TopNovel>浮の葉語り・9


…9…

 

「これを…渡そうと思っていたんだ」
 男にとっては見慣れた織りの衣を差し出す。手仕事をする男の傍らで仕立てていたものだった。これを渡せずに別れるわけにはいかなかった。この男のためにと縫ったのだから。

「…はい」
 素直に受け取って貰えて安堵する。妻以外の者が衣を仕立てるなんて、はしたないことだ。それくらい知っている。でも渡したかった。この先、衣を見て、美祢を思い出してくれるなら嬉しい。給金で買った物だとでも言えば、男の妻も納得するだろう。

 

………


 まだ夜は続いていた。

 寝所に入り、冷え切った肌に絞った手ぬぐいを当てようとした時、後ろから抱きしめられた。熱い吐息に応える。それくらいのことは許されるだろう。この者の妻となった女は数え切れないほどの不貞を重ねてきたのだ。薬を取りに行くと言っては産まれ里に戻り、想う男と密会する。病弱な夫を裏切り、愛欲に身を委ねたのだ。

 美祢は男の衣の紐を自らの手で解き、肌を合わせた。逞しい腕には、しかし先ほどのような荒々しさはない。しっとりと染み入ってくるぬくもりが、美祢の身体を芯まで熱くしていく。じわじわと、心の裏側に痕を付けるように。
 何度も何度も唇を合わせながら、次第に深まっていく波に身を投じた。怖い、とは思わなかった。

「美祢様…、美祢様…っ!」
 かすれる声、荒い呼吸。濁流に飲まれ溺れる者がすがりつく様に抱きつかれる。胸に抱き込んで、存分に味わわせた。頂に絡みつく舌が、熱くて熱くて焼け付きそうで、美祢は何度も悲鳴を上げる。力の入らなくなった腕で、しかし、しっかりと抱きとめた。

 …このまま。

 朦朧とした意識の奥で考える。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。朝など来なければいいのに。永遠に囚われた牢獄で、こうして飽きることなく抱き合っていたい。自分の内側からたぎる血潮が生きていることを実感させてくれる。まだ、生きている。確かに生きている。…そして。

 この命を、生きる希望をくれたのはこの男ではないか。ただ朽ち果てていくことだけの毎日を送っていた美祢に伽呂は新たな欲求を芽生えさせた。

 共に生きることなど叶わない。だいたい、自分がそう長く生きながらえるとも思えないのだ。味わった者だけが知っている、死の淵の恐怖。そして不思議な安堵感。それが我が身を呼び起こす。懐かしい人々が手を振って、こっちへお出でと告げる。もう振り切るだけの強さはなかった。

「…伽呂…」
 何度、この名を呼んだだろう。何度、この者の存在を求めただろう。病から解放されて、男がここに来なくなって。あのときの空虚な気持ちはたとえようがなかった。平気だと思ったのに。若様があんな風に自分を捨てていかれた。だから、今回だってそうなるのだと思っていたんだから。

 身体を裏返されて、背筋に舌が這う。つつっと通った命の道筋。そこを何度も何度も濡れた熱さが辿り、大きな手のひらが身体の輪郭をなで上げる。自分じゃない身体の微かな重み。股に張り付く、欲望。

 ふわっと、上体が少し浮いて。後ろから身体を合わせられた。胸を思い切り掴まれる。強く、でも絶えず甘い刺激を与えながら、呼吸に合わせた動き。

「…あっ…、くっ…!」
 思わずのけぞる。髪が肩から静かに流れ落ち、美祢の身体の下に朱色の海を作った。それが、愛撫に合わせてきらきらと流れを変えていく。美祢の目にも、そして伽呂の目にもそれが見えている。ふたりは同じ美しいものを眺めながら愛し合っていた。この流れとともに、しとねをぎゅっと掴む。四つんばいになって、かろうじて身体を支えるが、絶え間ない情熱に細腕がきしむ。

「…本当に…」
 白い首筋から顔を上げて、伽呂がうわごとのように囁いた。

「何て、お美しいのだろう…こんな…こんなに…」

「…うっ…」
 抱き起こされて、男の膝に後ろ向きに座らせられていた。身体を密着させると、男の全てが感じ取れる。腰のうしろに当たったものが波打っている。それを感じただけで、腰がうねる。男の指が美祢の敏感なぬかるみを確かめている。滾々と湧いてくる泉の源を探り、ずぶっと入り込む。きん、と快感が響いた。

「そんな…、やめっ…っ!」
 くちゅくちゅっとしぶきが飛ぶ。その場面を確認したわけではないのに、股に付いたものが自分の欲望の強さを知らしめる。恥ずかしい、と思う意識も薄れていく。扉が次から次から開かれていって。

「ふっ…うううっ…」
 軽く気をやられて、がくっと力が抜ける。しっかりと抱きしめられた後、静かに腕を緩められて、向き直させられた。

「美祢様…」
 背中にしとねの冷たさ。どんなに自分の身体が熱いのか、もう分からない。そして、覆い被さってくるだけで分かる、もっと熱い身体。触れ合っていなくても、感じ取れる熱。紅潮した顔がふっと緩んだ。

 何を言いたいのか、分かる。

 無言のままで微笑み返し、そっと腕を伸ばした。静かに唇を合わせる。そうしながら、男がゆっくりと身体を合わせていく感触をじんじんと味わっていた。股の付け根から足の親指までが快感で硬直する。幸せに酔いしれる、とはこんなことを言うのか。

 そこにあるのは荒んだ優越感などではなかった。溢れる愛情だけ。この者とひとつになりたい、そう思う欲求だけ。

 若様の元で飼い慣らされ、我が身をたかめ、男を悦ばせる手段など身につけていると思っていた。抱かれていても始終、そんなことを考えているゆとりがあった。
「お前は最高だよ」と男根を打ち込まれながら言われれば、嬉しかった。自分が認められていると思えた。

 …でも、違う。今は違う。

 認められたいんじゃない、誉められたいんじゃない。ただ、心のひだを絡め合わせて、深く深く繋がりたい。もうこれ以上、入り込めない場所まで来て欲しい。深く貫かれるたびに、男の欲望が背中まで突き抜けるほどの快感を覚えた。それを余すことなく伝える。高らかな喘ぎで。

 向きを変えられ、背中から熱く愛されて、さらに燃え上がる。繋がり合った部分から、溶けだしていく身体。流れていく生命。

「あっ…、くっ…っ!」
 脳髄がえぐり取られるほど深く突き込まれ、目の前の闇が白い閃光を放つ。

 そのまま、ふたつの身体はがくっと沈み、しばらくは起きあがることも出来なかった。


 やがて。

 朱の海の中を男の腕が泳ぐ。横たわったまま、もう一度強く抱き寄せられる。背後に感じる熱。それに寄り添うと、首筋に唇を落とされた。それが離れたとき、ようやく獣から人へと戻った気がした。

 

………


 手にした衣を改める男の視線を見守る。ぼろが見えたらどうしよう。それほど針は上手ではない。若様の衣も絹を見繕うだけはやって、仕立ては他に頼むことが多かった。

「父親の…衣しか知らないから。こんな風でいいのかなと思いながら、縫ってみたんだけど…」
 歯切れも悪く、口の中でもごもごと言う。

「…素晴らしいですよ」
 決して誉められるような仕上がりではないのに、お世辞とは思えない笑顔で男は言う。

「これは、もう一生、離しませんから…さあ」
 衣を傍らに置くと、男は支度を終えた美祢に腕を伸ばした。そこに夜の闇がまとわりつく。さらにしんしんと深く冷え込んできた。夜が深まっていく。

「しばらく、休みましょう…」
 最後のぬくもり。しっかりと味わいたいのに、やわらかな睡魔に囚われていく。美祢は全てから解き放たれて、満ち足りた眠りに落ちていった。

 

………


 再び瞼を開いたとき。

 辺りはもうすっかり朝の光に包まれていた。しとねに静かに横たわったまま、傍らを確認する。やはり、寝ているうちに出て行ったのか。そんな気がしていた。

「俺と一緒に里に来てくれませんか?」

 そう告げてくれた男も、美祢がきっぱりと断った後は、再度話を蒸し返すようなことはなかった。ただ、眠りにつく瞬間まで美祢の心と身体をしっかりと包み込み、愛してくれた。しっかりとふたつの命が結ばれるさまを教えてくれた。

「…行けるわけ、ないじゃないか…」
 思わず、ぽつりと呟いてしまう。

 それが出来るなら、そうしたかった。女房や子供が居るから、だけではない。美祢はあの男と共にも、そうじゃなくてもこの地を去ることは出来ないと初めから分かっていたのだ。

 贅沢な暮らしに慣れてしまった者が、一から出直せるわけもない。それならば、いくらかの金品を持ち出せばいいと思うが、それが出来ないのも知っていた。

 …伽呂の里の者。両親を始め、女房である女にその子供たち。村人。その全ての者たちが自分に対して見せる蔑みに耐えられる自信もない。あの伽呂が頼んでくれた真砂という娘の目を見たのだから。あの、とんでもなく異質の存在を嫌々目にするような視線。心に感じ取る、耐え難い仕打ち。
 伽呂は言葉通りに美祢を護ってくれるだろう。でも…耐えられる自信などなかった。

 

 呪縛のように聞いていた。

 昔、御館様の愛妾が他の男と通じて、密かに御領地を出た。しかし、ふたりはすぐに捕らえられ、男はその場で斬り殺される。女も遊女小屋に売られた。そしてぼろぼろになるまで働かせられたのだ。いくらか所持していた金品も御館様の手に戻った。
 御館様は羽振りが良く、いろいろと恵んでくださる。でもその全てをきちんと覚えていて、ただの侍女が里に戻るときすら、必要以上のものを持ち出しすることを許さない。「自分のもの」にはとことん甘いが、そうなくなったときは手のひらを返すように冷たくなる。

 

 だから、美祢は自分がここから出られるのは、自らの命の果てるときだけだと信じていた。身ひとつで出れば何も言われないだろう。でもどうしてそのようなことが出来よう。「若様の愛妾であった身の上」を捨ててしまえば、ただ人の女になれば、食うことも出来ない惨めさになる。御領地を一歩出れば、一日も生きていくことが出来ないだろう。情けないが、それは真実だ。美祢にはもう頼る親も家もない。

 伽呂の里にだって、いくらかの金品を持ち込めば、それなりに受け入れて貰えるかも知れない。しかし、穀潰しがひとり増えるだけの事実を容認して貰えるはずもない。手仕事も畑仕事もこなす自信がない。その上、治らぬ病を持っているのだ。

 …だから。春までここにいてくれと言ったのに。

 男はそれは出来ないと言う。美祢もここを出ることは出来ないと言った。もうふたつに戻ることしか選択肢はなかったのだ。やはり結ばれることなどない、関係だった。

 もう、泣くもんかと思う。男に愛されて、大切にされて。その思い出だけで生きながらえよう。そして、男の幸せを祈って、眠りにつこう。それだけが残された人生の営みだ。

 そう思えば、もうごろごろしてなどいられない。美祢は思い切りよく起きあがると、さっと身支度を整えた。また、自分で膳の上げ下げをするのだ。まぶしい日差しが、少し胸に刺さって痛かった。


「…あれ?」

 戸口が閉められたままなので、薄暗い上がり間。寝所を出て、そちらを覗いた美祢は思わす声を上げた。

 しばらくは自分の目にしたものの存在を信じることが出来ない。しかし、ややあってから、ハッとする。何だ、どういうつもりなんだっ…!?

 思わず駆け寄っていた、上がり口に。かがんで改めて確かめると、そこにはひとまとめにされた荷物がある。美祢は信じられない思いでそれを改めた。

 伽呂に、やったはずの行李…中に子供の玩具と着物の入ったささやかなもの。それは持ち出しても構わないほどのささやかなものだった。御館様より頂いたものでもなかったから、何ら支障はないはずだ。美祢が自分で買い求めた物だったのだから。
 そして、男が昨晩纏っていた衣。美祢が渡したものを新しく着て、こちらを置いていったのか。その上にはあのときの飾り輪が静かに置かれていた。

 …何より、美祢を驚かせたのは。その脇に置かれた小さな布袋だった。持ち上げるとずしりと来る。まさかと思って中を確かめると。そこには美祢が渡したはずの駄賃である小銭が全て入っていた。もしかすると、男自身の雇い夫としての給金もいくらか入っているのかも知れない。そう思うくらい数が多かった。

「嘘っ…!?」
 渡すと言った品物も、雇い賃も、どうして置いていくのだ。これは男にやったもの、置いていくことなどないのに…。

「ど、どういうことなんだよっ…!」

 ――ふたりのことを全て精算するつもりだったのか、だから置いていくのか!?

 突風のように怒りがこみ上げて、すぐさまかんぬきのさしてない引き戸を開ける。ざっとまぶしさが飛び込んでくる。しかし、いくら目をこらしても冬の朝、人っ子ひとり通っていない。伽呂は、もうこの地を出て行ったのだろうか?

 柱に手をついたまま、息を整える。そして、もう一度振り返り、置かれたものを眺めた。何度も何度も確認する。

 

「…まさか…?」

 突然。頭の中に、ぴんと閃光が走った。

 

 そんなはずはない、そんなことがあっていいはずもない…でも。

 美祢は思わず、口元を手で覆った。

 次第にこみ上げてくる熱いもの。それをようやく、といった感じで押しとどめる。ついっと吹き込んでくる気の流れに、手入れした髪が舞い上がった。

 

 そして。

 その瞬間、美祢の中にも、ひとつの決意が生まれていた。

 

………


 冬の澄み切った天がますますまぶしく輝いて。御領地の先の町並みは、ざわざわと活気がみなぎっていた。

 若様が消えてから、一時はもうここの御館様も駄目ではないかと噂が立った。何しろ若様は新しく西南の大臣様のご息女を頂くことになっていたのだ。それをお断りするかたちで出奔なさった。どんな風に制裁が下るのか想像するだけで怖かった。領下の者の中には慌てて逃げ出した者もいる。

 だがそれも、過ぎた心配だった。若様は都でご出世なさっている。畏れ多くも竜王様にまで覚えめでたく、ときめいていらっしゃる。
 それをほんの少し前までは、少しばかり曲がった目で見ていた。若様など、落ちぶれてしまえばいいのにと。そうすればこの地に舞い戻っていらっしゃるかも知れない。自分の元に。

 

 大きな大木の影に隠れながら、通りの往来を眺めていた美祢はひとつため息をついた。どれくらい待っただろう、男はなかなか現れない。

「…あっ」
 思わず、小さく叫んでいた。往来の中をとぼとぼと歩いてくる姿が見えた。見まがうはずもない、あの男だ。美祢にとっては他のどんな者よりも雄々しく輝いて見える。

 どくどくと、高鳴る胸。それを押さえ込みながら、美祢はすっと街道に歩み出た。

「…えっ? …美祢様っ!?」
 深くかぶった笠を外すと、男が慌てて駆け寄ってきた。手ぬぐいで頭全体を隠していても、美祢であることを認めてくれる。そんな些細なことが嬉しかった。手ぬぐい越しに見える目で微笑んでしまう。

「あのっ、今、居室までご挨拶に…どうしたんですか、いらっしゃらないから…あのっ…」

 御領地の外れとは言っても、誰か通らないとも限らない。男は周りを気にしながら、道を逸れた。先ほどまで美祢が立っていた場所にふたつの身を押し込める。

「…あんたが」
 そう言いながら、大きさの割りに重みのある包みを差し出す。男の鼻っ面まで。

「色々忘れていってくれたじゃないか。届けてやらなくちゃと思ったけど、出稼ぎの宿所に行くのも嫌だから、ここで待っていた」

「そ、それはっ…」
 ざりっと、後ずさりする。包みを受け取ろうとはしなかった。

「あんたにやった、金だろう? 金はいくらあっても困らない。持っていけばいいだろうよ? 私だって、冥土までは持っていけないんだし…」

 なおもにじり寄ると。男は、美祢の腕ごと払った。ざらっと音を立てて、包みが足下に落ちた。

「――受け取れませんっ! …俺はっ、俺は…金で買われたんじゃないんですっ、ものにつられたわけでもありませんっ。た、ただっ、み、美祢様と…ご一緒にいたかったから…」
 耳まで真っ赤になって、大きくかぶりを振る。そして、俯いたままで言葉を続けた。

「わ、分かって頂きたかったんですっ…、俺、俺は本当にっ…!」

 

「…そう」

 しゅるん、と。まぶしい音を立てて、美祢は手ぬぐいを取った。

 

「…だったら。その金は汚いものじゃないって言ったら、受け取ってくれるのか?」

「え…っ…?」
 ぱさっと、自分の足下に手ぬぐいが落ちたのを見て、男が思わず顔を上げた。その目が新しい驚きに揺れている。

「み、美祢…様?」
 男の手がぬっと伸びて、美祢の細い両肩を掴んだ。もう人の往来がどうとか、そんなこと考えてもいられない様子で。

「ど、どうしたんですかっ! あのっ…一体っ…!!」

 男の震える手が、美祢の髪を撫でた。すっと髪の間に指を差し入れて、肩先で行方を失う。そのまま指先が空を切った。

 その仕草を。言葉と、表情を…美祢は静かに見ていた。そして、静かに言い放つ。

「高く、売れたよ。さすがに自慢の髪だからね…手入れした甲斐があったというもんだ」

「美祢様…」

「道具屋に入ったら、店の主人が驚いてねえ…可笑しかったよ」

 美祢は、そのまま男の旅装束の胸に身を寄せていた。やさしい香りに胸が熱くなる。

「あんたと。どうにかなれるなんて、思ってなかった。そんなの無理だと諦めてたから…でも。身ひとつなら、付いていけるかと思って…でも、やっぱり、怖くて…っ!」

 気持ちを張りつめていられるのはそこまでだった。

 男の背に腕を回す。ぼろぼろと涙が溢れてきた。泣くもんかと思っていた決心は、あっという間に崩される。はあっと、大きく息を吐いた。


 伽呂と、一緒にいたいと思った。

 でも、この地に残る気はないという。自分はここに留まって欲しいと告げ、伽呂は一緒に来て欲しいという。根本的にすれ違っている。お互いの中にある想いは同じなのに、それの行き着く先が違う。

 …美祢には羽ばたけるだけの翼がなかった。それでも、あの荷物を見た瞬間に、伽呂の真実を見た。もう、たまらなかった。

 ここにあるものを持ち出すことは許されない。本当は我が身すら持ち出せないのかと考えていた。でもどうせ行く先の短い身なら…身ひとつで土に帰るように居なくなれば…。

 でも、仮にこの逃亡が成功したとして。何も出来ない御館暮らしの訳あり女をどうして快く受け入れて貰えるだろう。自分の自尊心も許さない。だから、どうにかしたかった。もう我が身を削るしか方法がないのだ。

 伽呂も、その身ひとつで出稼ぎに来た。だったら、自分だって何か方法があるはずだと。


「まとまったものでも持っていけば…少しはと思って…でも、みすぼらしくなっちまったな…」

 心細くなった肩先。揺れるものが消えた背は、想像以上に寒かった。でもそれだけではない。美しさの象徴であった髪がなくなってしまって、自分はもうどうにもならなくなった気もしていたのだ。

「…美祢様…」
 細い背中に腕が回る。こんな風に姿を変えた美祢に誰も気付かない。それが幸いだった。

「一緒に来て、下さるのですね…?」

 多くは語らない。これがこの男だった。じんわりと肌から染み入っていくあたたかさ。気付かずに美祢は震えていた。それにようやく気付いた。なおも強く抱きつく。こみ上げてくるものが止まらない。

「…ん…」
 鼻を鳴らして、短く応える。それ以上の言葉は息が上がって発することが出来なかった。

 

 なだらかな道とは思えない。想像を絶するような困難が待ちかまえてるかも知れない。でも、ひとりで朽ち果てていくよりはいい。どんな痛みも生きている証になるのなら…。

 美祢はその時。天が与えてくれた運命よりもずっと長く生きながらえたいと思った。そして、確かにこの男と共にある、遙かな明日を思い描いていた。


 …細枝は。絡んだ落ち葉をしっかりと身体に巻き付けたまま、濁流の中に落ちていく。そして儚いふたつの身体は剥がれることはなく、どこまでもどこまでも流れていった。

 

………


 表の居室にいたはずの若様の愛妾が消えたのが分かったのは、それからしばらくの時が経ってからだった。彼女が膳に手を付けないのはいつものことなので、運び屋を引き受ける娘も気に留めてなかった。御館様の使いの者が足を踏み入れて、初めて居室のどこにも女の姿がないことに気付いたのだ。

 身の回りのものに手を付けた後はない。着の身着のまま消えた女は、絶望の果てに河に身を投げたとも、二度と出て来れぬと言う深い森に分け入ったとも言われた。御領地の者たちは、しばらくは噂話に興じていたが、それも時が経てば廃れていく。いつの間にか皆の記憶から、美祢の存在は消えていった。

 そして…彼女の行く先は誰も知らない。哀れなその身の上は、この後、語り継がれることすらなかった。

完(20030129)


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