伽呂の言葉は語尾が少し上がる。そのちょっと空に浮いた音が何とも言えずに温かい。お国訛りなんだろう、美祢の両親もそんな風だった。 自分の名前を呼ばれるときのそのやわらかい響きが聞きたくて、目覚めているのに瞼を開けられないことがあった。そうしていると、だんだん声が近づいてくる。まつげが震えるくらいに近く感じて、初めて目を開ける。そんなとき、伽呂は少しも慌てたようにはしないで、淡く微笑んでいた。
………
「…お膳をお持ちしましたが…」 抱き起こしてもらって、膳の中を覗く。美祢が病人であることを告げてくれているのだろう。消化の良い、さっぱりしたお菜が皿に乗っている。そして飯は粥に煮てあった。 「食べたくないな」 「…それは、いけませんね」 「あんたにやるから、みんな片づけていいよ?」 「駄目ですよ」 「何か胃に入れないと、薬湯がいただけないでしょう? 頑張ってください」 美祢はおずおずと彼の顔を見る。伽呂はひとつ頷いて、さらにさじを進めた。唇をさじの先ですっと刺激される。粥の温かさでほんのりとしている。まるで艶めかしい舌が探り来るようだ。思わず、薄く口を開くと、そのまま舌の上に乗せられた。とろんとした生暖かいものが口内に広がっていく。ほんのりと甘い。 「もう一口、行きましょうか?」
何故なら、この御領地でどの女子よりも優遇された選ばれた存在だったのだから。誰から見ても、若様の一の女子であった。その地位が揺らぐことがあるなんて。どうして考えられただろう。 『…もう寝るぞ、お前も休め!』 そう言われれば、素直に下がるしかない。美祢は若様の御身体を綺麗に湯桶の手ぬぐいで清めると、自分は肩に肌着を掛けただけの姿で奥に下がった。ついさっきまで、荒々しく愛されていたはずの身体がとても冷たくて、冷え切った部屋に身を置くと知らずに涙がこぼれた。 若様には手を付けた女子がそれこそ数え切れないほどいたが、その誰もが美祢と同等か、それ以下の扱いしかされていなかった。それだけが救いだった。そうじゃなかったら、そう思わなかったら、どうして平静でいられただろう。 他の女子を抱いて戻る若様を微笑んで明るく迎えるのはとても惨めなことだった。でも、自分は誰よりも恵まれている女子なのだ、そのことを忘れてはいけない。何度も自分に言い聞かせてきた。
もしかしたら、私はどこかに大切なものを忘れてきてしまったのではないだろうか。信じていたものを失った今、もうこの手に残る何もない。 「…伽呂?」 「美祢様…?」 「少し苦しいから、起こして…」 伽呂はすぐに承知して、身をかがめて美祢の背の下に腕を差し入れる。ゆっくりと抱き起こされると、そのまま彼の胸に顔を埋めた。ひなびた繊維の匂い。冬の日の日溜まりみたいに。男はひとつ息を吐くと、ゆっくりと美祢の背に腕を回していく。 すん、と鼻を鳴らして。美祢はそのぬくもりを全身で味わっていた。温かかった。まるで懐かしいものに包まれているみたいで。
この男は温かい、こんなにも温めてくれる。…どうして? それは、自分が病に伏しているからなのだ。彼は死んだ兄の身代わりに、自分に優しく接してくれるのだ。きっとそれによってこの男は救われる。 毒々しく色づいた身体の斑点を見ても、男は動じない。まあ、それも当然だろう。長年、兄の看病をしていたのだ。1年に1度か2度、高い熱が出て、こんな症状が出てしまう。この病の者を世話できるのは、身内しかいない。その山を越えるたびに痩せ細っていく身体。美祢の手首は骨が浮き出るくらい肉が落ちていた。次の春は越えられないだろう。きっと――。 …死ぬまでに、一度くらい、人の役に立ちたい。どうにかして、誰かの記憶の中に、自分を残したい。それが出来なかったら、どうして生まれていたのか分からないじゃないか。
胸が痛くて、痛くて。その鈍い痛みがとうめいな水になって流れ出す。がさがさした布地に染みこんでいくもの。伽呂はずっと背をさすってくれた。それは夢のぬくもりだった。
………
「おはようございます」 「…あ」 伽呂が、朝餉の膳を持って立っていた。戸口の辺りに。一礼して、すっと入ってくる。その当たり前の行動を美祢はとても遠いもののように見つめていた。 「宜しかったですね、でもまだあまり無理はしないでください…くれぐれもお大事にしないと…」 「あのっ…」 「今夜も、来てくれるんだろうね?」 伽呂はそんな美祢を低い位置から見つめて、静かに言った。 「いえ」 「まさか、あの…もう、里に戻るのかい…?」 「本格的に寒くなって、山の水が凍り付く前に、遣り水を整えたいそうなんです。これからは寝ずの作業になるかも知れません…」 「…そう」 里に戻るまで、膳を運んでもらう約束だった。それなりの駄賃も払うつもりだった。でも仕事が忙しいのなら無理は言えない。彼は美祢の世話のためにここに来たのではないのだから。それにもう、十分なものをこの男はくれたと思う。その先を望んではならないのかも知れない。 「あ、それならば」 「同郷の者に、膳のことは頼んでおきました。同じ村から下働きに来ている娘です。よく言って聞かせてありますから、何なりと使ってください」
………
真砂(まさ)と言う名のこの娘は、多分御館様の侍女たちからいろいろと聞いているのだろう。美祢のことを疎んじているのはよく分かった。そんな風にされるのなら、自分でやった方がいい。そう思った。でも彼女は伽呂が頼んでくれた者だ。もしも働きを断れば、彼が悲しむだろう。あの男の行為を無下にしたくない。 唇を噛みしめながら、美祢はこの屈辱に耐えた。あの男を恨んではいけないと思った。あそこまでしてくれたのだ、感謝こそすれ…でも。
夜が更けて、物音ひとつしない寝所にひとりでいると休むことも出来ない。しとねを整えて、身を横たえる。このごろでは自分で簡単な洗い物をしたり辺りを片づけたりも出来るようになっていた。伽呂が出て行った朝から、10日が過ぎていた。 当たり前になってしまったぬくもりが遠ざかっていくこと。その辛さは知っていた、知り尽くしていた。それなのに、胸が締め付けられるこの痛みはあまりにも新しくて、身体がガクガクと震える。耐えきれず、熱い息を吐く。胸の中から出て行くものは乾いた想いしかなかった。
………
美祢は自ら火をおこし、表のかまどで湯を沸かした。髪を念入りに洗う。足首まで伸ばした自慢の髪。洗うのも1日がかりだ。地肌を濡らし、洗い粉で汚れを流す。病で寝付いていたから、ずっと手入れを怠っていた。髪の美しさが女子の格を上げる。いくら化粧をしたところで、髪が乱れていたら始まらない。
自分がほかの村娘よりもずっと美しいのは知っていた。そんなことで優越感を感じるのも嫌らしいと思ったが、側女になってからはそれにすがるしかなかった。どうしたらもっと美しくなれるか必死で考えた。若様の御父上でいらっしゃる御館様にはたくさんのお手つきの侍女がいた。 西南の集落の者はほとんど赤髪。よく見れば、微妙に色目が違うが、他の集落の者から見れば分からないと聞く。明るい日差しに照らし出されるその髪が、美しいと全く違って見えるのだ。 洗い粉を替えたり、花油を色々取り寄せたり。目に見えない努力をしてきた。
美祢は髪を辺りに散らしてすっきりと乾かした。そのあと棚の一番上から、小さな行李を下ろした。長い間、それを手にすることはなかったから、蓋の上にはうっすらと埃が積もっている。 中を確かめる。そして、小さな玻璃の瓶を取り、中の油を手に取った。地肌から、髪先へ、すり込んでいく。特に好きだった、南峰の花油だ。懐かしい香りに胸が疼いた。続いて瑠璃色の器を取る。中にあるのは鮮やかな色目の紅。 それを引いた口元がほころぶ。
…夢を見た。いや、そうじゃないかも知れない。美祢の心にある想いがかたちになっただけかも知れない。 『美祢様…?』 彼が、来るかも知れない。もう、何日見ていないのか。あのまま、仕事を終えて田舎に戻ったのかとも失望した。でも、夢を見た。 鏡に映した自分の顔がやわらかく微笑んでいる。まるで娘の頃に戻ったように。何も憂うことのない日々に…。
戸口でことりと音がした。
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