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「ほらっ! じゃあ、今見た通りにやってみて」 目の前の家庭科教師の声に、媛子は呆然とした。 隅々まで掃除の行き届いたここは調理室。ここに入るのは初めてだ。高校1年生の家庭科は「被服製作」から始まっている。とは言っても、最初は眠たい普通の授業だ。 調理台の上には、ボールに入った里芋。一応、洗って乾かしてある。これを前もってやっておかないとダメなんだと言うこともたった今、教えられた。たわしでごしごし洗って、泥や汚れを落とし、水切りをしておく。洗ったときに付いた水分が残っていると、皮をむいたときのぬるぬるがすごいのだそうだ。 「あの〜、野山先生?」 「何ですか?」 かなり、緊迫した状況だ。でも媛子はひるむことなく言った。 「どうして、私が里芋をむくんですか?」
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お弁当を食べ終わって、5限の体育のためにきみことふたり体育館に移動していた媛子は、いきなり柱の影から出てきた家庭科教師・野山に呼び止められたのだ。
「げっ、お嬢だ!」 「あの〜あなた、確か、林さんだったわね? 悪いけど、その呼び名嫌いなの。やめてくれる?」 そうは言われても、何しろこの『野山ひばり』という名前とその風貌からは「お嬢」と言う言葉しか出てこない。不可抗力なのである。ちなみに『ひばり』と言う名前は、伝説のあのお方の名前から来ているらしい。新入生がその事実を知るわけもないが、上級生がそんな風に噂していた。 「それは、そうと……久我媛子さん、放課後にちょっと顔貸してくんない?」 「……はぁ?」 もしかして、この人、本気で昔、ヤバかったんじゃないだろうか? 何しろぐりぐりの長い髪をかき上げる指には紅色をもっと濃くしたみたいな毒々しい色のネイルが塗りたくってある。あの手で大根のかつらむきをされたら、ちょっと恐いなと思う。よく見たら、小粒のパールまで埋め込んである。
「ま、取って食われないように気を付けて。あいつ、マジでヤバそ〜 」
――放課後。何が何だか分からないままに、でも、すっぽかすわけにも行かず、媛子が指定された場所まで行くと。白衣に身を包んで、髪をきりっとひとまとめにした姿でさらにすごみをきかせるその人が、割烹着と三角巾を手渡してきた。
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野山がいきなり奇声を発する。まあ無理もない。芋をまな板の上に置いて、転がらないように左手で押さえた媛子が、いきなり鉈(なた)を使うように包丁を真下に振り下ろしたのだ。 「え〜だってぇ……」 「手を切ったら、大変じゃないですか〜どうしてみんな、野菜を片手で持ちながらむくんですか? あれってプロの技ですよ〜私はこのやり方でしますからっ!」 そう言って、一度止めた包丁をまた振り下ろそうとするので、そこに野山が慌てて手を出した。 「ちょ、ちょっと! 待ちなさい! あんたね〜、何を考えてんの!? そんなことしたら、お芋さんがかわいそうでしょ!!」 そして、包丁を持ち直すと、芋とともに媛子の目の前まで持っていく。こんなにくっつけなくていいじゃないか、と言うほどの15センチくらいのところに。残念ながら、媛子は近視ではないので、ここまでしてもらう必要はない。 「まずね、頭とおしりの所を切り落とすの。そしたら、あとは上から下に向かって……」 「ほら、ごらんなさい。やっぱ、素材そのもののかたちを大切にすることも必要だわよ。よく分かったわ、だからあんたの煮っ転がし、芋が長方形だったんだ。山芋かと思っちゃったわ」 野山は、媛子が一応それらしく包丁を使い出したのを確認してから、自分はコーヒーメーカーからいれ立てのブルーマウンテンを注ぎ、丸いすに座って足を組んだ。もちろん、自分の分のコーヒーしか準備しない。 「私、里芋って、袋に入って売ってるのかと思った〜調理場でも真っ白になってかごに入ってるのしか見たことないもんっ!」 相変わらず、どこか外れたことを言いながら、媛子がごりごりと包丁を動かす。同じものを使っているのに、何故か彼女が使うと芋の表面がでこぼこになる。不格好な芋の山が出来てくると、野山がふう、っと面倒くさそうにため息をついた。 「……どうして」 媛子が顔を上げると、アイラインくっきりの目が、じーっとこっちを見てた。 「こんなに何にも出来ないのに、自力でお弁当の差し入れなんてしようと思ったのよ? あんたって、何を考えてんのか、全然分からないわ」 小指を立てて、コーヒーカップを口元に運ぶ。その仕草のひとつひとつが大人びていて嫌だ。 こんな風に大人の人が先生の周りにはたくさんいるんだ。公立高校って、思っていたよりも女の先生が少なくてホッとしたけど、それでもどの人を見ても、自分よりもぼいんぼいんだし、おしりだってでーんとしてる。そのくせ、ウエストはきゅっとくびれてるし。 媛子の視線に気づいたのか、野山は「ふふふっ」と声を立てて笑った。 「……だって」 「先生に、喜んでもらいたかったんだもん。溢れる愛情を示すには、やっぱ手作りかな〜って」 「馬鹿ねえ」 「一先生、このごろ顔がむくんでいると思わない? あれって、塩分の取りすぎなのよ。あんたのお弁当って見た目もすごいけど、中身もかなり破壊的ね。見てるだけで分かるわ、余分な油と調味料の使いすぎ。しかも色が一緒だから、多分味付けにバリエがないわね。お弁当って目で見て、舌で感じるものでしょ? まあ、今に内臓が壊れるわね、さすがの一先生も」 高いヒールのサンダルは、フロアマットの床をコツコツと鳴らす。何だ、そんなことを言うためにわざわざ呼び出したのか。そう思ってむくれた媛子の脇を、彼女はさっさと通り抜けた。 「ただ、自分の気持ちを押しつければいいってもんじゃないでしょ? あんたみてると、イライラすんのよね。絶対に方向性を間違ってるわよ。イマドキの高校生だったら、もっと上手にやりなさいよ。今のまんまじゃ、99%無理ね」 じゃばじゃばじゃば。 調理台の下から出した片手鍋を洗って水と調味料をぶち込んでる。薄口醤油で色を綺麗に仕上げようと言うことらしい。 「見てらんないわよー、一先生がもしも倒れたら、困るのは隣のクラス担任の私なんだからね。あんたたちのクラスの副担は、全然役にたたなそうだし〜ウチのクラス、不登校が2人も出ちゃってるんだから、これ以上問題を作らないでくれる?」
……そんなこと、言ったって。 媛子にとって、視界の向こうにあるのは一の背中だけ。どうにかして追いついて、そして振り向いて欲しくて。面倒なことは嫌いだから、ストレートにぶつかったのに、あんまりにもあっけなく振り払われる。 だったら、と思ってお弁当を作ることにしたんじゃないか。料理なんてやったことなかったから、本を見てもちんぷんかんぷんだったけど、どうにかお重箱に入るくらいの量を作りたくて頑張ってる。誰かに聞いたりしたら、「危ない」とか言われて調理場を追い出されちゃう。 だから、朝早く起きてこっそりと……今日で1週間だ。
「お、お弁当を渡すときと、受け取りに行くときに、私にだけの声を掛けてくれるんだもん。先生が一瞬でも私のことを見つめてくれるなら、それでいいから」 それは。まるで、霧雨の日に雨粒を受け止めるみたいにたどたどしいことだった。でも、それで十分だと思わなくちゃいけないんだ、これ以上望んだら、また突き放されてしまう。 「甘いわねー」 「だ、だってっ! そんなこと言ったってっ……!」
胸の奥がずきりとした。 上手に出来るかなって、心の中では思うのに。実際にやろうとすると全然上手くいかない。美味しく煮えるはずの野菜は塩辛くなって、からりと揚がるはずのコロッケはぷすぷすになる。正直、1週間という場数は「自信」ではなく「落胆」を育てたと言ってもいい。 頑張ることが成功に繋がるだけならいいのに。頑張っても上手くいかないことばかりだと、本当に駄目だなって自分に言い聞かせているみたいだ。 先生の姿を見かければ、必死で声を掛けるし、手を振る。職員室に行く用事は出来るだけ引き受けて。出来るだけ、そばにいたいって言う気持ちは本物だ。でもそれがあるからって、どうなるの? 高校に合格して、入学式に臨むまでは。媛子の心の中にはみずみずしい想いがいっぱいに詰まっていた。それはまるで、春の霞んだ青空を覆い尽くすほどの桜のように、ふわふわと夢心地で、いいことばかり考えていた。……ううん、考えるようにしていた。 もしも、ちょっとでもマイナスの方に考えてしまったら、そこから一気に崩れてしまう。それを知っていたから。 そろそろ、限界が来ていた。正直、もうやめようかなって思い始めてる。ただ――、駄目なのだ、先生の顔を見ると。やっぱり大好きだから、諦めきれないなと思えてきて。このままずるずると続くのも仕方ないかなって。
「私、お料理の才能ないの、知ってるもんっ! そんな、はっきり言わなくたって、いいじゃないっ!」 相手が教師だと言うことも忘れて、思わず叫んでしまった。それなのに、何故か野山は腹を立てることなく、ただ、こっちの出方を楽しんでいるみたいだった。 「でもさあ……食べてくれるんだから、いいじゃない。私なんて、最初から対象外だもん。正直、妬ましいわよ、全く」 鍋を火に掛けるところからは野山が全部やってくれたから、煮上がった里芋は不格好ではあるけどとても美味しそうだ。白い肌を残して煮えているのに、つやつやして。これだけで、どんぶりご飯がお代わりできそうな気がする。 「だったら、今度はせっかくだから、おいしいって思ってもらいたいんじゃない? 一先生の健康のためにだったら私も協力するわよ。それに……あんたが必死で頑張ってる姿って、なんか憎めないのよね」 「えっ……?」 これは明日の朝に火を入れれば、おかずになるから自分で食べちゃ駄目だからね――そう言いながら、野山がタッパーに芋の煮っ転がしを詰めてくれる。それを手渡してくれながら付け加えて言う。 「そうそう、一先生は、部活に出てるからって。格技館までお弁当箱を取りに来てって、言ってたわ」
***
戦国時代の鎧のような変な前掛けを付けて、ついでに横線の入ったお面を付ける。それを付ける前に、汗取りのためか、クッション代わりなのか、頭に手ぬぐいを巻くのだ。お風呂上がりでもないのに、高校生の立派な体格の男子たちが頭に手ぬぐいを巻いて並んで座っている姿は、異様だった。
……だが、しかし。 なんて格好いいんだろう、剣道着姿。ここの高校には女子の剣道部もあって、そっちは白い道着(上に着てる奴)に白い袴。赤い胴(前掛けみたいな奴ね)を付けている。それもとても清楚で素敵だ。でも、それよりも男子の茄子紺の上下はすごい。いきなり男前になった気がする。ああ、剣道をやってる人って……姿勢が良くていいなあ。 あの日、一を探して校内を彷徨ったときにここに来て以来、媛子は毎日のようにこっそりと盗み見をするようになっていた。まあ……お目当ての一がいないときはすぐに戻ってしまうのだけど。 「よ〜し! じゃあ次! ひとりずつ前に出て……、3本ずつな!!」 ぱしっ、ぱしっ。 竹刀の音を響かせて、そして剣道場の気の壁に反響する声。数学の時間に聞くよりも、ずっと野性的で素敵だ。今は後ろ姿しか見えないが、それでもうっとりしてしまう。剣道は無差別級だと言うが、これだけのでっかい人が相手になったら、びびるだろうなあとか思ってしまったり。
「あ〜、センセー」 媛子が声も掛けられずに、入り口で立ちすくんでいると、クラスメイトの小田巻が気づいてくれた。剣道着はぺらぺらした腰巻きみたいな奴に名前を付けてあるので、すぐに分かっていい。彼の声に、一がこちらに振り向いた。 「おおう! 久我か!」 稽古の相手はまだしていなかったらしく、胴だけ付けて、面をかぶってない。だから、しましまではなくて、きちんと一の顔が見える。 「はっ、はいっ!!」 ――と。返事をした……のは、媛子だけではなかった。自分の声に誰かの声がかぶったことに気づいてきょろきょろすると、先生の後ろで、「久我」と書かれた垂れを付けている3年生の主将が立っていた。 「あ……ああ、そうか」 「わざわざ、すまなかったな……野山先生の用事は終わったのか?」 そう言いながら、更衣室に入れてあった風呂敷包みを出してくる。今日も空っぽだ。野山の言葉を聞いたあとだったから、その軽さが妙に切ない。自分が言い出してしまったことだから、やめますとも言いにくい。正直、美味しそうだとは思えない媛子の作品をきちんと食べてくれる。それだけで、すごく嬉しい。 「――あれ?」 風呂敷に何か白い紙が挟まっている、四つ折りにされている……それを手に取ろうとしたら、媛子よりも早く、一が抜き取った。 「ああ、そうだ。さっき受け取ったんだ――おおい! 久我!!」 「はっ……はいっ!!」 一が後ろを向いて叫んだのに、瞬時に反応してしまった。彼の手にあるのは何かの日程表。今のは主将を呼んだに違いない。また、ふたりの返事が重なってしまい、恥ずかしくなってしまった。
先生と主将が何かについて話をしてる。弁当の包みを受け取ってしまえば、媛子にはもう用事はない。出来れば少し、練習を覗きたかったが、今日は野山とのやりとりで時間を使いすぎてしまった。もう学校の周りを2時間くらいくるくる回っている運転手のためにも、早く戻らなくては。 そろーっと、立ち去ろうとして。その時、気配に気づいた一が振り向いた。
「おっ、ありがとう。く、……ええと」 そこで、もごもごっと口ごもる。何だろうと思って、立ち止まると、一が少し顔を赤くして言った。
「なんか、久我がふたりいると紛らわしいな。お前、下の名前で呼んでいいか?」
つづく♪(031212)
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