その沈黙が一瞬であったような気もするし、とても長い時間だった様な気もした。 ひんやりと着物の袷から、夜の気が忍び込む。汗ばんでいた肌がそれを吸い取り、美祢の身体がぶるっと震えた。 「――あんた、いつまでそこにいるつもりだい?」 美祢の声が地を這うように男に届く。彼は思わずびくっと身体全体を震わせた。 「…は、はいっ…!」 「す、すみませんっ! 今、すぐっ…」 あまりに慌てているので、何度も何度も大きな手から薪がこぼれる。手を伸ばしてそれを再び取ろうとすると、胸に抱えたものが転がったりして。どうにもこうにも仕事ははかどらない。 その滑稽とも思える姿を美祢はあられもない格好のまま、静かに見下ろしていた。
西南の集落は土間にそのまま敷物を敷いて休む。美祢も例外ではなかった。ただ、しとね用の敷物はいくらかの高さがある。男はいつでも美祢よりも視線が高くならないように礼を尽くしていた。田舎者が一丁前に、と思ったが、この頃では自分にそんな風に接してくれる者もないから、心地よくもあった。こんなに混乱した場でも彼はその態度を崩さない。 美祢の心には優越感が形を変えた得体の知れないものが広がっていた。
「…待ちな?」 その短い言葉に、男はまた、びくっとして止まる。膝を付いて俯いたまま。粗末な衣服の肩ががたがたと震えている。美祢は心がすっと前に出て、自分の胸から飛び出していく感覚に襲われた。そして、次の瞬間に自分でも信じられない言葉が飛び出す。 「ちょっと、ここまで来な?」 「……は…?」 「早くっ! 来なって言ってるだろ? たかが、これくらいのことで、言葉も分からなくなっちまったのかい!?」 「ええっ…、そんな…っ!」 美祢の怒鳴り声に弾かれて、彼が飛ぶ様に後退する。とんでもないことで、従うことは出来ないと言った様子だ。美祢はちっと舌打ちをした。 それから。 先ほど慌ててかけた小袖を、するりと落とす。心なしか胸を張ったので、その弾みでふるんと形よい豊かな胸が揺れた。 「…うっ…!」 「来なって、言ってんのが分からないのかい!? このまま言うことを聞かないのなら、これからすぐに御館様のところに行って、あんたのことをひどく言ってやってもいいんだよっ!!」 自分でも、どうしてこんなことを言っているのか分からない。でも美祢はもう我を忘れて、必死で言葉を叫んでいた。 「あんたの女房や子供たちに、二度と会えないようにしてやることだって朝飯前なんだ。分かってんだろうね!?」 「え…っ!?」 「そ、それはっ。困りますっ、それだけは…っ!!」 「…なら」 「おとなしく、言うことを聞くんだね」 その声に弾かれて、また男の身体が大きく揺れた。でも、さすがに逃げ場がないと思い知ったのだろう。見えない糸に引き寄せられるように、すすすっと膝で地ををすりながら美祢の前までやってきた。 「こっ、これで宜しいでしょうかっ…」 みすぼらしい身なりの男。でも少しも不潔には感じなかった。 美祢はおもむろに男の右手を取った。そして、その手のひらをそのまま自分のあらわになった胸に押し当てた。 「…なっ…!?」 「な、何をなさるんですか!? 美祢様っ…」 高貴な方の情婦に触れるなどと言うことはあってはならないことだ。どんな風に処罰が下るか知れない。湯浴みの場を偶然見てしまった者がその場で斬り殺されることすらあるのだ。 「…ふっ…」 「…口止め料だよ? いいよ、好きなだけ触っても…」 「私を、満足させたら許してやる。半端なことしたら、ひどいことになるからね?」 男の頬ががくがくと音を立てて揺れる。間近で見るその目は灰緑だった。そこに吸い付く笑みを投げつけた。すると、灰緑の奥から、揺らめくものが浮かび上がった。 「…はっ、はあっ…!!」 がばっと体勢が入れ替わる。美祢は自分の落とした衣の上に仰向けに倒れた。男がその上にのしかかる。そして、両方の手で美祢の胸を鷲掴みにした。 「痛っ…!!」 「何だよっ! 力任せにやりゃいいってもんじゃ、ないだろ!? いつも女房に宜しくやってたようにしてみろっ…!」 「あ…」 くっきりと白い肌に赤く指の跡が付いていた。所々、爪が引っかかって擦り傷になっている。長い年月、誰にも触れられなかった肌は少しの力にも敏感に反応してしまう。 「す、すみませんっ…!」 男は剥がしたその手を腰の後ろに除けようとした。その手首を美祢は再び素早く掴む。男がのろのろと顔を上げた。青ざめた、と言うより、もう白い顔になっている。美祢はその死化粧のような顔を視線でなぞって、妖艶に微笑んだ。鏡の前では何度もしてみたひとり笑い。相手を前にして、ようやく見せることが出来た。 「最初は。やわらかく、指の先で周りから真ん中に揉み上げてみな? ほぐれてきたら、少し強くしても平気だから…ね?」 「あ…ふっ…んっ…、はあっ…!」 「ねえ…いいよ、吸ってごらんよ?」 「え…? あのっ…!?」 男は本当に困ったようで、美祢に身体を押さえられながらも出来るだけ身を剥がそうとした。すぐそこに、厚いぽってりした唇があるのに。それなのに、男は口を一文字にして、かぶりを振る。何をそんなに遠慮することがあるのだ? もうここまで来たら同じことだと思うのに。 「ほらっ!?」 「うっ…うぐっ…!?」 「赤子が乳を吸うようにやりゃいいんだろ? 何、今更純ぶってんだい? いいだろ? 欲しいだろ…もうご無沙汰してんだろうから…」
男は半年の任期でここに来ていると言っていた。あと一月足らずで村に戻れる。その間、里帰りなんて一度もさせて貰えることはなく、家族とは離ればなれだ。どんなにか会いたいだろう。それに遊女小屋で遊べるような身分ではないから、女には飢えているはずだ。 このままにされるのは美祢としても耐えられなかった。今の状態でも、長いこと味わったことのない波に飲まれてクラクラしている。呼吸も乱れて苦しい。でも、どうせなら、もっと高いところまで行きたい。高く高くのぼりつめて、すべてを忘れてしまいたい。
男の片腕が美祢の背に回り、そっと支えられた。ずるっと後ろに倒されて、まっすぐな視線に食い入るように見つめられる。 「…な、何だよっ!?」 目の前の男の喉仏がごくんと動いた。唇が音を立てずに動く。 そっと。美祢の胸先を男の赤黒い唇が絡め取った。 「…あっ…! い、いやぁっ…!」 次の瞬間、美祢を捉えた舌が外れた。 「す、すみませんっ…!」 美祢の細い身体を振り解こうとする太い腕。乱れた衣から覗いた胸板。目の前にいるのは、どこから見ても立派な男なのに、可哀想なくらい美祢に遠慮する。もどかしくて仕方ない。美祢の行き着きたいところに、どうして一気に連れて行ってくれないのだろう…? 「やっ…、やめなくて、いいからっ…!」 苦しくて、やるせなくて仕方ない。でも女として燃え尽きたい。手に届きそうになっているあの場所に行きたい。どうしても、今すぐに…っ! 美祢は男の胸に顔を埋めて首筋にしがみついた。 「い…いいから。やめなくて、いいから…」 吐き出す息が苦しい。自分がどんな顔をしているのか分からない。視界が滲んでいる気がする。泣くなんて、そんなこと私があるわけないのだ。若様の愛妾なのだ。あまたの女たちの中で、誰よりも愛されたのだ。あのお方が来られるまでは、誰から見ても一の君だったのだから…。 激しい鼓動が胸を打つ。でもその音がどちらから生み出されているものなのだろうか。美祢には判断がつかなかった。それくらい、お互いの呼吸が荒くて、生々しかったのだ。 「う…んっ…!」 「あっ…、はっ、はぁっ…!」 乱れて髪が四方に広がる。手入れを欠かさない美しい帯は、夜の闇に揺らめき、美しい流れを描いた。 「い、いいっ! そのまま…、もっとっ…!!」 「ああっ…、ああんっ…! うん…っ! あ、ああっ…! あああっ…!!」 ぐんぐんと、その場所に上昇する。たかだか胸への愛撫じゃないか。こんなにも感じるなんて、自分はどこまで堕ちてしまったのだろう…。 美祢は男の腕の中で大きく身をのけぞらせて、果てた。
…水のしたたる音がする。そう思いながらも身体が動かない。首をぐるりとその方向に回す。しとねに横たわったまま、うつらうつらしていたらしい。 「あっ…!」 男が桶の中の手ぬぐいを静かにゆすいでいた。美祢のそんな態度にも全く動じず、静かに笑みをたたえて面を上げた。 「な、…なにっ!?」 しかし、男はと言えば。憎たらしいくらい、ふつう通りだ。 「湯を…温めて参りました。お使いください」 「お休みなさいませ」 「…ねえ?」 でも、美祢には身体に残る確かな感覚がある。男が美祢にしたことを忘れられるわけはない。それをうっとりと思い出すだけの余裕もないが。彼女はわざとぶっきらぼうに問うた。 「あんた、名は? …何て言うの?」 そんなこと、聞くこともないと思っていたのに。名乗る必要もないような下々の者なのに。なんだか急に聞いてみたくなった。 男の方も、意外だったのだろう。目を大きく見開いて、小さく息を吐いた。 「…伽呂(カロ)、伽呂と申します。美祢様…」 …そう、下がっていいよ。美祢が言葉をかける前に、男は「お休みなさいませ」ともう一度頭を深々と下げると静かに下がっていった。
嵐が吹き荒れて、過ぎただけのことだった。次の日からも、日に三度の膳の上げ下げの為だけに男はやってくる。ただ、ひとつだけ違うのは、美祢が男を名で呼ぶようになったことだった。 男は土方仕事をして、泥まみれになっているはずだが、美祢の居室に来るときにはきちんと身ぎれいにしてくる。これには美祢も感心した。あまりに汚らしいなりだったら美祢も躊躇したかも知れない。でもぼろではあるが、手入れの行き届いた着物を身にまとい、控えめに礼を尽くしてくれる。
そうは言っても。しばらく経つと、あの激しい夜の記憶が蘇る。波に飲まれていく自分。溺れそうになってしがみつく身体。思ったよりもずっと逞しくて、いつまでもすがっていたかった。 男は、伽呂は決して自分から、欲求してくることはなかった。だから美祢が若様の愛妾であったという過去の誇りを捨てて誘うしかなかった。なかなか出来るものではない。でも、焦がれる身がもう耐えられなくなった7日目に、寝所に彼を呼んだ。 男が去った後に、まるで水たまりに腰を落としたように袴が濡れているのが恥ずかしかった。
7日が3日になる。次は2日も待てなくなる。自分でもどうしていいのか分からない。でも求めずにはいられなかった。快感の渦に巻き込まれるときだけが、美祢を何も憂いのない場所に辿り着かせてくれた。
それでも。美祢が大きくのぼりつめると、男はあっさりと身を引く。最初から、美祢の身体になど何も執着がないように。当たり前に去っていく。
我を忘れてすがりついたときに、袷に固いものを感じた。後になってから聞いてみると、それは護り袋だという。女房が村を出るときに持たせてくれたのだと告げる顔が少し赤らんで見えて、美祢は知らず、顔をそらせていた。 |