…17…
媛子だ、と言うことを視覚で確認しても、しばらくは声を掛けるのもためらわれた。セーラー服の小さな背中が震えている。こちらに背を向けて、彼女はかくれんぼの鬼みたいに、大きな木にしがみついていた。 「――媛?」 ゆっくりと近づいていく。一の足音に気づいたのだろう。嗚咽を上げていた彼女がゆっくりと振り向いた。 「先生……っ」 「あっ――あ、あの……媛」 また泣かせてしまったのだ。腕を伸ばせば届くほどの距離で、その事実を突きつけられるとやはり言葉に詰まる。蒸し上がった外気のせいだけではない汗が、剣道着の中をゆっくりと流れ落ちていった。 「ごっ、ごめんな。媛……さっきはちょっと言い過ぎた。そんなに泣くほど辛かったか、そうか、悪かった……!」 やっぱり、泣かれると話が進まない。面と向かって聞きたいことがあったはずだ、言いたいことが合ったはずだ。それなのに。 だいたい何をあんなに焦っていたのだろう。媛子は試合を見に来てくれるとは言ったが、そうは言っても彼女にも色々と予定があるはずだ。絶対に、と言うのとはないのだ。だけど、いつまでも会場に現れない媛子にいつか裏切られたような気分になっていた。 ――もう来るわけない、最初からそれだけの存在だったのだ。自分にそう言い聞かせなくてはならなかったあの時の口惜しさ。それは媛子に対する感情ではなかった、自分の媛子に対する期待の大きさが許せなかったのだ。押しつぶされそうな重圧感の中、一は自分で自分に絶望していた。出来ることなら、試合から逃げ出したかった。 必死にこちらに向かって駆け寄ってくる姿を見つけたとき。もうどす黒い渦の中に心が巻き込まれていた。 「先生な、緊張していたんだ。そうだ、先生だって緊張するんだよ! だから、だから……そのっ……」 どうして、いつもみたいに笑ってくれないんだ。予想外の行動をされると、こっちは困ってしまうじゃないか。正直泣きたいのはこっちの方だ。でも、大の大人がおんおんと泣くわけにもいかないし。 「ごめん! ……とにかく、ごめん! だから……もう、泣くな、泣きやんでくれよ……!」 うわああ、もう。どうしたらいいのか分からない。悪いことをしたら謝るというのが、社会の常識だ。だから、必死で頭を下げるしかない。でも思考の片隅で「ごめんで済めば、警察はいらない」などという非情な言葉も過ぎる。うなだれた一の視線の先には、芝の上、木の枝が作った影が落ちていた。
さらさらと耳に届く音。木の葉を揺らす風が、通り過ぎていく。影が左右にかたちを変えていく。歪んで、また元に戻る。
「おっ……怒ってないよ、先生」 長い時間が過ぎた気がした。まだ、涙声だったが、確かに媛子ははっきりと聞き取れる口調でそう言った。 「……え?」 一は顔を上げた。目の前には、涙で頬をべとべとにした媛子がいる。でも、真っ赤に泣きはらした目は、しっかりとこちらを見つめていた。桜色の口元が、ゆっくりと動く。 「悲しかったわけでもないの、辛かったわけでもないの。ただ……先生が、本当に格好良かったんだもん」 「先生、すごく格好良かったよ。何か、もう、ぞくぞくしちゃった。私の大好きな先生は、こんなにすごい人だったんだなって。もう感激して、そしたら……そしたら、涙が溢れて止まらなくなっちゃったの」 「そっ……そうか……!?」 顎がガクガクして、ちゃんと声が出ない。頬もブルブルと震える。目の前の媛子が、にっこりと微笑んだ。それだけで、胸が何かに押しつぶされそうな気がする。 「うん、先生、普通にしていても素敵だけど、やっぱり剣道してる先生が一番いいかも。私、すごく嬉しかった。ありがとう、先生っ」 「あ……そうだ」 「先生っ! 堂々の勝利、おめでとうございます! 素晴らしい試合をありがとうございました!」 ぴょこんとお辞儀をするから、頭の上のポニーテールが逆さまを向く。ところどころ、薄目の茶色の一房が見えるが、彼女の場合は染めているわけではなくて、もともとがこういう色なのだ。まつげの色を見てもそれが分かる。 「先生っ、本当にすごかったよ! 学校の先生なんて辞めて、プロの剣道家になればいいのに! 道場を開いたら、きっと入門志願者がいっぱいきて大変だよ!」 じわわっと、何かがこみ上げてくるのを感じた。よくよく考えたら、剣道だけで生計を立てている人の方が珍しいし、自分にそれだけのものはないのも知っているが、いくら大袈裟でも誉められればやはり嬉しいものだ。媛子に太鼓判を押されると、本当に出来そうな気もしてくる。いや、本気にしては駄目なのだが。
試合を終えたとき、主審の白い旗を目にして、信じられない気分だった。途中までは、勝ちたくて勝ちたくて仕方なかった。そんな気負いから、先に一本取られてしまったのだ。でも……面を着けた上からでも脳髄までしびれる痛みに、ハッと我に返った。自分は何をしているのかと。 勝ち負けにこだわるよりも、とにかく前へ出なくては。ひるんでいるその瞬間に、自分よりも経験のある相手は打ち込んで来るに違いない。何か技を仕掛けようとしても、見抜かれるに決まっている。 まっすぐにまっすぐに前に出よう。そうすればいいのだ、それだけでいいのだ。心がだんだん真っ白になっていって、身体が羽を生やしたように軽く感じた。 ――背中に感じる視線が、後押ししてくれると信じられたから。
しばらくは呆然と甘美な音色に聞き惚れていた一であったが、ハッと我に返る。 「そ、そうか! 俺の方こそ、ありがとうな……、ええと、これっ!」 胸の中に入っていたひよこ色のお守り袋を取り出す。汗でじっとりしていたが、よれよれのそれが光り輝く宝物のように見えた。
あれ以上、話をしたら、一体何を叫ぶか自分でも分からなかった。気持ちのコントロールがきかず、必死に押さえつけている感情が噴き出しそうだったから。差し出されたこれを奪う様に受け取ると、それしか方法が見つからず、媛子から逃げ出していたのだ。 口惜しくて、嬉しかった。嬉しいけど、もどかしかった。待ち続けた時間が、とてつもなく長すぎたから、いきなり現れた彼女にどうやって接したらいいのか分からなかった。もう、全然余裕がなかった。 大股で通路を通り抜けながら、開会式を終えて会場から出てくるたくさんの人とぶつかった。何かの金具に引っかかったのか、向こうずねに鋭い痛みが走り、ようやく正気に戻った。手のひらの中の袋に何か固いものを感じたのもその時だ。 ……一体なんだろう? 想像も付かず、通路の隅っこに身体を寄せると、細い紐を引っ張って解いてみた。
「よくもまあ……こんなものをいままで取っておいたな?」 ゆっくりとそう言いながら見つめると、媛子は少しばつが悪そうに唇をとがらせた。 「だって……もったいなかったんだもんっ。ずっとポケットに入っていたの。だから、入れてみようかなって」 そう言いながら、手渡された袋を上から確認する。そして、え? と言う表情になった。 「先生、――食べたの?」 「ああ……三個一緒に口に入れた」 袋の中から出てきたのは3粒のあめ玉だった。 最初は何だろうと不思議に思ったが、そのうちにああ、と思い当たる。それは、いつか媛子にプリントを綴じる作業を手伝って貰ったときに、お礼代わりに手渡したものだった。半月以上前のものなのに、まだ持っていたのかと驚く。でも……どうしてこんなものを入れたのかその方がもっと不思議だった。 おそるおそる、封を切って口に含んでみる。甘い香りが口の中に広がっていく。まるで、媛子の応援が内側から浸透していくみたいだった。 「甘いものは脳細胞を活性化させるって言うしな。受験の前とかにはいいって聞くが、スポーツの場面だって同じなんだよな。お陰で緊張が少しは取れたよ。ありがとう」 思っていたよりも、ずっと素直に言葉が出てきた。口に残る甘い香りが、一をいつもよりも饒舌にしている。 「そうかぁ――、良かった。……でも」 「失敗しちゃったかな、先生にせっかく貰ったのに。私も……ひとつ、食べたかったな。そしたら、私にも元気が出たかな……?」 「……えっ……?」 いきなりそんなことを言われたら、面食らってしまう。媛子の綺麗なかたちの眉が、少し下を向くから、そのまままた泣き出してしまうのだろうかと不安にもなる。 「そっ、そうだな……悪かったな、一度に三個も食べちまったから。いや、悪かった。そうだよな、媛だって味見がしたかっただろうに――」
その時。 一は自分の血液が全て逆流して頭に昇って来るような感覚を覚えた。
視線が媛子のある一部分に固定される。何しろ小さな目だから、彼女の方からはそれが確認できないかも知れない。だが、一度気にし出すと、こういうのは止まらないのだ。一は今の今までご大層に抱え持っていた面と竹刀を足元に置くと、媛子の寄りかかっている樹の方にゆっくりと近寄った。一歩、二歩……三歩。 「とても、うまかったぞ。特別の味がしたからな――どんなだったか、教えてやろうか?」 左の耳の向こうから、ソフトボールの試合の賑わいが聞こえてくる。ボールを打つ音、歓声。そして審判の叫び声。それがやはり耳に届いているのだろうか? 媛子は自分の上に影を落とすほどに近寄ってくる一を不思議そうに見上げた。 手のひらを近づけると、少し高い体温を感じる。見てるだけでもふっくらしてすべすべして、とても気持ちよさそうな頬。水蜜桃のような肌、というたとえがあるが、若い娘とはこんなにも綺麗なものなのか。いや、こんないい方をすると自分がすごくおじさん臭い気もするが……こうして産毛が見えるくらい遠慮なく近づくと、ようやく心がホッと落ち着く気がした。
――やっと、戻ってきた。 どうしてそんな風に感じたのかは分からない。でも、とにかくその時、一の心はそんな満ち足りた気持ちでいっぱいになっていた。唇が勝手に動く。腹の底に眠っていた感情がふわっと湧く感じで、彼自身には自分が何を口にしたのかもすぐには理解できなかった。
「キスして、いいか? ……媛」 その言葉に反応して。媛子はもうこれ以上見開けないほど大きく開いた目で、呆然と一を見つめた。
***
頬に太い指が触れる。身体が動かない。がちがちになっちゃって、関節ごと凍り付いてしまったみたいに。固まってしまった自分の外側に比べて、思考回路だけはいつもの倍くらいのスピードで回転する。でも、それだけのものを持っても、媛子には一の言葉を理解することが出来なかった。
運転手の佐伯にどうにかここまで連れてきて貰って。やっとのことで、試合にも間に合った。朝、佐伯の服を着込んだ真倉を見たときは、本当に心臓が飛び出すかと思ったが、ギリギリのところでどうにか。 市民の集いの模範試合とは思えないほどの素晴らしい試合を目の当たりにして、嬉しくて、そして口惜しくて仕方なかった。
――先生、もしかして頭を叩かれておかしくなっているのかしら? それとも、この目の前にいるのは、先生の身体を乗っ取った別人なの……? だって、どうして。他の男ならともかく、一の口からこんな言葉が出てくるんだ。正気の沙汰とも思えない。絶対に何か、間違っている。……なのに。 「飴の味、まだ残ってるから……どんなか、媛にも教えてやろう」 そう言って、近づいてくる顔。今までで一番近くで見る一の肌は、毛穴までしっかり見えるから、うわあ、どうしようっ! と言う感じだ。唇の色が、赤やピンクじゃなくて、少しくすんでいる。タバコとか吸わなくても大人の男の人はこんな色なんだ。 「せっ……先生……」 どうしちゃったの、先生! おかしいよ、何がどうなってるの……! いいか、って。一応あれは質問だったんだよね? そうだよねっ!? まだ、いいって言ってない、そんなこと、そんなこと言えないよっ……だって……。
――うわっ……。
柔らかい自分以外のもうひとつの物体が吸い付いてくる。生ぬるくて少し湿っていて、でも表面はカサカサしてる部分もあって。その次の瞬間に、媛子の鼻をくすぐる、イチゴの香り……。 くっついて、離れる。その時間は多分、ほんの一瞬だったんだと思う。でも……媛子にはそれが、永遠にも感じられる気がした。心臓の音が、頭の中まで反響する。 もちろん、初めての経験だ。口では何だかんだときわどいことを言ってきたが、そんなのは知識としてのことで。婚約者の真倉だって、まだそこまでは許していない。いや、向こうはそのつもりはあったのかも知れないが、正直媛子は嫌だった。きっと、あの男の唇はプラスチックみたいな味がするんだって、思ってた。
「ひっ、媛……!」 自分の周りを取り囲んでる熱い物体が、少し揺らぐ。唇を解放させても、とても見上げて顔なんてのぞけない。胸が痛くて、苦しくて、立っていられないほど震えていた。 でも。その次に耳に届いた言葉は、もっと信じられないもので。 「媛……、だっ、抱きしめて、いいか……!?」 いいか、って聞いてるけど。こっちの答えなんて待ってないのはさっきと同じ。 もう次の瞬間には、身体が包まれて、圧迫されていた。それは、いつかの雨の日、不可抗力で閉じこめられたあの一室での抱擁とは比べものにならないほど強くて、息苦しいほどだった。 媛子を腕の中にしっかりと包み込むと、一はようやく「はあっ」と安堵の息を漏らした。
――先生、どうしちゃったんだろう。やっぱり、変だよぉ……!
とんでもないことが起こっているのを頭では冷静に理解しつつ、感情が付いていかない。こんな風に、自分から何かしてくれる一を媛子は想像したことがなかった。「好き」と言う感情はしっかりと持ち合わせていても、それはふわふわと実態のない、綿菓子みたいな存在で、こんな風に生々しくまとわりついてくるものではなかった。 媛子にとって「恋愛」とはそれくらいの認識でしか捉えられていなかったのだ。 「うっ……媛……!」 一本の丸太ん棒のようにがちがちになっている身体をしっかりと捉えている腕が、ぎゅーっと強さを増す。やだ、もうこれ以上締め付けられたら、息が出来なくなっちゃう……と思った刹那。
「えっ……、あっ、あのっ……先生!?」 媛子を覆っていた壁が瞬時に崩れていく。頬に戻るひんやりと心地よい風。ハッとして、確かめる。
視線の先。一が媛子の足元にぐったりとうずくまっていた。
つづく♪(040227)
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