…沖くんと梨緒・2 …

 

 

 

 オンナゴコロは難しい。
 しみじみとそう思いつつ、机の上に広げた藁半紙をバリバリと握りしめた。この薄茶色のざらざらした紙を手にするたび、自分の職業を改めて思い知る。

 銀行勤務の友達が「藁半紙〜そりゃすごい」と何とも哀れんだ声を上げていたのを思い出してムカムカした。ふん、お前なんてこのご時世、いつ何時銀行が潰れるか分からないだろうが。だったら、しがない地方公務員、下っ端の小学校教員をやっていた方がどんなにいいか。そう言ってやりたかったが、自分が惨めになるだけなのでぐっとこらえた。何てオトナな俺。

 それほど高い志があったわけではない。でも滑り込んだ国立大学の学部が教育学部だった。しかも初等教育学科。名前の通り、小学校教員になるための、と言うかそうするしか無い学部。そこで土曜の1限の水泳の授業を受けたり、弾けもしないピアノを習わされ、ついでに雑巾まで縫った。灯りの付いた教室でちくちくと運針したときには本当に泣きたくなった。まあ、そんなこんな。産休補助教員で滑り込んだあと、正式採用された。足かけ5年半の教員生活だ。

 で、…どうしてオンナゴコロのことをブツブツ言ってるかって? それには理由がある。

 知らない人間も多いだろうが、小学校は平教員のほとんどが女性だ。そして管理職は何故か中学教師だった頭の固い、融通の利かない奴らがなることが多い。ウチの学校も担任を任されている男性教員は俺とあと35歳の男と30歳の男…すなわち俺よりは先輩になるんだが…の2人しかいない。で、教員の人数は50名近く。校長・教頭・教務を含めても10人足らずだから、あとの40名は女性教諭で占められている。これがまた熾烈だ。何だか高学年の教室の中のようにグループ化して、あっちの仲間、こっちの仲間と徒党を組んだり張り合ったり。そんなことにエネルギーを使うより、一人でも不登校の児童を減らすように努力すべきでないか?? …ま、言いたくても言えないけど。

 今日、放課後に行われる運動会のご苦労さん会も、何故かこの派閥が頭を出す。表向きはみんな一緒にやりましょう、何だが、わざわざ狭い部屋を予約している。15人位ずつの3班に別れるそうで、どこにはいるかで俺のような若いピチピチな独身男性は翻弄される。どこに行っても同じようなものなのであえて何も言わずに推移を見守る。ここで口を出したら大変な事になる。痛い目を見れば人間利口になるんだ。

「前川く〜ん、あなたは私たちのお部屋ですって!!」
 40歳、中学生と小学生の2児の母であるおばちゃん…もとい、先輩女性教諭がひらひらと手招きする。

「あみだくじをやったの〜当たっちゃった!!」

「そ、そうですか。宜しくお願いします…」
 そう言った途端に、背中をつんつんとつつかれる。

「ねえ、前川君。悪いんだけどこれ、音楽準備室に運んでくれない? 私の細腕じゃちょっと辛いの…」

「まあ、それが終わったら。ウチの教室カーテンレールがまた調子悪いの…見てくださらない?」

 …胸のポケットからメモ帳を取り出す。普通の黒い手帳ではなくて、使い損じた藁半紙を束ねたもの。ウチの細かい校長のお薦め品だ。何を血迷ったのか、暇が出来るとこの手帳を作っている。どんどんプレゼントされて10冊ぐらい溜まっている。そこに頼まれごとを書いていく。これから宴会に出掛けるまでの2時間15分。俺に振られた雑用は5件になった。秋の遠足のことも決めなくちゃならないし、修学旅行だってある。憂鬱になりつつも拒否権はない。若い男性職員はこうやって、可愛がられてないと社会権が無いのだ。

 

「…よっこらしょっと」
 我ながらオバさん化して悲しいが、そんな声が出てきた。楽譜の入った小さい割りに重い段ボール箱を4個も積み上げて、階段を4階まで上がる。音楽準備室の前まで来て、途方に暮れた。

 …ドアが開かない。

 一度、置いて開けるしかないか。そう思ったとき、ごん、とドアに箱が当たってしまった。準備室の中からぱたぱたと小走りの音がする。

 やがてガラガラと音がして引き戸が開いた。中から、職員室に本当は置いておきたいような若い女性が現れる。

「まあ、まあ…ご苦労様です。前川先生、また高浜先生に使われちゃったんですね」
 今日はアイスブルーのスーツを着ている。ブラウスが花模様でまた可愛い。そんなことを考えていると、ふっと手元が軽くなった。

「え、重いから。俺が置くからいいよ…」
 そうやって断っても、せっせと箱を1つずつ必死に運んでくれる。4個を積み上げるとにっこり笑って振り向いた。

「まだあるんですか? これ」

「いや、4個だって言われたけど」
 俺の言葉に彼女はにっこり微笑んだ。

「じゃあ、丁度、コーヒーを落としたところだったんです。お飲みになります? 多めに入れましたから…」

「いいんですか!?」
 ラッキ〜! 役得だ〜。なんせ、ここにいる林田梨緒先生はこの3月までは音大生だったまだまだ初々しい新米教員だ。俺の他の独身男性教員、35歳と30歳が狙っていることも知っている。特に35歳の方はしつこいったら無い。10歳以上も年下の女性に言い寄るなど言語道断だと思うが向こうも必死。こっちとしても気が気じゃない。でもしゃべりたくてもあれこれとおばちゃん…もとい、先輩女性教諭の皆さんがあれこれと雑用を言いつけてくださるので、顔も見られない日も多い。実のとこ、結構俺、本気でチェックしているんだよね。

「どうぞ、頂き物のクッキーもありますが。お口に合うかしら?」
 さらさらのストレート。少し明るい色になっている。胸の辺りで切りそろえられた髪は彼女の動きに合わせてまるでシャンプーのCMの如く緩やかに流れる。思わず触りたくなるが…それではオヤジになってしまう。まあ5歳も年が違ったら、そのまんまオヤジかも知れないけど。
 ずるずると味気ないパイプ椅子を引きずって座る。ベランダからへたくそな管弦楽器の音がする。練習中なんだ。

「あ、今日の飲み会、林田さんは出るの?」
 思いついて聞いてみた。どうせなら同じ班がいいな、と下心がつい出る。

「はい、高浜先生が一緒に連れて行って下さるって、おっしゃって下さいましたから」

「…そうなんだ」
 ちょっと、落胆。高浜先生は俺の行く班じゃない。よく考えたらよりによって35歳独身の班じゃないか!?

「あら、ご一緒じゃないんですね…残念だわ」
 そう言ってくれる笑顔についつい期待してしまう。田舎の両親も28になった俺にしつこく色々聞いてくる。見合い話もくれる。でも一体どうして…それまで逢ったこともない女と共に人生を送れるだろう。寒い気がする。やはり人となりをよく分かってないと…。

 林田さん、春に専任講師で学校に来てからずっと目を付けていた。でもやはり同じ職場だ、告って気まずいのは良くないだろう。どうせなら彼女の方からモーションを掛けて欲しいと思うがそんな都合のいいことは無いだろう。このままだと1年の彼女の任期が終わってしまう。何しろ何もしないウチにあっと言う間に半年が過ぎたのだ。後半年だって風のようだろう。

 …そうは言ってもな…

 あああ、なんて弱気な俺。昔の女にしつこくして嫌われたのがトラウマになっているんだろうか? 柔らかい声のおしゃべりが心地よかったが、はっきり言って雑念がいっぱいで頭に入らなかった。

 

………

 

「あれえ、どうしたの? こんなところで…」
 数時間後。飲み会会場のとある居酒屋のロビー。大きな生け簀の前にさらさら頭の林田さんを見つけた。その時、ちょっと目の焦点が合わないなと思った。注がれるままにしこたま呑んで、そんなに酒に強い方じゃない俺はふらふらしていた。少しでも酔いを冷まそうとトイレに行くと言って出てきた。もうバラバラ家庭持ちの女の先生方は戻り始めていた。時間は看板まであるが自由解散と言う感じだ。

「あら、前川先生…」
 彼女の方も少し酔いが回っているらしい。目のフチが赤くなって色っぽい。頬も心なしか紅潮して。余り顔に出るタイプじゃ無かった気がするが、やはり断り切れずに呑んでしまったんだろう。

「大城先生を待ってるんです。何だかクラスの子のことでお話があるから、抜け出して聞いて欲しいって…」
 その言葉を聞いた瞬間。俺の体中の血液が逆流した。そう、男のカンが警告を出していたのだ。そう言えば、さっきトイレの鏡の前で何やらしつこく髪を整え、鼻毛を抜いている人間がいた。あれはよくよく考えると、35歳独身だ。やばい、これは絶対にやばい。それにそんなやばい場面で何の疑いもなく付いていこうとする林田さんも林田さんだ。いくらのほほんと音楽のことだけ考えていたピアノ少女でも、独身男性のギラギラした視線に気付かなかったらいつか痛い目を見る。そうに決まっている。

 そう思ったとき、頭の中でぴぴぴと何かがひらめいた。

「林田さん! そうだ、大城先生にさっきに会って、急に用事が出来たって言っていたんだよ、忘れてた。帰るんだったら駅まで送るから…あの、ちょっと待っていて…」
 そう言うなり30秒の猛スピードで荷物を取りに行って戻ってきた。きょとんとしながら待っていた林田さんは目をぱちぱちしていたが…幸いまだ大城先生の姿はない。まだ鼻毛を抜いているんだろうか?? もうそんなことどうでもいい…。

「さ、早く行こう…」

「は、はい…」

 訳が分からないまま、俺の勢いに押されたように林田さんが後ろから小走りに付いてくる。外に出て、とにかく急いで角を曲がったとき…くらくらっと酔いが回ってきた。大酔っぱらいの所、急激に動いたのだから無理もない。吐きはしなかったが、その場にうずくまってしまう。あああ、こんなことしてる場合じゃない! いつ大城先生が追ってくるが分からない。そう思うと気が気ではなかった。

「あの…先生? 大丈夫ですか…?」
 柔らかいメゾソプラノが耳元をくすぐる。俺は嘘をついて連れだしたのに…何の疑いもなく彼女は俺のことを心配してくれる。じいんと胸が熱くなった。でもそうであっても腰が立たない。どうにもならない状態だ。

「先生、お部屋がすぐそこでしたよね…とりあえずお送りします。お部屋の前まで来たら、鍵を出して下さいね…」
 そんな声に導かれて。よろよろと立ち上がった。

 

………

 

 頭が割れるように痛い。泥酔した日は2日目の方が辛い。幸い、今日は土曜日で学校はない。そう言う日の前日を飲み会にするのだ。なかなか開かない目を頑張って開いてみた。まだ寝ていてもいいのだが、虫の知らせ、と言うのだろうか。今目を開けないといけない気がした。何だか肩の辺りがスースーする。ハッとして飛び起きる。

 …え? どうして?

 何と言うことだろう? 何故か俺は服を着ていない。暑かったから脱いだのだろうか? でもトランクスくらいはいていても良かったのに…?

 そう思った瞬間。ふっと隣りに第3者の気配。…何故だ? 俺は一人暮らしだ。俺以外の人間がここにいるわけがない…。

「あ…」

「え? …あの…はやしだ…さん?」

 そう、目の前には。どう見ても何かあったとしか思えないあられも無い姿の…さらさら髪の音楽教師が真っ青な顔をして、こちらを見ていた。

 

………

 

 あああ、自己嫌悪。どうしてこう言うことになったのだろう??? 

 マンガみたいだが、本当に全く「記憶にありません」状態だった。青ざめた顔で怯えたようにこちらを見られると、もうどうしていいか分からない。これで激しく責め立てられればそこまでだが、林田さんはゆっくりと視線を逸らすと静かにこう言った。

「あの…服を着たいんですけど。申し訳ありませんが、向こうを向いていてくださいませんか?」
 恥ずかしくて消えてしまいそうな声。痛々しいったらない。思わず抱きしめてなぐさめてやりたくなるが、いかんせん諸悪の根元は俺自身なのである。出来ることなら「服は着てませんが別に何したわけでもありません〜!」と言うことならいいのに。でも見てはいけないと思いつつもつい、目がいってしまった。彼女が必死に毛布を巻き付けて隠している胸元の辺りに幾つもの生々しい痕跡が…あの色、あの状態はどう考えても昨晩付けたものに違いない。だけど覚えていないのだ。全然全くもってもう覚えていないのだ。
 背を向けてもするするという微かな衣擦れの音で色々と想像してしまう。こんな状況で悠長なことを考えてられる自分が情けない。でも本能だから仕方ないんだ、そう自分に言い聞かせる。やがて身支度が終わったのか、ぎし、とベッドがきしんで、彼女一人分の重みが無くなったのが感じられた。

「…あ」
 何かに気付いたように小さく叫ぶ。思わず振り返る。

「…ごめんなさいっ!! 先生、ちょっとベッドから降りてくださいませんか。シーツを汚しちゃったみたいなので…あの、すぐに洗わないと…」
 何なのか分からなかったがとりあえず言われたようにベッドの彼女と反対の端から降りる。とりあえず下半身に毛布を巻き付けて。しかし、素早く林田さんがシーツを丸め取る前に…見てしまった。ぽつりと…ピンク色のシミ。丁度彼女が横になっていた辺りだろう。俺が何か言う前に、震える声が遮った。思わず喉まで出かかった言葉を飲み込む。

「洗面所はどちらですか?」

「ええと…廊下の左側のドア」
 反射的に受け答えする。あああ、そうじゃない。今、俺が言わなくちゃいけないのはそんなことじゃない。でも、一体何を言えばいいのやら。とりあえず「ごめんなさい」だろうか。でもそうしたら何だかとても悪いことをした気がする。何しろ記憶が無いのだから、一体全体どうしてこんな事になったのかが分からない。もんもんとそんなことを考えているウチにさっさとシーツを洗い終えた彼女が戻ってきた。

「これ、ベランダの物干しに干せば宜しいですか?」

「あ、ああ…」
 またタイミングを失った。口をぱくぱくして金魚のように情けない俺。ちらと垣間見る憔悴しきった表情。…最悪。本当にこんなつもりじゃなかったのに。とりあえず、そうだ、とりあえず彼女がベランダから戻ったら、きちんと話を付けよう。

 しかし。その後、彼女はさっさと自分の手提げを持った。

「散らかしっぱなしで申し訳ありませんが、これから家に戻って親戚の法事に出なくちゃならないんです…急ぎますので失礼します」
 ぺこりと頭を下げる。ちょっと待てよ〜もう帰るのか? 俺まだ何も言ってないぞ…え? 家??

「じ、じゃあ…送るよ。林田さんのご自宅って電車で行くと遠回りでしょう? 車で…」
 彼女は電車で1時間の自宅から通っていた。車の方が速いのだけど、ご両親が危ないと言って許してくれないのだと言う。田舎なので上りと下りの電車のすれ違いの待ち合わせなどがあり、結構時間を取られるらしい。

「結構です」
 うわ、即答。怖い…。

「前川先生、二日酔いなんですからごゆっくり休んでください」

「で、でも…っ!!」

「私、大丈夫ですから…。ホントに、目が覚めたらこんな事に…自分でもよく分からなくて」
 そう言いながら、肩の辺りに何とも言えない憂いが漂っている。一体どうしたらいいものか、全く持って分からない。思考を巡らせようにも、泥酔から引きずり出したばかりの脳みそは全く働いてくれない。そんな俺の困り果てた顔を何とも言えない表情で林田さんが見つめた。

 そして。もう一度、頭を静かに下げるとそのまま玄関から出ていった。

 

………

 

 悪酔いをしてしまったのか。寝込んだまま、何もする気がなく土日をベッドの上で過ごしていた。ふと目を開けたら、目の前の布団の上に長い髪の毛がある。すうっと1本。それを見つけるとあの泣き出しそうな表情が甦ってくる。本当にどうしたらいいものか。
 彼女も多少酒を過ごしてはいただろう。でも本当に何も覚えていないのだろうか。自分は一体どういう風にして彼女を組み敷いたのであろう。

 何度か電話を掛けてみた。職員名簿を見て、彼女の携帯に。さすがに自宅の電話には掛ける勇気もなかった。でも電子的な機械音の留守録メッセージが流れるだけ。何度聞いたか分からない。メッセージを入れる事すら出来ず、ただ掛け続けた。でも日曜の夜中まで彼女は一度も電話口に出ることはなかった。もしかしたら居留守を使われているのかもと悲しくなった。

 

 月曜日になって。

 いつもより早めに学校に行ってみた。もしかしたら彼女が出勤して来ないかも知れないと恐れたがそれはなかった。朝の職員会議の時に高浜先生の隣りにちょこんと腰掛ける姿を見たときは心底ホッとした。しかし、俺を見た瞬間、彼女がぱっと目をそらした。悲しかった。

 小学校には空き時間がないから、放課後まで話をする間もない。林田さんは音楽の専任講師だから、音楽室かその準備室に大抵はいる。そこが4階の突き当たりでちょっとした合間に行くことも出来ないのだ。授業が終わると教室に居残るか、速攻で職員室まで往復して次の授業の教材を運ぶ。10分の休みなんて短かくて泣けるほどだ。
 昼休みも今日に限って校庭で遊んでいた担任クラスの児童が目にボールを当ててしまい、慌てて病院に連れて行くアクシデントがあった。ハンドルを握りながら、待合室で診療を待ちながら、気が気ではない。それ以前に今日は朝から授業をしていても全然自分が何を話しているのか分からなかった。仕方なく午後の2時間はプリントをやらせてしまったぐらいだ。第2音楽室から心地よいピアノの音が聞こえる。流れるようなあの旋律は彼女が奏でているに違いない。さすが音大卒だけあって、素人が聴いても分かってしまうくらい際だって上手だ。

 放課後の定例職員会議が終了して。ようやく我が身が自由になった。いつものように俺に用事を言いつけてくるおばちゃん…いや先輩女子教員たちの声を今日は振り切り、とにかく4階奥の音楽準備室まで駆け上がった。

 

………

 

 ばんばんばん、と。階段を廊下を響き渡るサンダルの音が妙に耳に響く。まるで自分の足音までが俺を責め立てているようだ。今日は吹奏楽の練習も行われていないらしい。音楽室2つと資料室、視聴覚室。それを繋ぐ4階の廊下はひんやりと静まりかえっていた。もしかすると彼女はもういないかも知れない、そんな気もした。それくらい人気が感じられなかった。

「…あ」 
 ノックもせずに引き戸を開けてしまった。本棚から何か本を出して調べものをしていた彼女といきなり目があった。大きく見開かれた瞳が俺を映して揺れている。

「何か? ご用でしょうか…?」
 何気ない様に装いながら、その声が震えている。彼女は全てを無かったことにしてしまうつもりなんだろうか。そんなに忘れてしまいたいくらい嫌な思い出なんだろうか。何も答えられないで入り口に立ちすくむ。そんな俺をちらりと見やってから、彼女は衝立の向こうにするりと身を隠した。

「林田さん…」
 どうにか言葉を絞り出して名前を呼んではみたが、答えがない。このまま、俺が立ち去れば2人のことは永遠に封印されるのかも知れない。もしかしたら彼女自身もそれを望んでいるのかも知れない。そうしてしまおうかとも一瞬考えた。土曜日の朝の彼女の行動と今の反応。どちらも全身で俺の存在を拒否している。ここに食い下がるのはどうかと思った。情けない自分など見たくない。

 足の裏がむずむずして、頭の中を、体中をものすごい勢いで血液が回る。どうしたらいいのか、どうするのが最善の行動なのか? 沸き上がってくる無数の疑問符。それから感嘆符。しょぼい少年マンガのパニックシーンの如く、自分の周りの空気がうねっていく。

 そして。次の瞬間。

 俺は音楽準備室に飛び込んでいた。

 

………

 

「林田さん…」
 もう一度、名前を呼んでみた。窓際の机の前で、彼女は下を向いて椅子に座っている。

「…あ、お茶を入れますね…」
 林田さんは俺の言葉に反応して立ち上がると、出窓の所にあったポットから急須にお湯を注いだ。そんな背中を何とも言えない気持ちで眺める。やはり、髪の毛がさらさらときれいだ。

「どうぞ」
 ことん、と置かれた水色の湯飲み。それをじっと見る。なかなか視線が上げられない。

「あの―」

「あ、私、本当に気にしてませんから。先生もそんなに打ちひしがれないで…」
 何か言わなければと口を開いた瞬間、またも彼女は言葉を遮った。俺に話をさせたくないみたいに。思わず、顔を上げる。無理をして作った笑顔が歪んでいた。

「そりゃ、びっくりしましたけど…いいじゃありませんか、人間だもの間違いはあります。別に…気になんてしてないから…」
 言葉が続かなくなる。気丈に振る舞ってはいるが、やはりショックは隠せないらしい。あああ、もどかしい。どうすりゃいいんだよ? と、更に彼女は言葉を繋げる。

「あの…犬に噛まれたとでも思って…忘れてください…」
 ふるふるふる。彼女の顔を覆った髪の毛のカーテンが小刻みに揺れる。何だか、この情景に見覚えがある。フラッシュバックのように一瞬の光景が頭の裏に浮かんで消えた。

 本当に忘れていいのだろうか? そんなはずはない。そんなことがあっていいはずはない、何かあったからどうだってよりもここは根本に戻らなくてはならない。彼女の言葉をあれこれ分析するよりも、まずは自分の気持ちに素直になろうと思った。だって、忘れるんだったらそれからでもいいじゃないか。情けない自分になってしまったら、それごと忘れてしまえばいい。

「犬に噛まれたわけではないので…忘れられないよ?」

 はあ? と言う顔で林田さんがこちらを見た。構わずに続ける。

「正直、本当にいきなりこんなことする気はなかったはずだけど。でも、大城先生が君を呼びだした、と知った瞬間に魔がさしたのかも…知れない。あいつがどうにかする前に早い者勝ちでって気が、全くなかったとは言い切れないし…あああ、何を言っているんだろう。正直、あの夜のことは何も覚えて無くて…本当に、申し訳ないとは思っているんだけど…」
 後に行くほど、言葉が小さくなる。自分は一体何が言いたいのか、全然分からない。

「本当に…? 何にも覚えていらっしゃらないんですか?」
 大きく目を見開いて、きれいなメゾソプラノが話しかけてきた。

「はい」

「…そう、なんですか」
 ホッとしたような、とも…がっかりしたような、とも言うような複雑な表情で林田さんは大きくため息を付いた。

「前川先生って…本当にお酒に呑まれちゃうんですね。聞いてはいたけど、目の当たりにしてびっくりしました。あとからよく考えたら、性格も…何か違ってたし…」

 …え?

 思わず、身を乗り出してしまった。そうだ、泥酔して全てを忘れている俺と違って、彼女は何かを知っているのかも知れない。

「あのぉ…何か、まずいこと…言ってた?」

「私の口からは、とってもじゃないけど…言えないです、申し訳ありません」
 それだけ言って、さっと俯いてしまった。そうされると余計、気になるじゃないか。

「それに…先生、次の朝起きて愕然としてらっしゃったし。ああ、まずいことしたんだなって…私もお酒入ってましたし、思考回路が鈍っていたと思うんですよね。本当に、私も大人ですから、これくらいのことで騒ぎ立てしたりしません。だから…覚えていらっしゃらないんだったらそのまま…忘れてくだされば…」

「―林田さんは、忘れたいの?」
 とても引っかかりを感じた。どうしてこう、忘れろ、忘れろと言うのだろう…??

「え…だって。先生、本当に困っていらっしゃるし…」

 違う。俺が煮え切らないのは別に忘れたいからじゃない。…そうだ、どうやって始めたらいいのか分からないから困っているんだ。最初のきっかけがどうであれ、彼女に好感を持っていた自分は確かに存在したわけだし。

「俺、良かったと思ってるんだけど。林田さんのこと、好きだし」

 直球過ぎたか? がたがたっと席を立った林田さんはそのまま後ろ足に遠のいて、壁際の本棚のところで背中がぶつかって止まった。

「こここ…困ります!! 突然、そんなことおっしゃられても…」
 いつもはきれいな旋律を奏でる指がきゅっと自分のブラウスの袖を抱きしめてる。

「私…前川先生のこと、そんな特別に考えたこともありませんでしたし…」
 が〜ん。ちょっとショックな一撃!! でもこれに負けてはいけない。咄嗟に頭の中で思考を巡らした。

「じ、じゃあ。問題出すから、答えてくれる?」

「はあ…」
 面食らった表情がこちらを向いた。よし、行くぞ!!

「一列に並んでいたとして…俺と、大城先生だったら、どっちを選ぶ? あ、菅根先生(30歳独身男性教員の名前)も混ぜていいや」

「…えっ…?」
 ちょっといきなりの問いかけだったか? 彼女は言葉も出ないほど驚いてる。ええい! ここは本気で行くぞ!! とばかりに俺も椅子から立ち上がって、林田さんの前、50センチの所まで接近した。彼女の身体がきゅっと固くなった気がする。

「それなら、質問変えるよ? あの時、他の人が相手でも…やっぱり同じようにしてた?」
 心臓がバクバク言ってる。してた、と言われたらどうしよう。彼女が誰構わずの人間だとは思いたくないけど、まあ、好みの問題もあるし、俺以外の奴の方がいいと言われたらそこまでだ。 

「…どうなの?」
 少しかがんで、耳元で囁く。両手を本棚に付いて、林田さんの頭を両方から挟む格好だ。ちょっと卑猥かな? 俺の言葉に林田さんはうるうるした目でこちらを見た。それからもう一度、視線を床に戻した。

「そんな質問、答えられません…ずるいです」
 そりゃあ、ずるいか。そりゃそうだ。

「でも…前川先生が…色々おっしゃったら、何だか、いいかなって気になっちゃって…私もお酒呑んでましたし、ふわふわって…ああ、いけませんよね。申し訳ありません、本当に…」
 だんだん顔が真っ赤になっていく。いじめているわけでもないのに、こっちがとても悪いことをしている気になってしまう。…ちょっと反省。

「…で、後悔してるんだ?」
 答えはない。肯定も否定もない。ふたりの少し速い心臓の音がシンクロしている気がする。林田さんが涙目のまま俺を見つめる。そっと顎に手を添える。よし、逃げないな、と確認してゆっくりと顔を近づける。そっと重ね合わせるだけのキス。柔らかい唇の感触が…何だかとても懐かしくて身近な気がした。

「始めようよ、これから」
 耳まで真っ赤になって俯いた彼女が、一瞬、頷いた気がした。

 

………

 

「この辺だったと思うんですけど…」
 フローリングの床に四つん這いになって、林田さんがベッドの下を覗き込んでる。彼女にとっては2度目の俺の部屋。時間は音楽準備室で話をした放課後から2時間ほど経過して。彼女が言うには、あの夜、イヤリングを落としたらしい。朝になったら拾おうと思っていたけどすっかり気が動転していて気付かず、電車に乗ってからようやく片耳が無いことを思い出した。それを探したいと言うので荒れ放題の部屋に上げてしまった。
 しらふで見た男の一人暮らしはなかなかに強烈だった様だが、おずおずと上がり込むと目星をつけて探し出した。しかし、この荒れ放題では…ベッドの下などはゴミと埃が同居して、探せるもんじゃないと思う。とりあえず、彼女を上げる前にばばばっと見られたくない諸々は片づけたつもりだが、やはりドキドキする。あああ、そんな格好したら白いストッキングが汚れるんじゃないだろうか? ベッドの床を手でなでたら、手に埃が…。

「あ、あの! 今日とは言えないけど…今度の休みにでもきちんと掃除して探しておくから…今日はもう止めない? …無理だと思うよ?」
 片割れを見せて貰った。彼女の誕生石のダイヤモンド、ちっちゃい奴だけどホンモノがちゃんと付いた可愛いデザイン。親御さんからの就職祝いなんだと。大切なものだから、どうしても見つけたいと言っている。

「…そう…ですね。じゃあ、お願いします」
 彼女的にも無理だと判断したのだろう。少し未練を残しながら、立ち上がった。髪をかき上げる。フローラルのいい匂いがした。

「すみません、お手数とらせて…では、失礼します。…きゃ!」

 ぱしっと。細い腕を掴んでいた。意図していた、と言うより反射的にと言った方がいいだろう。ピアニストを目指していた、と言うくらいだからもう少し筋肉が付いていてもいいのに、とても頼りなげだ。どうやってあの大響音の音を奏でるのか不思議である。

「まえ…かわ…先生?」
 まっすぐに向けた俺の視線から怯えるように顔を背けて、彼女は腕を自分のものに戻そうと強く引いた。でも、それくらいの力じゃほどけない。

「駄目?」
 実は。彼女からイヤリングの話をされたときから…ちょっと期待していた。もちろん、本人にそんな意図があるとは思えない。忘れ物を探したいという素直な気持ちであったはずだ。あんまりにも無防備過ぎて可哀想になる。よくぞ今までの人生で間違わずに来たものだ。…と、その間違いを起こした原因が俺だったりして。

「でも…。今度の電車に乗れないと、接続のいいのが無いんです。帰らせてください…」
 握りしめた腕が大きく揺れている。潤んだ目が「こんなつもりじゃなかった」と言わんばかりだ。

「じゃあ、泊まって行けば? そうすれば明日の朝、いつもより寝坊できるよ?」

「…同じ服を着て、学校に行けません! …絶対おかしいです、そう言うの…」
 あ、そうか。彼女の言うとおりだ。女が同じ服を2日続けて着ていたら、そう言うことだろう。きっと目ざとい人が気付くはずだ。

「それなら…車で送るよ。だったら、いいでしょう? 近道すれば、40分ぐらいでしょう?」

「で、でも…」
 当たり前のことだが、躊躇しながら逃れようとする身体を強引に引き寄せる。震えが腕の中にある。振動がひとつになる。髪の間に指を入れて、ゆっくりと梳きながら、額にキスした。広めのすべすべした場所に小さなほくろがある。前髪から見え隠れする秘密の宝物みたいだ。

「…梨緒」
 耳元で囁く。自分の耳で初めて確認する、俺の声が呼ぶ彼女のファーストネーム。その瞬間、何かが崩れたように、彼女の抵抗が止んだ気がした。

 

………

 

「…酔った勢いで、っていうの…やっぱり嫌なんだ。何も覚えてないのって、口惜しくて…」
 我ながら妙な理論だと思う。でも本心だった。そう言いながら、まだ小刻みに震えている体に手のひらを這わせていく。言葉には出せなかったけど、きれいだなと思った。いつもはきれいな色のスーツに隠れているホンモノの彼女。しっとりと滑らかで、自分の手が豆だらけなのが申し訳ない。傷を付けてしまってはいけないなと思いつつも、触れたくてたまらない。この前の自分もやはりそうだったのだろうか。

「黙ってたら…分からないよ? 気持ちよくない?」
 微かな吐息しか漏らさないのに不安になる。そんなに自分がテクニシャンだとは思っていないが、何かしらの反応が欲しいところだ。でも、俺の言葉に、彼女は小さな声で言った。

「…良く分からないんです、そう言うの。…あ、嫌っ!!」
 胸の頂を口に含んで吸い上げる。びくん、と反応した身体がのけぞる。感じやすい場所だから心を無視して身体が反応してきてしまうんだろう。そう言う自分が恥ずかしくて仕方ないようだ。

「先生、嫌! そんなことしないで…私…何だか…」
 あ、この「先生」っていうの、いいかも知れない。危ないビデオみたいだ。心と体が反発しあってる、彼女の反応が可愛いなあと思った。口元に知らず、笑みが浮かぶ。

「いいんだよ、感じたら声が出ても。頭で考えちゃ駄目なんだよ、こういうのは。これから梨緒をもっと気持ちよくしてあげるからね…」

「え…? や、いやあ! …痛い!!」
 …指を先の方だけ入れただけのなのに、この反応は。ほとんど濡れてないし…これじゃ痛いかも知れない、確かに。とは言っても、俺には女性の痛みは分からないけど。

「梨緒、この前…初めてだったんでしょう? やっぱり相当痛かったの? 俺、強引だった?」

「う…!」
 痛みを堪えている感じ。可哀想だと思う反面、征服したい衝動にも駆られる。

「だって、先生…色々言って来たから…何かほやほやっとしてしまって…」

「色々って…?」

「え…言えません…あ、あ、そっちは嫌! 触らないで…」
するっと手を滑らせて、感じやすい場所を刺激する。あくまでもソフトに。でもそれだけで首を左右に振って、いやいやする。少しずつ潤ってくる。彼女の中に残した指がそれを感じ取る。

「言わないと、もっとおかしくなっちゃうよ…いいの?」

「だって…恥ずかしい…」
 彼女もなかなかに強情だ。反応を楽しんでいたら、自分の方がもう我慢できない状態になっていた。慌てて、スラックスとトランクスを一緒に脱ぎ去る。…とと、ええと。どこにしまったっけ…? 焦ると思い出せない。情けない話、素人相手は本当に久しぶりだ。やりまくっていた学生時代に全てを置いてきてしまったように、就職してからは彼女を作る事へのパワーが無かった。そんなことを考えられないくらい忙しい毎日だった。

「先生、チェストの上の小引き出しの…右の上から2番目です。この間、そこから出してました…」
 恥ずかしそうな声が、俺の捜し物の場所を教えてくれる。これはかなり情けない。…と言うか酔ったときはどうしてちゃんと覚えているんだろう? 人間の本能って不思議だ。野生のカンって奴かい? とすると今の俺は雑念の固まりと言うことか。

「梨緒…」
 所在なげに待っていた彼女の上に覆い被さる。深く唇を合わせた。ぎこちないけどどうにか反応しようとする健気な感触がたまらない。おずおずと首に腕を回してくる。ギリギリの姿勢で胸を合わせながら、彼女に体重を必要以上に掛けないように注意する。ざっと見た感じで20キロ以上の体重差がある。本気で乗っかったら潰してしまいそうだ。体重を支えた肘がしびれて感覚が無くなっていく。首筋にそっと触れていきながら、もう一度、聞いてみる。

「…で、何て言って…君を悦ばせてたの?」
 すると今度は少し素直になったらしい、彼女が消えそうな声で言う。

「あの…きれいだ、とか可愛いとか…何だか、恥ずかしくなることをたくさんたくさん…」

「え…?」
 こっちの方が恥ずかしくなる。思っていても言えないようなことを酔った勢いで知らないウチに言ってたのか? そりゃ、いつもと違うはずだ。それじゃ、情けない口説き男のようじゃないか。せめてもう少し気の利いたことを言えなかったのだろうか? ああ、頭で考えていたのは自分の方だったとやっと分かった。ゆっくりと震える体を抱きしめる。あたたかかった、そしてとてつもなく愛おしかった。

「好きだよ、梨緒…」
 ほんの少し先を入れただけで、身体を固くする彼女に手間取りながらも、どうにか身体を奥へと進める。しまっている、と言うよりはただきつい、と言った感じだが、気持ちいいことには変わりない。柔らかなものに包まれるとそれだけで自分が受け入れられた気になるから不思議だ。女の身体なんて、そう言うように出来ていると聞く。だから、彼女だって自分の意志とは関係なく、俺を受け入れてしまうのかも知れない。でも、快楽だけでは嫌だな、と思った。心も体も全部欲しい。全部を自分のものにしたい。こう思うこと自体、かなり彼女が好きになっているのかも知れない。

 苦痛に耐えるように眉間にしわを寄せたまま瞳を閉じた彼女が、背中に回してくれた手のひらのぬくもりだけを信じようと思った。そうしていうちに、余計なことは何も考えられなくなった。

 

………

 

「ちょっと…心配になったんだけど…」
 ハンドルを握りながら、助手席の彼女に話しかける。元のようにスーツを着て、メイクを直して、髪を整え…2時間前と同じきれいな格好で座っている。きっちりシートベルトを締めて、心なしか頬が赤いまま。

「この前。俺んちに泊まっちゃって…ご両親、何も言わなかったの?」
 車通勤をさせないような親だ。娘の外泊なんて認める訳も無いんじゃないか?

「あ、遅くなる日は…高浜先生のお家に泊めて頂くんです。あの日も、先生をお送りしたらそうするつもりで…もう電車もありませんでしたし、ウチに電話して、それから高浜先生に、と思ったんですが…あの…」
 どうも、高浜先生の家には掛ける暇が無かったらしい。

「ご両親、しっかりしていらっしゃるみたいだけど…ご職業は? やっぱり先生なの?」

「…え? 先生、ご存じなかったんですか?」
 意外そうな声。と言うことは知らない方が不思議なのか!?

「あの…3年前まで、ここの管轄の県教育委員会の…出張所の所長やっていた林田って…父なんですけど。今は地元の中学校の校長してます。で、母は県の義務制(小中学校)の教職員組合の婦人部長です」

「え…?」
 ちょっと待て? まさか…あの?

「…仁王様の様な顔をして、ゴルフで一緒に回っている人がいいスコアを出しても絶対誉めない…超おっかない…」
 この管轄では有名なお堅い先生だ。平の時代は野球部の顧問で関東大会まで何度も行って、その後県の教育委員会で出世街道まっしぐら。県内でも最年少で教頭になったんだ。…たしか。

「前川先生が正式採用になられたときに、面接したって言ってましたよ。父、一度会った人は忘れないんです…」

 やば。待てよ〜そんな人の娘に手を出して…あの人に睨まれたら出世出来ないってもっぱらの噂じゃないか。

「本当に、ご存じないんですか? やだな…大城先生なんて、それもあってすごくしつこくて。携帯もじゃんじゃんかけてくるから、もうずっとならないようにしてあるんです。震える奴? 何て言うんですっけ…先生?」
 明るい声が何だかとても遠くで聞こえる。とんでもない人生を歩み始めてしまった、そんな気がする。でも、今更キャンセルも無いだろう…? あああ、何て情けない。

 とりあえず。彼女を無事送り届けたら、アパートを大掃除してイヤリングを探そう。それが自分に課せられた大切な任務のような気がした。

 

これでおしまい(020311)

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