TopNovelおとめ☆Top>おとめ☆注意報・10

…10…

 

「――媛!」

 とりあえずは名前を呼んでみた。でも返事があるわけない。

 こういうとき、恋愛ドラマのワン・シーンだったら、走り去っていく彼女の姿を目撃できるモノなんだが、現実はそんなに甘くない。一呼吸おいて飛び出してきた一の視界には、ぐるんぐるんとポニーテールを揺らしながら去っていく背中は映らなかった。

 校庭の一番隅っこにある格技館に訪れるのは部活か授業の生徒しかおらず、放課後ともなるとその周囲は閑散としている。通常、このような大きな建物の裏では「生徒たちが必要以上に親密になる」ゆゆしき行為が発生したりするものだが、この高校の場合はそう言う心配はない。
 どんなにさかりがついた高校生男女だろうと、剣道部員が「キエーッ」とか、柔道部員が「ウォーッ!」とか雄叫びを上げるのをBGMにしたい物好きはいないだろう。考えただけで、一気に萎えそうな気がする。

 

 ……さて、どこに行ったか。

 

 まっすぐに校舎の方に戻ったのだろうと足を向けかけて、ふと振り返る。

 格技館と体育館の間にある幅3メートル程の細い路地。渡りの通路から二メートルくらい先に出たところに、今付いたばかりの小さなくぼみがあった。丁度、小さめの人間だったら、べちゃっと……。

「……転んだのか」

 その向こうに、芝生の上を踏みしめた新しい足跡が奥へと続いている。体育館の奥を回って、それは見えなくなっていた。

「何やってるんだ、あの馬鹿は」

 だいたい、どうして、雨の中を飛び出していくんだ。やはり、理解に苦しむ行為だ。そうは思ったが、自分の方にも今回の場合、落ち度はある。それに弁当箱はきちんと返さなくては。これは教師として生徒との間に信頼関係を保つために行うことなのだ。そうじゃなかったら、どうして自分が……。

「全く……」

 上履きのサンダルだったが、この際仕方ない。剣道着のまま、一は足跡を追っていった。

 

 体育館ぞいに歩いて、左手に折れる。フェンス際の並木と、建物の間を身体を横にしてやっと通った。何しろ枝が張りだしていて、行く手を遮るのだから。顔をガードするために前に出した腕に擦り傷がたくさん出来た。

「……あ」

 少し、広い場所に出て。一は足を止めた。思わず、動きを止めて目を見張る。そこには、車にひかれたがまガエルのようにうつぶせにひっくり返っている媛子の姿があった。

 

 三方を建物の壁で囲まれたエアポケット。残された一面はフェンス。普段はほとんど人が立ち入らないと見えて、一面が草ぼうぼうになっている。これだけ道路からの見通しが良ければ「隠れてタバコを吸おう」と思う生徒もいない。コレでは教師よりも早く、パトロール中の警官に御用になってしまいそうだ。

 しばらく観察していたが、それはぴくりとも動かない。ただすっ転んだにしては間合いが長すぎて、さすがに不安になった。

「媛っ? おい、なにやってんだ。起きろ!」

 確か家庭調査票や保健室への提出書類にも特記事項はなかったはずだ。このお天気娘が実は「心臓に持病があって……」とか「余命幾ばくもない不治の病を抱えて……」なんてオチがある訳もない。とは思うが、やはり慌ててしまう。

「う〜〜〜〜〜っ……?」
 ブラウスの襟首をうしろから掴んで持ち上げると、彼女は小さく呻いた。

 草の上にぺたんとおしりを付いたままの状態で、泥だらけの顔を拭う。何しろ転び方が豪快だったので、制服の白いブラウスにはべったりと泥が付いている。この顔の汚れようから行って「転びそうになったら、身体の前に手をつく」と言った基本概念もなかったらしい。胸よりもおなかのあたりが集中的に汚れているあたりが、媛子の体型を如実に語っている。

 ただし、意識ははっきりしているようで、打ち所が悪かったとかそういうこともなさそうだ。

「おい!? こんなところで何してるんだ、しっかりしろ!」
 必死で問いかけてみたが、その身体はふにゃふにゃとおぼつかない。

「ねむ〜〜い……冷たくて、気持ちいい……」

 そのまま。彼女は再び、ぽてんと倒れ込んでしまった。

 

***


「教室に、ジャージがあるんだろ。持ってきてやるから、ちょっと待ってろ」

「ふえ〜〜〜〜っ……」

 駄目だ、まだ寝ぼけてる。媛子は一の剣道着の袖を引っ張って、大きなあくびをしている。

 

 雨足がだんだん強くなってきたので、とりあえず屋根のあるところに避難した。軒先の様な場所も見あたらず、このままではぬれねずみになってしまう。

 体育館の裏手、ステージの奥を利用した体育倉庫があり、外から出入りできるようにドアが付いている。ただ、今では校庭とこことの間にプレハブの部室が立ち並んでしまった。そのため使い勝手が悪くほとんど利用されていない。中を覗くと、案の定そこは昭和の忘れ物みたいな遺物が詰まっていた。

 だが、それでも雨をしのげると思ったら幸いだ。媛子は信じられないくらいよろよろしていて自分では歩けないし、しかもどろどろだ。起きあがらせて確認したら前髪にまで泥と草が付着してる。別にこの格好で歩いたところで、なんて事ない気もするんだが。

 ――やはり、な。

 放課後とはいえ、まだまだ生徒が多く校内に残っている。泥まみれの媛子が目の前に現れたら、皆はどんな想像をするだろう。やましいことは少しもない一だが、用心には越したことがない。今までもそう言う気持ちはあったが、今となってはさらにそれが強くなっている。

「とうとう、権藤嶺先生も発情したか!?」などとまことしやかに噂されたら、教師の立場でありながら登校拒否になってしまいそうだ。

 

「ついでに濡れたタオルでも持ってくるから」

 そう言ってドアのノブに手を掛けたとき、後ろから袴を引っ張られた。板の間に座らせておいた媛子が裾を握りしめていたのだ。

「いいよぉ、先生。もうちょっと暗くなったら、自分で帰る」

 振り向くと、彼女がにっこりと笑っていた。剣道場を追いだしたときに見せたあの顔だ。必死になって笑っているという感じの。

「制服、真っ黒になってもクリーニングで落ちるし、全然平気。先生、忙しいから、もういいよ。部活に戻っていいです」

 そう言われてしまうと。自分がとてつもなく悪者になった気がしてしまう。媛子は間違ったことを言ってない、でも何とも腹立たしい。こちらが複雑な感情でうずうずしているというのに、彼女の声は底抜けに明るい。

「追いかけてきてくれるなんて、なんかときめいちゃったけど。ふふ……追われる立場って、ちょっとステキだったな〜やっぱ、どきどきしたーっ。先生、もしかして心配してくれたの?」

 そうなのだ。媛子はどこまでもまっすぐで邪心がない。想いを伝える様もストレートだ。だからこそ、周囲も応援してしまうのだろう。

「……弁当箱」
 もう、どうコメントしていいのか分からなくて、一はぽつりとそう言った。そうだった、これを渡すために来たんだった。

 笑顔を崩そうとしない媛子に風呂敷包みを渡すと、さっさと背中を向けた。

「とにかく、自分の生徒をこんな風にしておくことは出来ないんだからな! 待ってろよ、逃げるんじゃないぞ。すぐ来るからな……」

 

 ――みしっ。

 

「……え?」

 一は慌てた。どうしたんだろう、さっきは難なく開いたのに。錆び付いているせいか、半開きにしておいたドアが向こうに動かない。かといってこのままの隙間ではとても外に出られないではないか。

「畜生っ! 何なんだ、こいつめ……!!」

 自分はなかなかの馬鹿力だと思っている。なのに押しても引いても動かないこの鉄の扉はどういう事だ!? こんな無機質なモノにまで馬鹿にされているような気がして、むかついた。実は今日は朝から最悪に機嫌が悪かったのだが、それをせせら笑うようなこの状況。もう一方の手も添えて、さらに激しくガチャガチャと動かした。

 

 ――ばんっ!!

 

 突然、手応えがなくなったかと思うと、手前にするりと動き、大きな音を立てた。一瞬の間をおいて、かちり、と不気味な音が中側でする。

「おっ、おい!! ちょっと待て、おいっ!?」

 お約束に、いきなり鍵の掛かってしまうドア。体当たりなどを試みたが、一のガタイを持ってもびくともしない。屋根の上、ざああああっと吹き付ける雨足が、更に激しくなった。

 


「せ、……先生?」

 こちらの緊迫した空気が伝わったのか、媛子がおずおずと声を掛けてくる。振り向いた一は彼女の方ではなくて、壁際に添って天井を見上げた。

 もとより、ここにはこのひとつのドア以外には出入り口はない。天井近くに細い窓はあるが、だいたいそこまではとても届かないし、その上鉄格子もがっちり取り付けられている。元は体育館内部からも出入りが出来るようになっていたが、数年前さぼりの生徒たちがたまり場にしたとかで、頑丈に打ち付けられている。

 そのほか、ここにあるモノと言ったら。触ったらそのまま崩れそうな跳び箱やダニが巣くっていそうなマットレス。半分しぼんだ紅白の大玉なんてモノもある。だが、それらが役に立つはずもない。

 しかし。こんなところで焦ってどうするんだ。一は自分で自分に言い聞かせた。

 まさかまさか。こんな漫画のようなことが起こるわけはない。年若い男女(一応、一もこういうカテゴリに含めてみる)が密室に閉じこめられるなんて、そんな展開が。自分の持てる限りの冷静さを引っ張り出して、彼は思案していた。そして、難なくひらめく。

「だ、大丈夫だぞ! 何を心配しているんだ、媛は。ほら、お前、携帯持っているだろ? 誰か……ほら、友達の林きみこだっていい、連絡してくれ」

 そうだ、今は文明の利器・携帯電話というものがある。こういうときでも電波は壁を通り抜けてくれる。不幸にも人っ子ひとり通らない裏庭ではあるが、用務員さんに鍵を持ってきて貰えばばっちりだ。

 

 どう見ても、彼の方が焦っていたが、この際コメントは差し控えよう。

 

 ここで媛子が「あ〜、わっすれた〜!!」とか言うと、大変だが、そうはならない。彼女はさっさと背中にしょった鞄から携帯を取り出した。二つ折りの透明な赤いボディーだ。

「えっとぉ……」
 かちり、と開いた途端に、媛子はえへへへへっと照れ笑いをした。

「先生っー、ゴメン。充電するの忘れてた」

 

***


 開かないドア。見つめたまま、動かない。

 媛子は今にも眠気で霞みそうな視界で、大好きな広い背中を捉えていた。剣道着姿、こんな風にしっかり見られるなんて。本当は胴とかああいうのも付けていて欲しかったな、もっと格好いいもん。今は布で出来た服。分厚い素材で出来てる上着と、ひらひらの袴に分かれているのを着ていた。この前床屋さんに行ったばかりの綺麗な襟足。

 なんか、とてつもなくすごい状況になっているらしい。もしかして、今なら押し倒してしまえるかも知れないっ! そんな考えが湧きかけるが、それももっと大きなぼんやりしたものに覆い尽くされてしまった。

「……あふぅ……」
 噛み殺しても、どうしてもあくびが出てしまう。ああ、情けないなと思ったときに、一がくるりと振り返った。

「どうした、携帯と一緒にお前までエネルギー切れか?」

 今まで見た中で、一番悲しそうな笑顔だった。あまり表情に起伏のない人で、大声で笑うこともなければ、声を荒げて怒ることも少ない。だからこそ、さっきは驚いた。驚いたけど、よくよく考えたら当然かも知れないなと思った。

「そんなこと言ったって……早起きって大変なんだもんっ……」

 さっきは、やっぱりショックで。剣道場を出るときにはもう涙がぼろぼろと流れてきた。こんな顔を誰かに見られたくない、そして一には一番見られたくない。だから、遠回りをしようと思って、体育館の裏に回ったら、あろうことか行き止まり。全力疾走したら、もうふらふら。一気に睡魔が襲ってきた。

 正直、あのまま一が来なかったら、真っ暗になるまで雨に打たれてガーガー眠っていたかも知れない。泥のように眠ると言うが、泥の上で眠るのも何だか気持ちよかったし。

「予習しないと、授業に付いていけないし、でも早起きしないとお弁当が作れなくて……土日に寝だめをしてたんですけど、週中は辛いんですっ」

 そこまで言って、しまったと思う。一の顔色が変わる。慌ててフォローした。

「ああっ……で、でもですねっ! コレは私の個人的なことですからっ!! いいんですっ、本当に体中から元気がみなぎってきちんと早起きしちゃうしっ! 授業中だって、やる気満々になってるんですよっ! だって、みんな先生へのらぶらぶパワーですからっ! 燃え上がっちゃってますからね〜!」

 

 ……やばやば。さっきまでは張りつめていたのに。何だか、一が少し優しくしてくれるとネジが緩んじゃう。湿っぽいのはやだもんね、出来るだけ明るく楽しくありたいわ。

 先生と一緒にいる学校生活。それが楽しくて仕方ないから。続けるためには、きちんと成績を良くしないと行けないって知ったから。それからは全教科ちゃんと勉強して、手抜きなんかしてない。

 頑張って、頑張って、頑張って。それが媛子の活力になっていた。

 

 でも、目の前の人はくすりとも笑ってくれなかった。それどころか、また何かを思い出したみたいに、ふっと顔を曇らせる。触れたら、ぷくぷくっとしそうな唇が、もったいぶるように動いた。

「お前、間違っているだろ」

「へ……?」

 ぴくぴくっと動く太くて濃い眉毛。もうちょっとで右と左の二本が繋がりそうだ。せっかく、話を盛り立てているのに、何でこんなにテンション低いの?

「大人をからかうモノじゃない、そろそろいい加減にしておけ」

 こちらの想いまで振り払うようにそこまで言うと。一は壁の方を向いてしまった。途端に火が消えたみたいに、寂しくなる。胸がしゅんとする。

「……先生?」

 

 媛子の声に反応するように、壁についた一の両手が震えた。ひとつ、ふたつ、呼吸を整えて。それからゆっくりと振り向く。少しだけ、微笑んで。

 

「お前――ちゃんと結婚相手が決まってるそうじゃないか。だったらこんなところでふざけてないで、そいつに『らぶらぶパワー』とやらをぶつけて見ろ。きっと喜んでくれるぞ……それに。俺は『商品』に手を出す趣味もないが、『人のもの』に手を出すのはもっと遠慮したい。泥棒にはなりたくないからな」

 

 雨音はさらに強く、まるでふたりの心の底を打ち付けてくるように鳴り響いていた。


つづく♪(040109)

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