TopNovelおとめ☆Top>おとめ☆注意報・16

…16…

 

 テニスにサッカー、ソフトボールに卓球。あっちのランニングみたいなのはバスケットボールだろうか?

 開会式が終わった館内は、スポーツの祭典にふさわしく、ありとあらゆる種目の選手たちで溢れかえっていた。まあ、市民の大会だから、いわゆる「同好会」――草野球レベルのチームもあるだろう。あっちのおじさんはブルーの縦縞の格好いいユニフォームを着ているが、おなかがぽっこりと出ているので、黒いベルトがすっかり隠れてしまっている。普段はお肉屋さんの店長だったりするのかも。

 

 媛子はそんな人垣をかき分けながら、必死で目的地を目指した。少し進んでは、どど〜っと押し戻される。一番奥の小体育館までの道のりがとてつもなく遠い。一はあっという間に行ってしまったから、もうその背中はどこにも見えないのだ。ようやく入り口まで辿り着いて、中をそーっと覗く。通路の喧噪が嘘のように、その場所はしーんと静まりかえっていた。

 手前から奥に向かってビニールテープで区切られた三つの四角い場所がある。それが試合を行うスペースになるのだろう。その真ん中の四角の周りには黒山の人だかりが出来ていた。何重にも取り囲んだ人垣で、前列の人たちは座っているんだろうけど、後ろの人は立っている。従って、媛子にとっては色とりどりの背中しか見えない。

 ……試合、始まっちゃったんだろうか?

 もう泣きたかった。かき分けて前に出たいけど、もしも真剣勝負のその瞬間だったら、また叱られてしまう。さっきだって、あんなに……あれ以上、機嫌の悪い一はもう見たくなかった。「そろそろだよな?」なんてひそひそ話の聞こえる周りを未練がましくぐるぐるしながらどうにか隙間を探す。ようやく人の頭と頭の間から、ちらっと中が見える場所を見つけた。

 良かった、まだ、真ん中に人はいない。赤と白の旗を持ったおじさんが3人、うろうろしていた。ひとりはスーツだけどあとのふたりは剣道着を着ている。
 人垣の前列に長い机が置かれていて、そこで何かメモを取っている高校生がいる。記録係なのだろうか。ストップウォッチを持ったひとも。その脇に対戦表を貼るボード。パイプの椅子に座っている偉そうに見える人たちは大会関係者? ……あ、あれは媛子のパパの友達の市議会議長だ。こういうところに出てくる仕事もあるんだな。

 つま先立ちになってぐるんと見渡すと、片隅に正座をしている大きな人の姿がようやく見えた。

 ……いた!

 天井からのライトを浴びて、いつもよりも白っぽく見える肌。おでこがてかてかと光っている。周囲の人が見守る中、彼は手慣れた手つきで面を被った。後ろ手に、紐を結ぶ。こういうのを人に助けて貰わずに自分でやるのが剣道だといつか言っていた。そのあと籠手(こて)を付ける。まず左手、そして右手。左手に竹刀を持つと、すくっと立ち上がった。

「おやや、媛子ちゃん。来たか〜、どうしたんだよ、そんな後ろの方で」
 振り向くと、垂れ(たれ)と胴をつけた格好の男子生徒が立っている。もちろん、その顔には見覚えがあった。

「久我主将っ!」

 あれれ、3年生なのに来てるんだ〜とか思って小さく叫ぶと、彼は人差し指を口元に当てて「しーっ」としてから、小さく笑った。そして「元、主将だけどね」と言う。

「ほらほら、ぐずぐずしてると始まっちゃうよ。さあ、こっちこっち。部員の陣取っているところに案内するから……早く早く」

 彼は媛子の手を取ると、長身には似合わない身のこなしで、ぎゅうぎゅうの人垣をすり抜けていく。媛子は何人もの身体に不可抗力で顔面からぶつかりながら、ようやくぱっと拓けた場所に出た。

「……そろそろ始めます。位置について下さい」

 灰色のスーツを着たおじさんが大声でそう言う。すると右と左、それぞれから、ふたりの剣道剣士が現れた。どちらも紺色の剣道着に黒っぽい袴。でも向かって左手が一だ、すぐに分かる。なんと言っても身体の大きさが二回りくらい違う。剣道は無差別級で、どんな体格の相手とでも対戦する。でも……相手の人もすごい威圧感。素人目で見ても、何とも言えない闘志がにじみ出ている。
 お互いに白いラインから数歩下がったところで立ったまま礼をする。そのあとライン上まで進み出て、身構えた。お相撲さんの「蹲踞(そんきょ)」と似てる。脇に持ってた竹刀を前に構えながら腰を落とす。一瞬のぐらつきもなく、流れるような美しい動きだった。竹刀の先と先が触れ合う。そのかすかな音すらも響き渡るように静かな場内。

 ぴーんと張りつめた空気の緊張を、一番前の列で正座している媛子は体中で感じ取っていた。制服の半袖から出た腕にぴりぴりと感じ取る刺激。一の小さな呼吸の動きまでが、こちらに伝わってくるようだ。

 しましまで、相手の顔なんて見えないと思っていたのに。こうやって下がったところから見ていても、面の中の表情が全て見える。視線の鋭さもきりっと結んだ口元も。

「始めぇ!」

 そのかけ声で、すっと立ち上がる。すごい、重い防具を付けているのに、そんなことは微塵も感じさせないみたいな身軽さだ。竹刀の先をちりちりと合わせながら、ふたりは何かを探り合っている。少し前に出たり、やっぱり下がったり。じりじりとするやりとりだ。
 そのうちに、相手の竹刀がひゅんと動いて、一の面の頭の部分を打った。すすっとこちらも下がったのだが、あちらの動きが一瞬早かった。媛子は自分が打たれたように身体をこわばらせる。そして、一瞬閉じた目を開くと、何事もなかったように試合は続いていた。

「……今の、打たれたんじゃないの?」

 訳が分からなくて小さく呟くと、傍らの久我がくすっと笑った。

「何だぁ? 愛人のくせに、剣道のこと知らないのかよ」
反対隣に座っていたのがクラスメイトの小田巻で、彼が説明してくれる。

「あのな、見ながら聞けよ? 剣道って言うのは四つの決まり手があるんだ。まず『面』な、それから脇腹を打つ『胴』。そして右側の籠手(こて)を打つ『小手』に、首の所に突き込むと『突き』……でも、その場所を打ったからといって、必ず『一本』と言うわけではないんだよ」

 何だか、聞いたことのある言葉が並ぶ。そうなのか、剣道というのは、頭の上をばしばしと打ち込むものだと思っていた。言われてみれば、今目の前で繰り広げられている試合も、そんなに簡単なものじゃない。当たり前のことなんだけど、こちらが打ち込もうと前に出れば、相手はすぐによける。竹刀で防御したり、すり足でささっと下がったり。
 右に左に、前へ後ろへ。とにかく休みなく角度を変え向きを変えて、何かを見ている。……そうか、これが「相手の隙をつく」と言うことなんだ。

 一は普段でも、あの大きな体格の割にフットワークが軽かった。どこから声を掛けてもすぐに振り向く。五感が発達してるなと思った。そう言うのも普段からの修練のたまものなんだろうか。

 ちらっとかいま見れる、相手の人の表情はかなり険しい。あんな顔で睨まれたら、それだけですくんでしまいそうだ。いつ打ち込まれるか分からない、相手はこちらが油断するのを待っている。そんな状況でどうしてこちらから仕掛けていけるのだろう……?

「じ、じゃあ。どうしたら、『決まった』になるの……?」
 そりゃ、そう思うのが当たり前だろう。叩いたから、「決まり」にならないんだったら、仕方ない。

「えっとなあ……場内に紅白の旗を持った人が三人いるだろ? あれが審判なんだよ。それで、彼らのうちのふたりが同じ色の旗を揚げたら『入った』になるんだ。ほら、先生と相手の人の背中、胴の紐のところにたすきがくっついてるだろ? あれが自分の色。もうこれは、感覚的なものなんだよな。気迫とか角度とか――」

「面〜〜〜っ!」
 小田巻の言葉を遮るように、相手の声が響いた。まっすぐに振り下ろされた竹刀が、今度こそ一を直撃している。その瞬間に、さっと三本の赤旗が揚がった。

 おお〜〜〜〜っ! と場内がどよめく。気づくと、試合前の柔道の選手たちまでがこちらを覗きに来ている。みんなが注目している中で、極限の緊張で。もう、媛子は苦しくて仕方なかった。身体の震えが止まらない。息をするのさえ、辛く思えた。

 お互いに姿勢を正して、もう一度竹刀を前であわせる。「始めぇ!」のかけ声が小さく飛んで、またふたりの攻防が始まった。

 息を呑む、一瞬の間合いに何かが起こりそうな気がする。動きは緩やかなのに、なんて気迫が伝わってくるんだろう。打ち込まれそうになったら、もう逃げるしかない。逃げて逃げて、逃げまくるしか。……でも、逃げたままではこちらの勝ちにならない。相手には一本取られているんだ。打ち返さないと勝ち目はない。

 ――でも、怖いよ!

 媛子がこんなに怖いんだから、一はどんなにか激しい緊張を強いられているだろう。大人なんだから、先生なんだから。今まで何度もこんな状況は乗り越えてきたんだろうから、どうにかなるだろうとは思う。だけど、彼は張りつめていた。だから、あんな風に冷たいあしらいをしたのだろう。試合前で気持ちを保つのに必死だった状況に声を掛けてしまったんだ。あの対応は当然だったんだ。

 自分は、一のこと、何も分かっていなかったんだと思う。好きだから、側に行きたいから、だから頑張ってきた。でも……彼にとってそれがどんな風に映っていたのか。ただ、迷惑なだけだったんじゃないか。嫌で嫌で仕方なくて、でも生徒だから、それが言えないだけで。

 必死になっている一を見ていたら、媛子は今までの自分が本当に情けなくなってきた。無理だって気づいたその時に、どうしておしまいにしなかったんだろう。何故、凝りもせずに醜態を晒したりしたんだろう。4月のあの日から、今日までの様々なシーンが脳裏に浮かぶ。目の前では、激しい息づかいのやりとりが続いている。色んなことがごちゃごちゃになって、身体がパンクしそうだ。

 ――と、その時。

 一が一気に前に出た。もちろん、相手はすぐに構える。そして、自分の竹刀を振り下ろしてきた。面を打たれたら、背の高い一は逃げようがない。身体が大きければ、脇の辺りにも隙が出来る。要するに、体格がいいと言うことは剣道には必ずしもプラスにならないのだ。

「胴っ――!」

 打たれるっ、と思った刹那。すっと姿勢を低くした一が相手の脇腹を打った。ぱしーんと小気味のいい音が響き渡る。そのすぐあとに、やはり面を打ち込まれた。そちらの音も、負けず劣らず厳しい。

 媛子は慌てて、審判の手元を見た。多分、今場内にいる人たちが全て注目しているその場所。すっと上がった旗は、赤が一本、白が二本。

「――やったぁ!」
 媛子の周りにいるのは、ほとんどは剣道部員だった。皆が口々に、叫ぶ。思わずガッツポーズを取る生徒もいた。

 息を整えながら、ふたりの剣士は構えに戻る。これで五分五分に戻った。時計はあと1分。今度決めた方が勝ちになる。

「……けど、やっぱ、西高の先生強いな……一先生はちょっときついなあ。今の胴も厳しかったからな」
 その声に思わず振り向いた。腕組みした久我が冷静に分析してる。

 なんて非常識なことを言うのかと一瞬ムッとしたが、すぐに気を取り戻す。

 一と西高の先生と。どちらもこの道ではそれなりに経験を積んだふたりだ。ここにいるたくさんの人たちと同じように、久我もまた、目の前の対戦から何かを学ぼうとしているのだ。この試合は特にその意味合いが強いのだろう。なんて言ったって「模範」なのだから。

「けど……一先生、すごいッス。いつもと全然気迫が違いますよ? ……なんか、燃え上がってるみたいだ」

 小田巻がそれに応えるように言った。普段から一の稽古を見ている彼らが言うことには信憑性がある。媛子はどちらの言葉もただ聞き入れることしか出来なかった。

 ――先生っ! 頑張って……!

 もう、祈りにも似た気持ちだった。一はどんなにか辛いだろう。心臓なんて爆発しそうだったりして。それなのに、荒い呼吸を整えながら、静かに相手の動きを探っている。竹刀を握り直す時に背中が震える。怖いんじゃない、きっと武者震いだ。広くて逞しいその後ろ姿は、今までで一番素敵だと思った。

 男の世界なんだ、と思う。そして、もうひとつ気づく。今、一は自分と戦っているのだと。

 攻めようか逃げようか、その葛藤の中で、かろうじて立っている。ここで逃げるのは簡単だ、ううん、むしろ。最初からこの舞台に立たないと言う選択肢だってあったんだ。大人なんだ、何とでも言い訳が出来るはず。自分が攻め込まれて負ける姿をたくさんの人の前に晒すなんてやっぱ、恥ずかしいし。

「あのな、久我。先生は、恥ずかしがり屋なんだ。出来れば、あんな人通りの多いところでは呼び止めないで欲しいな」

 いつだったか、そう言われたことがある。あれは冗談じゃなかったと思う、一の本心だ。あんなに大きくて逞しいのに、一はいつでも控えめだった。そうだ、それこそが、彼の本当だったんだ。先生だから、時には声を荒げて生徒を叱りつけることもある。でもそれは仕事上のこと。本来の彼は、とても穏やかで寡黙な人だ。

 ――何を、そんなに頑張っているのだろう。

 何も考えないようにしようって、思ったのに。あとからあとから、浮かんでくる。一の怒った顔、はにかんだ笑顔。すごく困ったように顔をしかめながら、それでもしょーがないなと諦めてくれるときの仕草。鼻の先をぽりぽりって人差し指で掻く。

 大好きな、大好きな先生。いつも、どんなときも格好いい。でもっ……今、目の前で頑張っている先生、今までで一番格好いいよ。素敵すぎだよ、最高だよ、先生!

 

 ――広い背中が、一瞬笑ったように見えた。次の瞬間。

 

 すっと、空気が動く。板間を震わせる鋭い踏み足、ふたりの距離がふわりと接近した。

 まるで示し合わせたかのように、お互いの竹刀が同時に空を切る。そして、ほぼ同時に、ばしんとふたつの大きな音が辺りに響き渡った。

 

 場内の壁に反響したその音が消えるまで。誰ひとりとして動く者はなかった。状況を的確に判断できる者などいたのだろうか。

 やがて、主審の腕がすっと上がった。大きなどよめきの中、ふたりはしゃがんで礼をする。竹刀を一度構えて、それから左脇に戻して。相手に一歩遅れて立ち上がっ一が、静かに振り向いた。

 

 目があった、と思った。一の表情がまっすぐにこちらに向いている。ぼんやりと霞んでいく視界。

 くるり彼に背を向けると。媛子はそのまま会場から飛び出していた。

 

***


「……媛!?」
 自分の足音だけが大きく響く通路を、一はひたすらに走った。

 以前にもこんなことがあった気がする。ああ、そうだ。あれは媛子を剣道場で怒鳴りつけたときの。彼女を追いかけたあの時だ。

「媛! ……どこだ!」

 そう遠くには行ってないはずだ。一応、正門に続く道は確認した。媛子の動作は仰々しいから、遠目に見てもすぐ分かる。どこにいても媛子はすぐに視界に飛び込んでくるのだ。きっとその辺にいる。ためらいもなく、玄関のガラス戸を押した。

「うわっ……、あちっ!」

 いきなり外に出て、眩しい日差しに目眩を感じる。気づくと、防具を全て付けたままだった。コンクリートの上に座って、まずは籠手を取る。それから手を頭の後ろに回して面を外した。ひっくり返したその中に籠手を突っ込むと小脇に抱える。手ぬぐいを被った頭は湯気が出るほど熱くなっていた。

 

 試合が終わって。すぐにたくさんの人間に取り囲まれた。皆口々に色んなことを言っている。でも何を言っているのかも良く聞き取れなかった。

 ……だって、媛子が。

 会場にいることは、分かっていた。久我と小田巻の間にちょこんと座って。制服のスカートの上で手をぎゅっと握りしめたまま、こちらを見ていた。だから、試合が終わって、すぐに彼女を振り向いた。その表情が見たかったんだ。

 なのに、彼女は。彼女は突然、ぼろぼろと泣き出したかと思うとこちらに背を向ける。そして、引き留める部員たちの腕を振りほどいて、どこかに行ってしまった。一にとって、それは信じられない出来事だった。

 どうして泣くんだ、いきなり。泣き出す理由なんてないだろう。彼女にあんな顔をさせるようなこと、してない……、ああ、したかも。そりゃ、さっきのはまずかったかも知れない。だけど……だけど、試合は。

 これから少し休んで、すぐに役員としての仕事が待っていた。でも、いてもたってもいられなくて、自分も飛び出していた。媛子に会わなくてはならない、彼女に聞きたいことがある。そして、言いたいことがある……。

 

 乾いた芝生。そこには彼女の痕跡を残すものはない。だが、多分、裏手の方だろう。そう判断して、足を進める。
 屋外の運動場と体育館の建物の間にはたくさんの木が植えられていて、ちょっとした森林公園の趣だった。木々の間をすり抜けながら、媛子の姿を探す。逃げられると、追いかけたくなる。何故だろう、そう言うものなのだろうか。

 緊張が冷めやらない身体は熱く火照っていて、少し動くとだるい。でももう、自分のことなんて構っていられない。媛子を探すんだ、媛子を。

 くらり、と。また足元が揺らぐ。一は大きく肩で息をしながら、傍にあった木につかまった。

「媛……」

 ぼんやりと霞む視界。左右にぶれる並木。その向こうに揺れるポニーテールが映った。


つづく♪(040220)

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