TopNovel>浮の葉語り・4


…4…

 

 ふわりと、意識が浮上して。

 信じられないくらいすんなりと瞼が開いた。その心地よい軽さが美祢に今の状況を忘れさせる。ふっと起きあがろうとして、身体が全く動かないことに初めて気付いた。

「…うっ…!」
 動かそうとした腕の付け根がびりびりと音を立ててきしむ。あまりの痛みに呻くと、かさりと隣の部屋から音がした。

「お目覚めになられましたか?」
 そう言いながら入ってきた者を、とても不思議な感じで見つめる。そう言えば、この男は。でも…どうして。

 彼はそっと手にした膳を美祢の枕元に置いた。それから美祢の背に腕を差し入れて、当たり前のように上体を抱き起こしてくれる。おなかにきりっと痛みが走ったが、どうにか起きあがることが出来た。

「薬は棚から見つけさせて頂きました。くず粉を頂いて参りまして、砂糖粉と一緒に煮てみましたので…」

 ふわふわと湯気が上がった器。ぷうんと薬の匂いが鼻を突く。美祢は顔をしかめた。

「さあ、早く。お飲みになって下さい」
 言葉はやわらかいが、きっぱりとそう言われる。

 美祢はおずおずと器を受け取った。でもどうしても口が付けられない。この薬はずっと親しんだものだが好きではなかった。口の中に広がる刺すような苦みが自分の身の上の辛さを思い知らしてくれるようで。

「あんた、仕事は…?」
 成り行きを見守る視線を見つめ返す。器を持った手のひらがほんのりと温かい。分厚い器を通しても薬湯の温かさが伝わってくるのだ。

 衝立の向こうの窓からは昼の光が注ぎ込んでいる。朝ではない、角度が違う。自分の衣も昨夜のものではなかった。いつの間に改められたのだろう。彼が着替えさせたのか。でもそれを咎めるだけの余力は残っていなかった。

 美祢は器に口を寄せて、また離してしまう。これを飲めばしばらくは楽になる。それを知っていても身体が拒否してしまうのだ。思い切って、一口だけ含むと、じんわりと苦みが口内に広がって、体中が泡立った。そこにうっすらと汗が滲む。

「…これ、飲んだら。休むから、あんたは仕事に行って。こっちはどうにかなるから、あんたは仕事に行かなくては」

 よそ者だから、分かっていないのだろうか。出稼ぎの人夫が仕事を休んでいいわけはない。ちゃんとひとり分の仕事を分け与えられているのだ。簡単に休まれたりしたら、仕事全体が大幅に遅れてしまう。そうならないために秩序をしっかりとして、厳しい沙汰があるのだ。
 夜が明けて、半日も休ませてしまった。これだけでもどんなにか辛い仕打ちを受けるだろう。

「…いえ」
 美祢を優しく支える人が、静かにかぶりを振った。ごくごく近くで、彼のぱさついた前髪が揺れる。

「美祢様の病が完全に治るまでは、ここにいます」

 そのきっぱりと言い切る口調に、美祢は面を上げて、しっかりと男の顔を見た。どこまでも穏やかな瞳。小さいながらもその存在を感じさせる目でこちらを見ている。どうやって答えていいものか、美祢は頭の中をぐるぐると緩く回した。

 家に帰れなくなるよ、処罰を受けて、身体が動かなくなるかも知れない。あんたには、待っている人がいるのに…あんたが戻らなかったら悲しむ人がいるのに…。

 そう言えば、我に返ってくれるだろうか。でもそれは怖かった。自分の言葉の真意を男が先に口にする。

「薬を飲めば、必ず軽い発作が起きるでしょう? そのときにおそばにいて差し上げたい。いいのです、仕事なんて…」
 それから、ごくりと辛そうに息を呑んだ。

「俺は…兄を守れなかったから…」

 美祢はハッとして、器に視線を落とした。震える手で包んでいるせいで、器の中の濁った水はゆらゆらと波紋を描いている。

 

 この男は。兄を死なせてしまったその償いをしたいと思っているのだ。そんなことをしても仕方ないのに。それでも自分を介抱することでその罪から逃れたいのだ。

 正直言って、病に負けてしまいたいと思った。若様が都に去ってしばらくは、こらえ性のない御方がすぐに戻ってくるだろうと思っていた。だから、ここでお待ち申し上げたいと思った。他の側女たちのように戻る家もない。この居室で過ごすしかないのだ。

 もう、若様はお戻りにならない。美祢は二つの季節を過ごして、そう確信した。

 男は分かっていないのだろうか。彼が介抱した美祢が一時、健康を取り戻す。でも次の春に秋に、また同じような症状は出る。そのとき、確実に美祢は死ぬのだ。今回だって、こうして男が来てくれなかったら、今頃はあの世に行っていたかも知れない。
 一人きりで病の中に引きずり込まれるその恐怖を、また味わえと言うのか。そうすることによって、彼は救われようとするのか。

 

 薬湯の表面に、美祢の乾いた笑みが映った。

 …それも、いいかも知れない。

 どうして、笑えるのか。自分でも分からなかった。でもおかしくて、おかしくて、くくくっと笑いがこみ上げてくる。自分に対して毒づく、すさんだ心で。

「…美祢様?」

 不思議そうにこちらをのぞき込む男の前で、美祢は一気に苦い湯を飲み干した。途端に、身体が疼き、激しい咳が始まる。何しろ薬なのだから、病を一時重くして免疫を付ける。そのために、薬の後は熱が上がり、ひときわ苦しいのだ。そのあと、嘘のように楽にはなるが。

「大丈夫ですか?」
 背中をさすってくれる手のひら。熱くて大きくてぽってりしていて。その温かさが心地よい。美祢は弱々しい笑顔で男を見つめた。

「…少し、横になりたい」

 男は小さく頷くと、元のように美祢をしとねに横たえてくれた。美祢は背中から離れた手をそっと自分の手で取った。男の手が、腕ごとぴくっと揺れる。でも、彼は何も言わなかった。

 

 …いいだろう、この男の好きにさせてやろう。この男は自分をとても大切にしてくれる。兄への償いをしたいと言うなら、させてやろうじゃないか。そしたら、自分も成仏できるかも知れない。

 病のせいか、仏の心地になっていく。若様が去った後、どんなにか辛かったか。それをこの男で繰り返すのか。それもいいのだ、そうすれば、この世にますます未練はなくなる。

 

「…眠るよ」
 人肌が恋しかった。しっかりと指と指を絡めて、自分の胸の上に置く。美祢は優しい視線に見守られながら、そっと目を閉じた。

 

………


「…うっ、…ふっ!」
 次に目覚めたのは、自分の内側から巻き上がる嵐に耐えきれなくなったからであった。瞼をしっかりと閉じたまま、胸を掻きむしる。薬の副作用が出たのだ。いつものことなのに、喉の壁が四方から張り付いて息の出来ないほどの辛さだ。

「美祢様っ!」
 すぐそこに居たのか。伽呂の声がして、すぐにその腕に抱き起こされた。起きあがった方が少しは楽だ。美祢は脂汗の浮いた額を彼のごわごわした水干の胸に埋めて、呼吸を荒くしていた。大きな手のひらが、絶えず背をさすってくれる。

「…っく…!」
 大きな波が来る。美祢は伽呂の背にしっかりと腕を回した。何かにしがみついていないと、気が狂ってしまいそうだ。

「美祢様っ…、美祢様…!」

 男は繰り返し美祢の名を呼びながら、背中をさする。荒い呼吸の中で、息が出来ないほどの痛みの中で、それでも温かいものが自分を包んでくれるということが美祢をホッとさせた。
 体中が心臓になってしまったように、どくどくと波打つ。血管の流れの音か、それとも身体の痛みなのか。呼吸を整えることも出来なくて、うっすらと涙がにじむ。

「…苦しい…っ!」
 どうしたらこの痛みから逃れることが出来るのだろう。その方法を見つけられぬままに大きくかぶりを振る。しがみついていた大きな体がひときわ大きく揺れた。

「…お可哀想に…」

 その、絞り出す声を。美祢は呆然と聞いていた。自分が憐れみの言葉をかけられたことも意外だったが、それにもまして、彼の声色が信じられなかったのだ。

 ――伽呂は、泣いている。

 微かな嗚咽。発作に苦しむ美祢をしっかりと抱きしめて、彼は静かに悲しみに覆われていた。

「伽呂…」
 すううっと、痛みが去る。いや、それは美祢の錯覚だったのかも知れない。でも男の行動は美祢にすべてを忘れさせるのに十分だった。

 

 お可哀想に。

 その言葉は過去に何度も聞いていた。若様の愛妾であった女子がこんな風にうち捨てられて余生を過ごしている、そのことについて、陰でも表でも周囲の者はそう口にした。しかし、その言葉の奥に何があるのかも分かっていた。彼らの心根にあるのは同情ではなく、嘲笑だ。
 男にすがり、その恩恵に与った者がやがて侘びしい人生を送る。その姿が他の者に優越感を感じさせるのだ。

 

 しかし、伽呂の言葉にはそんな刃は感じられなかった。あるのは美祢に対する温かい心だけだったのだ。それがよく分かるから、美祢は驚いていたのであった。

 …どうして?

 何を悲しんでいるのだろう。悲しむ必要なんてないのに。若様に捨てられた自分が病に苦しんでいても男には関係ないのに。

 

 里に残してきた妻が居るのだ。気だてが良くて、村人の誰からも好かれていて。子も何人もなして。自分からは進んで話さないが、美祢がなんとなしに聞くと、恥ずかしそうに語り出す。夢を見ているような甘い音色で。そんな姿を目の当たりにするたびに、愛される者と愛されぬ者との立場の違いを感じる。もちろんそんな心内をおくびにも出さないが。

 この男に触れると何かで切られている気がする。閨に呼ぶたびに冷や水をかけられるような後ろめたさを感じる。何を遠慮する必要があるのだと思いつつも、やめられない。若様の寵を争っていた頃はあまたの女子たちを蹴落として生きていた、それが当たり前だったのに。たかが村の女にどういうことだろう。

 それが自分たちの関係を深いところまで突き落とせない理由になっているのか。美祢の身体にしゃぶりつき、甘いうめき声を上げながら、男は決して美祢の袴の帯を解こうとはしなかった。
 悔しかった。でもそこを超えてしまったら、自分がどうなってしまうか分からない。愛情ではない、単なる性愛だと思う。でも確かにすがっている。どこから見ても、自分は惨めな女子だ。

 

 美祢は軽く吐息を漏らすと、少し身じろぎした。緩んだ腕の中で、ゆっくりと胸元の袷を広げる。

「…美祢様…?」
 あらわにさせる美しい丘陵に伽呂の視線が届く。それだけでくすぐったくて、胸の頂がうずく。美祢はうっすらと口元に笑みを浮かべた。

「…吸っていいよ」
 静かに背を弓なりにする。少しでも近づけるために。誘うように。

「な…、何を仰るんです!?」
 彼は大きく首を回して顔を背けると、美祢の襟元を必死でたくし寄せる。

「駄目ですっ! こんな…」
 涙目のまま、青ざめてうろたえている。どうしてなのだろうと、不思議な気がした。

「欲しいだろ…?」

 いつもそうじゃないか。どんなに躊躇しても、美祢が衣を肩から落とせば、飛びつくように吸い寄せられてくる。男は女子の身体を見れば抱きたくなるのだろう。この身体は若々しく、美しい。他の女子の裸体などあまり見たこともないが、あれだけ若様がご執心なさったのだ、そうなのだろうと思っていた。この身体を武器にしてなめらかに生きてきた。

「駄目ですっ!」
 襟元をぐっと押さえつけたまま、大きく首を振る。美祢はハッとして、自分のあらわになった襟元を見た。

 そこまで、青黒い斑点が見えていた。それに気付いたとき、男の態度の意味が分かった。美祢は伽呂の手を払い、自分で胸元を押さえた。そして、すっと横を向く。心は惨めさに突き落とされていた。

「ごめん…見たくなかったね」
 体中に浮かんでしまう斑点はうつるものではないと知っても気持ちの悪いものである。実の家族ですら、触れるのをいやがっているのが子供心ながら分かった。

 そのような病だと知っているのに、介抱してくれる。その優しさは嬉しかった。だが、この男でもここまでだ。さらなるものを望んではならない。金品を与える以外に、男を喜ばせる方法はこれしか知らない。自らの肢体で悦ばせることしか。

「そんなっ…! そのようなことは、…でもっ…」
 心に吹き込んだものに、がくっと身体が落ちたのが分かったのか。伽呂は慌てて取り繕う。

「…無理しなくていいから。もう寝かせてくれ」
 汗の浮かんだ額に夜の冷たい気が当たってぞくぞくする。ようやく今が夜だと言うことに気付く。一日をけだるくうなされながら過ごしてしまったのか。あと幾日、こんな時間を過ごせばいいのだろうか。美祢は血が滲むほどに唇を噛みしめた。

「…美祢様…」
 伽呂は美祢を腕の中に抱いたままで、途方に暮れたように呟いた。それから、熱く息を吐き出すと、そっと美祢の胸に小袖の上から寄り添った。

「もちろん、欲しいです。でも、駄目です…こんなに辛いのに…その上に。…出来ませんっ!」

 彼は美祢をしとねにおろすと、触れるか触れないかのギリギリに覆い被さってきた。

「…伽呂?」
 頬に飛んできたのは、確かに彼の落とした水だ。ぼたぼたと音を立てる。間違いない、これは自分の為にこぼれた水だ。

 美祢はそっとその頬に手を伸ばした。ぴくんと反応した頬が、ゆっくり動く。

「お元気になられてください、余計なことは考えなくて宜しいですから…おそばにいますから」

 その声が、温かさが、指先に伝わってきた。

 

………


「…何をしてたんだい?」

 ややあって、彼が顔を拭う頃。美祢の発作もだいぶ治まっていた。息が楽になる。

 ちらちらと寝所の壁際に燭台の灯りが揺れる。壁に照らし返された男の影法師が大きく浮かび上がっていた。
 彼が座っていた敷物の周りに木くずが散らばっている。何かを彫っていたのか?

「あ、…いえ…」
 伽呂は恥ずかしそうに首を振りながら、それでも横たわる美祢のためにその鼻先までそれを差し出した。

「…駒?」
 木の切れ端を彫りだして作っていたのか。繰り返し文様を描きながら、それは完成に近かった。

「俺の里は、貧しいですから。玩具なんて、作るしかなくて…だから、こう言うのだけは出来るんです。あそこの物売りに頼まれて」

 …ああ、と思う。初めてこの男を見たときに出ていた出店か。子供用の綺麗な玩具をうっとりと眺めていた横顔を思い出す。この男は里でこんな風に子供にいろいろとこしらえていたのか。暖かい囲炉裏端で、女房が繕い物をする。その脇に胡座をくんで座り、戯れてくる子供らをあやしながら、男は手仕事を進めるのだ。

 飴色に浮かび上がる情景が、美祢と男を触れ合えない距離まで引き離す。

 

 ついっと冷たいものが身体を流れていく。美祢は仰向けに向き直ると、そっと目を閉じた。

「…私ね」

 自分の声が宙に浮かび上がる。何もかもが口から吐き出される気がする。そして、一番奥のものが。さりさりと木を削る音が耳に届く。規則的な音。この男が生み出す音は何もかもがやわらかくあたたかい。

「一度、身籠もったことがあったんだ」
 耳に届いていた音が途切れる。沈黙のままに。美祢は横たわったまま胸の前で手を組んだ。

「もちろん…すぐに流れてしまって。お務めで余所に行かれていた若様には告げる間もなかった。…でも、嬉しくてねえ。若様のものになって何年もたってようやくだったし…それでいろいろ手当たり次第に揃えてしまってね。今になって思い起こすと自分でも滑稽で…でも捨てられないんだよね」

 小さな行李の中に封印したささやかな幸せ。それこそが美祢の人生の光りだった。この男を見たときに、それを手放してもいいと思った。あの横顔に、夢を乗せてみたいと思ったのか。この男になら、儚い夢の残骸でも愛おしんで貰えるのではないかと。

 意識したものではなかった、でもそうだったのだと今は思う。

「まだ、私の身体がきちんとしていなかったんだろうね。…またすぐにでも出来るのだろうと思っていたけど。その後、程なくして正妻様がいらっしゃって…その後は、もう…ね」

 深く深く、息を吐く。すべての身体のつかえを取り除くように。吐き出していくのに、あたたかいもので胸が満たされていく。閉ざした瞼の奥に映る燭台のオレンジの炎。

「あの子が。もしもきちんと産まれていたら、私はどんな風になっていたんだろうね…」

 考えたことがなかったと言えば、嘘になる。若様は正妻様を頂いて、その御方が程なくご懐妊されて。初めての、そしてお世継ぎである御子様がご誕生された。美しい衣をまとい、無邪気に戯れるお小さいお姿を何度も遠目に眺めた。羨ましいと思いたくなかった。思ったら、自分が惨めになる。それは分かっている――でも…。

「…美祢様…っ!」

 伽呂の声がすぐにそばで聞こえた。彼の座る敷物は美祢のしとねからは少し離れたところにあったので、彼はそこに居たはずだ。音もなく、いつのまにか、そばまで来ていた。彼はすんなりと美祢の閉ざしたところに入り込む。無骨で頼りない外見とは裏腹に、信じられないほどのやわらかさで。

 

 味わったことのない感情が美祢の中に広がる。薄く色づいていく、何もかもが。

 どうして、こんな風に思うのだろう。自分の人生なんて、悲しいばかりなのに。高貴な御方の寵を受け、捨てられて。その後の女子の人生なんて、廃れて行くだけだ。それを、悟られぬように必死で取り繕ってきた。それが当たり前になっていた。そんな風に朽ち果てていくのだと信じていた。

 

 あたたかい存在が、美祢の手を取る。ゆるゆると瞼を開く。乾いたはずの彼の頬がまた濡れていた。

「…あんたは…」
 美祢は思わず、苦笑した。笑うところではないと思っても、笑みがこぼれてくる。そのくらい温かかった。

「私のために、泣いてくれるんだね。…嬉しいよ、これで…あの子もうかばれるね」

 初冬の夜半。外の気は凍り付いて、しゃらしゃらと戸口に当たる。そんな冷え切った時間に美祢の心だけはほっかりとしている。一瞬の夢とはこのようなものを言うのだろう。美祢は確かにそのとき、やわらかく満たされていた。


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