…9…
何だか、違うような気がした。 それはもしかしたら、彼女自身にしか感じ取れないほどのわずかな「ずれ」だったのかも知れない。でも媛子にとっては、ずっと引っかかったまま放課後まで取れない違和感であった。
――だいたい。 朝、おはようございますと言って弁当を手渡したときから変だった。 「はいっ! 先生っ。愛情宅急便ですv」 いつもなら、このギャグには上手に突っ込んでくれるのに、どうしちゃったんだろう。「お前の愛情に腹をこわしたらどうするんだ」とか「胃薬も一緒に入ってるんだろうな?」とか、言ってくれなかったのだ。 数学の授業中もあからさまに避けられている気がして。媛子と一のことは、今や学校中知らない人間がいないほどになっているから、みんなことあるごとに「やんややんや」とはやし立ててくれる。それなのに、一はムッとして口を一文字にしたままだった。 なんて表現したらいいのだろう。とにかく、この約2ヶ月間で、ようやく少しだけ緩んできた彼の心が、最初の頃よりももっと固く閉じてしまった感じで。
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今日、一体何度目だろう。そうやって、頭の中にぐるぐると渦巻くものを口にしたら、隣の席のきみこが面倒くさそうに振り向いた。放課後、お互いに帰り支度をしているところ。 「だからぁ〜、そんなん、いつものことでしょ? ゴンちゃんがちょっとお堅いのも、ついでに愛想が足りないのも。今日に限って、何、愚痴愚痴言ってるの。もしかして、オンナノコの日だったりする?」 こんな時に優しい友人だったら「困ったわねえ」とか言って、延々と続いていく出口のないおしゃべりに付き合ってくれるのかも知れない。だが、幸か不幸かきみこはそういう人種ではなかった。今も、ぶうぶう言ってる媛子を残したまんま、さっさと席を立つ。 「悪いわね、私今日は夕食の買い物を頼まれてるのよ、お祖母ちゃんに。ほらぁ、こんなに買うんだから。バッグに入りきれるかなあ……なんかね、このごろ張り切っちゃって困るわ、あの人」 戦前生まれの流麗な草書体のメモ。ネギ・白菜・春菊にしらたき。焼き豆腐。そんなものから始まって、しゃぶしゃぶ用の牛肉と豚肉を500グラムずつ……!? 「あ、あのさ。きみちゃんって、お祖母様とふたりで、こんなに食べるの?」 たしか、ご両親が海外赴任していて、お祖母さんとふたり暮らしなんだと言っていた。部屋数が余っているから、以前は間貸しとかもしていたらしいけど、今はそう言うのも流行らないそうだ。 これでもちょびっとは料理に詳しくなった。 ま、それは家庭科教師・野山に言わせると「ようやくスタート地点に立てる程度」なのだそうだが。しゃぶしゃぶの肉だったら、200グラムか300グラムで十分なはずだ。きみこそれほど大食いではないし、だったらお年寄りのお祖母さんは尚更そうだと思う。 「あん……? ま、そうね。ほ、他のことにも使うんだろうし」 「じゃ、また明日ね、媛子っ! そんなに落ちこまなくっていいって、気にしないでっ!」 お祖母さん特製のショッピング・エコバッグを肩から下げて、彼女はそそくさと去っていった。
「変なの〜」
……だが。 「変」なのは、やはり一だ。昨日、印刷物の綴じ作業を途中で終わりにしたから、それの続きをするのかなとか思っていた。なんか、微妙な会話になってしまったから、今日はリベンジしなくちゃと思ってたのに。あんまり深刻になって、びっくりしたかも知れないから、きちんとフォローしないとね。
「お願いしますよ! ご主人様にもバレちゃって『ガソリン代の無駄だ』とか、厳しいお叱りを受けてしまったんですよぉ!」 間違っても「空き時間にちょっとパチンコにでも……」なんて考えられない男は涙目でそう訴えた。この間抜けな行動も「お嬢様を路上でお待たせするわけにはいきませんから!」という彼なりの誠意なのだ。だが、それがほとんど功をなしていないのも事実だが。 ポピーに通っていた頃は、授業が終わるとすぐに下校していたので、こんな心配はなかった。そうじゃなくても送迎用の大きなロータリーがあって、クラスの8割方の学友たちはそこを使っていたし。もしも多少遅れても、そこで待機することが出来た。 それが今では、あっちでふらふら、こっちでふらふらしていてなかなか下校できない。この辺の道路は駐停車禁止で、路上に長くは止めておけない。運転手が今まで文句を言わなかったのでいいかなと思っていたが、そろそろヤバイかも。
……ちなみに「ご主人様」というのは媛子の祖父のこと。手にしたステッキをカツンとしただけで、周囲の者が皆縮み上がる……とか恐れられている。 ただ、媛子にとってはそんな噂なんて関係ない。毎朝、立派な口ひげを専用のブラシで整えてあげてるし、ついでに「超失敗弁当」のお裾分けもしてあげている。もしかすると、今回の媛子の一連の行動で一番被害を被っているのは彼かも知れない。
放課後まで待ってはみたが、一からは何も言ってこない。 「じゃあ、あそこに行ってみるか」 媛子は長い長い渡り廊下を通り抜けて、ぽてぽてと進んでいった。
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剣道というのは最初からあの重い胴や面を着けるわけではない。まずは布の道着に袴の姿で、ランニングしたり準備体操をしたりする。そのあと、きちんと身支度して素振りなどをしてから、ふたり一組の稽古にはいるのだ。一に関することなら、何でも一通りは調べてる。媛子はちょっとの間に色々なことに詳しくなっていた。 「……あれ?」 「お、愛人登場か!?」 先生はどうしたのかと聞くと、ちょっと外に出てるけどすぐに戻るという。じゃあ出直そうかと思ったのだが、そのまま、ぐいぐいと練習している場所まで押し込まれてしまった。 「いやぁ、先輩たちからも連れて来いってうるさく言われててさ……ささ、特等席を用意してやるから、来いよ」 とはいえ。中にいるのは、男子ばかり。女子校で育った媛子にとってはちょっと抵抗がある。まあ、付いてるものがあるのかないのかの違いと、あと多少男臭い匂いがすること以外は、同じ「ヒト」であると分かってきたが。 どうしよう〜と困っていると、向こうからひときわ堂々とした貫禄のある足音が聞こえてきた。 「やあやあ、媛子ちゃん〜待ってたよ!」 何しろ、顔を確認したくても全員しましま。格好も同じでは区別の付けようがない。しかし、剣道のすごいところはきちんと腰巻きみたいなのに名前が付いていることだ。それを見れば一発(いたずらして、入れ替えられたらそこまでだけど、武道の精神ではそんなおちゃらけは通じないらしい)。 「あ、主将っ!」 いつぞやの。媛子と同じ姓の久我主将だ。主将と言うだけあって3年生で、しかも一番強い。団体戦では「大将」と言って、5人の最後に出てくるポジションに入るそうだ。それだけに、部員の中でもひときわ体も大きくて落ち着いている。とはいっても、媛子にとっては一以上の存在なんていないが。 「もう、駄目じゃないか。媛子ちゃんはもっとメロメロパーンチで、先生をイチコロにしてくれなくちゃ。俺もさ、クラスの奴らから色々聞かれて困ってるんだよ。そこの小田巻も俺も協力するからさ、頑張ってよ。なんか顔色とか悪くない? 平気? 元気か〜っ、コイツは……!」 犬か何かと間違えているのか。ぎゅううっと小脇に抱えて撫で撫でしてくれる。そうしているうちに、気が付くと周りに人だかりが出来ていた。みんな同じ格好をしてるからかなり怖い。 「やや、コレが媛子ちゃんか。近くで見たのは初めてだなあ」 「なあ、主将。特例として、女子マネを置いては駄目かな? そうしたら、媛子ちゃんは出入り自由になるんだし。マネージャーって顧問との接点も多いし……」 みんな練習もそっちのけで、あれやこれやと思案してる。いいのかなあと不安になったが、その反面、とっても嬉しくなった。 学校の先生方も、クラスのみんなも。とにかく媛子のことを応援してくれる。あの一が簡単にころりと行くわけもないが、何しろ全てにおいて不慣れで勝手の分かっていない媛子に、手取り足取りアドバイスをしてくれたりして。お陰でこのごろでは、だんだん一の思考回路も見えてきて、ひどい失敗はしなくなってきた。それでも、当の本人は全然なびいてくれないのだが、何もないよりは希望がある。 「取って食われたらどうするんだ」と家族中に反対された公立受験ではあったが、こんな風に楽しく高校生出来て、本当に良かったと思う。 「媛子ちゃん、可愛いし、絶対に大丈夫だよ〜」 な〜んて言われたら、やっぱり悪い気はしない。あんまりにおだてられると足の裏がむずむずする気もしたけど、やっぱり嬉しくて、しばらく皆で雑談に興じてしまっていた。
――ばしんっ!!
静寂を破ったのは、内壁に大きく響き渡る竹刀の音だった。慌てて振り向くと、散り散りに散っていく剣士たちの向こうに、仁王立ちの人が見えた。 「あっ、先生っ! あのっ……」 ここでようやく、自分が何をしに来たのかを思い出す。そうだった、弁当箱をもらいに来たんだ。明日も愛情たっぷりのお弁当を作るために、唐草模様の包みを回収しないと。
しかし。 媛子にはそれ以上の言葉を発することが出来なかった。……背後に自分たちを心配そうに眺めているたくさんの視線を感じる。でも、そのたくさんの瞳よりも、目の前のただひとりの人の目が強烈だった。 「何で、お前がこんなところにいるんだ! 練習の邪魔をするんじゃない、さっさと帰れ!」 それは、かつて聞いたことのない程のきつい口調だった。それだけではない、ずんずんと大股に進んできた一はぺたんと板間に座り込んでいる媛子の二の腕をぐいっと掴んで、そのまま道場の外に放りだしたのだ。
「せんっ……」 もちろん、手加減はしたのだろう。それほどどこかを強く打ったりとか言うことはなかった。ただ、今までいくら厳しい口調で言われてもその奥底に感じられていた「親愛」の色がない。それがはっきりと伝わってきた。 ――ものすごく、怒ってるんだ。 朝から感じていた自分の「妙な感覚」が正しかったことを知る。 「ちゃらちゃらして、ここをなんだと思ってるんだ。今は最後の大会に向けて、一番力を入れなくてはならないところなんだから、お前のような遊び半分な奴と関わっている暇はないんだ!」 分からなかった。昨日までの一とは全然違う。 確かにそれまでも「頑なな姿勢」を崩そうとしないところはあったが、それでも「担任教師」として、出来る限りの親しみを持っていてくれた気がする。こんな風にまるで汚いものを見るみたいな目はしていなかった。 「センセー、それは言い過ぎですよ〜媛子ちゃんはただ……」 「うるさい! お前らは早く練習を始めろ!」 主将のフォローもばしんと跳ね返されてしまった。そして、その瞬間に。媛子の中でも今までぴーんと張りつめていたものがぶちっと切れた。 ふらふらっと、立ち上がる。やはりどこも痛めてはいない。それが最大限の愛情表現だと思えば、嬉しい。 「だから! 媛っ、お前はっ……」
一の言葉も途切れた。でも、気にすることはないと思う。
「お邪魔しました〜っ! 失礼しますっ!!」 にっこりと微笑んで、ぺこんとお辞儀して。そのまま、元気いっぱいに立ち去ることに成功した。
***
どうかしていたんだと思う。自分でも自分の感情を抑えることが出来なかった。部員たちの話を聞いてみれば、どうも媛子は自分から道場に上がり込んでいた訳ではないらしい。だけど、楽しげにしている彼女を見た瞬間に、はらわたが煮えくりかえるような嫌悪感を覚えた。 昨日の今日とはいえ、何とも大人げないことだ。だいたい、腹を立てる自分でもなかったのに。そんな理由はないはずなのに。
――どうしていたんだ、俺は。 着替えたばかりの剣道着。ぱたぱたと袴の裾が音を立てる。吹き込んでくる湿っぽい風は、彼女が飛び出していった方向から流れ込んできていた。それに呼ばれるようにきびすを返す。背中を向けたまま、静かに告げる。 「悪いが、もう一度ちょっと出てくる。久我はきちんと皆を指導するように」
片手には唐草模様の風呂敷包み。サンダルを履いて、慌てて飛び出してみると。 今日一日、ぼんやりとした薄暗い雰囲気を漂わせていた曇天の空から、ぱらぱらと梅雨の走りの雨が降り始めていた。
つづく♪(040102)
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