TopNovelおとめ☆Top>おとめ☆注意報・14

…14…

 

 一の初恋は、意外なことにかなり早かった。

 5歳で幼稚園の年中組に入園したとき、担任になった「ハルコ先生」。若くてピチピチした素敵なお姉さんといった印象のその人に、一目で恋に落ちた。普通は初めて親元を離れて通園すると、しばらくして決まって「幼稚園に行きたくない」と泣き出す「通園拒否」が出始める。しかし、一に至っては、園が休みになると荒れ狂う変わり種。両親も不思議そうにしていた。

「先生ね、クラスを持たせて頂くの、初めてなの」
 そんな風に心細げに笑うサラサラ髪の人。ほっそりした腕に、折れそうな肩。僕が守ってあげなくちゃと、進んでお手伝いをした。ハルコ先生もとても喜んでくれた。

 

 いつだっただろう、スケッチブックを広げてのお絵かきの時間。一が真剣にクレヨンを握って絵を仕上げていると、後ろからクラスの男の子たちが覗いてからかい始めた。

「や〜ハジメのやつ〜、女みたいな絵、描いてやがる!」

 すぐに反応すれば良かったのかも知れない。でも当時は今に増して恥ずかしがり屋だった彼は、真っ赤になって俯いてしまった。そうなれば、相手はどんどんエスカレートしてくる。からかう人数も増えて、大騒ぎになってしまった。

「あらあら、どうしたの?」
 あまりの騒ぎにびっくりしたのだろう、ハルコ先生が飛んできた。そして状況をぐるりと見渡して確かめると、下を向いたまま今にも泣き出しそうだった一に優しく声を掛けたのだ。

「まあ、素敵なお家ね。赤い屋根で、白い壁。それに二階のベランダにはお花も飾ってあって……先生の家、マンションだから。将来、こんなお家に是非住みたいわ」

 思えば、ロボットとか恐竜とか、他の男の子たちはそんなものばかりを描いていた。みんなと違うものを描いたから、からかわれたのだ。でも、まだ周りを確かめるゆとりなどなかった一にはそれが分からなかった。訳も分からずからかわれ、そして優しい助け船。

 ……ハルコ先生って、なんて素敵なんだろう。

 褒められた絵が花丸を付けられて戻ってくると、自分の部屋に飾った。そして、毎日それを飽きることなく眺めていた。

 

 それからしばらくして、一は見てしまったのだ。

 クラスメイトのあずみちゃんのママに怒鳴られて、泣いているハルコ先生を。一度や二度じゃなかった、何度も。あずみちゃんのママにまくし立てられている時はじっと耐えていた先生は、そのあと木陰に隠れてひとりでしくしく泣いていた。驚いたことに、他の先生方もママさんたちもそのことに気づいているようなのに、何もしてくれないのだ。

 大好きなハルコ先生。苛めるあずみちゃんのママが鬼みたいに見えた。目もききっとつり上がっている。ひどい、ひどすぎる。なんてコトをするんだ、僕の大切なハルコ先生にっ……!

 それでも一には、ふたりのやりとりの間に割ってはいるだけの勇気はない。仕方なく、木陰のハルコ先生をこっそり慰めに行った。泣きはらして真っ赤な目をしたハルコ先生は、それでも一の存在を知ると、にっこり笑って顔を上げてくれた。その健気な姿を見たとき、一は決意した。

 

 ――僕、先生を守ってあげる。

 大きくなって、強くなって、誰にも負けなくなって、そしたらハルコ先生を幸せにしてあげるんだ。あの、先生が褒めてくれた家とそっくりなのを建てて、先生をお嫁さんにして、一生幸せに暮らすんだ。

 

 子供の思考回路は、突飛に出来ている。だから、つじつまの合わないことなど気にしない。すぐに剣道場に通い出し、毎食ご飯を3杯ずつ食べた。ぶら下がり健康器というので背が伸びると聞いて、両親にねだったが、聞き入れてもらえない。仕方なく公園の一番高い鉄棒にぶら下がったりした。

 

 しかし、季節は移り、秋が来る頃。ハルコ先生は幼稚園から姿を消した。そして、代わって担任になったのはお祖母ちゃんのようなベテラン先生だった。クラスのみんなはすぐに新しい先生になついたが、一だけはどうしても納得できなかった。

 ――先生、どうしちゃったんだろう?

 思いあまって、ハルコ先生が住んでいると言っていたマンションにも行ってみた。でも引っ越してしまったあとで空き家になっている。表札の白い部分が妙に心にしみて、悲しくてたまらなかった。

 

 半年ほど過ぎて。一はハルコ先生の消息を知ることになる。でも、それはあまりにも信じがたい、衝撃的な事実だったのだ。

「あのね〜、あずみのママが変わったの。でね、もうすぐ赤ちゃんが生まれるんだよっ!」
 あずみちゃんがそんな風に無邪気にはしゃいでいた。その時はそんなものかと思っていたが、そのすぐあとで、一は母親と出かけたスーパーマーケットで見てしまったのだ。

 ……あずみちゃんのパパとあずみちゃん。そして、おなかの大きな……ハルコ先生。

 彼女は一瞬、こちらを見た。でも、一のことなんて全然知らないと言う風に、すぐに向こうを向いてしまう。そのまま一度も振り返ることなく店を出て行った。

 

 あずみちゃんは年長さんになると同時に、パパの仕事の都合だと言って、一家で遠くに引っ越していった。それきり、会ってない。一の淡い初恋もそこで終わった。

 

***


 背伸びをしてみた。入り口の辺りに視線を向ける。それからふと向き直って、奥の壁に設置してある時計を見た。……なんだ、さっきからまだ5分しか経ってない。

 市民体育祭当日。大会役員になっていた一は、朝の7時から市民体育館に入っていた。

 平成に入ってから完成したというこの建物は、まだ内装も綺麗で、使い勝手もいい。市民の憩いの場となるべくきめ細やかな心配りが施されているのも目新しい感じだ。入り口の車いす用のスロープや、ウォッシュレット付きのトイレなど、一昔前のお役所仕事では信じられないような感じ。こういうのを見てしまうと県立の高校の校舎が急にみすぼらしく時代遅れに感じられてしまう。

 本日、剣道の試合用に用意されたのは小体育館。丁度、普通の高校の体育館ほどの広さがあり、真ん中をスライド式の吊り壁で仕切れるようになっている。その半分を剣道、もう半分を柔道に使うことになっていた。

 普段はここで卓球やバトミントンの同好会が練習していると言う。多目的に使用できるようになっているため、試合用には準備が必要だ。剣道はフローリングの床にメジャーで測りながら、色テープを貼っていく。ギリギリ3面取れるのだが、ちょっとずれると大変なので注意が必要だ。

 剣道はそれだけで済むが、柔道はもっと大変だ。滑り止めのシートを敷いた上に、競技用の畳を一枚ずつ敷き詰めていく。様々に色分けされたそれを並べるのには、相当の時間が掛かる。その上、大会が終了したあとは、また元のように片づけなくてはならないのでさらに仕事が増えるのだ。剣道はテープをピーッと剥がしてモップで掃除するだけ。かなり仕事が違う。

 生徒たちを使って、どうにか会場が出来上がるとほっと一息。それまで着ていたスーツを脱いで、剣道着に着替えた。袴の腰の帯をぎゅっと結ぶと、背筋がしゃんと伸びる気がする。柔軟運動を済ませると、垂れ(たれ)と胴を付けて素振りの稽古。最後は面をつけて、互角稽古も行った。何しろ、いつも生徒の指導はしていても、正式な試合は久しぶりだ。学生時代から、数え切れないほどの場数を踏んでいても未だに緊張する。

「先生、今日は気合いが入ってますね、これはいけるかも知れませんよ!」
 稽古の相手をしてくれた、元部長の久我が面を取りながら言う。もう部活は引退した身分ではあるが、今回は頭数が足りず参加して貰うことにした。1年生に初心者が多く、まだ試合に出せる状態になっている者があまりいないのだ。

「……当たり前だ」
 梅雨の晴れ間の真夏のような陽気に、もう汗だくになる。傍目にはそれほど激しい動きをしているようには見えないが、剣道とはかなりの運動量なのだ。手ぬぐいを一度外すと、髪が汗でくしゃくしゃになっていた。

 そして、また時計を見る……どうしたんだ、まだか。

 開会式は10時から。あれこれ長引いても、10時半にはそれぞれの会場で競技がスタートする。模範試合は一番先に行われることになっているから、時間が来ればあっという間だろう。剣道は何しろ一試合の時間が短い。その時によって、3分4分……などと時間制限があるが、その中でどちらかが「二本」取ればその場で終わりなのだ。30秒も経たずに決着が付くことも少なくない。

「何やってるんだ、あの馬鹿っ……!」

 心の中で呟いたつもりが、声になっていたらしい。傍らの久我が振り向く。

「はぁ、どうかしましたか?」

 それには答えず、一はすっくと立ち上がった。

「ちょっと、外に出てくる。……部員たちを頼んだぞ」
 それだけ言うと、彼は大股で部屋を横切り、出て行った。

 

***


 気になることはいくつかあった。

 今週に入ってから、媛子は何となく元気がないように思えたのだ。自分の思い違いならいいのだが、やはりどこか引っかかる。一度気になり出すと、些細なことがどんどん大袈裟に考えられてくるのだ。

 市民体育祭のことを切り出したのは先週の木曜、そしてその次の金曜と、そこまではあまり違和感を感じなかった。だけど、週があけて月曜日、昨日の火曜日と……にわかに空気の変化を感じていた。

 授業中。黒板にチョークで公式を書きながら、口頭で説明する。その時、媛子の方をつい見てしまうのはもう習慣化していた。人一倍、数字に弱い彼女が、きっと難しい顔をしているに違いない。自分は理数系の人間だから「数学は苦手で〜」なんて言い出す人間は未だに宇宙人のような気がする。でも教師としてはそのような生徒を理解させていかなくてはならない。どこが分からないのかを聞いて、きちんと説明しなくては。

 だがしかし。一の視線の先にある媛子は、黒板の数式よりも一の顔を見ていた。どういう訳か、その瞳がうるうると潤んでいるような気がする。いわゆる涙目という奴だろう。コンタクトがずれた人間が良くなるが、媛子は視力がいいはずだし……。

 

 ――なっ、何か、悩みでもあるのだろうか……!?

 

 あの能天気に限って、そんな馬鹿なと思ったが、やはりものには例外と言うこともある。高校生と言えば揺れる年頃、思春期のまっただ中だ。些細なことを気に病んでいるのかも知れない。

 弁当の受け渡しの時にそれを確かめたいと思いつつも、なんやかんやと邪魔が入り、ふたりきりでゆっくりと話す暇もない。こうなってみると、以前は鬱陶しくすら感じていた媛子とのやりとりが全然足りない気がするのだ。

 もしも、悩みがあるのなら。ここは担任として、しっかりと対応するべきだろう。子供のことは親が責任を持つ、とは言っても、高校生の1日の中で学校生活が占めている割合は非常に高い。生徒の変化を保護者ではなく担任教師が察する、と言うことも少なくないのだ。

 何を悩んでいるのだ、何を。何なりと聞くぞ、これでも教師生活6年目、少しはキャリアも積んだんだ。察するところ周囲のクラスメイトは彼女の変化に気づいていない。きっと、無理をしてでも明るく振る舞っているに違いない。だが……堪えきれない何かを、自分に対してだけ訴えているのだとしたら……?

 話をじっくり聞こう、そして……可能な限りのアドバイスをして。力になってやりたい。で、もしも不安が収まらないようなら、その時はぎゅーっと抱きしめて――。

 

 ……え!?

 

 そこまで思いを巡らして、ハッとする。なっ、何を考えているんだ。相手は生徒だぞ、商品だぞ。ついでに婚約者付きだって言うじゃないか。一体どうしてそんな風に考えがぶっ飛ぶんだ、どうなってるんだ!

 必死で首を左右に振る。ぶんぶんと音を立てて、雑念を振り払う。どうにかしなければ、どうにかして、平常心を保たなくては。模範試合で余りにも情けない姿を晒したら、笑われてしまう。

 

 今日のことだって、どうして媛子を誘ってしまったのか、自分で自分が分からなかった。あのとき、知らないうちに、今日の会場に媛子がいて欲しいと思ってしまったのだ。彼女を喜ばせるのが目的と言えば目的。だって、剣道部員たちが、口々に言うのだ。

「先生、媛ちゃん、このごろ来ませんね〜。彼女、先生の剣道着姿、すごい好きだって言ってたのに。また呼んであげてくださいよ!」

「そうですよ、照れてないで。先生だって、本当は嬉しいくせに」

 馬鹿言うなっ! とか一喝して、その場を切り抜けた。

 媛子を思いきり怒鳴りつけてしまったあの日の醜態は、部員たちの脳裏に焼き付いているはずだ。あそこまでやっておきながら、どんな顔をして誘えと言うのだ。だったら、お前たちが無理矢理連れてくればいいのだ。

 そんなこんなで悶々としているときに、模範試合の依頼。一にとっては初めての経験だった。いつもはもっと年配の先生がその役を買って出るのだが、どうも腰か膝を痛めたらしく今年は辞退されたらしいのだ。他にも適当な候補者がなく、こっちにお鉢が回ってきた。

 とりあえず承諾の意を伝え、それでもどうしたものかと思っているときに、ふっと媛子のことを思い出した。剣道着姿を見ただけで、あんなに嬉しそうにするのだ。きちんとした試合風景を見せてやったら、どんな風にコメントしてくれるだろうか。その時の、彼女のはしゃぎっぷりが手に取るように分かる。だから、声を掛けたのだ。

 

 ――いや、それだけではないかも知れない。

 教職員の大会などには時々出場する。だが、時間に融通が利かないせいか、腕の立つ仲間と練習する機会もなく、いつも思ったように実力が出せないでいた。元々、大きな身体をしていながら情けないが、稽古なら上手くできても試合では腰が引けることが多かった。

「はじめから、守りに入ってどうする。逃げ腰じゃ、勝てないぞ!」

 小学校時代の道場の先生にも、中学や高校の顧問にも、繰り返し繰り返し言われた。判定で「攻める意志が感じられない」と負けてしまったこともある。頭では分かっていても、失敗を恐れると、どうしても足が前に出ないのだ。面を打ち込みたくても、一瞬躊躇してしまう。

 

 だから……なのだろうか。媛子に出会ったときは驚いた。突然の告白、「セフレ」発言にも腰が抜けたし、その後も振り払っても振り払っても付いてくる。最初はそれが嫌だなとか思ったけど、いつの間にか受け入れてしまう自分がいた。

 あんな風に面と向かって告白されたのは、生まれて初めてだ。しかも公衆の面前、職員室に朝の通学路で。たとえようもないほど恥ずかしかったし、自分にとってはまったく思いも寄らない出来事であり相手だったから、受け入れられるわけなかった。今でも、そんなつもりは毛頭ない。10歳以上も年下の、つい最近までランドセルをしょっていたんではないかと思われるような子供だ。本気になったら犯罪じゃないか。

 ただ、あの前へ前へと突き進んでくる潔さには感服していた。あの致命的な運動神経のなさがなければ、非常に剣道向きの性格だと思う。行動に迷いがないからだ。

 

 今日の相手は自分よりもずっと年上の教師だ。何度も大会で優勝したことがあり、先日7段を所得した。教師としてやっていながら、7段とはなかなかのものである。剣道の段も階級が上がるにつれて「強い」と言うだけでは済まされなくなる。大会の運営、審査員。そして後輩の育成。そんなことを手がけて行かなくては審査に通らない。何度か試合風景を見せて貰ったが、その動きには無駄がなく、凛としている。

 勝てるはずはない、と思った。きっと、今日会場に来る誰もがそう思っているに違いない。そんな中で試合に臨まなくてはならない自分が悲しかった。

 

 ――だけど、媛子がいれば。

 何故、こんな時に彼女に頼ってしまうのだろう。だが、一はあのまっすぐな目が欲しいと思った。それにあれだけ想いをぶつけてくれた彼女に返せるものと言ったら、やはりがむしゃらに頑張る自分しかいない。媛子が望むものを与えるわけにはいかないが、これが自分に出来る精一杯なのだ。

 

 なのに……何故、来ないのだろう。

 

 気が変わったのだろうか。もしも、急な用事が出来て、来られなくなったのかも。そうじゃなくても、あまりにつれなくしていた自分に、とうとう愛想が尽きたとか。別に、そうなるなら、よりによって今日じゃなくたって……!

 

 9時半。開会式まであと30分。イライラしながら一は待った。

 だけど、頻繁に車が出入りしている会場への通路のどこにも、ぴょこぴょこと動く、ポニーテール頭は見つからなかった。


つづく♪(040206)

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