日はもう暮れかけていた。 暖かい陽気だったはずが、昼からは風が出てきている。ようやく人ひとりが身体を横にして入れるような戸の隙間から、オレンジ色の光が入ってくる。細い糸になって。 上がり口には彼の運んでくれた美祢の夕餉の膳が置かれていた。
「…あ」 「よく来たね。…まあ、お入りよ?」 「――いえ」 「今日はこれで失礼します。…仕事が終いになりましたので、翌朝、村に戻ります。お別れに参りました」 美祢は無言でその言葉を聞いていた。伽呂がこう告げることを、姿を見た瞬間から分かっていた。旅装束を纏い、身綺麗に整え、大きなすげの傘も持っている。短めの袖口から出た腕にそれと分かる痕がいくつもあるのを認めた。 「…酷くされたのかい?」 触れるところまではいかなかったが、腕を伸ばす。病的に白い美祢の腕が男の肌とはあまりに違う。労働している手としていない手。自らの力で糧を生み出す者と、権力にすがって生きる者。伽呂の手を見るたびに美祢は優越感より劣等感を強く感じた。 伽呂は美祢の視線に、すっと腕を隠した。でも、見上げた先のその顔も頬が腫れ上がって痛々しい。顔を合わせなかった日々、男が作業の現場でどんな仕打ちを受けていたか、思い知らされる。多分、満足な手当も出来なかったのだろう。化膿している所もある。 「こんなことは何でもありません。あの役人は仕事が進まずに気が立っていたのでしょう。俺などに当たって憂さを晴らせるなら、それも駄賃の一部ですから…」
もしも、他の者たちより酷い仕打ちを受けたのだとしたら。それは自分のせいじゃないか。病が峠を越えるまで引き留めてしまった。無断で休んだことでどんなに辛い制裁を受けていたのだろう。 …それでも。彼はこの地に留まった。逃げ出すことなどなく。 それはやはり他ならぬ、家族への愛情なのだろう。それほどの覚悟をして村を出てきた。命を張って、やってきたのだ。皆がどうにか食っていけるように。 変わらずに穏やかに佇む男。その心中を考えたくなかった。そこには自分のことなどないから。この居室で一緒にいるときだけの、しかも金で買った存在だったのだ。今まで世話をしてくれたのも、金のためだ。取るものを取れば、もう関係も切れる。
「あ、明日の朝、朝に発つんだろ? ならば、今夜はいいだろう。ゆっくりしておゆきよ? …これから旅の道中は大変なんだから。酒も少しなら用意したんだよ、私も少しはやりたいから相手に――」 「今まで、良くしてもらったのだし。こっちも少しは礼をしないとね。…いいだろう、そこを閉めて、お上がりよ?」 「いえ。ここで…ここで失礼します。美祢様にはもう十分、頂きました。給金もあまりに多額でお返ししなければならないほどに。ですから、最後に。ひとことだけ、お礼が言いたくて…」 「伽呂…」 あんまりに冷たい言葉。わざわざ足を運んでくれたというのに、もう戻るというのか? 美祢は立ちつくしたまま、視線を泳がせた。
「あのっ、…これを」 「ちょうど、村から行商に来た者と出くわしまして、少し分けてもらいました。身体が楽になる薬草です、煎じてお召し上がり下さい。普段から飲んでいると、病も軽く済むそうです。ほんの耳かきほどの量で宜しいのですよ」 大きな手のひらでそれを敷物に置く。その後、もう一つ、何か取り出した。 「人形(ひとがた)です…美祢様の病をこれが代わりに受けてくれるようにと。お世話をさせて頂いている間に、彫りました。…どうか、お健やかにお暮らし下さい」 そっと視線を落とす。手のひらを広げた縦の長さほどの木彫りの人形がそこにある。髪はなく、こけしのように筋を彫ってあるだけだったが、その顔は穏やかで慈悲に満ちていた。両手を胸の前で合わせて祈りを捧げているようだ。 ああそうだ、と思い当たる。 両親もこれを持っていた。伽呂と同郷の出であるから、かの地に伝わる風習なのか? 本当は姉と自分の分も持っていた。だが、春に姉が亡くなったとき、その亡骸とともに自分の分も埋めてしまったのだ。姉が辛くないように、どうせ自分もすぐに行くからと。どんな言われがあるのかは知らなかった。
「では…俺は、後始末がございますので…これで」 「――待って」 背を向けて、戸口に手をかけた男に叫ぶ。細くて、でも鋭い声。彼がおずおずと首から上で振り返る。自分に向けられたその視線を必死で見つめ返した。 「今まで、世話になったのだから…最後なんだろ? だったら――…」 ぱさり。 肩からかけた重ねを落とす。そして、緩く結んだ袴帯をゆっくりと解いていく。ばさばさっと音がして、厚めの生地でこしらえた冬仕様のそれが、落ちて足首に絡まる。細い足に絡みつく冷たい気を感じながら、あとは一気に上体を覆っていた小袖と肌着を重ねて脱ぎ捨てた。 「今までの礼をしたい。…好きにしていいんだよ? あとでどうこう言ったりしない、私の胸の内に留めておくから…」 「みっ…美祢様っ…!?」 がたん、と戸に背をぶつけて。男はにわかに青ざめて、こちらを見ていた。 「…おいでよ?」 明るいオレンジの陽が白い肌を舐めるように染め上げている。一糸纏わぬ姿。この身体を見せたのは家族以外は若様おひとりだ。 昼でも凍える冬の日に、裸体を晒していても寒いとも思わない。もう必死だった。 「いっ、いけませんっ! 美祢様、衣をっ! 纏ってくださいませっ!…誰かに見られたら、どうするんですっ!」 「美祢様っ! こんな、高貴な御方が…なりませんっ!」 その、あんまりに「この男」らしい行為に、美祢は苛立った。つっと胸を張ると、透き通った声で告げる。 「…何、ほざいてんだよ!?」 「あんた、自分の置かれた立場、分かってんだろうね!? 畏れ多くもっ! この御領地の若君の一の女子なんだよ? それを好きにしていいって言ってんのに、どういう態度だよ!?」 「好きなように犯っていいって言ってんのにっ! 言うことが聞けないのかい? 最高のもてなしをしてやろうって言ってんじゃないかっ…!」 視線の先の男はぶるぶると大きく震えている。それが欲求を抑えているのではなく、恐怖に打ちひしがれているのが分かる。こんな屈辱があるだろうか。 「いっ…いけませんっ! 美祢様は、お美しくて、高貴な御方ですっ! …このように、ご自分を辱める様な行為は…おやめ下さいっ!!」 「伽呂――…」 「しっ…失礼しますっ!!」 がたがたんと、大きな音を立て、彼は外へと転がり出て行く。その後、ばんと引き戸が閉まった。ふっと部屋が薄暗がりになる。
閉ざされた戸口を見た後、足下を改める。すげの傘と、小さな布の包み。そして、自分へと差し出された、ふたつのもの。 美祢はうっと呻くと、その場にうずくまった。そして白い背を丸くして、大きく嗚咽を上げた。 …なんてことを。 なんてことをしているんだろう…。伽呂の言うことはあまりに正論だった。今まで、どんなにお召しがあろうとも若様以外の者の前にはべることはなかった。 実は御館様より直々にお召しがあったこともある。御館様はたとえ若様のお手つきの女子でも平気で閨に呼んだ。でも、美祢はいろいろと理由を付けて断ってきた。 美祢ほどの女だ。その気になれば、新しい主人など難なく見つかるだろう。それを御館様も望んでいらっしゃった。でも、そこまでして生きながらえようとは思わなかった。自分の女を武器にして生きるなんて、遊び女と同じじゃないか。そんなこと、死んでも嫌だ。そこまで自分を捨てたくなかった。 今まで、そんな風にして。気丈に生きてきたのに。どうして今になって、こんな…。 男が、行ってしまうと思った瞬間に、全てのものが崩れ落ちた。引き留める術などない、それが許されないことは分かっている。それを望んでも無駄なことは百も承知だ。 でも、身体の全てが、抱いて欲しいと叫んでいた。 いつからだろう、そんな気持ちになったのは。伽呂がここに通ってくるようになってから? あんな風に優しく介抱してくれてから? …否、もしかすると、初めて逢ったときから。 出来ることなら、酒を酌み交わして、程よくお互いに酔いが回った頃に、成り行きのようにコトを運びたかった。彼も男だ。美祢がやわらかくしなだれ寄れば、そう言う気になってくれたかも知れない。素面では無理でも、酒の力を借りれば…しばし、女房のことを忘れて、自分の身体に夢中になってくれないだろうか。ふっと我に返ったときにも、酒で全てを曖昧にしてしまえばいい。 男の一番深いところに触れて、身体全体で愛されてみたい。他の誰でもない、彼だったから、欲しかった。暖かく包まれたら、今までに感じたことのない安らぎを得られたのかも知れない。それを抱いたまま、わずかな余生を過ごせれば。…彼は、美祢の欲しい、一番のものを持っていた。 永遠に得たいとは言わない、でも…出来ることなら。夢のような時間を最後にくれないだろうか? そうすれば、何もかも失っていい。自分の持っている全てのものを与えてもいい。物も、身体も、心も。 何を投げ打ってでもいい、もう一度、あの胸に抱きしめられたい。抱きしめられて、深く愛されて、満たされたい…。
部屋に自らのすすり泣きの声が響き、念入りに手入れした髪が乱れて広がっていた。呼吸の合間にふっと顔を上げる。傍らに転がっていた人形を取ってみた。 伽呂はいつも美祢のしとねのすぐ脇で静かに仕事していた。木彫りの玩具を彫る。さりさりと木を削る音がして、そしてしばらくすると、きゅっきゅっとこする音がする。何かと思ってそちらを見ると、彼は小袴の裾で丁寧に木を磨いているのだ。荒い布地だから、磨き布にはちょうどいい。 彼の。亡き兄に寄せる懺悔に似た想いを、晴らしてやろうと思っていたはずなのに。むしろそれ以上に自分が満たされた幸せな時間を与えられた。人肌を感じ、息づかいを感じながら過ごした日々。このまま病がいつまでも続けばいいのにと思ってしまった。 美祢の低い嗚咽に外の気の揺らぐ音が重なる。夕方になってさらに荒れてきたようだ。がたがたと居室を揺らすそれは、このはかない建物も、美祢も、全てをどこかに飛ばしていってしまいそうだ。 …最初から、金の繋がりしかなかった男じゃないか。そんな低俗な関係を、どうしてこんなに嘆くのか。分からない、分からないのに、涙が溢れる。男に受け入れて貰えなかった、自分の全てが疎ましくて。
愛されない女子だから、こうして寂しく余生を送り、やがて朽ち果てていくのか? それまでの間にもう二度と灯りが見えることもなく。お一人の愛も受けられなかった身ならば、当たり前のことなのだろうか? そんな、そんな女子になど。望んではいなかったのに。
………
後から後から、涙が溢れる。若様がこの居室を出て行かれたときも、西南の集落を後にしたときも、こんな風に泣いたりはしなかった。たかが侍女の身分であれだけの身の上になれたのだ、有り難いと思うべきだと。誇りを捨てずに生きたかった。最後の瞬間まで、気丈に生きていたかった。誰に心を許すこともなく。 がたがたんと、引き戸が開く。ついっと、冷たい気が流れ込んで、美祢の髪が舞い上がった。思わず、ハッとする。 まさか、また誰かが来るなどとは思っていなかったから、あのままの格好でいた。もう着飾る必要も何もないのだ。慌てて、落ちていた衣で我が身を覆うと顔を上げる。霞んだ視界の向こうにうごめく人影を認めた。辺りは夜の気に満ちていた。 「伽呂…」 信じがたい、人物。 あまりに嘆きが大きかったので、その存在を認めることが出来なかった。もしかして、自分は都合の良い夢の中に入り込んでいるのではないか。そうしているうちに、人影はどんどんこちらに近づいてくる。やがて目をこらさなくてもその表情が見て取れるほどになった。 「美祢様…」 「どうして、…」 確かに、この男は去っていった。美祢が必死に引き留めたのに、その意を振り払うように。どうして今更、戻ってくるのだろうか? 荷物を取りに来たのだろうかという推測は、次の瞬間に破られた。 気付くと。彼は床に這いつくばっていた美祢に高さを合わせて、地に跪いていた。そして、自分の衣に手をかけると、ゆっくりと脱いでいく。やがて、みすぼらしい衣の下から、彼の逞しい上体が現れた。美祢は不謹慎と思いつつも目を見張ってしまった。ただの農夫の男なのに、何て立派なんだろう。労働に鍛え抜いた身体は匂い立つ男らしさでうっとりするほどだった。 小袴を脱ぎ捨て腰巻きだけになった男が、美祢の身体をそっと抱き起こす。熱を帯びた手のひらで両肩をがっしりと掴まれて、美祢は少しばかりの恐怖を覚えていた。だがそれは、幸福に身を投じる前の武者震いにも似た心持ち。震える胸で美祢は様々な想いを感じていた。 やがて、男が思い切ったように口火を切った。 「美祢様、考えておりました。…こうして、衣を剥げば、身分の差などありません。ただの男と女になるのです」 「…申し訳ございません、あまりに畏れ多いことで…川の水で身を清めて参りました」 「え…?」 「…冷たい水を頭から浴びているうちにだんだん正気に戻って参りました。そして、自分がどうしたいのか、どうしたらいいのか分かったのです。…そして、こちらに参りました」 ふわっと身体が浮き上がる。抱き上げられているのだとしばらくして気付く。軽く肌着を肩から掛けただけなので、すべてが露わになってしまう。今更ながら恥ずかしくて、美祢は伽呂の胸に顔を押し当てた。そのまま静かに寝所に運ばれる。そのようにやわらかく扱われたことなどなかったから、信じられないような気分だった。 暗がりばかりになった居室。燭台の灯りもないのに、男は迷うことなく進んでいく。網目のように漂う暗い気。そのよどんだ空間が大きな魔物の腕の如く、ふたりを取り巻いていった。 「ごめん…」 「どうして謝るのですか? そんな必要はございません…」
夢が続いているようで、実感がない。男の腕にありながら、我が身があまりに不安定で。流れに身を任せた木の葉が、岸から突き出た枝に身を絡ませている。ひと風吹けば、また流れに落ちてしまう頼りなさ。それは静かにしとねの上に横たえられても、まだ続いていた。 「美祢様…」 覆い被さってくる身体が自分の名を呼ぶ。熱い吐息が落ちて、その後、ゆっくりと唇が重なった。探る舌が口を割って入り込んでくる。それを受け止めながら、美祢はそっと男の首に腕を回した。 |