TopNovel>浮の葉語り・3


…3…

 

 冬の訪れを告げる気は、細く切るようにこの地を流れ始める。暖かな土地とされている西南もそれなりに寒波はやってくるのだ。そして、それは美祢にとって、もうひとつ別の意味で恐ろしい時間になる。

 

「…う…っ…?」
 夜が明けたことにぼんやりと気付いて、床を上げようとして。その朝、確かな異変に気付いていた。支えにしようとした腕に力が入らずによろけてしとねに身を打ち付けてしまう。

 …来た、か?

 とっさのことで、庇えずに冷たいござに打ち付けてしまった頬のじんじんと広がる痛みを感じながら、美祢は胸の内でぼんやりと反芻した。

 そして、明け放った窓から外を見る。今日は遙か天空のかの地でも明るさがないようだ。じめっとした灰色の天井が揺らめいている。明るく照らし出されない冬の庭はさらに物寂しい。今朝は表に人通りもない。


 かたん、としばらくして戸口に何かが当たる音がした。

 ああ、伽呂だ。彼が来たのだと思った。朝、自分の仕事が始まる前に配膳所から膳を運んできてくれる。その時間は時によっては美祢がまだ寝ているので、上がりの間に姿が見えないときは、そのまま置いていくのだ。
 あんなことがあって以来、彼は二度と寝所を覗こうとしなかった。もちろん美祢が誘えば来るが、自分からは。

 実際の所、生娘でもなければ、決まった男がいるわけでもない。まだまだ適齢期も過ぎてないというのに、寡婦のように余生を過ごしている身だ。取り立てて、騒ぎ立てるほどのことでもなかったと美祢は思っていた。でも男の申し訳なさそうな表情を見るのは厭ではない。そんなことでも認められ、大切にされると思えば気が晴れるのだ。
 御館様の新しい庭園は着々と完成に近づいている。はじめに言葉を交わしたとき、後一月ほどで村に戻ると伽呂は言っていた。多少、日程が延びているようではあるが、それでも程なくなのかも知れない。もうその日数を数える気もなくなっていた。

 無理をしないほうがいいだろうと考え、もう一度しとねに横たわる。頭がぎゅうっと押さえつけられるように痛んだ。額にやった指ががくがくと震える。それでも厚めの重ねをしっかりとかけて、もう一度まどろんだ。

 

………


 すうっと、吸い込まれそうになり。そしてまた、ふっと目覚め。浅いところでそんなことを繰り返していた。波間を漂っているかのようだ。からからに乾いて朽ち果てた一片の落ち葉のように。

 支えてくれる者もない、自らを支える術もない。…もう、どこにも行くことが出来ないのだ。それは自分の今の状況を知らしめているようにも思えたし、この先の人生そのもののようにも思えた。

 赤くて、禍々しいものが大波になって美祢を取り込もうとする。それから逃れようとする気力もないのだ。もう欲しければ持っていけばいい、私だって欲しくもないんだから、こんな身体っ…! そう叫んでやろうと思ったが、からからに乾いてしまった喉は苦しい息を絞り出すことしか出来なかった。

 

 ああ、苦しい。息が出来ないっ…! そう思って眠りの縁から目覚めた。額の辺りがぼうっとして、ものを考えられない。

 気付けば、辺りはすっかりと夕闇に包み込まれていた。

「くっ…、はあっ…!」

 喉の奥に何かが詰まっている。満足に呼吸することも出来ない。ようやく身を起こした自分の身が焼けるように熱い。早朝に感じていた予兆は確かなものになって美祢を覆い尽くしていた。朝も昼も膳に手を付けていない。多分、このままでは夜も食べられる状況ではない。上がり口に置かれている二つの膳が見えてくるようだ。食べ物を粗末にするのは申し訳がないと思うが、無理に食べても吐いてしまうだろう。

 運んでくれることがすまないから、明日からは来なくていいと言おうか? …そうしたら、彼もせいせいするだろうか。

 

 とんでもない女の戯言に付き合わされて男も内心、困り果てているのだろう。そんな態度は微塵も見せないが。
 ほんの気まぐれで、男を囲ってみた。金にものを言わせて、こんな行為に出たことは今までなかった。まあ、春までは若様がこの地にいらっしゃったのだ。いくら顧みられることのない側女とはいえ、そんなことが出来るはずもない。御手が付いてしまえば、もうその方のものになってしまう。自らの意志など関係なく。そんな風に生きてきた自分のささやかな逆襲だったのかも知れない。

 手仕事をしているときも笑みを絶やさない口元。そんな彼の傍らでぼんやりとすすけた敷物が生き返っていく様を見ていた。伽呂は丁寧にイグサを一本ずつ編み目に通していく。そして、無骨な指からは想像も出来ない技でこの継ぎ目が見えないように見事に繕っていくのだ。

「巧いもんだねえ…」
 美祢も自分だけぼんやりしているのも情けないので、気付くと伽呂の隣りで縫い物などをしていた。針を繕い物以外に持つなんて、もうしばらくなかったことだ。

 若様が元服されて。この居室で美祢と共にお暮らしになるようになって。それからずっとお召し物のお世話をしていた。美祢は明るく華やかな衣が好きで、ついついそういうものを選んでしまう。しかし、若様はその色目を本当に美しく着こなして下さった。
 年賀の晴れ着を仕立てたときは、あまりの見事さにぞくぞくした。美祢の手が素晴らしいわけではなく、お召しになった若様がご立派なのだ。そうは思っても嬉しくて誇らしかった。若様はいつでも美祢の仕立てる衣を好んで身につけて下さった。

 久しぶりに選んだ布はがさがさとした、あまり上等のものではなかった。針も通りにくくて扱いが難しい。懐かしい父親の遺品を出して、その仕立て方を眺めた。庶民の衣とお上の方々の衣はかたちも色目もすべてが異なる。美祢などはいくら着飾ろうとも、高貴な御方には敵うべくもない。御領地一の綺麗所、と呼ばれてもその程度なのだ。

 閨の行為も、そんな男の心を映し出すようなものだった。決して自分本位にことを急ぐことはしない。指先で柔らかくほぐしながら、徐々に力を込めていく。しっとりと吸い付く手のひらが、じんわりとぬくもりを伝えてくる。
 熱い吐息と共に唇が吸い付いてくる頃には、頭の中は朦朧とし、体中が歓喜に沸き立っていた。自分が女であることをこんな風に柔らかく思い起こさせてくれる。ひとりの行為のときには望んでも届かなかった場所に何度も何度も突き上げられていく。自ら男の身体に腕を回し、さらに激しい行為を求めた。
 それでも彼はじわじわと時間をかけて愛撫を続けた。

「私を、満足させたら許してやる。半端なことしたら、ひどいことになるからね?」

 …確かにそう言った。だから忠実に守ってくれているのか? そう思うしかなかった。そう思わないとひとりで行為に溺れている自分が惨めになるから。

 造園の仕事をしているのだから、泥と水にまみれた生活をしているはずだ。上がってから、身を清めると言っても湯を使えるわけではない。どうしているのかと問うと遣り水を少し頂いているという。滾々と湧き出るそれは今の時節はもう相当に冷たいはずだ。でも彼はそんな風にして汚れを落とし、自分の元に来てくれる。
 きらびやかに着飾るだけが能ではない。こんな風にこざっぱりと身だしなみを整える方法もあるのだ。伽呂を見ていると今までに気付かなかったことがいろいろと見えてきた。

 

 明日からは来なくていい、そう言ってしまおうか…? 考えたら、鼻先がじんとした。でもそんな想いに浸る暇もなく、ぞくぞくと背筋が震える。身体の奥がカッと燃えだしてくる。もうどうにもならない。

 …どうしよう…っ!

 美祢はふらふらと上体を泳がせると、両手を床について四つんばいになった。そろそろと身体を動かす。ほんの少しの動きで身体の節々が痛んで、声にならない悲鳴を上げる。どくどくと何かが体の中で暴れ回る。

 それが、ぐっと喉を詰まらせたと思った瞬間。花色の口元から不似合いな赤黒いものが、どくっと吐き出された。

「…ぐっ…、ぐぇっ…!」
 それは栓が取れたように、後から後から流れ出てくる。身体の中のすべてが出て行ってしまいそうだ。嘔吐した後の鳥肌の立つ余韻に美祢は身体を大きく震わせた。

 涙で視界がぼんやりと霞む。しばらくは呼吸を整えていたが、赤く染まった土間と衣を見ていると、これをどうにかしなければ、と言う焦りが出てきた。

 もうしばらくしたら、伽呂が夕餉の膳を持ってきてしまう。二つの手を付けないままのものが並んでいれば、さすがの彼も怪しむだろう。そして寝所を覗けば、見つかってしまう。このような姿は誰にも見られたくはなかった。

 早く片づけなければ…っ! そう思うのに、身体が動かない。それどころか支える腕も心許なくて、自分で作った血溜まりの中に顔から倒れ込んでいった。ずちゃ、と鈍い音がして、熱く焼ける身体が何故かしんしんと冷えていく。指先が冷たい。なのに身体の奥は熱い。

 …もう…。このままでいいのかも知れない。

 自分が何のために起きあがったのか、もう思い出せなかった。

 

………


「…美祢様…!?」
 どこか遠くで、乱暴に膳が置かれる音がする。本当に遠く遠く遙かな音にしか思えなかった。

 戸口まで臭ってしまったのか、男は何の躊躇もなく、どかどかと寝所に踏み込んできた。耳元でその物音を聞いているのに、起きあがることも、声を出すことも出来なかった。

「大丈夫ですか…!! 一体っ…!?」
 赤く流れたものに身を置いた自分は、どんなにかおぞましいだろう。それなのに、伽呂はすぐに美祢の身体をぐっと抱き起こしてくれた。首にかけていた手ぬぐいで、汚れた頬を拭ってくれる。ゆるゆると瞼を開けると、蒼白な表情がそれでも自分を心配して気遣ってくれているのが分かった。

「…か…」
 男の名を呼ぼうと思った。でも、声が出ない。手を伸ばして触れたいと思っても、身体が動かない。彼は自分の衣が汚れるのもかまわず、美祢をしっかりと抱きしめてくれた。

「まさか…、あのっ、美祢様は…!?」
 伽呂が美祢の小袖の袖口をそっとたくし上げた。あらわになる白い腕。そこに見えるもの。その姿を見て、彼も気付いたのだろう。抱きしめた腕がぎゅっと固くなるのが分かった。美祢が思い描いていたのと同じ反応だった。

 もうすべてが終わった、と思った。

「…った、ろ…っ!」
 どうにかして言葉を出したいのに、声にならない。もどかしさで身体をよじり、あたたかい腕から逃れた。

「美祢――」
 伽呂ははじけ飛んだものを追って、美祢の身体に覆い被さった。分かっているはずなのに、どうしてそんなことが出来るのか、理解できなかった。そんなに馬鹿なのか? そうではあるまい。彼には護るべき者も、帰る場所もあるのに。

「分かったろっ!? もういいからっ! …もう出て行っていいから…っ!」
 そう叫んだ美祢の目から、どっと熱いものが流れてきた。それを見られまいとして、慌てて袖で顔を覆う。早く伽呂が身を翻して出て行ってくれればいいと思った。

 声を殺して背を向けて気配を感じ取る。でも伽呂は出て行こうとはしない。震える呼吸が聞こえてくるが、確かにまだ間近にいる。どうしてなのだろう、分かっているはずなのに。あの反応はすべてを知っているはずなのに。

 やがて、彼のごくりと息を飲む音が、信じられないくらい大きく部屋に響き渡った。

「…とりあえず、横になって下さい、俺がその辺を始末しますから。あの、薬は? 常備しているものがあるのではないですか? それとも…どこかに…」

 どこまでも穏やかな声。震えているが、醜態に動揺したわけではなさそうだ。美祢には、もう何がなんだか理解できなかった。この男のおっとりとした落ち着きぶりにはいつでもイライラしたが、その怒りがどっと頂点に達した感じになる。

「もういいって、言ってんだろ!? 出て行っていいよ、無理なんかいいから…! …もう、もう…いいんだから…」
 たったこれだけの言葉を発するだけで、恐ろしいくらいに体力を消耗する。必死で地を掴んでいた手のひらが滑って、また、地にうずくまってしまった。

「美祢様っ…! 無理は行けません…!!」
 つかみ取る腕を振り解こうとするのに、そんな力も残っていない。美祢はすぐに伽呂の腕の中に捕らわれてしまった。

「は…っ! 離してっ!! 分かってんだろ!? 早く離れろよっ!! そばに来ないでっ!!」
 力の入らないままでもがく。視界に入る自らの手の甲がもうだいぶ色を変えているのが分かった。さっき、腕も見られた。確かめたはずだ。両親と同じ土地の生まれの者が、知らないわけがないのだ。

「離しませんよっ!! 駄目です、ちゃんと手当てしないと、本当に、命を落としますよっ!?」
 伽呂は美祢の訴えなど聞き入れる気もないままに、ぎゅっと自分の胸に震える身体を抱きすくめていった。我が身は焼けるような熱さであったから、外を歩いてきたその人の衣が救いのように心地よくて、ふっと気が遠くなってしまう。

「…分かって…るんだろ…?」
 力無く、呻く。声を出すのももどかしい。男のしていることが理解できなくて混乱する。

「分かってるのにっ…どうして――…」

「朱鷺(とき)の熱ですね…」
 伽呂の声はどこまでも穏やかだった。静かに言い含めるように美祢の胸に染みこんでいく。病の名を知っている、それなのに、どうして…?

「年に1回か2回、季節の変わり目に高熱が出て、内臓が溶け出るように吐血して。骨も痩せ細り、ガクガクになる病ですよね。年が経つにつれて…ひどくなる…身体に赤い斑点が出て――」

 そこまで言うと。彼は辛そうにはあっと息を吐いた。それからしばらく美祢をきつく抱きしめたまま、黙っていたが、ようやく口を開いて言い含めるように告げた。

「俺の…兄が。この病で死んだんです、今年の夏に。半月も苦しんで…最後はよほど辛かったのでしょう、その辺にあった懐刀で自分の胸を突いて…っ!」
 美祢を抱く指先にぐぐっと力が入った。

「駄目ですっ! 美祢様っ! 辛いことを考えると、病に負けてしまいますっ…、必ず良くなると、そう信じて下さい…そうでないと…!」

 その苦しみの告白を。美祢は大きく目を見開いて、静かに聞いていた。父から受け継いでしまった病。子供の頃から苦しんだ。発病すると御領地の外れの小屋に隔離されて、誰にも会わせて貰えなかった。うつる病ではないらしい。でもその醜態に忌み嫌われた。それでも両親や姉が生きている頃は世話をして貰えた。…でも。

 しばらく、悲痛な声をしっかりと受け止めていた美祢は、ややあって、ふっと顔を崩した。少しでも笑っているように見えたらいいなと思ったが、そう出来ている自信はなかった。

「…いいんだ…」

 自分でもびっくりするくらい静かに、そう言うことが出来た。

「もう、いいんだ。…ありがとう、あんた、優しいね。こんな何の関わりもないような女を気遣ってくれて…」
 ふうっと、熱い息を吐く。こちらを見つめている人の灰緑の瞳が揺らぐのが見えた。静かだった、もしかすると、お迎えが来たのかな、と思えるほどに…。つっと、熱いものが頬を流れ落ちた。

「今までね。今度こそもう駄目だ、もう駄目かも知れないって、ずっと熱を超えてきた。でも、もういいみたいだ…このまま、逝かせてくれ。黙って、捨てておいて…」

 弱々しく、見つめる。穏やかな瞳…それが揺らぐ。自分など見ていなくていいのに、すぐに立ち去って欲しいのに…っ! 美祢は最後の言葉を振り絞るように、声を発した。

「もう…私が良くなったって、喜んでくれる奴はいない。御館様にとっては、厄介者、若様は遠い都で正妻様と仲睦まじくお暮らしだ…もう、頼る者もない…」

 そうなのだ、本当にその通りだった。捨てられてしまった側女は生きながらえることすら、疎んじられる。でも自ら命を絶つようなことは出来っこない。そこまでの勇気はなかった。それに自分がはかなく散ったところで若様は悲しんでもくれぬだろう。それほどの情がある方なら、こんな風に自分をうち捨ててはいかなかったはずだ。
 それでも、愛していた。愛されなくても愛していた。だから、尽くしたし、お出でがなくなってからも、人々の嘲笑う声にも負けずにこの地に留まった。そんな風にして終わっていく人生だったのだ。それが自分の生き様だったのだ。

「な、何を、仰るんですかっ!?」
 伽呂の大きな手が美祢の肩を両方から鷲掴みにして、大きく揺すった。熱に冒された細い身体は、それだけでバラバラになるほどにきしんでいた。

「どうしてそんなことを仰るっ!! あなたはこれから未来のある御方じゃないですかっ! こんなにお美しくて、気高くてっ! この先だって、いくらでも良縁に恵まれます、…だから…っ!」

 必死になってくれるのは分かる。でも、もう何もかもが疎ましかった。そんなよそ者の、慰めなど、聞いても仕方ない。美祢が欲しかったのは、あの方の腕だ。あの方の笑顔だ。もうそれを得ることは出来ない。どうしたら手に入れられるのかも知らないままに、あの御方は去ってしまわれた。

「あんたに何が分かるっ!! …もういいって、言ってるだろっ! いいんだよっ! …いいんだから、とっとと出て行きなっ!!」

「美祢様――…」

 伽呂の目が、大きく見開かれてこちらを捉えている。柔らかい色、暖かいまなざし。この瞳の先にいるのは自分ではない。それは分かっている。

 一文字に結んだ口元が小さく揺れた。

「…俺が、ここにいましょう。お世話をする者がいなかったら、お困りになるでしょう…急に痛みが来ますから、そのときに手当てしなければ…」

「…え、…ええっ!?」

 今度の今度こそは。美祢は本当に自分の耳を信じることが出来なかった。あまりのことに身体の痛みを忘れて叫んでいた。

「何、出任せ言ってんだ!? そんなこと出来るはずないだろ? あんたは仕事がある、それが終われば村に戻るっ! そんな奴が、一時の出任せを言ってどうするんだっ!!」

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。とうとう下男以下の男にこんな風に情けを受けることになるとは。金で雇っただけの男がここまで忠義を感じることはないだろう。田舎者はこう言うところが素直であるのかも知れない。でも、自分の言ってることが、かえって相手を傷つけることもあると知らないのか?

 しかし、美祢が必死に抵抗しても伽呂の腕はゆるむことはなかった。

「仕事よりも、美祢様の御命の方がずっと大切ですっ! 生きていれば何でも出来るでしょう…? 死んでは駄目ですっ! あなたが生きながらえて下さるなら、それでいいんです…!」

「そんなっ…、出来っこないことをっ…」

 出稼ぎの農夫の身は現場を取り仕切る役人に委ねられている。仕事が辛くて逃げ出した者が、追っ手に斬り殺されても文句は言えないのだ。仕事はしても上役に気に入られなければ、折檻されることもある。さすがの美祢も彼がそうなってしまったら、助ける術はないのだ。

「無理…、大丈夫だから。ひとりでどうにかするから。…もう、いい。もう、いいから…」
 力無くかぶりを振る。自分の目から溢れ出た美しい水が辺りに舞い散る。男の優しさは痛いくらいよく分かった。だからもう、いいと思った。

「私は、大丈夫だから。今までもこうしてひとりでやってきたんだ、どうにかなるから…」

 もう、これ以上は駄目だ。これ以上、頼ったら駄目だ。必死で自分をつなぎ止める。それでも病に取り込まれそうになる身体は徐々に力を吸い取られていく。

「…出来るもんなら…」

 熱に浮かされる、と言うのだろう。自分の意志と関係のない所から言葉がこぼれてくる。

「…本当に、出来るもんなら、やってごらんよ?」

 そんなの、無理だろうけどね…、そう心の中で呟きながら見上げる。闇の向こうの顔が、淡く微笑んだ気がした。


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