TopNovelおとめ☆Top>おとめ☆注意報・11

…11…

 

 しばしの沈黙。お互いがお互いの顔を見つめたまま、雨の音を聞いていた。

 

 やがて、ぱっくりとOの字に開いたままだった媛子の口元が動く。そして、全身を使って「ふううううっ」っと息を吐いた。

「な〜んだっ、知ってたんだ、先生。そっか〜っ!」
 その頬に赤みが戻る。媛子は嬉しそうににっこり笑った。

「もうっ、何言われるかって、ドキドキしちゃったじゃないですか〜! そんな当たり前のこと、言わないでいいですってば!!」

 

 一体、何をまた叱られるのかと思った。一生懸命やってるつもりなのに、すぐに失敗してしまうし。こんな簡単な分かりやすいことで、本当に良かった。

 それにしても、何をそんなに重々しくしてるんだろう。秘密にしていたわけでもなんでもない。ただ、そんなに重要なことでもないと思っていたから黙っていただけのこと。今、ここでばれたところでたいしたことじゃないと思う。

 媛子にとってそれは「久我商事の娘」と言うのと同じくらい、当たり前のありふれた事実だったのだから。一のこの反応のほうが、よっぽど驚きだ。

 

「あのなぁ……」
 一は大きくため息をつく。それから、ゆっくりとした動きでこちらに向き直って。もう一度、重そうに口を開いた。

「ちゃんと相手がいるなら、もう他にちょっかい出すんじゃないぞ。相手が俺だから良かったようなものの、もしも物好きの男だったら、本気に取られて血を見るんだからな」

 そう言いながら、だんだんいつもの一に戻っていく。媛子の知っている「当たり前の担任教師」としての顔に。話の内容はともかく、穏やかな語り口は授業中のやりとりと何ら変わらない感じだった。

「……ほえ?」
 媛子は今にもこぼれ落ちそうなまん丸の目玉をくりくりさせながら、呆けた返答をした。

「何で、婚約者がいたら、人を好きになっちゃ駄目なんですか? 先生の言うこと、よく分からない」

 それから、ぶうっと頬をふくらませて、一を睨み付けた。まあ、泥だらけの顔がまるでプロレスラーのマスクみたいで、全然凄みがきかせられないが。

「私、先生のことが好きなんだもん。だから、側に行きたいし、らぶらぶしたかったんだもんっ! ……それだけだものっ、難しいこと、言わないでくださいっ!」

 どこからか、すきま風が吹き込んでくる。壁のあちこちがひび割れてるのだ。それと同じように、ふたりのやりとりも穴ぼこだらけ。どこかで確かに食い違っている。

「俺も、お前の言うことが全然分からないよ」
 一は小さい目をもっと細めて、情けない笑顔になった。もう、この話は終わりにしようと言うみたいに。

 そして開かずのドアに向かい、またガチガチと動かし始める。一体どこがどうなっているのか、さっぱり分からない。力任せに動かしているウチに、ドアごと「ばこん」と外れればいいのだが……それはあまり期待できそうにない。

 媛子はそんな姿をぼんやりと見つめていた。

 本当は見ため以上に慌てているんだと思う。ただ、自分という生徒がいる手前、それを押さえている。そう言うことが出来るのが大人の証拠なのかも知れないと、ぼーっと考える。いや、ご大層なことを思い描くこともなく、ただ「先生の背中って格好いいなあ……」とか見とれているだけだったりするのだが。

「……う〜んっ……」
 媛子も大きく伸びをした。何だか、今のやりとりで目が覚めてしまった。ただ座り込んでいるのもつまらない。彼女は立ち上がると部屋の隅まで歩いていき、ちらちらと外の明るさが見える壁の隙間を覗き込んだ。だが、どう見ても、アリの一匹も通り抜けられそうにない。

「こういう壁はな、ただの木造に見えるが、実は間が鉄筋になっていて、たくさん針金が入っていたりするんだよ。ちょっとやそっとじゃ壊れないから、無駄なことするんじゃないぞ」

 背中からそんな声が飛んでくる。媛子は思いっきりグーのかたちにしていた右手を下げた。

 外の雨音も暮れていく様も感じ取れるのに、ここは全くの密室状態だ。それなのに、あんまり緊迫した気持ちにもならない。一と一緒にいると思うと、それだけでもういいやと思う。……でも、さすがになんか寒気がする。衣替えの季節だというのに、ぞくぞくと底冷えする日だ。北側の湿っぽい場所だというのもあるんだろう。

 

「――ぶえっくしょんっ!!」

 いきなり鼻がむずむずして、とても「乙女」とは思えないようなくしゃみをしてしまった。ずずずっと鼻をすすり上げていると、また背中から声がする。

「何だ、寒いのか。……服も濡れてるしなあ……」

 振り向くと、一が笑っていた。その通りだ、しんしんとだんだん空気も冷え込んできている。肌に吸い付く湿った布地がひんやりした。

「う〜、そうか。服着てるから駄目なのか。……脱いじゃおうかな?」

「――え!?」

 ブラウスのボタンをひとつふたつと外しかけたら、一がぎょっと目をむいた。

「おっ、おい! やめろ!! 何考えてるんだ! 馬鹿!!」

「え〜、だってぇ。下にブラ付けてるもんっ、全然平気でしょ?」
 押さえつけられた腕をバタバタと動かしながら、媛子は言った。本当にたいしたことじゃないと思っていたんだから。だって、ビキニとどこが違うの。ちょっと素材が違うだけじゃない。冷たくなった服を着ているほうが体に悪いと思うし……。

「とにかく駄目だ! 駄目だったら!! 脱ぐな!!!」
 一はぶんぶんと大きく首を横に振った。それから、はっと我に返って、自分の身につけているものを改める。

「お……俺も、この下は何も着てないしなあ……参ったな……」

「……先生?」
 媛子には、一がどうして慌てているのか分からなかった。そこでまた、ぷしゅんぷしゅんとくしゃみした。身体が揺れると、背筋からぞくぞくと寒気が上がってくる。

 媛子の身体で、暖かい場所……そこは一の掴んでる手首だけだ。

「先生が、……あったかいよ」

 体温を、感じた。手のひらから、伝わってくる熱。それを感じ取ったとき、媛子の口元にふんわりと笑みが浮かんだ。

「あったかいなぁ……それに、ちょっと眠いかも」
 頭の裏っかわ、芯の部分がぼんやり霞みかかってくる。

「ばっ、馬鹿! 寝るな! 寝ると死ぬぞ!!」

 雪山遭難じゃないんだから。5月の終わりの関東で、それはないと思う。ただ、緊迫したムードの中で相手に意識がなくなりかけると、つい言ってしまう言葉だ。

 媛子は返事をする代わりに、また小さくくしゃみを繰り返した。

「さ、寒いか!? 寒いか……そうか、どうするか……」

 とりあえず、きょろきょろと見回したところで、役に立ちそうなものはない。一は「うーっ」と唸り声を上げた。

 

 ――ぽてん。

 一と向かい合っていた媛子の身体は、ゆっくりと前に倒れ込む。ちょっぴり汗くさい、ごわごわした剣道着の上着におでこが当たった。そのまま、ふたりでずずずっと床に座り込んでいく。

「あったか〜いっ……」
 もう、頭半分が寝に入っている。媛子はむにゅむにゅと言いながら、もたれかかっていった。一の身体は大きな木の幹のようで、すごく安心できる。でもやっぱり、身体は震えてる。この寒気は風邪のひきはじめなのか。

 そして、その次の瞬間。ふんわりと背中まで、温かくなる。

「先生……?」

 頬を剣道着にくっつけたまま、媛子が声を掛ける。頭上で、こほんこほんと咳払いが聞こえた。

「――緊急時だからな。温めてやってるだけだから」

 

 うわ、これって……もしかして、すごいかもっ!?

 素っ気ない言葉を聞いても、胸がどきどきと高鳴ってしまう。だって……だってだってっ! すごいっ、緊急時だけど、らぶらぶだ。緊急らぶらぶだっ! もうあったかくて、熱くて、ぷしゅーっとブラウスから湯気が出そうだ。

 思わず声を上げてはしゃぎたくなったけど、慌ててその勢いを飲み込んだ。……もうちょっと、このままがいい。先生の腕が外れないほうがいいなと思う。

 

「お前、やっぱり変わってるな。俺の理解の範疇を、しっかり飛び越えてる」

 一の声が、耳からではなくて、背骨から響いてくる気がする。話をするその振動が直に伝わってくるから。

「先生だって、変わってるよ」
 黙っていると、あんまり心地よくて本当に寝ちゃいそうだ。せっかくのこんなどっきどきの場面、それはもったいない。どうにかして、頭をはっきりさせたくて媛子も必死で言い返した。

「私、もっと簡単に恋愛できるんだと思ってた。男の人って、女の子が好きでしょ? だから、フリーならすぐにらぶらぶになれると思ったのに。最初に『好き』になってもらうのが、こんなに難しいなんて思わなかった。先生、堅すぎ。がちがちだよっ!」

「何言ってるんだよ? お前が抜けすぎなんだよ。……それにこれで本決まりだな。俺は手癖が悪くないんだ。人のモンだと分かった時点で、お前は永遠に対象外だ」

 ぎゅうううって、抱きしめてくれてるのに。それなのに、そんなことを言う。媛子の心がぷしゅーっとしぼんでいく。胸の内側にその音が響き渡る。

「そっか〜……駄目かあ……つまんないの。こんなに尽くしてるのに、駄目なんだ。私、自分が好きになった人と、すっごい素敵な恋愛がしたかったな。残念だなぁ……こんなに頑張ったんだから、ご褒美くれたっていいのにな」

 瞳を閉じて、ぬくもりに包まれていると、それだけで心が熱くなる。自分の中の「大好き」の気持ちが、まだまだふつふつと煮えたぎっているのに。

「人を悪者みたいに言うな。俺は誠実なんだよ」

 聞き取れないくらいの小さな声だったから、すぐに雨の音にかき消された。外がだんだん暮れていって、窓の向こうが真っ黒になっていく。世界で取り残された、最後のふたりになったみたいだ。でも、物語は始まらない。そう言われた。

 絶望の言葉はぬくもりとともに落ちてくる。

 

***


 その後、しばらく何も言わずにぼんやりとしていた。一も何も言わなかったし、媛子も答えなかった。ふたりの会話の代わりに、雨粒が屋根のトタンをばらばらと落ちていく。聞こえてくる音はそれだけだ。


「どーしよ……先生」

 急に我に返ったのか、媛子が悲しげに呟く。泥と汗の匂いが一緒になっている感じで、まったくもってムードのカケラもないのが悲しい。人が見れば、コレも立派なラブシーンなのに。

「私たち、ずっと見つけてもらえなくて。白骨化の死体になっちゃうの? 無理心中の遺体だって勘違いされるんだよっ……やだよぉ、まだらぶらぶしてないのに。そんなのって、悲しいよぉ〜っ!」

「おいおい」
 あまりに飛躍した考えだと思ったのか、一が慌てて突っ込みを入れる。でも、あながち嘘とも言えないのがヤバイ。何か方法を……。

「――あっ!」

 いきなり伸び上がってそう叫ぶと、一はきょろきょろと辺りを見渡した。彼の見つめる視線の先、天井からぶら下がった裸の電球がある。長いコードを使って、つり下げられているようだ。それの行く手を辿っていく……もしや。

「ちょっと、ここにいろ」

 媛子を支えていた腕を解いて、手探りで暗がりを探る。本当にネズミやイタチの死体でも出てきそうだ。それらがからからに乾いてミイラ化していたらどうしよう。

「……あった」

 あちこちが破けたマットレスをどけてみると、床のすぐ上の辺りの壁にスイッチがあった。震える手で「入」にしてみる。すると、天井の電球が、ゆらりと淡い光を放った。それを見つめる彼の瞳が、安堵の色に染まる。奇跡は起こるのだと真面目に思った。

「これで、用務員さんが夕方の見回りに来たときに気づいてくれるだろう。確か、下校時間にあわせて回ってくるから、5時くらいかな? あと一時間か……」

 そう言いながら振り向くと。さっきまでうるさいくらいにさえずっていた媛子は、またすうすうと寝息を立てていた。

 

「まったく……この非常時に、よくもまあ」

 そう言いつつも、ずるずると倒れていく身体を立て直してやる。寄りかかっている跳び箱もほこりっぽいが、勢いよく足踏みすると抜けそうな床には、それこそ1cmくらいの蓄積がありそうだ。白いふわふわのスポンジのようにみえるものの正体を突き止めるのは怖い。

 眠ってしまったなら、もういいだろうと一度は少し離れたところに腰を下ろす。だが、すぐに彼女はぐしゅぐしゅと震えだした。すっかり寝付いているのだから無意識なんだと思うと、やはりかわいそうになる。服が濡れて泥だらけになった原因は、元はと言えば自分にある。

 

 いや、もしもあんなことがなかったとしても彼女のことだ、何でもないところでひっくり返っていそうな気もするが……。

 

「あっためてやるだけだからな」

 答えてくれる人間もいないのに、あえて言い訳する。まるで自分自身を納得させるように。腕に包み込むと、見た目よりもずっと頼りない身体が、それでもしっとりとしたぬくもりを伝えてくれた。

「う……ん」

 いきなり腕の中で声が上がって、どっきりする。でも、それはすぐにまた、静かな寝息に戻った。一は腕を緩めると、その寝顔をまじまじと見つめる。乾いて張り付いた泥があまりに情けないので、剣道着の袖で拭ってやる。だけど、中途半端にこすれて、余計に汚れた気がした。

 お嬢様なんだか、ただの馬鹿なんだかよく分からない。でも、こうして大人しくしていれば、もしかして自分が思ってるよりもずっと思慮深い女なのかも知れないなとか錯覚してしまう。

 

 ――こんなに頑張ったんだから、ご褒美くれたっていいのにな……。

 

 今にも動きそうな唇。時々、こっちがどきりとすることを言って、慌てさせられる。

「馬鹿言え、人のモンには手を出さないんだよ」

 こんな時。物語のワン・シーンだったら、眠っているヒロインにキスするんだよな、なんて考えが脳裏を過ぎり、一はすぐにそれを自分の言葉で打ち消した。


つづく♪(040117)

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