TopNovel>浮の葉語り・2


…2…

 

 その沈黙が一瞬であったような気もするし、とても長い時間だった様な気もした。

 ひんやりと着物の袷から、夜の気が忍び込む。汗ばんでいた肌がそれを吸い取り、美祢の身体がぶるっと震えた。

「――あんた、いつまでそこにいるつもりだい?」

 美祢の声が地を這うように男に届く。彼は思わずびくっと身体全体を震わせた。

「…は、はいっ…!」
 固まって動かなかった身体はその一言でスイッチが入った様子で、彼は慌てふためいて取り落とした薪をかがんで集め始めた。

「す、すみませんっ! 今、すぐっ…」

 あまりに慌てているので、何度も何度も大きな手から薪がこぼれる。手を伸ばしてそれを再び取ろうとすると、胸に抱えたものが転がったりして。どうにもこうにも仕事ははかどらない。
 それでもしばしの格闘ののち、彼はどうにか仕事を終えた。俯いた顔をこちらに上げることすら出来ず、後ずさりに出て行こうとする。

 その滑稽とも思える姿を美祢はあられもない格好のまま、静かに見下ろしていた。

 

 西南の集落は土間にそのまま敷物を敷いて休む。美祢も例外ではなかった。ただ、しとね用の敷物はいくらかの高さがある。男はいつでも美祢よりも視線が高くならないように礼を尽くしていた。田舎者が一丁前に、と思ったが、この頃では自分にそんな風に接してくれる者もないから、心地よくもあった。こんなに混乱した場でも彼はその態度を崩さない。

 美祢の心には優越感が形を変えた得体の知れないものが広がっていた。

 

「…待ちな?」

 その短い言葉に、男はまた、びくっとして止まる。膝を付いて俯いたまま。粗末な衣服の肩ががたがたと震えている。美祢は心がすっと前に出て、自分の胸から飛び出していく感覚に襲われた。そして、次の瞬間に自分でも信じられない言葉が飛び出す。

「ちょっと、ここまで来な?」

「……は…?」
 男がかすれる声を漏らすのに、どんなに時間がかかっただろう。彼は気の遠くなるようなのろのろした動作で面を上げた。上目遣いに魚のような目でこちらを見る。

「早くっ! 来なって言ってるだろ? たかが、これくらいのことで、言葉も分からなくなっちまったのかい!?」

「ええっ…、そんな…っ!」

 美祢の怒鳴り声に弾かれて、彼が飛ぶ様に後退する。とんでもないことで、従うことは出来ないと言った様子だ。美祢はちっと舌打ちをした。

 それから。

 先ほど慌ててかけた小袖を、するりと落とす。心なしか胸を張ったので、その弾みでふるんと形よい豊かな胸が揺れた。

「…うっ…!」
 男はさっと視線を逸らすと、怖いものでも見たように後ずさる。

「来なって、言ってんのが分からないのかい!? このまま言うことを聞かないのなら、これからすぐに御館様のところに行って、あんたのことをひどく言ってやってもいいんだよっ!!」

 自分でも、どうしてこんなことを言っているのか分からない。でも美祢はもう我を忘れて、必死で言葉を叫んでいた。

「あんたの女房や子供たちに、二度と会えないようにしてやることだって朝飯前なんだ。分かってんだろうね!?」

「え…っ!?」
 美祢の決めの台詞に、今まで怯える一方だった男の様子が少し変わった。

「そ、それはっ。困りますっ、それだけは…っ!!」
 土間を指でかいて、土下座の姿勢を取る。

「…なら」
 美祢は喉の奥でククッと笑った。薄い桜色の唇の端が上向く。

「おとなしく、言うことを聞くんだね」

 その声に弾かれて、また男の身体が大きく揺れた。でも、さすがに逃げ場がないと思い知ったのだろう。見えない糸に引き寄せられるように、すすすっと膝で地ををすりながら美祢の前までやってきた。

「こっ、これで宜しいでしょうかっ…」
 しとねの先に控える。この状況で顔を上げられるわけはない。俯いたために見下ろせるひとつに束ねた髪が、ばさばさしていた。水を浴びることすら、出稼ぎの者は毎日出来ないと聞いていた。この粗末な着物も美祢が最初に男を見たときから替わっていない。その割には臭うと言うほどの体臭も感じないのは不思議だ。

 みすぼらしい身なりの男。でも少しも不潔には感じなかった。

 美祢はおもむろに男の右手を取った。そして、その手のひらをそのまま自分のあらわになった胸に押し当てた。

「…なっ…!?」
 あまりのことに、ぐっと引き戻そうとする男の力を上回る気力で、美祢はその手首をぐぐっと押さえつけていた。せめぎ合いで胸が何度も圧迫される。敏感な場所にざらざらした手のひらが泳いで、忘れていた感覚が背筋を走った。

「な、何をなさるんですか!? 美祢様っ…」
 年下の小娘を前にして、彼は泣き出しそうな顔で懇願した。

 高貴な方の情婦に触れるなどと言うことはあってはならないことだ。どんな風に処罰が下るか知れない。湯浴みの場を偶然見てしまった者がその場で斬り殺されることすらあるのだ。

「…ふっ…」
 次の言葉を絞り出そうとしても、わき上がってくる快感に口元が言うことを聞かない。美祢の白い肌を細かい鳥肌が泡だって覆い尽くしていく。

「…口止め料だよ? いいよ、好きなだけ触っても…」
 美祢は男の顔を下からのぞき込んだ。その胸に寄り添うように。

「私を、満足させたら許してやる。半端なことしたら、ひどいことになるからね?」

 男の頬ががくがくと音を立てて揺れる。間近で見るその目は灰緑だった。そこに吸い付く笑みを投げつけた。すると、灰緑の奥から、揺らめくものが浮かび上がった。

「…はっ、はあっ…!!」

 がばっと体勢が入れ替わる。美祢は自分の落とした衣の上に仰向けに倒れた。男がその上にのしかかる。そして、両方の手で美祢の胸を鷲掴みにした。

「痛っ…!!」
 引きちぎれるほどの力に、美祢は大きく叫び声をあげてのけぞった。

「何だよっ! 力任せにやりゃいいってもんじゃ、ないだろ!? いつも女房に宜しくやってたようにしてみろっ…!」

「あ…」
 男が慌てて手を離す。

 くっきりと白い肌に赤く指の跡が付いていた。所々、爪が引っかかって擦り傷になっている。長い年月、誰にも触れられなかった肌は少しの力にも敏感に反応してしまう。

「す、すみませんっ…!」

 男は剥がしたその手を腰の後ろに除けようとした。その手首を美祢は再び素早く掴む。男がのろのろと顔を上げた。青ざめた、と言うより、もう白い顔になっている。美祢はその死化粧のような顔を視線でなぞって、妖艶に微笑んだ。鏡の前では何度もしてみたひとり笑い。相手を前にして、ようやく見せることが出来た。

「最初は。やわらかく、指の先で周りから真ん中に揉み上げてみな? ほぐれてきたら、少し強くしても平気だから…ね?」
 姉のように言い含める。男の指が素直に言葉通りに動き始めた。ちろちろと荒れた指先が麓から頂へと登り詰める。形を変えていく胸が、しっとりと汗ばんでくる。

「あ…ふっ…んっ…、はあっ…!」
 美祢の固く閉じた唇から、かすれる声が漏れ出る。そんなにすごいことをされているわけではないのに、身体が燃え上がる。自分でおずおずと触れているのとは全く違う。男の指先がだんだん戸惑いを忘れ、熱心に動き出した。
 その大きな手のひらにも余るほどの大きなふくらみ。桜色の頂が堅くなり、そそり立つ。周りの色付きがだんだん小さくなる。美祢の高鳴りと共にかたちを変えていく。

「ねえ…いいよ、吸ってごらんよ?」
 自分が媚びる目をしているのが分かる。なんて浅ましいのだろう、こんな下男にもならないような身分の男に。そうは思っても止まれない。男の首に自ら腕を回して、そっと鼻先まで胸を持ってきた。男の顔を見下ろすと、一緒に自分の頂が見える。ぴくぴくと震えながら、その瞬間を待っている。

「え…? あのっ…!?」

 男は本当に困ったようで、美祢に身体を押さえられながらも出来るだけ身を剥がそうとした。すぐそこに、厚いぽってりした唇があるのに。それなのに、男は口を一文字にして、かぶりを振る。何をそんなに遠慮することがあるのだ? もうここまで来たら同じことだと思うのに。

「ほらっ!?」
 美祢は男に胸を押し当てた。豊かな胸に圧迫されて、男が息をしようと顔を振る。ふるふると胸の間で鼻が当たった。

「うっ…うぐっ…!?」

「赤子が乳を吸うようにやりゃいいんだろ? 何、今更純ぶってんだい? いいだろ? 欲しいだろ…もうご無沙汰してんだろうから…」

 

 男は半年の任期でここに来ていると言っていた。あと一月足らずで村に戻れる。その間、里帰りなんて一度もさせて貰えることはなく、家族とは離ればなれだ。どんなにか会いたいだろう。それに遊女小屋で遊べるような身分ではないから、女には飢えているはずだ。

 このままにされるのは美祢としても耐えられなかった。今の状態でも、長いこと味わったことのない波に飲まれてクラクラしている。呼吸も乱れて苦しい。でも、どうせなら、もっと高いところまで行きたい。高く高くのぼりつめて、すべてを忘れてしまいたい。

 

 男の片腕が美祢の背に回り、そっと支えられた。ずるっと後ろに倒されて、まっすぐな視線に食い入るように見つめられる。

「…な、何だよっ!?」

 目の前の男の喉仏がごくんと動いた。唇が音を立てずに動く。

 そっと。美祢の胸先を男の赤黒い唇が絡め取った。

「…あっ…! い、いやぁっ…!」
 ねっとりと絡みつく衝撃に美祢は大きく叫んでいた。もう、堪えることなど出来るわけもなかった。

 次の瞬間、美祢を捉えた舌が外れた。

「す、すみませんっ…!」

 美祢の細い身体を振り解こうとする太い腕。乱れた衣から覗いた胸板。目の前にいるのは、どこから見ても立派な男なのに、可哀想なくらい美祢に遠慮する。もどかしくて仕方ない。美祢の行き着きたいところに、どうして一気に連れて行ってくれないのだろう…?

「やっ…、やめなくて、いいからっ…!」

 苦しくて、やるせなくて仕方ない。でも女として燃え尽きたい。手に届きそうになっているあの場所に行きたい。どうしても、今すぐに…っ!

 美祢は男の胸に顔を埋めて首筋にしがみついた。

「い…いいから。やめなくて、いいから…」

 吐き出す息が苦しい。自分がどんな顔をしているのか分からない。視界が滲んでいる気がする。泣くなんて、そんなこと私があるわけないのだ。若様の愛妾なのだ。あまたの女たちの中で、誰よりも愛されたのだ。あのお方が来られるまでは、誰から見ても一の君だったのだから…。

 激しい鼓動が胸を打つ。でもその音がどちらから生み出されているものなのだろうか。美祢には判断がつかなかった。それくらい、お互いの呼吸が荒くて、生々しかったのだ。

「う…んっ…!」
 今度は男が美祢の胸元に顔を寄せる。そっと胸を両手で真ん中に引き寄せて、舌を使って丁寧にすすった。

「あっ…、はっ、はぁっ…!」
 美祢はすぐさま、いらない思考をすべて消して、その行為に没頭した。頭が真っ白になって、快感以外のものはすべて消し飛んだ。舌先で叩きながら、周りから吸い上げる。手のひらは胸全体を緩やかに揉み上げる。びりびりと絶え間のない電撃が走る。美祢の身体は自分でも知らないうちに揺れ始めていた。

 乱れて髪が四方に広がる。手入れを欠かさない美しい帯は、夜の闇に揺らめき、美しい流れを描いた。

「い、いいっ! そのまま…、もっとっ…!!」
 男の頭にしがみついて髪に指を入れる。麻紐で結った髪はほどけ、汗でしっとりしている。じりじりっと指の腹が生え際をたどる。

「ああっ…、ああんっ…! うん…っ! あ、ああっ…! あああっ…!!」

 ぐんぐんと、その場所に上昇する。たかだか胸への愛撫じゃないか。こんなにも感じるなんて、自分はどこまで堕ちてしまったのだろう…。

 美祢は男の腕の中で大きく身をのけぞらせて、果てた。



………

 

 …水のしたたる音がする。そう思いながらも身体が動かない。首をぐるりとその方向に回す。しとねに横たわったまま、うつらうつらしていたらしい。

「あっ…!」
 美祢は弾かれて、部屋の隅まで下がった。と言ってもそれほど広い空間ではない。ほんの少し、身を泳がせただけだが。

 男が桶の中の手ぬぐいを静かにゆすいでいた。美祢のそんな態度にも全く動じず、静かに笑みをたたえて面を上げた。

「な、…なにっ!?」
 先ほどまでの疼きがまだ身体の真ん中に残っている。でも、平静に戻ってみると、あまりの恥ずかしさに身が焼け付きそうになった。

 しかし、男はと言えば。憎たらしいくらい、ふつう通りだ。

「湯を…温めて参りました。お使いください」
 男は静かに頭を下げると、さっさと戸口に向かって後ずさった。

「お休みなさいませ」
 柱に手をつくと、男はもう一度、挨拶した。夕餉の後と少しも変わらない身のこなしだった。まるで切り取られたあの時間が夢だったと言いたいように。

「…ねえ?」

 でも、美祢には身体に残る確かな感覚がある。男が美祢にしたことを忘れられるわけはない。それをうっとりと思い出すだけの余裕もないが。彼女はわざとぶっきらぼうに問うた。

「あんた、名は? …何て言うの?」

 そんなこと、聞くこともないと思っていたのに。名乗る必要もないような下々の者なのに。なんだか急に聞いてみたくなった。

 男の方も、意外だったのだろう。目を大きく見開いて、小さく息を吐いた。

「…伽呂(カロ)、伽呂と申します。美祢様…」

 …そう、下がっていいよ。美祢が言葉をかける前に、男は「お休みなさいませ」ともう一度頭を深々と下げると静かに下がっていった。



………

 

 嵐が吹き荒れて、過ぎただけのことだった。次の日からも、日に三度の膳の上げ下げの為だけに男はやってくる。ただ、ひとつだけ違うのは、美祢が男を名で呼ぶようになったことだった。

 男は土方仕事をして、泥まみれになっているはずだが、美祢の居室に来るときにはきちんと身ぎれいにしてくる。これには美祢も感心した。あまりに汚らしいなりだったら美祢も躊躇したかも知れない。でもぼろではあるが、手入れの行き届いた着物を身にまとい、控えめに礼を尽くしてくれる。
 彼は美祢を身体の内側からも満足させていた。心が安定してくるのが分かる。誰ひとりとして自分を気遣う者など、この世に存在しないと信じていた。でもどうだろう。金で買っているとはいえ、ここまでして貰えれば。

 

 そうは言っても。しばらく経つと、あの激しい夜の記憶が蘇る。波に飲まれていく自分。溺れそうになってしがみつく身体。思ったよりもずっと逞しくて、いつまでもすがっていたかった。

 男は、伽呂は決して自分から、欲求してくることはなかった。だから美祢が若様の愛妾であったという過去の誇りを捨てて誘うしかなかった。なかなか出来るものではない。でも、焦がれる身がもう耐えられなくなった7日目に、寝所に彼を呼んだ。
 少し顔を陰らせた伽呂はそれでも静かに美祢に従った。そして、この前と同じように手のひらと唇で思う存分、美祢を翻弄した。何度も何度も高みに押しあげられ、悲鳴にも似た叫びを上げた。

 男が去った後に、まるで水たまりに腰を落としたように袴が濡れているのが恥ずかしかった。

 

 7日が3日になる。次は2日も待てなくなる。自分でもどうしていいのか分からない。でも求めずにはいられなかった。快感の渦に巻き込まれるときだけが、美祢を何も憂いのない場所に辿り着かせてくれた。


 熱くたぎる下半身をもてあまして、どうせなら最後まで好きにしてくれてもいいのに、と思った。その気がないのだろうか? 男はしっかりと自分を組み敷いて、胸をすすっている。無意識を装って、何度も男の股間に足を触れてみた。ぞくっとするほど堅くそそり立つものを着古した子袴の中に探り当てる。

 それでも。美祢が大きくのぼりつめると、男はあっさりと身を引く。最初から、美祢の身体になど何も執着がないように。当たり前に去っていく。

 

 我を忘れてすがりついたときに、袷に固いものを感じた。後になってから聞いてみると、それは護り袋だという。女房が村を出るときに持たせてくれたのだと告げる顔が少し赤らんで見えて、美祢は知らず、顔をそらせていた。


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