「これを…渡そうと思っていたんだ」 「…はい」
………
寝所に入り、冷え切った肌に絞った手ぬぐいを当てようとした時、後ろから抱きしめられた。熱い吐息に応える。それくらいのことは許されるだろう。この者の妻となった女は数え切れないほどの不貞を重ねてきたのだ。薬を取りに行くと言っては産まれ里に戻り、想う男と密会する。病弱な夫を裏切り、愛欲に身を委ねたのだ。 美祢は男の衣の紐を自らの手で解き、肌を合わせた。逞しい腕には、しかし先ほどのような荒々しさはない。しっとりと染み入ってくるぬくもりが、美祢の身体を芯まで熱くしていく。じわじわと、心の裏側に痕を付けるように。 「美祢様…、美祢様…っ!」 …このまま。 朦朧とした意識の奥で考える。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。朝など来なければいいのに。永遠に囚われた牢獄で、こうして飽きることなく抱き合っていたい。自分の内側からたぎる血潮が生きていることを実感させてくれる。まだ、生きている。確かに生きている。…そして。 この命を、生きる希望をくれたのはこの男ではないか。ただ朽ち果てていくことだけの毎日を送っていた美祢に伽呂は新たな欲求を芽生えさせた。 共に生きることなど叶わない。だいたい、自分がそう長く生きながらえるとも思えないのだ。味わった者だけが知っている、死の淵の恐怖。そして不思議な安堵感。それが我が身を呼び起こす。懐かしい人々が手を振って、こっちへお出でと告げる。もう振り切るだけの強さはなかった。 「…伽呂…」 身体を裏返されて、背筋に舌が這う。つつっと通った命の道筋。そこを何度も何度も濡れた熱さが辿り、大きな手のひらが身体の輪郭をなで上げる。自分じゃない身体の微かな重み。股に張り付く、欲望。 ふわっと、上体が少し浮いて。後ろから身体を合わせられた。胸を思い切り掴まれる。強く、でも絶えず甘い刺激を与えながら、呼吸に合わせた動き。 「…あっ…、くっ…!」 「…本当に…」 「何て、お美しいのだろう…こんな…こんなに…」 「…うっ…」 「そんな…、やめっ…っ!」 「ふっ…うううっ…」 「美祢様…」 何を言いたいのか、分かる。 無言のままで微笑み返し、そっと腕を伸ばした。静かに唇を合わせる。そうしながら、男がゆっくりと身体を合わせていく感触をじんじんと味わっていた。股の付け根から足の親指までが快感で硬直する。幸せに酔いしれる、とはこんなことを言うのか。 そこにあるのは荒んだ優越感などではなかった。溢れる愛情だけ。この者とひとつになりたい、そう思う欲求だけ。 若様の元で飼い慣らされ、我が身をたかめ、男を悦ばせる手段など身につけていると思っていた。抱かれていても始終、そんなことを考えているゆとりがあった。 …でも、違う。今は違う。 認められたいんじゃない、誉められたいんじゃない。ただ、心のひだを絡め合わせて、深く深く繋がりたい。もうこれ以上、入り込めない場所まで来て欲しい。深く貫かれるたびに、男の欲望が背中まで突き抜けるほどの快感を覚えた。それを余すことなく伝える。高らかな喘ぎで。 向きを変えられ、背中から熱く愛されて、さらに燃え上がる。繋がり合った部分から、溶けだしていく身体。流れていく生命。 「あっ…、くっ…っ!」 そのまま、ふたつの身体はがくっと沈み、しばらくは起きあがることも出来なかった。
やがて。 朱の海の中を男の腕が泳ぐ。横たわったまま、もう一度強く抱き寄せられる。背後に感じる熱。それに寄り添うと、首筋に唇を落とされた。それが離れたとき、ようやく獣から人へと戻った気がした。
………
「父親の…衣しか知らないから。こんな風でいいのかなと思いながら、縫ってみたんだけど…」 「…素晴らしいですよ」 「これは、もう一生、離しませんから…さあ」 「しばらく、休みましょう…」
………
辺りはもうすっかり朝の光に包まれていた。しとねに静かに横たわったまま、傍らを確認する。やはり、寝ているうちに出て行ったのか。そんな気がしていた。 「俺と一緒に里に来てくれませんか?」 そう告げてくれた男も、美祢がきっぱりと断った後は、再度話を蒸し返すようなことはなかった。ただ、眠りにつく瞬間まで美祢の心と身体をしっかりと包み込み、愛してくれた。しっかりとふたつの命が結ばれるさまを教えてくれた。 「…行けるわけ、ないじゃないか…」 それが出来るなら、そうしたかった。女房や子供が居るから、だけではない。美祢はあの男と共にも、そうじゃなくてもこの地を去ることは出来ないと初めから分かっていたのだ。 贅沢な暮らしに慣れてしまった者が、一から出直せるわけもない。それならば、いくらかの金品を持ち出せばいいと思うが、それが出来ないのも知っていた。 …伽呂の里の者。両親を始め、女房である女にその子供たち。村人。その全ての者たちが自分に対して見せる蔑みに耐えられる自信もない。あの伽呂が頼んでくれた真砂という娘の目を見たのだから。あの、とんでもなく異質の存在を嫌々目にするような視線。心に感じ取る、耐え難い仕打ち。
呪縛のように聞いていた。 昔、御館様の愛妾が他の男と通じて、密かに御領地を出た。しかし、ふたりはすぐに捕らえられ、男はその場で斬り殺される。女も遊女小屋に売られた。そしてぼろぼろになるまで働かせられたのだ。いくらか所持していた金品も御館様の手に戻った。
だから、美祢は自分がここから出られるのは、自らの命の果てるときだけだと信じていた。身ひとつで出れば何も言われないだろう。でもどうしてそのようなことが出来よう。「若様の愛妾であった身の上」を捨ててしまえば、ただ人の女になれば、食うことも出来ない惨めさになる。御領地を一歩出れば、一日も生きていくことが出来ないだろう。情けないが、それは真実だ。美祢にはもう頼る親も家もない。 伽呂の里にだって、いくらかの金品を持ち込めば、それなりに受け入れて貰えるかも知れない。しかし、穀潰しがひとり増えるだけの事実を容認して貰えるはずもない。手仕事も畑仕事もこなす自信がない。その上、治らぬ病を持っているのだ。 …だから。春までここにいてくれと言ったのに。 男はそれは出来ないと言う。美祢もここを出ることは出来ないと言った。もうふたつに戻ることしか選択肢はなかったのだ。やはり結ばれることなどない、関係だった。 もう、泣くもんかと思う。男に愛されて、大切にされて。その思い出だけで生きながらえよう。そして、男の幸せを祈って、眠りにつこう。それだけが残された人生の営みだ。 そう思えば、もうごろごろしてなどいられない。美祢は思い切りよく起きあがると、さっと身支度を整えた。また、自分で膳の上げ下げをするのだ。まぶしい日差しが、少し胸に刺さって痛かった。
「…あれ?」 戸口が閉められたままなので、薄暗い上がり間。寝所を出て、そちらを覗いた美祢は思わす声を上げた。 しばらくは自分の目にしたものの存在を信じることが出来ない。しかし、ややあってから、ハッとする。何だ、どういうつもりなんだっ…!? 思わず駆け寄っていた、上がり口に。かがんで改めて確かめると、そこにはひとまとめにされた荷物がある。美祢は信じられない思いでそれを改めた。 伽呂に、やったはずの行李…中に子供の玩具と着物の入ったささやかなもの。それは持ち出しても構わないほどのささやかなものだった。御館様より頂いたものでもなかったから、何ら支障はないはずだ。美祢が自分で買い求めた物だったのだから。 …何より、美祢を驚かせたのは。その脇に置かれた小さな布袋だった。持ち上げるとずしりと来る。まさかと思って中を確かめると。そこには美祢が渡したはずの駄賃である小銭が全て入っていた。もしかすると、男自身の雇い夫としての給金もいくらか入っているのかも知れない。そう思うくらい数が多かった。 「嘘っ…!?」 「ど、どういうことなんだよっ…!」 ――ふたりのことを全て精算するつもりだったのか、だから置いていくのか!? 突風のように怒りがこみ上げて、すぐさまかんぬきのさしてない引き戸を開ける。ざっとまぶしさが飛び込んでくる。しかし、いくら目をこらしても冬の朝、人っ子ひとり通っていない。伽呂は、もうこの地を出て行ったのだろうか? 柱に手をついたまま、息を整える。そして、もう一度振り返り、置かれたものを眺めた。何度も何度も確認する。
「…まさか…?」 突然。頭の中に、ぴんと閃光が走った。
そんなはずはない、そんなことがあっていいはずもない…でも。 美祢は思わず、口元を手で覆った。 次第にこみ上げてくる熱いもの。それをようやく、といった感じで押しとどめる。ついっと吹き込んでくる気の流れに、手入れした髪が舞い上がった。
そして。 その瞬間、美祢の中にも、ひとつの決意が生まれていた。
………
若様が消えてから、一時はもうここの御館様も駄目ではないかと噂が立った。何しろ若様は新しく西南の大臣様のご息女を頂くことになっていたのだ。それをお断りするかたちで出奔なさった。どんな風に制裁が下るのか想像するだけで怖かった。領下の者の中には慌てて逃げ出した者もいる。 だがそれも、過ぎた心配だった。若様は都でご出世なさっている。畏れ多くも竜王様にまで覚えめでたく、ときめいていらっしゃる。
大きな大木の影に隠れながら、通りの往来を眺めていた美祢はひとつため息をついた。どれくらい待っただろう、男はなかなか現れない。 「…あっ」 どくどくと、高鳴る胸。それを押さえ込みながら、美祢はすっと街道に歩み出た。 「…えっ? …美祢様っ!?」 「あのっ、今、居室までご挨拶に…どうしたんですか、いらっしゃらないから…あのっ…」 御領地の外れとは言っても、誰か通らないとも限らない。男は周りを気にしながら、道を逸れた。先ほどまで美祢が立っていた場所にふたつの身を押し込める。 「…あんたが」 「色々忘れていってくれたじゃないか。届けてやらなくちゃと思ったけど、出稼ぎの宿所に行くのも嫌だから、ここで待っていた」 「そ、それはっ…」 「あんたにやった、金だろう? 金はいくらあっても困らない。持っていけばいいだろうよ? 私だって、冥土までは持っていけないんだし…」 なおもにじり寄ると。男は、美祢の腕ごと払った。ざらっと音を立てて、包みが足下に落ちた。 「――受け取れませんっ! …俺はっ、俺は…金で買われたんじゃないんですっ、ものにつられたわけでもありませんっ。た、ただっ、み、美祢様と…ご一緒にいたかったから…」 「わ、分かって頂きたかったんですっ…、俺、俺は本当にっ…!」
「…そう」 しゅるん、と。まぶしい音を立てて、美祢は手ぬぐいを取った。
「…だったら。その金は汚いものじゃないって言ったら、受け取ってくれるのか?」 「え…っ…?」 「み、美祢…様?」 「ど、どうしたんですかっ! あのっ…一体っ…!!」 男の震える手が、美祢の髪を撫でた。すっと髪の間に指を差し入れて、肩先で行方を失う。そのまま指先が空を切った。 その仕草を。言葉と、表情を…美祢は静かに見ていた。そして、静かに言い放つ。 「高く、売れたよ。さすがに自慢の髪だからね…手入れした甲斐があったというもんだ」 「美祢様…」 「道具屋に入ったら、店の主人が驚いてねえ…可笑しかったよ」 美祢は、そのまま男の旅装束の胸に身を寄せていた。やさしい香りに胸が熱くなる。 「あんたと。どうにかなれるなんて、思ってなかった。そんなの無理だと諦めてたから…でも。身ひとつなら、付いていけるかと思って…でも、やっぱり、怖くて…っ!」 気持ちを張りつめていられるのはそこまでだった。 男の背に腕を回す。ぼろぼろと涙が溢れてきた。泣くもんかと思っていた決心は、あっという間に崩される。はあっと、大きく息を吐いた。
伽呂と、一緒にいたいと思った。 でも、この地に残る気はないという。自分はここに留まって欲しいと告げ、伽呂は一緒に来て欲しいという。根本的にすれ違っている。お互いの中にある想いは同じなのに、それの行き着く先が違う。 …美祢には羽ばたけるだけの翼がなかった。それでも、あの荷物を見た瞬間に、伽呂の真実を見た。もう、たまらなかった。 ここにあるものを持ち出すことは許されない。本当は我が身すら持ち出せないのかと考えていた。でもどうせ行く先の短い身なら…身ひとつで土に帰るように居なくなれば…。 でも、仮にこの逃亡が成功したとして。何も出来ない御館暮らしの訳あり女をどうして快く受け入れて貰えるだろう。自分の自尊心も許さない。だから、どうにかしたかった。もう我が身を削るしか方法がないのだ。 伽呂も、その身ひとつで出稼ぎに来た。だったら、自分だって何か方法があるはずだと。
「まとまったものでも持っていけば…少しはと思って…でも、みすぼらしくなっちまったな…」 心細くなった肩先。揺れるものが消えた背は、想像以上に寒かった。でもそれだけではない。美しさの象徴であった髪がなくなってしまって、自分はもうどうにもならなくなった気もしていたのだ。 「…美祢様…」 「一緒に来て、下さるのですね…?」 多くは語らない。これがこの男だった。じんわりと肌から染み入っていくあたたかさ。気付かずに美祢は震えていた。それにようやく気付いた。なおも強く抱きつく。こみ上げてくるものが止まらない。 「…ん…」
なだらかな道とは思えない。想像を絶するような困難が待ちかまえてるかも知れない。でも、ひとりで朽ち果てていくよりはいい。どんな痛みも生きている証になるのなら…。 美祢はその時。天が与えてくれた運命よりもずっと長く生きながらえたいと思った。そして、確かにこの男と共にある、遙かな明日を思い描いていた。
…細枝は。絡んだ落ち葉をしっかりと身体に巻き付けたまま、濁流の中に落ちていく。そして儚いふたつの身体は剥がれることはなく、どこまでもどこまでも流れていった。
………
身の回りのものに手を付けた後はない。着の身着のまま消えた女は、絶望の果てに河に身を投げたとも、二度と出て来れぬと言う深い森に分け入ったとも言われた。御領地の者たちは、しばらくは噂話に興じていたが、それも時が経てば廃れていく。いつの間にか皆の記憶から、美祢の存在は消えていった。 そして…彼女の行く先は誰も知らない。哀れなその身の上は、この後、語り継がれることすらなかった。 完(20030129)
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