TopNovelおとめ☆Top>おとめ☆注意報・15

…15…

 

 ――誤算だった。

 とにかくは時間がない。媛子は制服からおなかが覗くくらいの猛スピードで通りを駆け抜けていた。と言うことは、短めのスカートももちろんバタバタはためいてる。まあ、それは校則で義務づけられている「一分丈スパッツ着用のこと(色は紺か黒)」を守っているために大事には至ってないが。

 どどどどど〜〜〜っ! 背後に巻き上がる漫画かアニメの描写のような砂煙。くるくると頭のてっぺんで回るトレードマークのポニーテールも健在だ。

「やぁん、もう! 信じられな〜〜〜い!」

 自分の隣を呆然とした表情のピザ屋のバイクが併走していることを、彼女は少しも気づいていなかった。

 

***


 今朝、彼女はいつもよりもゆっくりと目覚めた。とは言っても、時間にはたっぷりと余裕を持っていたはずだ。何しろ自室に備え付けてある専用のバスルームで、のんびりと朝風呂を楽しんでしまったほどなんだから。

「あ〜、たまにはこんなのんびりもいいわねえ……」
 あわあわのシャボンはワイルドローズの香り。白い湯煙の中で、ぼんやりと幸せに浸る。

 開会式は10時から。そのあと、すぐに模範試合になる。遅れるわけにはいかない。応援のメッセージも伝えたいし、9時には必ず会場に到着するようにしよう。市民体育館は「市民の憩いの場になるように」と設計されたはずなのだが、信じられないくらいへんぴな場所にある。同じ市内のはずなのに、隣の市の役場に行く方がずっと近いのだ。

 ……まあ、そうは言っても。

 何しろ、今朝は媛子の毎朝の恒例行事「お弁当作り」がない。それに費やす時間は毎日3時間を超えていたから、朝寝坊をしても時間が余って仕方ない。せっかくなのだから差し入れしようとしたら「大会本部から弁当が出るから」とあっさり断られてしまった。もう、がっかり。

「あーあ、新しい鶏つくねの試作がようやく完成したのになあ……」

 ぶくぶくぶく。水面に沈み込む。お湯の色もピンク色に染まっていた。その時、媛子の心も今日の一の晴れ姿を想像して同じ色に染まっていたはず。

 

***


「あれ? 佐伯。道が違うわよ? 今日は市民体育館だって、言ったでしょ?」

 いつものように運転手付きの車で出かけて、しばらくはぽややんと窓の外の景色を楽しんでいた。梅雨の晴れ間、抜けるような青空。というか、今年は空梅雨なのか、毎日のように晴れ渡っている。誰でもそうかも知れないが、自分で運転せずに車に乗っているといつまでも道を覚えない。気づけば目的地に着いているからどうしても人任せになってしまうのだ。

 媛子にももちろん、その気があった。あったのだが、いつもの通学路をずんずん通り過ぎ、ついでに更に車が突き進んでいくのを確認して、さすがに不安になってきた。

「ちょっと! 佐伯!? 市民体育館は逆方向でしょ? 早く車を戻しなさい、遅れちゃうじゃないの……!」

 思わず、身を乗り出して運転席の彼に叫んでいた。しかし、ハンドルを握るその後ろ姿は少しも慌てることはない。やがて信号が黄色から赤になって、ようやく返事をした。

「市民体育館になど……行かれなくて結構です」

 サイドブレーキをちゃんと上げてから、くるりと振り向く。媛子はにわかには声も出せず、シートに背中を思い切りぶつけるほどに後ずさった。

「なっ……なななっ! どうして! 何であなたが……」

 見開いたどんぐり眼に映ったのは。不敵に微笑む婚約者・真倉の顔であった。

「きっ、今日の予定は、前もってお断りしたはずでしょう? 明日は開校記念日だし、どうにかしますから……! 市民体育館に行かないと、あのっ、時間がないんです!」

 すっかり女子高生モードに入ってしまっているため、すぐには「媛子お嬢様」には戻れない。

 しかし、泡を飛ばしながらも、必死に訴えた。何しろ刻一刻を争うのだ、試合が終わってしまってはどうにもならない。早く車を戻して貰わないと――。なのに、真倉は信号が青に変わるのを見て、悠然と走り出す。車の行く先を改める気は毛頭ないらしい。

「さっ、真倉様!」
 媛子はもう泣き出しそうだった。何だって、この男がいきなり佐伯の代わりに運転してるんだ。そう言えば、今朝は運転席から降りてきてドアを開けてくれなかったけど、そんなことは余り気にならなかった。鞄を持って付いてきたお手伝いさんが、当然のようにドアの開け閉めをしてくれたから。

「――何を仰るんですか? 本日は大切な衣装合わせ。私は是非、お美しい媛子様の姿をしっかりこの目に焼き付けたいですし……それに」

 滑らかな手つきでウインカーを出し、ゆっくりと左折する。媛子がこの男の運転する車に乗るのは初めてだ。どこに行くにも専用の、他にちゃんと運転する者のいる車を出して貰っていたから。でも、身体に少しも負担にならない流れるような走りは、一流と言われる彼の運転手のそれに少しも引けを取っていない。

「今日、あんな騒がしい場所にわざわざお出かけになることなどないでしょう? あんな素人もいいとこのろくでもない競技を楽しむなんて、媛子様にはふさわしくありませんよ? どうしても武道の大会がご覧になりたいのなら、今度全国レベルの大会にご招待しましょう。もちろん、VIP席にね」

「そんな……!」

 嘘っ、嘘でしょう……!?

 媛子は信じられなかった。せっかく、一が誘ってくれたんだ。いつもは「部活を覗きに来るな」とか、冷たく言われているのに。自分の試合するところを見に来ていいって言ってくれるなんて、媛子にとってそれは「愛情こもった10発」に匹敵するようなすごい出来事だった。

 

 どうしても、今日だけは行きたい。真倉だって知ってるはずだ、今日しかないってこと。それが分かっていて阻止するなんて、本当に血も涙もない人間なのか。

 集中ロックされている車では、停車したときに外に飛び出すことも不可能だ。セキュリティーの都合上、車がそのような造りになっていることは分かっている。袋の鼠、とはまさにこのことか。

 

 すっかりしょぼくれてしまった媛子をバックミラーで確認して、真倉はコホンとひとつ咳払いをした。

「あなたとの賭は私の勝利に終わりました。それはもう明らかですよね? 今更、何をしようと言うんです。私だって、別に媛子様が憎くてこんなことをしているわけではありませんよ。全ては久我のお家のため、そして媛子様のためでしょう。……今日は、もうおやめなさい。未練がましく行動しても、残るのは悲しみだけですよ?」

 決めつけるような言葉が、媛子を縛り付けようとする。それに怒りを覚えずにはいられなかった。

「ずるいわ……そんなの」
 俯いたままであったが、媛子はスカートの上に握り拳を作って思い切り言い返していた。

「賭には負けたかも知れない、もう駄目って分かってる。でも、こんなのってひどい! 私、知ってるんですからっ、真倉様だって、まだきちんと精算できてない女性が複数いらっしゃるんでしょ? 両手に抱えきれないほどの恋人、おひとりおひとりに話をつけるのはとても大変だったって、噂で聞いてます」

「おやおや」
 バックミラーに映る瞳が楽しそうに細くなる。媛子にとっては必死の会話も、彼にとっては単なる娯楽でしかないようだ。

「早くも焼き餅やきですか? それも可愛らしいですね……やはり妻はお高くとまっているよりも、そうやって夫を上手に操作できるようでなくてはね。まあご安心下さい、その件につきましてはもうすぐに示談が成立するはずですから。媛子様が案じることなどひとつもないのですよ」

 運転中の男が直接振り向くことはない。彼と目を合わせるにはバックミラーを覗くしかないのだ。媛子は唇を噛みしめて、威嚇の表情で鏡の向こうの男を睨みつけた。

「……やっぱり、恋愛は一生に一度の人としなくちゃ駄目です! そう言う人が現れれば、きっと分かるんですっ! その人と、ずっと一緒にいたいって思うはずだから。どうしても離れられないって、思うはずだから」

 ――どこかで、聞いた台詞。媛子はそう思っていた。自分の中にまで、あの言葉が息づいている。一生に一度の人、出会えばひとめで分かる人。それを追い求めている人が素敵だと思う。いくら地位や名誉があったって、人の心をおざなりにする人に、素敵な恋愛なんて出来るはずない。そんな資格、ないんだから。

 あの言葉を聞いたとき、胸が痛くてたまらなかった。何も、自分がその対象じゃないって言われたことがショックだった訳じゃない。そんな風に彼に愛してもらえる女性がいることが、とても羨ましいと思ったんだ。素敵な恋愛に対する、憧れみたいなものだったのだろうか。

「面白いことを……仰いますねえ」
 ミラー越しに、真倉はふふふっと忍び笑いを漏らした。とても楽しそうだ。それから、ゆっくりと口を開く。

「……俗世の学校ではとても素晴らしい教育をされるようですね。何ですか、それは。イマドキは少女漫画でもそんな潔癖なことを描いたら、読者から笑われますよ? 媛子様もそのような夢物語を語るのはおやめなさい、私が本当の大人の恋愛というものをしっかりと教えて差し上げますからね」


 車はするすると坂を上り、やがて遠隔操作で自動で開いたシャッターの中に吸い込まれていった。

「我ながら、馬鹿げたことをしたとは思っておりますが」
 真倉は自らの手でドアを開けて、媛子を促した。

「私の花嫁になる方が、あまり軽はずみに行動されるのもどうかと思いましてね。明日が休みならいいじゃないですか。……どうします? 今夜はこのままお泊まりになりますか……?」

 差し出された手のひらを、媛子はパンと叩いて払いのける。そんなことをしても何にもならないと分かっていたが、せめてもの抵抗のつもりだった。しかし、真倉の方はおやおやと言った表情で首をすくめただけ。口元の笑みもそのままだ。

「私はこの車のことを誰かに頼んできます。久我のお家に戻しておいた方が宜しいでしょうから。店の者が広間に着いているはずですから、そちらに――」

 庭に通じるドアが開かれる。

 目の前に広がる日本庭園。いつかTVで見た、あじさい寺のようだ。いつでも綺麗に刈り込んである庭木。見る角度によって趣を変えるしつらえ。石畳の階段が緩やかに登っていき、その先に立派な構えの純日本様式のお屋敷が佇んでいる。
 久我の、自分の家だってここに負けず劣らずの豪邸だと思う。でも、家が大きくて立派だからどうだというのだろう。自分で自分の家がお金持ちだとか偉いとか、そんなことを思ったこともなかった。ただ、久我の家に生まれて育っただけ。媛子のとって、大きな意味はなかった。

 だのに。

 これから、この家に媛子は吸い込まれようとしている。真倉の家の嫁となって、一生を捧げなくてはならないなんて、御武家様のお姫様も真っ青なシチュエーション。だいたい、イマドキの世の中に「婚約者」とか「家と家の結びつき」とかそんな前世紀の遺物のようなものがあって言い訳ない。でも、これは事実。

「いらっしゃいませ、媛子様。お荷物をこちらに……」

 真倉の到着を知って、メイドが上から軽やかな足取りで降りてくる。にこやかな笑みを浮かべているが、媛子にとっては自分を捕まえようとしている鬼のように映った。

「あっ、媛子様……!?」

 その叫び声を背中に受けて。媛子はお屋敷の通用門から、敷地の外に飛び出していた。

 

***


「ええと……、どっちだったっけ?」

 とりあえず、細道に入って、現在位置を探る。もたもたしていたら、見つけられるのは時間の問題。今度捕まったら、もう逃げられない。時間がない、とにかく、どうにかしなくちゃ!

 自分の方向感覚には自信がなかったが、こうなったら当てずっぽうにも走ってみるしかない。もう、最後は野生の感に頼るしかないのだ。都合良くタクシーが目の前を通ればよいが、そんな幸運もない。そうなれば、媛子に残された道はひとつだった。

「あっ……!」

 大通りに出たところで、初めて立ち止まる。

 じゃばじゃばと水音。振り返ると、アパートの駐車場脇の洗車場でせっせとワゴン車を洗っている見覚えのある顔……! お約束と言われようが、なんと言われようが、とにかくは媛子の婚約者・真倉によって「臨時休業」を申し渡された、かの男。こっちが必死の形相でいるというのに、のほほんと間延びした顔で鼻歌なんか歌っちゃってなんたることか!

「うわっ! お嬢様……! どうしてこちらに!!」

 ホースを振り回しながら慌てているが、そんなことはどうでもいい。媛子は水滴のいっぱい付いたローズブラウンの車のドアを開けると、強引に乗り込んだ。

「ちょっと、佐伯! どうでもいいから、車を発進させて! すぐに市民体育館に行ってちょうだい!!」

 

***


「だって、真倉様にはくれぐれも内密にコトを運ぶように申しつかっていたんですよ〜〜〜っ!」

 聞けば今日の拉致事件は、真倉の独断で遂行されたらしい。媛子の運転手・佐伯は半泣きで白状した。彼は、「真倉ファミリーランド」の家族5人分のご招待券とお食事券で買収されたと言う。正面切って行っては媛子にも久我家の人々にも却下されそうだったので、周囲から固める作戦に出たようだ。荷物持ちで出てきたお手伝いさんもそのひとりだった。

「お嬢様がこのごろ元気がないから、私が励まして差し上げようって……素敵なお心遣いじゃありませんかっ! お嬢様ももっとあの御方に頼られれば宜しいのに」

 何しろこの男。ゆくゆくは媛子付きの運転手のまま、真倉家に再就職しようと思っているらしい。全く何騙されてるんだ。あの男の真意を見抜けないなんて愚か者はさっさと解雇してしまいたくなる。まあ、彼の立場上、それは可哀想すぎて出来ないが。

 ぎゃあぎゃあと騒ぎながらも、車は渋滞に巻き込まれることもなく、どうにか目的地に到着。「家族が待ってますから」と半泣きの佐伯に免じて門の中までは入らず道路際で降ろして貰う。その時、腕時計はもう10時20分。

 


 走る姿はギャグマンガさながらでも、媛子は必死だった。思ったよりも市民体育館の外門から建物までの距離が長い。走っても走っても少しも建物が大きくならないことに半泣きになった。

 ――と。

 ふいに。出入り口らしいところから、袴姿の男が出てきた。角刈りの頭に手ぬぐいをかぶっている。彼は大きく伸びをすると軽くストレッチのポーズを取った。

「せっ、先生〜〜〜っ!!」
 全速力で走り続けながらも、お得意の大声で叫ぶ。こちらが大きく手を振ると、遙か視界の向こうにいるその男もハッとしたように振り返った。

「先生……! あのっ、まだ、試合終わってませんか!!」
 ここまで来るのに、もう目が回るほど息が切れていた。でも止まるわけにはいかない。40キロ地点のマラソンランナーの心地で、媛子は最後の力を振り絞っていた。緑色の並木道、頬をくすぐる心地よい風。

 かさかさと音を立てる緑色の銀杏並木。それは媛子を1年前のあの日に舞い戻らせる。そこから始まる記憶たちが走馬燈のように通り過ぎていく。

 

「先生!」

 ようやく、階段の下まで辿り着いた。息を弾ませながら、見上げる。すっきりとした姿に、試合前だと言うことを確認する。良かったよ、ホント。ありがとう、佐伯。きっと今頃、奥さんにどやされているんだろうなあ……可哀想だけど、助かった。

 だけど。

 見上げた人は思いがけず冷たい視線を媛子に向けた。ここに着くまでは、立ち止まって待っていてくれたのに、いきなりくるりときびすを返す。そのまま、すたすたと大きな背中が立ち去っていく。

「せっ、先生……、あの……!?」
 慌てて、コンクリートの階段を駆け上がる。太股の辺りがぴりぴりして、とても痛かった。その足音が聞こえたのだろう、ぴたっと彼は立ち止まる。

「……何だ、今頃」
 振り向きもせずに、そう告げた。何者も寄せ付けないような空気がそこにある。

「もう、時間だ。バタバタと走り回ったりして、試合の邪魔になるな。そんなに慌てて、来ることなんてなかったのに」

「えっ……?」

 媛子は呆然と立ち止まった。どくどくと心臓が波打っている。でも、その苦しさよりも、一の意味不明の態度の方に驚いていた。

 

 ……どうして、先生。私、やっと間に合ったんだよ? 先生の応援に来たんだよ、必死だったんだよ。なのに、何でそんな風に冷たいことをいうの……?

 

「あっ、……あの、これっ――」

 そうだ!! 思い出した。渡したいものがあったんだ。スカートのポケットを探る。手のひらに乗っかるくらいの小さな巾着袋。一は振り向いてくれないから、追い越して前で通せんぼして手渡そうとした。

 しかし。一は先ほどと少しも変わらない険しい顔。媛子をじろりと一瞥すると、吐き捨てるように言った。

「うるさい! こっちは試合前なんだ。だいたい何だ、その子供だましみたいなものは! こんなにギリギリにやって来て、なに訳の分からないことを言ってるんだっ!」

 狭い玄関口に、大きな声が響き渡る。思いがけないひとことに、媛子は固まってしまった。このままいつかのように泣き声を上げて走り去りたいところだが、それでは今までの苦労が無駄になる。最後の勇気を乗せて、さくらんぼ色の唇が開いた。

「あのっ……ごめんなさい。ええと、お守り……せっ、先生が頑張れますようにって、私……」

 料理もあの通りだが、実は針仕事もすごいものだ。人が見れば、象が足で縫ったようなそれも、媛子にとっては何時間も掛けた力作だった。そりゃ、誉められたものじゃないが、こんな風に冷たく言わなくたって。

 それでも、よこせよと言うように手を差し出してくれた。面倒くさそうに受け取るその仕草もとげとげしくて怖い。

 

 ――どうしちゃったの? 先生……。

 呆然とした媛子をそこに残したまま、一は歓声の溢れる場内へと大股で戻っていった。


つづく♪(040213)

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