…13…
「えっへっへっ……、デートだ、デートだ〜!」 翌日。朝からずっとしまりのない顔で、へらへらとしていた媛子は、放課後になった今もやはりへらへらしていた。すっかり出来上がってる酔っぱらいのような手つきで教科書を鞄に突っ込む彼女を、傍らで見守る友の冷めた目……。 「あのさ、媛子」 「それ、デートって言わないと思う。あんたの解釈って飛躍しすぎ」 どんなにあっさりとかわされようが態度が変わらないのは、今日一日の何度とないやりとりで学習済みだ。きみことしてももう改めようとする気もないようだ。 「ああん、何着ていこうかな? どうしよ、これから大急ぎで作らせようかしらっ。うーん……どこのお店にオーダーしようかな?」 きみこは、わざと大袈裟にため息をついた。それから、また大きく息を吸い込む。 「あんたねえ、……誰も恐ろしくて突っ込まないと思うけど、あえて言うわよ。はっきり言って、ゴンちゃんのお誘いは『デート』じゃないの。単に『剣道の試合の見学』に誘われただけ。更に、市民体育館の行事だから、原則として応援の生徒は制服に決まってるの!」
「市民体育館で、大会があるんだ。市民体育祭と言って、小中高の色々な部活や団体が親睦を深めるための行事なんだが」 大声で媛子を呼び止めた一は、少しピンク色に紅潮した頬でそう言った。 「その時に、模範試合と言うことで、俺が西高の先生と対戦することになっている。それ、見に来るか?」 ……この場合、きみこの言い分が正しいと言わざるを得ない。どこをどうしても、らぶらぶな展開にはならなそうだ。
だが、何しろ相手は媛子。もうここは浮かれまくって、浮き足だって、もうどうしようもない状態になっている。 「ええ〜っ、そんなぁ。無粋なこと言わないでよ。私には先生の姿しか見えないもんっ、そしたらデートと同じだから。ああん、いいなあ……今まで遠慮して部活の見学も行かなかったから、先生のりりしいお姿も見てないの。竹刀を構えた先生って、どんなにか素敵なんだろう」 と言う感じで。瞳はそのまんま、ハート形(……錯覚だろうが、そんな風に見えてくる)。両手を胸の前で組んで、またまた仕事がストップしていた。 「それにさ、ここの高校って、県民の日の翌日が開校記念日なんだもの。水木が連休になっちゃって、嫌だなあと思っていたの。お休みだって先生に会いたいものっ、すっごく嬉しいっ! ……それにそれに、先生は私に一番素敵な姿を見せてくれるんだものっ……」 媛子は一の剣道着姿がとても好きだった。胴や垂れ(たれ)を付けたところまでは見たことがあるが、残念ながら未だに面を着けて完全に支度したところは未確認だ。剣道着を着た一は、普段のスーツ姿よりも更に格好良く見える。いかにも日本男児という感じで。 「もう……仕方ないわねえ、この子は〜っ!」 「先生が、誘ってくれただけで嬉しいんだ。ちょっと目標まで届かなかったけど、こういうのでいいのかも」 ぽつんと、胸の奥にシミが出来る。誰にも気づかれないくらい、深い底の部分に。見たくないけど、見なくてはいけない。自分のことは自分が一番良く分かってる。 「なあに、言ってるのよ。これからでしょ、これから! 馬鹿ねえ、道は長いのよ。しおらしくしてるなんてあんたらしくないわ」 ぼんぼんと鞄の形を整えて、蓋を閉めてくれる。きみこは多分、すごい肝っ玉母さんになるんだろうなとか思いながら、媛子は笑顔でそれを受け取った。
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白い手袋、スーツの若草色は「久我商事」のシンボルカラーだ。社員の制服も本社の外壁もこの色で統一されている。中に着るワイシャツもクリーム色と決められているので、一年中春爛漫の雰囲気だ。ちなみに運転手が着ているスーツは夏仕様で素材が涼しげになっている。 高級感溢れる黒塗りのハンドルに午後の日差しが眩しく当たるのをぼんやりと眺めながら、媛子はするすると髪のリボンを解いた。そのあと、ヘアゴムをゆっくりと引くと、ばさばさっと髪が肩に落ちてくる。ひっつめていた緊張も一緒に解けていくみたいに。 紫外線カットのために少し黒ずんだ窓ガラスに映った自分の顔が、「久我媛子」から「久我商事の媛子様」に戻っていくのが分かった。 「ええ、真倉(さねくら)様が今日ロンドンからお戻りになったんですって」 座席の脇に付いているコンセントにプラグをいれて、媛子はドライヤーを使い出した。外から見ると普通の自家用車と変わりないこの車も、実は色々な装備を整えている。さながら動くプライベートルームと言ったところで、小型TVも冷蔵庫もある。もしも所望すれば、いれたてのロイヤルミルクティーだって味わうことが出来るのだ。 「ああ、2ヶ月ぶりですねえ〜本当にお忙しい方で! でもそれだけ将来を嘱望されていると言うことですよね! ああ、本当に惚れ惚れするほどの素敵な御方で……私も独身だったら、思わずくらりと来そうです」 ……彼がくらりと来たところで、男同士どうなるものでもないとは思うが。いちいち突っ込んでもきりがないので、媛子は右から左に流してブラシを使い続けた。 運転手が浮かれているのも無理はない。何しろ金村町のお屋敷は彼が住んでいるアパートの目と鼻の先だ。真倉様のお屋敷にお呼ばれしたときは、必ず車で送って下さる。だから、媛子付きの運転手である彼は、少し早めに仕事を上がれることになるのだ。 しかも、真倉様のお屋敷では「からお茶ですが……」などと言って、車のところまでお茶を運んでくれるらしい。一枚板で作られた重厚なお盆に乗せられているのは、挽きたての豆で丁寧にドリップしたコーヒーと地元で人気のケーキ。しかも小さいからだろうか、ふたつプレートに乗せられてくる。ちなみにこの2個分で、彼の家族分のケーキが近所の洋菓子屋で買えてしまうお値段なのだ。 「お若いのに落ち着いていらっしゃって……本当に素晴らしい御方です。お嬢様もこの先、大船に乗った気持ちで人生を渡っていけますね!」 車はどこまでも同じ外壁が続くようなゆったりとした作りの屋敷の並ぶ坂道をゆっくりと登っていった。
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制服姿のまま、媛子は招き入れられた屋敷にいた。 ロココ調のアンティークで埋め尽くされた応接室は、引退された元理事長の趣味だとか。ピンクを基調としたローズ模様のストライプの壁、ずらりと並べられた調度品の数々。今風のレプリカではなくて、当時の職人が手がけた年代物が好きだという。 白っぽい飾り棚は、細部まで細かい彫り模様が施され、花をかたち取ったところには丹念に色づけがされている。更に惜しげもなく金の縁飾りが施されていて、それがしっくりと馴染んで上品に見えるのもすごい。 ティーカップを優雅な手つきで口に運んだ目の前の男が、ゆっくりとした声で話しかけた。その顔には穏やかな凪の海のような微笑みをたたえて。さらさらと自然に流れる髪。まるで生まれたときからこんな色をしていましたと言うように自然に見えるが、実は計算し尽くされた色づけてあることも知っていた。 「そんなこと、ありません。とても充実した日々を送っておりますわ」 婚約者の顔を一瞥すると、媛子はぷいっと横を向いてしまった。窓の外に広がるのはなだらかな傾斜を描く、美しい日本庭園。今は牡丹が見頃だ。そこここに風流な唐傘を立てかけられた花がほころんでいる。もうしばらく経つと今度はあじさいが盛りになる。 「無理をなさらずとも……目の下にうっすらとクマができてますよ。ちゃんと指定したエステティックサロンには通って頂いてますか。ああ、肌も多少荒れているようで……だから、最初に申し上げたでしょう。あなたはただ、私の花嫁になる日を待っていればいいと」 フレームのない眼鏡。実はこれも「知的に見えるから」というスタイリストの意見で取り入れたもので、度は入っていない。その奥の瞳が一瞬、色を変えた。 「で……どうなんです? 以前お話になっていた媛子様の『野望』とやらは……順調にお進みなんでしょうか。いや、正直に申し上げて、どうも芳しくない様子ですね。だいぶ羽目を外していらっしゃるご様子ですが、無駄な努力と申し上げるしかない感じですねえ」 ふふふ、と楽しそうに笑う。この男は全て知っているのだ。そんなことはうすうす感づいていた。最初にこの「賭け」を持ち出したときに顔色も変えずに承諾したのも、きっと男なりに勝算があったからではないかと思う。 「無駄なんかじゃないわ、少しは……少しは進展もあったもの」 「でも、少しばかり何があったとしても、そんなのは仕方のないことですよ? 焼け石に水というものです。あなたはもうこの『賭け』に勝つことはないでしょう。まあ、いい暇つぶしにはなったでしょうけど、――お互いに」 「うっ……」 そう言いきられてしまえばそこまでだ。こんな風に自信たっぷりに言われることは分かっていた。男の言い分は正しい、自分は間違っている。それを認めざるを得ない。
婚約者であるこの男。15歳の誕生日の日に、正式に婚約をした。でも、それよりずっと遡って。7歳になったときにはもう祖父に男を紹介されていた。当時まだ高校生だった男は、それでも堂々として貫禄すら感じられた。 祖父や父の仕事に、実家である久我商事の将来に必ずプラスになる家。真倉家との縁談はお互いがお互いを繋ぐ、確かなものがあった。 疑う余地もなかった。元より、小さな頃から通っていたポピー女学院でも、自分と同じような境遇の娘たちはたくさんいた。中には生まれる前からもう相手が決まっているとか。そんなクラスメイトの中でも、媛子はいつもとても羨ましがられていた。 財界の中でも媛子の相手は抜きんでていた。家柄も学歴も申し分なくて、しかもすらりと長身のスマートな身のこなしの若者だ。一目見れば、誰もが心を奪われて当然。さらに人間性にも優れていて、隙がない。 「媛子様、なんてお幸せなのかしら……」
「私に、チャンスをくれませんか?」 「好きな人がいるんです。今は片思いだけど、この気持ちをどうしても相手に伝えたい。私のことを知って貰いたいんです」 「……ふうん、そうですか」 今夜のディナーのメインが、魚から肉に変わったのを聞くような、あっさりとした返答だった。決死の覚悟で臨んだのに、拍子抜けしてしまう。しかも、男はさらに驚くべき案を提示してきたのだ。 「媛子様がそこまで思いこがれるお相手なのですね。だったら、こうするのはどうでしょう。こちらの意図を全く知らないまま、そのお相手が媛子様のお気持ちを受け取ってくれたなら……この婚約はなかったことにしても宜しいんですよ?」 「えっ……?」 予想だにしなかった提案に、媛子は目をむいた。しかし、男は静かに自分の口元に指を当てる。 「もちろん……このことは他言無用でお願いしますよ。私の婚約者が、いきなり他の男と横恋慕なんてスキャンダルもいいところですし……それに、このことが相手の耳にはいることにもなりかねません。シンデレラストーリーを夢見ている媛子様にもそれは不本意でしょうからね。――あ、違うか」 男は自分で自分の話を遮った。そして、喉の奥でクククっと笑う。 「この場合……媛子様は『シンデレラ』と言うよりも『白雪姫』でしょうか。せっかく立派なお城があるのに、そこから飛び出そうとなさるのですから……もっともお姫様を追い出す悪い魔法使いも存在しませんが。随分と身勝手でお転婆な白雪ですね」 もちろん将来を添い遂げることを約束したふたりだ。メイドなども全て下がらせている。この話はふたりだけの胸の中にしっかりと封印された。
「まあ、……私の妻となる方ですから、しっかりなさっているに越したことはありません。たまには手が出るほどの大げんかも宜しいのではないかと思っていますしね。媛子様に以前なかった覇気が出てきたのはとても喜ばしいことです。すごいじゃないですか、学校でも有名になっていらっしゃるようですね。皆さんがどんなに驚きになるか、今から楽しみです」 ――やっぱり。 何しろ、この男の父親はポピー女学院を始め、数え切れないほどたくさんの教育機関に携わっている人間だ。政界にも大きく顔が利くという。公立といえど、媛子の通う高校にだって手が入れられるのだ。そうじゃなかったら、媛子の素性や婚約者がいることなどももっと初期の段階で広まっていたはずだ。それがされないように、誰かがしっかりと裏で糸を引いていたのだろう。 「久我」という姓がありふれていたため、媛子がポピーから外部受験をしたことは知られても、久我商事と結びつくことはなかったようだ。教師たちの間ではそれなりに広まっていったかも知れないが、少なくともクラスメイトには問われたことがない。 となると……自分の学校生活の一部始終も、目の前の男は全て知っていると思っていい。それくらいのことはする、ぬかりない人間だ。そして、その人間が自分の夫となると言う。こんな話を今のクラスの仲間に話しても到底信じてもらえないだろう。ただの冗談として流されてしまうに決まっている。きみこにはちらっと話したりもしたが、どこまで信用されているか分からないし。 最初に、この提案がなされたときは、この男の真意を疑った。もしかしたら、自分の将来も自由にさせてくれるのかとかそんな期待が胸を過ぎり、男の心の深さに感動した。……でも。よくよくコトを進めてみれば分かる。どんなにか自分たちの「賭け」が現実離れしていたかと言うことを。媛子のような世間知らずの娘ではこの男が本気で相手にするはずもなかったのだ。 「先ほどは失礼も申し上げましたが、媛子様はとっても生き生きなさっている。今まで私が接していたのとは別人のように輝いていらっしゃいますよ。それはとてもいいことです。私の妻として、この上なくふさわしい……」 そう言いながら、自ら紅茶のお代わりを注いでくれる。自分でもよく分からなかった。この男の妻になることは当たり前だと知っていても、「好き」という感情が少しも湧いてこないことが。何かの雑誌のインタビューで見たことがある。「抱かれたい男」のベストテンに男の名前が連なっていた。飛ぶ鳥を落とす勢いで政財界に君臨する若きプリンス。 そりゃ、ドラマや映画に出てくる俳優と比べたら、見劣りするかも知れない。でも普通に生活していたら、この容姿や身のこなしは絶対にプラスに作用する。 だけど、だけど違うのだ。どこかが違うのだ。媛子の求めているものと、目の前の男は確かにどこかが違う。それに気づかないうちは良かった。でも……知ってしまったから。 「……真倉様は、心からひとりの女性に惹かれたことがありますか?」 肉厚のカップは保温性が高くて、口にしたミルクティーは舌がやけどするほど熱かった。じいんと痛みが喉を通っていく。 「何を仰るのやら……」 「私たちはこれから、素晴らしい人生を歩むのです。そうすれば、今あなたの過ごしている庶民の暮らしなど、ほんのままごとでしかなかったことがお分かりになるはず……」 ゆっくりとカップを空にする。熱いとかやけどをするとか言う感覚も持ち合わせていないように、それはよどみなく行われた。 「この『賭け』は私の勝ちですね」
―― 一生懸命、頑張ってみた。でも上手くいかないことばかりで、つまづいて転んで、また起きあがって。誰かに泣きつくことは出来なかった。ガラスの箱の中から飛び出して、自分の足で立ってみて初めて分かる。世の中も人の心も、努力だけでは動かすことが出来ないのだと言うことを。そこにはいつも「向こうの都合」があることを。 多くを望まなければ、どこまでもまっすぐに道が続いている。今、自分のしていることは何の価値もないことなのだろうか。
「さあ、お家までお送り致しましょう。今、車を用意させますのでお待ち下さいませ」 勝者の笑みを浮かべた男を睨み返すだけの気力は、もう媛子には残っていなかった。
つづく♪(040130)
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