…7…
学校の1年なんてあっという間だ。 年度初めかと思うとGWが終わっている。そんな風にして、気づくと1年が終わってしまう……というのが、一(はじめ)のここ数年の日常だった。
まあ、そんなわけで。彼は4限の授業を終えた後、職員室で弁当を広げていた。 窓の向こうでは5月の風景がきらめいている。と言うか、花の散った桜並木にびっしりと若葉が茂り、その色を徐々に濃くしている最中だ。職員室際に植えられた桜のお陰で、夏の直射日光を防ぐことが出来る。ただし、暑い日に窓を開けておくと、たまに教頭の机の上に毛虫がちらちらと落ちているのを見つけるが。一の席は窓から遠いのでその心配もない。
――うむ。 とりあえず、自分の席の周りに人影がないことを確かめて、それから蓋を取る。少しずつ「それっぽく」はなってきたが、まだまだコンビニ弁当の方がずっと見栄えがいいなと思える出来の小宇宙が現れた。 この真っ黒に見えるのは、やはり卵焼きなんだろうか? 炭の固まりかと思って恐る恐る箸を入れると、そこから黄色と茶色のまだら模様が現れる。その隣のインゲンのごま和えらしきものは、見る影もなくまるでふきのとうの和え物のようだ。何故か「レンジでチンの冷凍食品は使いたくない」と言う信念があるらしく、今日もパンクして皮だけになったコロッケが入っていた。 何事も一朝一夕には行かないと言うが、彼女の20回目の挑戦もなにやらすごい仕上がりである。ただ、多少の焦げを気にしなければ(いや、ほとんど焦げているので気にしないわけにも行かないが)どうにか食べられるようになってきた。
「――媛(ひめ)」 そう呼んだら、そろーっとこちらに顔を覗かせた。初日の出のような明るい笑顔。 「先生っ! おはよーございます!」 前屈のようにお辞儀するので、ただですら小さな身体が一の視界から消え失せる。慌てて視線を下に下げると、ごそごそとピクニックバッグの中から、風呂敷包みを出していた。弁当箱がまあ、通常レベルになったので、さすがに登山用のリュックはやめたらしい。 「はいっ! 今日のお弁当です!」 だが、一は媛子の指の絆創膏の方に目がいってしまった。 「えへへ〜、気を付けていたんですけどぉ。知らない間に油で揚がっちゃってました」 照れ笑いをしながら明るく言う事でもないと思うが。一は少し眉をひそめた。 「……無理すんな。別に、毎日じゃなくたっていいんだぞ」 「あ、別に。食いたくないわけじゃないからなっ、分かるな!?」 どうして、ここまで気遣わなくてはならないのだろう。ずっしりした風呂敷包みの重さを感じつつ、一は自分で自分に苦笑した。
「あの〜権藤嶺(ごんどうみね)先生……」 名前を呼ばれて振り返ると。そこにいたのは5,6人の教員だった。担当科目はバラバラ、でもその全てが一の担任クラスを受け持っている先生方である。そのうちの一番年配の古文教師が、一歩前に出る。 「久我媛子のことで……ちょっとお話があるんですけど」 手渡された用紙を見て、一の顔色が変わった。
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堅苦しい名前だと思う。だが、文字通り、ここは生徒を指導する部屋だ。進路指導のこともあるし、服装や素行に乱れのある者も呼び出される。 一としてはそんなかしこまったことは苦手なので、出来る限りはここよりも職員室や剣道場の一角を使うようにしていた。実は一対一のやりとりは苦手なのだ。他の仕事をしていてもいいから、ギャラリーは欲しい。 「失礼しま〜すっ!」 半開きになっていた引き戸をいっぱいに開けて、今日の授業を終了した媛子が入ってくる。 何が何だか分からないが、いつでも楽しそうな生徒だと思う。もちろん、新入生の1学期だ。まだ現実というものがよく把握し切れていない感じなので、浮き足立っている者は多い。だが、この目の前の生徒については「弾けている」という表現がぴったりだ。 「先生っ! お弁当を食べてくれましたかっ!!」 開口一番にそう訊ねてくる。うきうきした話し方。スキップするみたいな歩き方。彼女の動きに合わせて、制服のスカートも胸のリボンもふわふわと揺れる。 しかし。対する一の心は鬱々と沈んでいた。 「あのなあ……媛」 言いにくい、出来ることなら他の人に変わってもらいたい。だが、自分はクラス担任だ。いくら扱いづらいとか思っても1年間は担当クラスの生徒と過ごして行かなくてはならない。それが学校側と交わした「契約」なのだから。 「はい?」 コイツ、本当に「お嬢」なんだろうか? 久我商事と言ったら、ゴールデンタイムの番組のスポンサーになるくらいの企業だ。バラエティー番組でもCMが入ってる。確かにお重に入った弁当を作る辺りはそれらしい部分もあるが(どうも輪島塗の高級品の重箱らしいと聞いて、手が震えた)、そこを切り離してしまえば、どこをどう見てもただの「天然ちゃん」だと思う。 武道魂に鍛えられ、生きてきた一にとってはこの「ぶっとび」に付いていけず、なかなか苦労していた。 ……いや、これも今はあまり関係のない思考だろう。彼は大きく深呼吸をして気持ちを整えると、一気に言葉を吐き出した。 「明日から、弁当いらないから。いいな、作ってきても受け取らないからな!」
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翌朝、入学式の頃の小さなリュックで登校した媛子に、きみこはさらりと言った。同情の余地もないらしい、まあ当然のことであるが。 「うっ、うっ、うええええええっんっ! だってぇ……先生が『おいしい』って言ってくれるから、頑張ってたんだもんっ! ちょっとはうまくなったもんっ……なのにぃ、どうして作っちゃ駄目なの?」 一晩じゅう、えぐえぐと泣いていたらしい。瞼が腫れて真っ赤になっている。それでもまだ、泣き止めないらしくて、ぼろぼろしてる。
媛子にしてみれば、一に認めて欲しい一心だった。だから、数学に時間に全ての神経を注いでいたのだ。とても他の科目まで気力が持たず、そのほとんどが「宇宙人との未知との遭遇」状態になっていた。先生が霞の向こうで何かをしゃべっているのは分かるのだが、その内容が少しも聞き取れない。 だが、もはや媛子にはいっぱいいっぱいの状態だったのだ。
「私っ、先生にお弁当食べて欲しくて、頑張ったのにっ……作っちゃ駄目なんてっ……」 「馬鹿ね〜」 根本的に間違っていると、きみこは言った。 「教師なんてね、出来る生徒が好きなの。自分の科目の成績や良ければ、それだけで好印象なのよ。そりゃ、あんたは数学の時間は目の色変えて頑張ってたわよ。とんちんかんな質問をいっぱいしたりして。だから、多分、あんたのお陰で、ウチのクラスの数学の成績は完璧だと思うわ。かゆいところに手が届きまくりって言うくらい、すごい丁寧に教えてもらってるもん。……でもさ〜、他の教師を敵に回すのは良くないよ」
確かにきみこの言い分は正しい。 自分の授業の最中に、がっくんがっくんと船を漕がれたり、時には突っ伏して眠りこけていたりされたら、どんなにか印象が悪くなるだろう。その上、指名されたら、日本語じゃない回答をする。しかも、それは英語教師にも理解できない言葉なのだ。
「まあさ、いい機会じゃないの。もうやめなよ、お弁当作りを頑張って、赤点取りすぎて退学になったらどうすんの? ゴンちゃんに会えなくなるわよ〜」 「えっ!?」 「成績が悪いとっ! 退学なのっ!? 高校ってそんなに厳しいのっ!!」 「……あのねえ」 今まで気にも留めてなかったらしい。青天の霹靂、と言う感じで、媛子は驚いてる。 「まあ、すぐにと言う訳じゃないわよ。でも、ここは私立じゃないんだからね。きちんと本人が努力しなかったら、首を切られても仕方ないの。あんた、それも知らないで入学したの? ……おめでたいわねえ」 多分、ポピーでは成績や素行の悪い生徒は両親が「袖の下(正式名称:寄付金)」とか渡してどうにかするんだろう……ときみこは考えた。まあ、さすがに口にはしなかったが。ここまで驚くところを見ると、媛子は本人の知らないところでだいぶ助けられていた気がする。 「が、学校を、辞めさせられちゃうんだっ! うわあああああっっ! 大変だぁっ、こうしちゃいられないわっ!!」 媛子はクラス中がびっくりして振り向くような大声を上げると、また鞄をごそごそとし始めた。よく見ると始業前で廊下を歩いていた生徒までが、入り口から覗き込んでいる。 そして媛子は、小さな円筒形の入れ物を出すと、そこに入っていた軟膏状のものを目の回りに塗り始めた。 「なっ、なっ……何やってんのよっ、あんた!!」 「うん〜?」 「メンタムを目の回りに塗って〜眠気防止だよ〜っ! もうね、今日から私、生まれ変わったのっ! どの授業も一先生のと同じくらい真剣に聞くわっ!! 見てらっしゃいよ〜〜〜っ!」 誰に向かって言ってるのか知らないが、思い切り気合いを入れている。更に、必勝のはちまきまで締め始めた。 「ひ、媛……」
どうして、そんなに色々なグッズがリュックから出てくるのかということを突っ込むよりも、できあがりの姿の方をとりあえずチェックするべきだときみこは思った。どうでもいいが、あまりのメンタム臭さに、こっちは授業どころの騒ぎでない気がする。
呆然とした友を目の前に、ぎらぎらした瞳の媛子は、人を食いそうな勢いの笑顔で言った。 「もうっ! 中間テストで頑張って、先生の心をがしっと掴んじゃうわっ!! よ〜しっ!!」
――はちまきが上下逆になっていて「必勝」が逆立ちしています……という事実を指摘できる人間は、もはや、クラスにはひとりもいなかった。
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中間テストが終わって。 4限終了後の昼休み。採点を終えた教師たちが、またも一を取り囲んでいた。これほど、教員たちに注目される年も珍しい。部活でインターハイ出場が決まったとしても、これほどではないだろう。いや、いいとこ関東大会で、とてもインターハイは無理かと思うが……。一は戸惑う心を隠せず、冷や汗をだらだらと流した。 「なっ、何でしょうか! 先生方!」 コンビニの袋をがさがさしていた手を止めて、一同を見渡した。つい先日、一をオソロシイ形相で取り囲んでいた面々が、今度は熱気ムンムンでこれまた異様な光景だ。 「何って……ふふふ、久我ですよ、久我媛子! いやあ、見違えましてねえ……元が元ですから、それほどずば抜けてはいませんけど! でも、あの子も実はいい子だったんですねえ、先生が惚れ込むのも当然です。でも、独り占めはいけませんよ!」 古文の先生、人格変わってます。この前はこめかみに青筋が立ってましたけど。今では朗らかな政治家のようになっちゃって。まるで圧勝でトップ当選したみたいに、はしゃいでいる。
先日の話では。 媛子はほとんどの教科で、悲惨な授業態度をしていたらしい。 理解度も低く、小テストをやったら惨敗。このまま中間テストに突入するのはまずいんじゃないかと指摘されたのだ。一にとっては驚くべき事実だった。何しろ、自分の授業の時は、どうしようかと思うくらいやる気満々の感じだったので、他の時もそうだとばかり思っていたのだ。担任クラスの生徒のことを把握してなかった自分が心底情けなかった。 あまりにうるさくまとわりつくから、ちょっと仏心を出したら足下をすくわれた。そんな気分だったから、その後も冷たく接してしまっていた。授業中、しょぼんとしながら、それでも必死にノートを取っている姿にはちょっとかわいそうかなと思ったが、駄目だ駄目だと思い直す。 何が何だか、分からないが自分に惚れているという見当違いの若者を更生することが、自分に課せられた使命のように思えていたのだ。 ――もう、特別扱いはやめよう。 そう思って、多分、本人は必死に頑張ったのであろうテストも、あっさりと返した。ひとこと誉めてやろうかなと思ったが、ごくんと飲み込んだのだ。
「おやおや……権藤嶺先生、どうしたんですか、こんな味気ないお昼ご飯で。頬が少しこけましたね、ダイエットですか?」 確か、小テストの結果を一覧表にしてやろうって言い出したという地理担当の社会科教師が、一の机を覗き込む。何だ、コイツ。にやけて差し入れ弁当なんて食ってるなとか言ったじゃないか。 あの翌日から「弁当禁止令」を出して、今まで通りのコンビニ仕様に戻った。はっきり言って気楽だ、全部食べなくてはならないと気負うこともない。ただ――、朝、ぴょこぴょこと飛び跳ねながら差し出す唐草模様の弁当がないと、何だか元気が出ないのも事実だった。
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いつもは生徒たちの熱気に満ちている空間も、ひんやりとしている。そこにしばし正座して黙想した。6限があるので、剣道着に着替えたりはしないが。
何に腹を立てているのだろうか。……それが自分でも分からない。
こうして過ぎてみれば、全てが上手くいったじゃないか。これで良かったんだと思う。自分への差し入れを作ることに頑張りすぎて、本業である学業をおろそかにしては彼女のためにならない。これで良かったんだと思う。……だけど。 あの、卵焼きがもう一度食べたいなあ、と思ってしまうのはどうしてだろう。だけどまさか、あんなに冷たく突き放したのに、今更また……とか言えない。いくら何でもそれは出来ない。 ――ああ! 駄目だ! こんなでは精神統一にもならない。こんな乱れた心では竹刀も握れない。本当にどうしてしまったんだろう……。
何かが当たる音がした。剣道場の入り口の木戸に。そこに背を向けていた一はハッとして振り向いた。
「……媛」 「次、体育か?」 ジャージの上下姿だ。黙ったままで、こくんと頷いた。先日までの元気いっぱいの姿が嘘のようだ。しょぼくれてもすぐに立ち直る奴だったはずなのに。 「先生」 「お昼、もう食べました?」 黙ったまま首を横に振ると。媛子は初めて、不安げな顔をふっとほころばせた。そして、そのまま、ぱたぱたと走り去る。一体何が起こったのかと分からないままの一を残して。
つづく♪(031219)
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