身体にまとわりつく忌々しい気が、だんだん冷たくなってくる。秋が深まってきているのだ。美祢(みね)は心が日に日に重みを増していることを感じていた。 毎年、この時期は嫌いだ。金にものを言わせた御館様の庭園は四季折々に美しい彩りを楽しませてくれるが、やはり秋には落葉して寂しくなる。まあ、庭など。そんなにゆるりと眺めることもないのだが。 …本当だったら。こうして膳の上げ下げだけでも面倒なのよね? そんな風に独り言を口の中で呟きながら、彼女は居室への道を急いでいた。 この春までは、日に三度の膳の上げ下げをしてくれる下男がいた。この家の若様の下男。自分はその御方のものであるから、彼の下男もずっと世話を焼いてくれていた。でも、彼が主人である若様と共にかの地へ去ってしまってからは、他に頼む者もなく、自分でやっているのだ。 『ほら。若様の愛妾だった御方だよ…御可哀想に…』 そうささやかれる言葉には同情や憐れみよりも好奇の色を強く感じてしまう。こちらの耳に入っていいと思っているのか、それとも聞こえていないと思っているのか。つんと前を向いて、何でもない感じで歩く。手入れを欠かしたことのない赤髪がゆらゆらと流れた。
見慣れない顔だねえ、と思った。 美祢は産まれたときからずっとこの敷地の中で生きている。母が若様の乳母だった。姉を産んだときに両親は共にここに召されてやってきた。御館様の懇意にしている御方の紹介があったらしい。自分の親の出身地は集落の南の方だと聞いていた。でも美祢自身はそこを訪れたこともない。両親のなき今では、もう繋がりも絶えたと言っていいだろう。 彼女がその男に興味を持ったのは、その服装がどこか両親の着ていたものに似てるからだった。ぼそぼそした珠つなぎの糸を織って作る変わり文様の布。高価なものではなかったし、遠目には分からないほどだったが、美祢にはすぐにそれを見分けられた。固い布地のみすぼらしい服に身を包んだ姿はひと目で外地からの雇い人夫だと分かる。 美祢は彼の背後を何でもない感じで通り過ぎた。何か用事でもある時以外は誰かに声を掛けることもない、心を許せる友もない。両親はすでになかったが、この春に姉も亡くなった。身内と呼べる者はもうひとりもいなかったのだ。
美祢の暮らす居室は、正妻様を娶る前、若様がご自分のために使われていたところだった。 高貴な御方の御子様方は13の元服までは母君の元で育つ。と言うのも、この地では、妻の他に何人もの女子(おなご)を囲うのが通例であるのだ。そのためにある一定の身分以上の御方には何人もの側女(そばめ)がいることになる。 元服をなさる前の若様は、明るい御気性の御方だった。気難しい母君の元、少しばかりひねたところもあったが、鼻につくほどでもない。ゆくゆくはこの家の後を継ぎ、御館様となられる方だ。少し傲慢なくらいで良いのだ。 それが。 元服を終えた若様は、御館様のお務めについて、西南の大臣様のお役人として出仕するようになった。その時から、彼は変わられてしまう。それこそが、美祢にとって新しい人生の始まりだったのだ。 女の童として、侍女見習いをしていた美祢は当時まだ11だった。若様より2年年下になる。ある夜、出仕からお戻りになられたばかりの若様に呼ばれて居室に向かった。何か御用があるのかと思ったが、まさか自分の身に何かが起こるとは夢にも思わずに。 若様…雷史(ライシ)様は、居室に足を踏み入れた美祢をいきなり敷物の上に押し倒した。あまりのことに美祢は声も出ずにただ、組み敷こうとした腕を払おうとした。しかし普段から武術の稽古に勤しむ雷史様の御力はあまりにも強く、彼の前で美祢は無力だった。
その出来事を境に、美祢は御館様の御家の侍女ではなく、雷史様の側女となった。乳母の子であるから、身分から言ってとても正妻になることは出来ない。側女にしていただいたのだってありがたいくらいだ。そう思わなくてはならなかった。
次の日も、また次の日も。夕餉の膳を下げる美祢はその男を見た。そんなに眺めたところで何になるものでもない。単なる冷やかし、と言うのでもないだろう。店番の男もそんな彼を気にも止めない感じで煙管をふかしている。 美祢は知っている。この出店の男は、最近に御館様が手を付けられた若い侍女の父親だ。娘が高貴な御方に囲われれば、その親も左うちわで暮らせる。そのためにわざわざ娘を差し出す親もあるくらいだ。今の彼にとって仕事など、ただ座っていればいいだけのものだった。品物が売れても売れなくても差し障りがない。 ささやかな敷物の上に、色とりどりの品物が並んでいる。それはみんな子供向けの玩具だった。太鼓のおもちゃに剣玉、お手玉。可愛らしい姉さま人形もある。子供が振って遊ぶでんでん太鼓を男は手に取ると、その音色を楽しんでいた。店の主人と話をするわけでもない。 どうするのかな? とちょっと興味が出て、美祢は足を止めていた。男は一頻り品物を吟味すると、小さな声で礼を言ってそこを離れた。何も買わなかった。そして、こちらにまっすぐに歩いてきた。宿泊している小屋に帰るのだろう。 「…あ…?」 「す、すみませんっ!」 改めて正面から男の顔を見る。横顔を見て考えていたよりは若そうだ。でも、美祢や雷史様よりは年上だろう。土をまぶしたような色合いの衣は襟元が少しすれていた。西南の集落の者はほとんどが赤毛である。美祢も朱に近い赤毛だった。男のものはほとんど茶に近い。油でも使って手入れすればそれなりだろうが、そう言うこともしたことがないのかバサバサと見える。ひなびた田舎風の顔立ちだった。 …年貢が納められない農夫が家族を食わせるために、出稼ぎに出たんだね。 美祢は食うに困ったことはない。この先、一生分の生活の全ても保証されている。一度でも手を付けられればそう言う身分になれる。たとえ、もうお通いになる方が傍にいなくても。二度と女子として扱って貰えなくても。 この夏は暑さが足りなくて、満足に作物が採れなかったと聞いている。男の村も例外ではないのだろう。 「あんた」 美祢はそのまま、くるりと彼に背を向けた。 「え…?」 「飾り輪、壊れちゃったんだろ? ウチまでおいで、直してやるから」
美祢が振り返ることなくすたすたと歩くので、男は慌てて後を付いてきた。
上がり口に小さな間があり、その奥に寝所がある。典型的な居室の造り。招き入れられた男は、きょろきょろと中を見渡していた。その視線が高い天井で止まる。 美祢は男の言葉をなくした行動がおかしくて、笑いを噛みしめた。しばらく味わったことのない感情だった。奥の部屋で衣を改めると棚から道具入れを出す。上がりの間の敷物の上に座って、中から細紐を取り出した。 「あんたの持ってる分も出しな? 全部、繋げればいいんだろ」 突っ立ったままの男の視線が自分の手元にある。それを感じても素知らぬ振りで、美祢は仕事を進めた。しばらくはしゅるしゅると玉が伝っていく音だけが部屋に響いていた。 「…座れば?」 「…いえ。めっそうもありません」 「このような高貴な御方の居室に…畏れ多くて…」 美祢は何とも言えない表情で男を見上げた。顔は伏せているのでよく分からない。高貴な御方、なんて。自分はただの侍女なのに。そりゃ、若様の側女であるから、普通の侍女ではない。着ている衣も格が上だ。でもそれだけだ。 「あんたが思っているような、ご大層な身分じゃないよ? 知らないのかい、私はここの御館の若様に捨てられた女さ。若様は都で乳母になった正妻様を追って、家をお捨てになった。私たちのようなお手つきの侍女もみんな捨てられたのさ」 男の気配を感じながら、わざとぞんざいな言い方をした。もう数は減ってきたとはいえ、若様の手を付けられた侍女はまだこの館に残っている。皆、美祢のように帰るあてもなく、恩恵にすがっている者だ。
そんな自分の生活が滑稽に思えることもある。御館様にとっても、美祢たちのような穀潰しの存在は疎ましいのだろう、ことあるごとに外地からの官僚の接待の席に呼ばれる。上手いこと、その要人に見初められれば、そのままお持ち帰り下さい、とばかりに。 若様は正妻様がおいでになった4年前から、あまたの側女たちには見向きもしなくなった。それまでは朝となく夜となく見境のない御方だったのに。夜は美祢の待つ居室に戻って来られるが、それまではどこでどうしているのやら。それでもヤキモキする内心を微塵も見せないように心がけていた。 自分は、若様の一番の愛妾である。それは他の誰もが認めている。正式の場に一緒に連れだしてくれるのは自分だけだ。若様の居室に囲っていただけるのも。確かに扱いはひどいもので、閨もご自分の性のはけ口のようにしかなさらない。でも気高く自分を保って行かなくては、女たちの中で生き残ることは出来ないのだ。 ここで生きながらえるには、弱い心など捨てなければならない。そんな色を見せたら、蹴落とされる。
自嘲気味に笑いながら、顔を上げると。男は先ほどと少しも表情を変えないままで、申し訳なさそうに突っ立っていた。 「いえっ…お美しくて…雲の上の様な御方ですから…」 「…やだねえ…」 「じゃあ、温かい飲み物でもいれておくれ。外にかまどがあるから、井戸から水を貰って…」 「は、はいっ!」
男が熱く入れた茶を持って戻ってきた頃、美祢の仕事も終わっていた。男の包みの上に仕上げたものを置き、自分はまた奥の部屋から新しい物入れを出してきた。 「…どうぞ」 黙ったまま受け取り、一口付ける。まろやかな味が口内に広がっていく。飲み慣れた茶が、初めての飲み物のように感じられた。美祢は湯飲みを置くと、立ち上がり、棚からもう一つ湯飲みを出してきた。そして、土瓶に残った茶をそこに注ぐ。ふんわりと暖かい湯気が上がって、美祢の髪を揺らした。 「おいしい茶だよ? あんたも飲みな」 「も、申し訳…ございませんっ!」 「…子供はいくつ?」 「子供を残してきたんだろ? あんな玩具の前で立ち止まって。何だい、戻るときの土産にするの?」 「あ…」 「あのっ、小さいのは5つで…」 「へえ」 美祢は黙ったままで、男の前に小さな行李を出した。そして自らの手で、中を開ける。男の顔が紅潮するのが分かった。 「あんな安物を買うことはないだろう。これで良ければ、あんたにやるよ」 行李の中にはいろとりどりの玩具と仕立てて糸を抜くばかりになっている子供用の晴れ着が何枚も入っていた。男が慌ててかぶりを振る。 「そんなっ! その様なことは、なりませんっ!! このようなものを頂くわけには…っ!!」 その慌てた姿に美祢は満足そうに微笑んだ。きっとこの男はこう言うと思っていた。でも、自分の手元に置いておいても仕方のないものだ。でも、捨てるわけにも行かずに今まで抱えてしまっていた。そして、何故かこの男になら、やってもいいと思えてしまったのだ。美祢は行李を少し、自分の方に引いた。 「もちろん、ただとは言わないよ? …あんた、仕事はいつまで?」 「ひ、ひとつきほどだと、聞いていますが…」 御館様が敷地の表に大きな池を造ると言っていた。その為の雇いだったらしい。丁度いい頃合いかも知れない、と美祢は思った。 「だったら」 「その間、私の膳の上げ下げをやってくれないかい? 仕事だって、時間の融通はきくだろう? そんな風に出稼ぎ連中はみんな仕事を掛け持って、駄賃を稼ぐんだ。あんたがやって悪いこともない」 「…は、はあ…」
若様の下男ならいざ知らず。御館の男どもに膳の世話を焼いてくれる者はいなかった。主人に捨てられた側女など関わりを持たぬ方がいい。もしも悪い噂でも立ったら大変だ。万が一にでも、若様のお気が変わって、またその側女を召したいなどと言われたら。特別の関係がなくても、疑われてしまうかも知れない。高貴な御方の側女に手を付けたなど、知れたら大変なことになる。 かといって、女たちにも頼みたくなかった。長いこと、女衆には敵が多かった。若様の寵を争っていたのだから当然かも知れない。万が一、毒でも盛られたら困る。そんな物騒なこと、と思われそうだが、毒味の役まで存在するような場所だ。用心に越したことはない。
だが、このようによそ者の男なら。しばしの間なら、いいだろう。今までそんな気にもなったことがなかったが、膳を運ぶのも億劫な時節になっていた。 それに。この男はきっと話を受ける。さっきの顔を見れば分かる。いくらものの値打ちの分からないような田舎者でも、美しいものは分かるだろう。彼の目がそう言っていた。
ぴちゃん、ぴちゃんと微かな水音が寝所に響く。 先ほどまでいた男が、食後の茶をいれる湯を沸かすときに、一緒に作ってもらっていたものだ。身体を清めるための湯桶を重い思いをして運ばなくていいのが嬉しい。化粧を落として、顔を拭う。それから袴の帯を少し緩めて、小袖の裾を出した。 西南の集落の者は褐色の肌と赤い髪を持っている。その様に言われている。だが、一様にそう言うわけでもない。美祢などはあまり居室の外を歩かない身分であるし、他の地の血も混ざっているのだろう。黄味がかった白い肌をしていた。その上を濡らした手ぬぐいでなでていく。柔らかなふくらみの頂きに触れたとき、身体がぴくんと反応した。 「…あ…っ…」 美祢は若様おひとりの男しか知らない。他の男になどこの身体を晒したことはない。それが彼女なりの誇りであった。若様の側女であった者の中には、他の男と縁付いた者もある。遊女に成り下がった者もある。そのどちらも軽蔑すべきものであった。…でも。 知らず、自らの手がふくらみを包む。艶めかしい、感触。身体の奥がびくびくと強く打ち付けられる。美祢は瞳を閉じると、そのまま両の手で胸の片方ずつを包み込み静かに揉み上げた。だんだんほぐれ、上気してくる。頂が熱くたぎって、固くなる。それをつまみ上げると、どろりと何かが身体から流れ出てきた。 「やあ…っ…」 このような行為に耽るのはいつものことであった。自分で自分を慰めるしか方法がない。情けないと思いながらもやめられなくなっていた。 美祢の頭の中には、もう忘れかけた人の姿があった。荒々しく腕を引き寄せ、かき抱く力強さ。決してこちらを思いやり、たかめてくれる行為ではなかった。でも、若様を受け入れているという優越感が美祢を夢中にした。数いる側女の中でも一番にお召しが多く、愛されている。そんな我が身が嬉しかった。 「…くっ…ふっ…」
――がらんっ! ハッとして、我に返る。寝所の戸口の辺りで何かが転がった音がした。 「あ…っ、あのっ…」 彼の視線に気付き、今更遅いと思いつつも、慌てて肌着を上体にまとう。 「きっ…今日は冷えるのでっ。火にくべて差し上げようかと…お、お声をかけたのですが、お返事がなくて…もうお休みのものとばかり」 自慰の姿を見られた。その屈辱に必死で耐えている美祢に、男は言葉を詰まらせながら言い訳した。 その言葉に嘘はないのだろう。もう7日ほど、通って貰っていたが、男はどこまでも誠実で仕事熱心だった。膳の上げ下げを頼んだだけなのに、身の回りのことまで世話を焼いてくれる。壊れた棚を修繕したり、ござを編み直したり。女の手では行き届かないあれこれを美祢に遠慮しながらこなしてくれた。 だが、それとこれとは別である。主人である女の部屋に許しなく入ることなど、してはならないことだ。 美祢はぎゅっと唇を噛みしめ、男を睨み付けた。自分がかんぬきをするのを忘れたのがいけないのに、この目の前の男が全て悪いような、そんな気がしていた。 |