TopNovel>浮の葉語り・8


…8…

 

 美祢は裏のかまどの前にいた。

 物置を少しばかり大きくしたような小屋の裏、ひさしの下を利用して作られたささやかなもの。ふたつある片方で汁を煮て、もう一方で粥を炊いていた。
 しゃがみ込んで枯れ枝をくべる。ぱちぱちっと音を立てて小枝は勢いよく燃え上がった。その赤々とした炎に照らされた頬がやわらかく緩んでいる。

 やがて。表の戸口で物音がした。

 ハッとして立ち上がると、腰に巻いた前掛けで濡れた手を拭きながら、小走りに進んでいく。気持ちのいい夕方の気の流れが、長い髪を揺らし、辺りに広がる。表に回ってみれば、自分の腰までの背丈もない幼子たちが美祢より先に集まっていた。

「お帰り」

 美祢の声に、かがんで子供たちの相手をしていた男が立ち上がる。こちらを向いて、顔をほころばせた。

「もう、夕餉になるから。荷物を下ろして来なよ?」
 全身から湧きあがる幸福な気持ちに包まれながら、美祢はようやく言葉をかけた。幸せだと、満たされていると、言葉を発することも面倒になる。ただ、見つめ合って触れ合っていたい。そばにいるだけで十分なのだ。

「美祢様」
 草木染めの衣に身を包んだ男が、子供たちにまとわれ付かれながら、手招きする。小首をかしげながら側によると、そっと肩を抱かれて、頬に軽く口づけられた。

「…なんだよっ、もう…」
 真っ赤になってかぶりを振る。子供たちの前で、一体何をするんだ。まだ日も暮れない、道ばたを誰が歩くかも知れないのに…。

 くすくす笑いをする男が、腰に付けた魚籠(びく)を差し出す。

「今日はこれだけかかっていた」

 ずしり、と腕に響く重み。それを受け取る自分の手が、村娘のように使い込まれている。でもそれが幸せだと思った。

 暖かくて、穏やかで。遠くの山に沈んでいく夕日が美しくて。

 ぱちぱちっと、竹の魚籠が音を立てる。中で魚が跳ねたのか。慌てて持ち直して、ふと見上げる。夕日に照らされた笑顔。唇を噛みしめて、こみ上げるものを押さえる。

 幸せすぎて、泣きたくなる。こんな所に自分が居て、いいのだろうか? …本当に、こんなことがあっていいのだろうか…

 

………


 ぱちぱちっと、はぜる音がして。ハッと瞼を開けた。傍らに置かれた火鉢に残るささやかな赤。それが、うっすらと一点を染め上げる天井が視線の先にあった。その他の部分は墨の色。美祢を取り巻く辺りの気は、まだ闇の色に包まれている。外の方はだいぶ静かになっていた。夕方から荒れていた気の乱れも収まったらしい。

 …夢?

 夢を、見ていたらしい。なんだか、とても幸せで。でも胸が締め付けられる不思議な夢を。その中で、自分に微笑みかけてくれていた人…。

「…え?」
 がばっと、起きあがる。板間にござを敷き、その上に直接しとねの布団を敷く。典型的な西南の集落の寝所だ。勢いよく跳ね起きたため、掛けていた重ねや上掛けが膝の向こうに落ちた。

「伽呂…?」
 自分の寝ていた隣りを見る。そこは人ひとり分のくぼみを残したままひっそりしていた。慌てて手を触れてみる。美祢の手のひらの重みでそこは容易にかたちを変えた。もうだいぶ前に離れたのか、ぬくもりは残っていなかった。

 …嘘。

 全てが夢だったのか? 何から何まで…そう思ったが、すぐに自分が何も身につけていないことに気付く。それだけではない、愛されたあとのけだるさが全身を覆っていた。その上を気が流れ、ぞくぞくっとする。美祢は傍らに落ちていた肌着を肩から掛けると、しとねから這い出た。

 

 今は何時だろう。どこからか入り込んだ夜の気はまだまだ深く、夜明けは遠い。美祢は寝所を出て上がりの間を覗いた。そこにあったはずの荷物も、男が脱ぎ捨てたはずの衣も、全てがなくなっていた。

「…あっ…!」
 暗がりで、何かに躓く。軽く膝をついて振り返ると、そこには白木の人形(ひとがた)が転がっていた。呆然としたまま、それを拾い上げる。

 …美祢様の病をこれが代わりに受けてくれるようにと。

 男が、自分の息災を祈って自らの手で彫ってくれたもの。それを手渡された夕べ。強く抱きしめられて、熱い吐息を感じた額。

「伽呂…」
 ぺたんと、腰を落とす。腰巻きすら身につけていないから、ひんやりと板間の冷たさが伝わってくる。

 出て行ったのだろうか? 別れも告げず? 最後にぬくもりを残して、何事もなかったように。

 心が空虚に触れて、その後はもうどうしようもないくらい熱いものがこみ上げてきた。

「…うっ…っ!」

 枯れたはずのしずくが。また、あとからあとから溢れてくる。美祢の白い太股にそれは次々にこぼれ落ちた。ゆるやかな曲線に沿って流れ落ちていくものを滲んだ視界で捉える。あらがうことの出来ない自然の摂理。重いものは落ちていく。

 そんなこと、分かっていたのに。

 どうして、最後にひとことの言葉を掛けてくれなかったのだろう。揺り起こして別れを告げてくれればよかったのに、それなのに。

 板間の冷たさを直に感じる尻や股。背骨を昇っていく冷気。我が身を取り巻く、忌々しい朱。眠りに落ちていく瞬間まで、男が優しく指で梳いてくれていたのに。

「…伽呂、…伽呂…っ!」

 骨と皮だけになってしまった身体。その奥の波打つ場所がじんじんと痛い。もう、夜は明けないかも知れない。自分はこのまま闇に葬られるのかも知れない。

 

 その時。

 かんぬきをしてない戸口が、がたがたっと揺れた。

 ハッとして袷の前を持って見上げる。すううっと、そこが滑らかに開いた。

「…美祢様?」
 暗い室内に入って、にわかには眼が慣れないのだろう。上がり口に固まっている物体を、男が眼を細めて確認する。

 美祢は言葉が出なかった。ただ、見つめる。元のように旅の装束に身を包んで、そこに立っている人を。

「…だ、駄目です。そんな薄着で…病み上がりで、身体にさわりがあったら、如何いたします?」
 大股でこちらに向かって歩み寄ると、手にしていたものをごとりと置いて跪いた。

「…どうして…」

 今度こそ。

 もう、戻ってこないのかと思っていた。このまま里に戻ってしまうのだと。どんなにか自分のしでかした失態を悔やみ、やるせない気分のままで…。

 そっと、腕を伸ばして、逞しい腕に触れる。ひんやりと冷たかった。ぴくんと、指先が跳ねる。伽呂は喉の奥で、くすりと笑った。

「さすがに冬ですから、あのままの格好では…だんだん冷えてきましたので。身体を清めて参りました。そうしていたら、美祢様もと思いまして。俺は川の水を浴びればいいですが、美祢様はそれではお可哀想だと、少し残り湯を沸かして参りましたが…」
 男の手にしていたのは湯桶だったのだ。そこから立ち上る白い湯気が、ふわふわと辺りに漂って溶けていく。すぐにその中に手ぬぐいを浸し、きゅっと絞り上げる。そして、美祢の前に腕を伸ばした。

「…美祢様?」

 男の身体が揺れる。美祢はごわごわした衣の胸に倒れ込んで、その背に腕を回して抱きついた。

「…もう、どこにも行くなっ! 行かなくていいよっ! ここにいてくれっ…」
 男の身体が固くなる。それを腕で感じ取りながら、でも言葉を止めることが出来なかった。

「あんた、里に戻るのをもうちょっと延ばせないかい? そうだ、今から戻ってもこんな真冬じゃたいした仕事にならないだろう!? …春が来るまで、それまで、ここにいないか? 何か、理由を付けて、もうしばらく戻らないで…」

 そんなこと、出来るはずない。叶うわけない。それなのに、湧きあがってくる言葉たちを吐き出さずには居られない。美祢はもう夢中だった。

「美祢様、そんな――」
 大きくかぶりを振った振動が伝わる。慌てている。そりゃそうだろう、ようやく里に戻れると思っていたのに、こんな風に言われたら、困り果てて当然だ。

「そうだよ、金だったら払う。里にいるよりも、よほどいい稼ぎになる。その方が、お前だって助かるだろ? なあ、仕事が延びたとか便りを出して――ねえ…!」

 願いなど、叶わない。自分はいつでも置き去りにされる。男の衣の背をぎゅっと握りしめた。はあっと、大きく息を吐く。

「…どうせ、春までしか保たない身体なんだ。だったらそれまでっ、ここにいて…慰めていてくれよ…」

 こんなこと、言ってはならないのに。それなのに、止まらない。男の腕が自分を抱きしめる。大きな手のひらがたどたどしく背に回って、ゆっくりと囚われていくその感覚を、幾度か見た夢の世界の出来事のように感じていた。

「…美祢、さま…」
 男の腕は震えていた。腕だけではない、美祢を包む身体全体が大きく揺れている。

「行かないで、くれよぉ…」

 

 それきり。しばらくは荒い呼吸しか聞こえなかった。耳元に落ちてくる、その激しさが美祢に生きる力をくれた。人肌が懐かしい、誰かに包まれるのはどんなにか心地よいことだろう。でも、もうすぐ終わる。別れが待っていることは悟りきっていた。それでも、こうして一時の夢が見たかった。

 やがて。静かに腕が解かれて。男は美祢の肩を持って、ぐっと身体を引きはがす。もう、顔を上げる勇気はなくて、美祢は肌着の前を押さえたまま、俯いていた。

「…美祢様」
 やわらかい声。自分の名もこんな音で奏でられると、とても暖かく大切なものに感じられる。美祢はきゅっと唇を噛みしめた。目のフチがじんと熱くなる。

「あの、美祢様…」
 男が、ごくっと唾を飲み込む。その微かな振動までがはっきりと伝わってきた。

「俺と…一緒に里に、行きませんか?」

 

 …え?

 

 あまりのことに。美祢は顔を上げて、男を見つめていた。緊張した面持ちの顔が、しかしまっすぐにこちらを見ている。それは美祢が驚きの瞳を揺らしても、そらされることはなかった。

「…な、何っ…?」

 男の手が片方肩から外れて、美祢の髪にそっと触れた。頬にかかった一筋を払って、乱れを整えてくれる。そうされながらも美祢はただ視線を男に向けることしかできなかった。

「一緒に、里に行きましょう。こちらにいるような贅沢は出来ませんが、精一杯お守りします。美祢様に苦労などさせません、だから――」

「何、寝言言ってんだよっ!?」
 美祢は弾かれるように、男の腕を払うと飛び退いた。遅れて自分のものである髪が従う。その先を、男が指に絡め取った。

「美祢――…っ!」

「馬鹿言ってんじゃないよっ! どうしたんだい、気でもふれたのかよっ!」
 もう信じられなかった。どうして、そんなことがしゃあしゃあと言えるんだ。いくら田舎者とは言ったって、ふつうの道徳観念くらいは身につけてるはずだ。それを…。

「女房子供が居るところに、どんな顔して私を連れて行く気かい? どう見たって、女を囲える身分じゃないだろうっ、どうするつもりなんだよっ!」
 気休めにしたって、冗談が過ぎる。こんな風に同情されてしまうくらい哀れな身の上なのだろうか? いくら若様に捨てられ、こんな下男以下の男に情けを受けるような自分でも、そこまでの辱めを受ける筋合いはないと思った。

「人のこと、何だと思ってんだよっ!? 馬鹿にするのも、いい加減に――…」

 耳まで真っ赤になって、怒りをぶちまけていた。すぐに息が上がる。そんな美祢を男は静かなまなざしで見つめている。何を思って居るんだろう、それすら想像も付かない目で。

 美祢はそこまで言うと、もう情けないやら悔しいやらで、次の言葉が出てこなかった。肩で息をしながら、男を睨み付ける。どこまでも穏やかな瞳を。

「美祢様」
 小さな、でもしっかりした口調で男が口火を切る。そして、少し膝を進めて、慣れてきた暗がりではっきりとこの表情の動きが分かるところまで寄り添ってきた。その太い指には美祢の美しい髪が絡みついたままだ。それにたまらなく愛おしいもののように、唇を寄せる。

「な、何だよっ…」

「確かに、俺には妻がおります。でもその者は…死んだ兄の妻だった人です」

「え…?」
 考えてもみなかった展開に、美祢は目をむいた。どういうことなんだ? それは。じゃあ、子供というのも? 自分の子じゃ…

「兄と俺は年が離れていまして。兄夫婦の間には何人も子がおりますが、俺にとっては弟妹のようなものでした。お話ししたとおり、兄は病がちで。ですから、同居している俺が親代わりに色々やっていたんです…」

 そこまで言うと。男は少し表情を和らげて、美祢に微笑みかけた。

「美祢様、俺のこと、いくつぐらいだと思っていらっしゃいました?」

「え…」

 子がいる、と言ったから、結構な年だと思っていた。でも実際のところ、よく分からなかったのだ。伽呂は地味な服装で田舎育ちの素朴な顔立ち。穏やかそうな表情は年齢を曖昧にして、20にも40にも見えてしまう。確かに、美祢を抱いた逞しい身体は美祢の知っている若様のものと変わらず、そう思えば、想像よりも年若なのかも知れない。

 様々な思考を巡らせていると、男の楽しそうな視線を感じた。むっとした表情になると、男は軽く会釈して、首をすくめる。

「はたちには今少し…美祢様とはいくらも違わないんですよ?」

「そう…なのか」
 どんな反応をしたらいいのやら。美祢はすっかり毒気を抜かれて、呆けてしまった。

「…でも」
 はたと、思い返す。浮かんできた柔らかさが、しゅんとしぼむ。

「もう、妻なんだろ?」
 夫が亡き後、そのままその兄弟の後妻にはいるとは田舎なら良くあることだ。子供もいる、土地にも親にも慣れている。もう一度新しい家に入るよりは簡単だ。

「…はい」
 静かにそう答える男の声に、最後の望みは絶ち切られた。するりと視線がそらされる。男は闇を見つめていた。

「ここに来る前に、仮の祝言を挙げました」

「…そう」

 新しく縫われた仕事着。丁寧に作られた護りの飾り輪。護り袋。そこには絶えず、優しい人の影が見え隠れしていた。嫉妬を覚えるほどの自分ではないと思っていたが、いい気分はしなかった。男が妻のことを褒め称えるたびに、胸がきしんでいた。

 現実がひっそりと忍び寄ると、今更ながら身体が冷える。肌着のままでは耐えきれない真冬の夜。これから今一度、休むにしても衣をきちんと着込まないと辛い。もう難しい話など終わらせて、ゆっくり休みたかった。

 立ち上がろうとして、腕を掴まれる。顔を背けていたはずの人が、またこちらを熱い目で見ていた。

「で、でもっ…!」

 髪を掴まれ、腕を取られ。まるで自分は蜘蛛の巣にかかった蝶だ。もがけばいいのに、それが出来ない。囚われていることを心のどこかで喜んでいるから。すぐに外れるはずの束縛に甘んじてしまう。

「姉には、他に想い人がいるんですっ、そうはっきり言われましたっ…、俺、もう村へは戻れないんです」

「な、…それはどういう…」

 次から次から、たたみかけられるように現れる真実。男の思い詰めた表情に何故か惹かれる自分がいる。

「俺は、もう、村の近くまで行って、誰かに稼いだ給金を託したら、死んでしまおうとすら思っていました、もうつい夕刻まではそう思っていたんですっ! …どうして、村になど、戻れましょう。妻…いえ、兄嫁ははっきりと申しました、『あなたなんて戻ってこなければいい』と…」

「嘘…、そんな、馬鹿な…」
 世の中、言っていいことと悪いことがある。どこまでも穏やかで気だてが良く、誰からも好かれるというその女が、まさかこの男をそんなふうに愚弄していたなんて。暗がりでのぞき見た、男の目尻が濡れていた。

「兄嫁のことは…実は、とても好きでした。

 俺は末っ子で、他の兄や姉もみんな所帯を持っていましたが、何となく家にひとりで残っていました。兄の世話もありましたし…姉の側にいたい気もあって。
 ですから、嬉しかったんです。そんな風に考えること自体不謹慎なことですが、兄嫁が俺の妻になってくれるなんて。この話はまだ兄が生きている頃から、もしもの時には、と言われていたことでした。子供たちも俺になついてましたし。兄嫁も何も言いませんが、認めてくれているものだとばかり…それが。

 出稼ぎが決まって。その前に、とのことで仮の祝言を挙げて。
 共の床を取る時になって、言われたんです。初めて、真実を…」

 まだまだ、酒宴の席が続くのを耳で確かめながら、ささやかな離れに入る。白い婚礼衣装。この衣を纏う日が来るなんて。それにずっと慕っていた人を妻に出来るなんて。

 しかし。宴席で笑みを絶やさなかったはずの人が、ふたりきりになった途端、見たこともない厳しい表情に変わった。ただならぬ雰囲気に、問いただすと、彼女は泣きながら訴えた。

 ――自分には想う人がいる、その人と一緒になりたい。ここに嫁いだことで、それはもう叶わぬことだと諦めていた。でも、こうして夫である人が亡くなった今、もう自分に嘘は付けない。皆を裏切るのは忍びないが、もう限界なのだ…と。

「兄は、床に伏せっていることの多い人でした。ですから夫らしいことは何も出来ず…不思議に思っていたんです。実は姉が里に残してきた恋人と通じ合って、それで…一番上の13になる息子の他は、全てその男の子だと、教えてくれました。
 兄だけが知っていることだったんです。親も兄弟も、疑っても見ませんでした。信じられません、あの兄嫁が…まさか」

「そ、そんなっ…だって――…」

 不貞などが許されるはずもない。男には寛容なこの世も、女にとってはがんじがらめの束縛が多い。美祢だって、若様の御手が付いたため、このような身の上になったのだ。もう一生が、決まってしまった。

「好きなんだろ? だったら、いいじゃないか。その女がなんと言おうと、お前たちは夫婦なんだろ!?」

「…でもっ!!」

 男の手が美祢の頬を捉えた。ぐっと顔を近づけて、お互いの吐息をかけ合う。目尻がぴくぴくと痙攣する。

「妻に…兄嫁に、そう言われて。俺は彼女を自分のものには出来なかったのです。そうしたところで誰に咎められることもないのに…兄嫁を思う以前に、自分の身体がどうにもならなくなって。もう、同室することも出来ずに、夜の森に飛び出していました。諦められたのです、あのときは…」

 近づいてくる唇を静かに受け止めていた。男の熱さが伝わってくる。行為の意味も知らず、ただ受け入れたいと思った。

「美祢様…俺は、美祢様のことは諦められませんでした。兄嫁よりもずっと遠いところにいらっしゃるのに。手出しをしたら大変なことになると分かっていたのに。何度も何度も、これきりにしようと思いました。もう行くもんかと思うのに、この居室に足が向いてしまう。おそばにお仕えして、本当に幸せでした…」

「…伽呂…」

 いくら言葉を並べられたところで、信じられるものじゃないと思った。いくら、男がまっすぐな瞳で告げても、上手く乗せられている気がして。最後の夢を見せてくれている気がして。

「こんなことを言って、お笑いになるかも知れません。馬鹿なことをと言われても構いません…お願いします、俺に付いてきてくださいませんか。何もない村ですが、俺、美祢様のことを大切にします。命をかけてお守り申し上げますから…っ!」

 言葉に嘘はない、そう信じられた。

 なんと言えば、いいのだろう。ゆっくりと頷けば、永遠が手にはいるのか? 穏やかなぬくもりの中で残された時間を過ごせるのだ。望んでいたことだ、本当に欲しかったものだ。

 美祢は。

 ゆっくりと男を見上げた。そして、淡く微笑みかける。男の口元が一文字になったまま動かない。次の言葉を待っているのか。暖かいぬくもりの中に包まれて、美祢の唇が何度も空を切った。

「…無理だね」
 そこまで言うとふっと目を伏せた。この言葉を聞いたあとの男の表情を見たくなかった。

「私がこの生活を捨てて、田舎生活なんて出来るはずもないだろう? それくらい、少し考えたら分かりそうなものじゃないか。ここで産まれて、ここで育ったんだ、出て行くことなんて考えられない。お前は戻って、妻と子供と暮らせばいい。女がなんと言ったところで、もうお前の妻なんだ。逃れることなんて出来ないんだから…」

 

「そう…ですね」

 長い沈黙があって、男がぽつりと言った。その寂しげな音が胸に突き刺さる。美祢の心は引きちぎれそうだった。

「あの、夜明けまでにはまだ間があるだろ? 良かったらゆっくりしていきなよ…」

 男が静かに立ち上がる。入り口まで戻って、元の通りにかんぬきをした。ことりと音がして、ささやかな空間が閉ざされる。もうしばらくは、ふたりだけの…。

 美祢は湯桶を手にすると、首を回して男を寝所へと誘った。


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