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――ううむ。 やはり、自分の席の周りに人影がないことを確かめて、それから蓋を取る。視線だけではない、精神的なアンテナも向けられていないことを研ぎ澄まされた五感で感じる。あ、第六感というものも使っているかも知れない。こういう修練を重ねて。一は、だんだん自分がただの高校教師ではなくて実はもう一つの顔を持つ男になりつつあるのではないかと感じていた。 そう。さながらスーパーマンのように。いきなり別の姿に変身するのだ。そうできるくらい、鋭い感覚を身に付けているのではないだろうか。 ……冗談はさておき。 ぽっかりと漆黒の空間に、色とりどりのおかずが並ぶ。いつの間にか卵焼きはこんがりときつね色に色づきながらも真ん中はしっとりとレアに、ブリの照り焼きもつやつやと色良いだけではなく味もなかなかになっていた。甘さと塩加減が絶妙にマッチして、さらに香ばしい匂いがする。タレにしばらく漬け込んだものをあぶり、更に上からハケで醤油ダレを上塗りしてる。手間の掛かる仕事だ。 「あらあ、しばらく見ないウチに……」 突然、背後から声がする。ヤバい、弁当の中身に気を取られて、周囲への注意が散漫になっていた。慌てて蓋を手にすると、聞き慣れた笑い声。
隣のクラスの担任なのだから、職員室の机も隣なのは「第一話」の通り。購買部の総菜パンが入った袋を机に置いて、振り返ってお茶の用意をしている。職員室にはポットと共にお茶道具が置いてあり、各自が勝手に自分の分をいれるようになっているのだ。 彼女は気を利かせて一の分まで用意してくれ、それをコトリと置くと自分も回転椅子に腰掛けた。
「良く続きますよね〜久我さん。すぐ飽きるかと思ったのに……」 どうも聞くところによると。媛子は何度かこの家庭科教師に料理の手ほどきを受けているらしい。化粧も派手で、ネイルアートばっちりの変わり種も、実は案外きちんと教育者だったりする。
年々生徒数が減ってきている学校では、それに伴い採用教員数も激減している。もちろん、家庭科は今や男女必修で以前の倍の人数が必要になっている。ただし、だからといってクラス数・生徒数が増えたわけではないので、実際の採用者数にあまり変化はない。県下で本採用は毎年1名か2名。3人いるうちの残り2名は非常勤の講師を当てている。 真っ白に仕上げた煮っ転がしを始め、媛子の作る弁当がだんだん「知られざる宇宙の神秘」から「無人探索機による調査の始まった火星の表面」と認識できるほどに進化したのも、野山の功績によるところが大きい。そう思えば、中身のチェックくらいはさせるべきだろう。
「ふうん、74点と言うところかな? あら、この鮭は小骨を取ってないわね。フライは直接口に入れるんだから、毛抜きできちんと取らなくちゃ。もう、これもチェック項目ね!」 とか何とか言いつつ、あとで食べようと楽しみにしていた揚げ物が消えた。ちょっとショックだ。だけど、言い返せる相手ではない。 「あと〜、そうねえ。もう梅雨時でものが腐りやすいから、それようの対策も必要ね。出来合い弁当と違って、保存剤とかいれてないんだから、細菌の宝庫になっちゃう。ご飯には梅干しを添えないと駄目かも。あ、炊飯器で炊くときに一緒に炊き込むって言う方法もあるんですよ」 片手でパンを持ちながら、ひょいひょいとメモを書き付けてる。どうも、夏休みの宿題を創作弁当にしようとしているらしい。何か名案がひらめいたのかも知れない。 「久我さんもね。そろそろまた特別実習してあげようと思ってるんだけど、なんか色々忙しいらしくて。先生は何か聞いてます? このごろ、放課後もうろうろしてないでまっすぐ下校しているみたい」 「そう……ですか」 言われて気づく。 そう言えば、このごろ媛子は6限が終わると同時に弁当の包みを取りに来る。そのあと「さようなら」とすぐにいなくなってしまう。前はしつこいくらい視界のはじっこの辺りをうろうろしていたので、何だかちょっと視野が広くなったなとか思っていた。無駄なものが遮らないので、気持ちよく遠くまで見渡せるのだ。 「ま、先生へのご執心は相変わらずなんでしょうけどね」 野山の視線が向かった場所。一の箸の先には、ハート形にくりぬかれたにんじんの甘煮がつままれていた。
***
――幸いな、ことなのだ。 唐草模様の包みを手にして、一はうろうろとしていた。職員室の前、もうすぐ6時間目が終わる。そうしたら、長い廊下をつっきぬけて、転がるように走ってくる「物体」が現れるはずだ。そうだ、もうすぐだ。
朝、弁当を受け取る。授業のある日は教室で顔を合わせることもある。だが、今日のように放課後まで一度も口をきかないことも少なくない。クラス担任とは言っても、いつも生徒と一緒にいる訳ではない。他のクラスの授業もあるし、学校の職員としての仕事もある。剣道部の顧問だから、その関係の雑用も多い。 あっという間に放課後になっている。その言葉がぴったりだ。去年も一昨年も、とにかく教員になってからと言うもの、一日の過ぎるのが早い。1週間も1ヶ月も1年も早い。この前正月が開けたと思ったら、梅雨入りになっていたりして。片づけても片づけても仕事があり、息つく暇がない。 自分のクラスが気になるので、授業の合間などにちらっと覗きに行くこともある。そんなとき、自分の存在を見つければ、彼女は必ず手を止めて駆け寄ってくる。とても、嬉しそうだ。きゃぴきゃぴと飛び跳ねながら、回りをぐるぐると歩き回る。まるで犬がじゃれついてるみたいに。回りの生徒たちも、やんややんやとはやし立てた。
――うるさくて嫌だな、と思っていた。そのはずだった。
それなのに、どうしたことだろう。このごろでは、それが少しも煩わしく思われないようになってきた。それどころか、隣のクラスでの授業を終えてひょっこりと覗いたとき、体育などで教室がもぬけの殻だったりすると、自分でも信じられないほど落胆してしまう。 「――先生っ!!」 ――いやいや。 慌てて、自分の思考を遮った。どうして、こんな風に気づくと媛子のことを考えているのだろう。彼女は40数名いる担任クラスの生徒のひとりなのだ。それ以上の何者でもない。 今だって、別に何かあって待っているんじゃない。ただ、早くこれを返して、部活に行きたいのだ。6月も中旬、残念ながら3年生の引退を錦で飾れなかったが、それでも新しいメンバーでの夏が待っている。新しいスタートなのだ。
……たたたたたたたたたっ! 終業のチャイムが鳴り響くとすぐに。遙か彼方から、軽やかな足音が響いてきた。その方向を振り返る。長い廊下、梅雨の合間の午後の日差しに溢れるその細長い空間を夏服の媛子が走ってくる。冬はブレザーなのだが、夏になるとセーラーのブラウスになる。薄い灰青の衿がぱたぱたとなびいていた。それと一緒に、衿と同じ色のスカートも揺れている。 帰り支度をして教室から出ようとした3年生が思わず戸口で立ち止まるほどの勢いで、彼女はひた走ってきた。 「先生っ――!」 途中で片手を大きく上げ、振り回す。あまりにも目立つオーバーなリアクションに周囲の生徒たちは釘付けだ。そして、いくつもの視線に晒されながら、全く動じようとしないものいつものこと。 「お弁当箱の回収に上がりましたっ! ちゃんと、食べて下さいました? ……美味しかった?」 ききーっと、アニメのように急停止。ぜいぜいと肩で息をしながら、彼女は顔を上げた。かなりの身長差があるので、首が痛くなるほどに反り返らないと視線が合わないのだ。心なしか目が潤んで、頬が紅潮しているのも、全速力の結果だろう。 「あ――ああ、まあ……」 「……ブリ、美味しかったですか?」 「え……?」 思わず、口ごもってしまう。いきなりそんな風に聞かれても、なんと答えたらいいものか。予期せぬ質問に、どきりとさせられた。でも、媛子は返事を待っている。じーっとこちらを見て、一の唇が動くのを待っているのだ。 「あ……ああ、まあな。なかなかだったよ」 頭をぐるりと巡らして、ようやくそれだけ言うと。目の前の彼女はふっと顔をほころばせた。 「良かったぁ〜っ!」 「じゃあねっ、先生っ! さようならっ、また明日っ!」 来たときと同じ騒々しさで、彼女は瞬く間に遠ざかっていく。あっけない幕切れ。風の吹き抜けたあとの空間に、一はぼんやりと立ちすくんでいた。なんか、一日の大仕事を一気に終えた感じで、脱力してしまう。グーにしていた手を、ゆっくりと開くと。ひんやりとした汗の蒸発をそこに感じた。
その瞬間。 花のつぼみがポッと開き、綺麗な花弁が顔を覗かせたような笑顔。それが細い目に映ったときに、一は心の中で、全然違うことを考えていた。
――か、可愛いかも、知れない。
ぼぼぼっと浮かんでしまう思考を、必死で払いのける。おいおい、何を考えてるんだ、どうしてしまったんだ、自分……! 気づかれてないだろうなと不安が胸を過ぎり、冷や汗が背中を流れる。こんな自分に苦しむようになったのも、あの奇妙な一件からであった。
***
校舎の見回りに歩いていた用務員さんの足音を聞き、一たちはどうにか外に出ることが出来た。聞くところによると、前々からここの鍵は壊れていて、修理しなくてはならないと思っていたそうだ。だが、誰も使わない場所だし、ついついそのままにしてしまった。 ぐっすりと熟睡していた媛子も、揺り動かすとすぐに起きた。制服に付いた泥汚れはそう簡単に落ちるものではなさそうだが、体温で乾いたためか、少しはまともになった。暗がりだし、迎えの車が来ているそうだから人目に付くこともないだろう。よく寝たせいか、とてもすっきりした様子で、いつもの彼女に戻っていた。 「じゃあね〜っ、先生っ、また明日!」 いつもと変わらない笑顔、いつもと変わらない態度。自分を親しげに見つめながらも、ちゃんと教師と生徒の域を守っている。 それなのに。腕の中のぬくもりが消えたことに、戸惑う自分がいた。雨音にかき消されることもなく、割り切れない想いが胸に広がった。
普段通りに弁当を届けに来た媛子を見て、内心焦った。にっこり笑う楽しげな表情を見たときに、自分の中から未だかつて味わったことのない特殊な感情が溢れてきそうになったのだ。もちろん、それをぐっと押し留める。でもそれはとても苦しい行為だった。 信じられないことに。あの出来事を境に、媛子が別人になってしまったのだ。いや、そう思っているのは自分だけなんだと思う。でも確かに、全く異質の存在になっている。 まき散らす笑顔に、たとえようのない愛おしさが宿る。なんと言ったらいいのだろう……まるで、彼女の回りが桜色に染まっているかのように。そんなはずもないし、一にも少女趣味な想像力はないはずだ。だのに……かき消してもかき消しても、次に媛子が目の前に現れると、また同じように感じてしまう。嬉しそうに微笑みかけられると、すごく満たされた気がするのだ。 ちょっとした立ち話をしても「え、もう終わりか?」と思うくらい、時間の過ぎるのが早い。媛子は予鈴がなるとさっさと引き上げていく。取り残された一だけが、煮えきらない想いになる。 ふと、腕を広げてみる。もちろん、空っぽだ。そこにすっぽりと収まるはずの存在のないことがとても不自然に感じた。
――もう一度、抱きしめてみたい。
どうしてそんな風に思うのか、自分でも分からない。ただ、媛子がとても可愛いと思い、傍に置きたいと思う。そして、やわらかな存在を手のひらに確かめてみたくなるのだ。 ――何を、馬鹿なことを。 あれは「人のモノ」なのである。しかも生徒だ。まかり間違っても、そんな感情を抱いてはならない。そうやって自分自身に言い聞かせるのが、一の日課になっていた。気づくと媛子のことを考えている。腕の中で、彼女がぽつんと呟いたひとことが、頭をぐるぐると回っていく。
――こんなに頑張ったんだから、ご褒美くれたっていいのにな……。
彼女が、一番欲しいモノは何だろうか。それを与えたときに、どんな顔をするだろう。嬉しそうににっこりと微笑んでくれるのだろうか……? ふと、窓の外を見る。校門に向かって歩いていく小さな背中が見えた。 「――媛……!」 自分でも信じられない大きな声が出て、当然の事ながら校庭の彼女は振り向く。気づくと階段を二段飛ばしに駆け下りていた。
***
もぉ、びっくりした。だって、いきなり空から一の声が降ってきたのだ。反射的に振り向いていた、だって、先生の声が好き。自分の名前を呼んでくれるならもっと好き。 少し立ち止まっていると、職員用の玄関から、灰色のスーツ姿の一が飛び出してきた。 「あ……あのなあ、……媛」 ぜいぜい、息を切らして。こんな風に自分のところまで駆け寄ってくれるだけで嬉しくて、胸がじーんとしてしまう。もう、やだよ。先生がいると、それだけで嬉しくて、でもたまらなく胸が痛くなる。 「こ、今度の水曜。県民の日、……お前予定あるか?」
どういう……こと? いきなり休日のスケジュールを訊ねてくる担任教師の顔を、媛子はぼんやりと見上げた。
つづく♪(040123)
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