時には子供が5人寝てる部屋でもやっちゃうもんね。 ムネをまさぐられて、舐めあげられて。きゃあ、歯を立てるのはちょっと止めてよ! 久々だと痛いよ〜。 その後ずるんと、顎をなでられた。 「ほら、顔を触られると、嫌でしょう…」 「…い、嫌じゃないもん…気持ちいいもん…」 大きな手が、身体中を這い回るの、嫌いじゃない。愛されているなあと言う感じになる。別にえっちしなくても、身体を触れ合うだけで本当に嬉しいんだ。でも沖くんはそれだけじゃ感じないんだもん。入れないと駄目なんだから。だったら、付き合ってあげてもいいかなあと思う。 「…あ、もう、いきそうかも…」 すごく、不思議。やっぱり、ちょっと変かなあ…。
………
沖くんはタバコに火を付けた。窓を開けたのに、煙が部屋の中に入ってきて、咳き込む。 「あ、ごめん…」 「あ〜あ」 「やっぱ、…浮気しようかな…若い男に走ろうかしら…」 「いいんじゃないの? …でもさ」 こういう話をしたところで、本気にする気もないらしい。私も本気で言ってないけど。 「梨緒、出来やすいから。まずいんじゃないの?」 …そっか。 がくっと、脱力。それもそうだ。ウチの5人はみんな「出来てびっくり」の子たちだから。お互いに呆れている。もちろん、周囲も呆れている。2番目が2月生まれ、3番目が5月生まれでかろうじてそこで学年がひとつ空いたものの、実はみんな年子なのだ。小3・小2、それから保育園児が年長・年中・年少…考えてみて! 1年間、全員が小学生になるんだよ〜。 これ以上、子供は欲しくない。我が家は地方公務員の安月給プラス餃子つつみのバイトだ。児童手当に保育園の割引に、いろいろあってどうにかなってる。 「さ、寝ますか…」 ぽんぽんと頭を叩かれる。 「頑張ってよ、奥さん」 おとといは午前様だったし、今、学年末だし。本当に忙しいんだよね、沖くん。男の人っていろいろ忙しいとそっちで解消されちゃって、性欲もなくなってくるって聞いたことがある。いくら女盛りの30代とはいえ、あんまり我が儘言ったらかわいそうかな? 今日はいつもより頑張ってくれたようで、何だかとっても気持ちいい。体の中に残っている感じがある。本当は後ろから抱きついちゃいたいとこだけど、きっと嫌がるし。ここは自制して、何気ない感じで言った。 「お休み〜沖くん♪」 きっと、これで明日は晴れる、そんな予感がした。そして私もひとつあくびをした後、末っ子と一緒の布団に向かうべく、階段を上がった。
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