TopNovelおとめ☆Top>おとめ☆注意報・18

…18…

 

 瞼を開くと。視界は真っ暗だった。

 墨で塗りつぶしたように真っ黒な空間。でも次第に目が慣れてくると、そこが当たり前の自分の部屋だと言うことに気づいた。天井からぶら下がったライトの紐の先が、緑色の蛍光塗料色に輝いてる。

「……う……」
 とにかくは起きあがってみる。ええと……何がどうしたんだろうか。記憶が飛んでいる。確か、さっきまでは昼間で。昼間で……!?

「うっ、うわっ……!?」

 思わずのけぞってしまった。上体を起こして伸ばした手のひらが、何かに触れたのだ。むにゅっと、なにやらものすごく柔らかいものに――!

 ばしばしばしっ、ばしっ!!

 灯りを付けようとして、勢い余ってもう一度真っ暗にしてしまって、慌ててもう一度。愕然とする一の指の先、制服姿のままの媛子がむっくりと起きあがった。

「う〜っ! よく寝たー……」
 裾からへそが覗くくらい大きく伸びをして、それからぐしぐしと目をこすってる。布団に直接突っ伏していたんだろう。ワッフルのタオルケットの模様が頬にくっきり付いていた。

「あ、先生。起きたんだね、具合どう? どこか痛いところある?」
 まだ半分寝ぼけているのか、その言葉はちょっとぼんやりしてる。ずるずるっとまた身体が前のめりになって、目がだんだん細くなっていく。

 

 ――何なんだ、これ。何が何で、どうなっているんだ……!?

 

「うわっ、媛っ……! 寝るな、寝ると死ぬぞ! おいっ、ちょっと待て! 起きろ、起きるんだ……!」

 一瞬の間合いを置いて、これは大変だと気づく。何がどうして、媛子が自分の部屋にいるんだ? そして劇場の舞台が回転するように、あっという間に夜になってるんだ!?

「むきゅ〜〜〜っ……?」

 媛子は言葉にならない呻きを上げながらも、どうにか今度はしっかりと目を開けてくれた。ああ、助かった、このままどうしようかと思ったぞ。

 それでもまだ状況が掴めず呆然とする一に、媛子はいつものようににっこりと微笑んだ。

「先生〜、おなか空いたでしょ? すぐにご飯にするからね」

 ――おっ、おいっ! 今はそんな場面じゃないだろう……とか思ったが。一の腹の虫がグーと鳴って媛子に答えた。

 

***


「うっ、上手い! 上手いぞ、媛っ!」

 15分後。ホカホカと湯気を立てる食事に舌鼓を打っている一がいた。よく考えたら、朝も満足に食べてない。実は緊張のあまり、喉を通らなかったのだ。そんな状況で「これが日本の晩ご飯」みたいな料理を目の前にしてみたら、もうこれは頂くしかないだろう。

「えっ、へっへっ。おかわりだっていっぱいありますよ。何しろ新潟魚沼産のこしひかりを精米してすぐ炊いたんだから。絶対に美味しいご飯なんですよ〜!」

 相変わらず学校にいるのと同じ制服姿の媛子。でもその上に「新婚さん仕様」のレースふりふりのエプロンを付けている。はっきり言って、異様な光景だ。異様だから、どうにかしなくてはいけないと思うのに、ほとばしる食欲が邪魔をする。

 ああ、この鯖の味噌煮の美味しいこと……! 五目豆もしっかりと味が付いていてうまいぞ。切り昆布の煮付けもあっさり味だが、素材の風味が良く出ている。ほうれん草の海苔和えも捨てがたい。そして、こっちは豚の角煮か……、これはうまいっ、うますぎるぞ! 豆腐となめことわかめのみそ汁は、実は一の一番好きな組み合わせだった。

 媛子がここまで運んでくれたので、病人のようにベッドの上での食事だ。サイドテーブルに乗せられた盆の上の皿はあっという間に全部空になっていった。もうこれ以上は入らないぞ、と言うほど隙間なく満腹になって、そしてようやく一の箸が止まる。

 

 飯を食べられる、と思った瞬間に思考が止まってしまった。だが脳細胞は満腹中枢を刺激されて、ようやく再稼働する。

 おいおい、どうしてこんな風になってるんだ。自分にとってはただの一生徒であるはずの媛子が自分の下宿の部屋で晩飯を作っていて、それを食べている自分がいるんだ。どう考えたって、これはおかしい。と言うか、一歩間違えば、県の教育委員会で処罰の対象になりうるんじゃないか……!?

 やばいぞ、これは下手をしたら懲戒免職。田舎の両親にもどうやって説明したらいいんだ〜!!

 

「あの、媛? つかぬことを聞くが、どうしてお前がここにいるんだ?」

 いくら考えてもこの状況に自分で納得がいかず、とうとう訊ねていた。媛子はきょろんと目を見開いて、焦げ茶色の瞳で一を見つめる。その表情も可愛いなとか思ってしまう自分が怖い。あああ、どうなっているんだ、一体!?

「え〜っ、だって、私は先生のお嫁さんでしょ? 今更、そんなこと聞かないでよ、泣いちゃうよっ……!」

 ――はっ? はぁ……!?

 何なんだ、何を言い出すんだ! そんなはずはないだろう、そんなはずは……! 媛子には確かちゃんと婚約者がいて、……そりゃ、高校生で婚約ということ自体も普通じゃないが、確かにそうだったはず!

 それに、それに……「お嫁さん」ってなんだよ! 自分は何もしてない……! 断じて、何もしてないぞ、――多分。

「ひっ、媛……、おい……!」

 箸と茶碗を両手に持ったまま、がばっと前のめりになる。すると、今まで神妙な顔つきでこちらをうかがていた媛子が、にぱーっと笑った。

「えっへっへっ、引っかかった〜っ! 先生可愛い〜っ! ほっぺが真っ赤だよっ!」

 お盆、片づけてくるね〜と立ち上がった彼女の背中を呆然と見守る。か、可愛いって……おいおい、誰に向かって言ってるんだよ、お前は! それに、ほっぺが赤いってそれは……。

 じっとり汗ばんだ頬を指で辿ると、そこにはいつ付いたのかご飯粒がひとつ、くっついていた。

 

***


「先生ね、市民体育館の裏の林で倒れちゃったの。もう、びっくりしちゃった。身体を触ったら、しゅうううっと蒸気が出るくらい熱いし。自家発電する特殊人間になっちゃったのかと思って、驚いたわ〜っ!」

 目の前には食後のお茶と、何故か口直しの和菓子。これがまた宮内庁御用達の和菓子屋で特注したものだといい、めちゃくちゃ美味しい。ほんのりとした甘さが舌に乗ると柔らかく溶けていく。良質の砂糖は少しもしつこくないのだ、それでいてコクがある。まん丸いひよこを平べったい楊枝でつつきながら、媛子の「説明」を聞いた。自分が危惧していたような大事は全くなく、それは至ってシンプルであったのだが。

 ようするに。

 あのまま、自分は気を失ってしまったらしい。身体が火を吹くくらい熱くなっていて、慌てて救護係の先生を呼んだが、どうも極度の緊張による一種の「知恵熱」みたいなものだろうと診断が付く。
 しばらく医務室で横になっても良かったが、何しろ今日は市民体育祭。出来れば急患のための場所を確保しておきたい。それで、一は一番大切な試合は終わったのだし、剣道部は第二顧問と元主将の久我がどうにか出来るから、もう今日は無理をせずに帰宅して貰おうと言うことになった。

「ええとね〜化学の生島先生が丁度来ていてね、どうもテニス部の引率か何かだったらしいんだけど。それで、一緒に送ってくれたの。私はどうしようかなって思ったら、校長先生が」

 ――は? 校長っ!? そ、そう言えば、試合会場にその姿があった気がする。でも、そこにどうして校長が出てくるんだ……!?

 ついでに。多分、ほとんどの方はお忘れになっているだろうから、補足。「生島先生」とはオリエンテーリングの時に出てきた、何故かミョーにきみこと仲のいい1年A組の担任。

「『久我さん、心配なら付いていてあげなさい』って、仰るのよ。ほらほら、乗って乗って〜ってタクシーに押し込まれたから、気が付いたらここに来ていたわ。一応、着替えとかは生島先生がやってくれたんだけど、君は先生が気が付くまでいてあげなさいって。だから、待っていたんだけど、先生、いつになっても起きないし〜それで晩ご飯とか作ったんだけど、それでもまだだし〜。なんか私も疲れてたから、一緒に寝ちゃったの。そしたら、夜だった」

 いや、それは。ヘラヘラ笑いながら言うような事じゃないぞ!? だいたいな〜若い男の部屋に何の抵抗もなく上がり込むなんて、お前やばいぞ! うわ〜、もう9時半じゃないか! 悠長に食事なんてしていたら……!

「おっ、おいっ……! 分かった、分かったから、もう帰れ! お前、お抱え運転手がいたんだろ、その人に電話して――」

 やばいやばい! この状況はやばすぎる! なんと媛子が自分の部屋まで来たことが校長までに知れ渡っているとは、後でどうなるか分かったもんじゃない。何もなくても、何かあるように思われるのがこの業界。公務員の不祥事にはマスコミも飛びつくんだぞ! 警官と教師は特にやばいんだ!

「……えっとねえ〜」
 媛子はぱくりと和菓子を口にすると、のほほんとした口調で言う。お皿を床に置くと、そのまま窓際のカーテンの所まで歩いていって。

「実はお昼過ぎから、いきなりものすごーい豪雨になってね、ここの地区。今は小康状態なんだけど、これからまた降るんだって。でね〜私の家からここに来るまでの間に大きな河があるでしょ? あそこが増水して道路が通行止めになっちゃったの……私、帰れなくなっちゃった」

「は……はぁ……!?」

 媛子がカーテンを開けると。今また降り出した雨が、ばらばらと硝子に打ち付けられている。確かに今までの空梅雨を忘れるようなすごい降りだ。

「きみちゃんちが近くにあるから、泊めて貰おうと思って、家にはそう連絡したんだけど。どうも、彼女はお祖母ちゃんとふたりで法事に出かけて留守みたいで……どうしよう」

「ど、どうしようって……! おいおい、媛っ! 何言ってるんだよ、お前は!!」

 

 ――その時、部屋の電話が鳴り響いた。子機を手にして耳に近づけると、そこからしてきた声は……。

「ほーっ、ほっほっほっ……! これは、権藤嶺先生! 本日は素晴らしい試合をありがとう。私も校長仲間に鼻が高くて、高くて……ところでお加減は如何かな」

 ――校長っ! なんと言うことだ、なんというタイミングだっ! ここで媛子が部屋にいることがばれたら、自分は一体どうしたらいいんだっ。

 水色の水玉模様のパジャマの下、ぬるい汗が流れていく。この少女趣味なデザインは、就職が決まったときに母親が揃えてくれたものだが、身に付けるのも恥ずかしいのでタンスの奥にしまっておいたんだ。どうしてこんなものをわざわざ探し出したんだ。

 あ、いえ。もう大丈夫です、とか何とか必死で取り繕う。校長はそれならいいんですよと、また高笑いをした。

「それでですねえ〜実はこうして電話をしたのは他でもありません。先生の下宿のある地域は今浸水騒ぎになっていて、住民はみんな近くの公民館に避難してるんですよ。でも先生の姿がないからどうしたのかと下宿の大家さんから私の所に連絡がありましてね〜いやあ、まだそちらにいらっしゃったんですね。そうですか〜」

 おいおい、待て。そんな風に明るく言う話じゃないだろう! 突っ込みたいのに、饒舌な校長はこちらに口を挟む暇を与えてくれない。

「まあ、そこは二階ですしね。きっと水が入ることはないと思いますから! とにかく、無事を祈っておりますよ。いや〜っ、はっはっはっ……」

 話を聞いていた媛子が、窓から外を覗き込んで、うわあ、本当だ〜ってジェスチャーしてる。おいおい、嘘だろ! どうしてこんなギャグ漫画のような出来事が次から次へと起こるんだ!?

「権藤嶺先生は頑丈な方ですから、まあ一眠りすれば朝が来るでしょう。平気ですよ、平気! ――あ、でも……」

 調子っぱずれな励ましが続いた後、校長は急に声を低くした。何事かと思って耳を澄ませる。何しろ外の雨音で電波が遠いのだ。先ほどの媛子の話だと、もう携帯の電波はぶちぶち途切れて繋がらないそうだ。

「もしも……ですけど。先生がこの雨の中、行き場のない子猫ちゃんを拾ってしまったとしたら、それは一晩ちゃんと置いてあげた方がいいですねぇ……」

「――はぁ……?」

 一体何を言い出すんだ。何なんだよ、それって。一がぼんやりと聞き返すと、耳元でちりちりと金属音がした。

「で……権藤嶺先生っ……、……、……、――」

 

「――先生、どうしたの?」
 媛子がぽややんと訊ねてくる。一は黙ったまま、うんともすんとも言わなくなった子機をサイドテーブルに戻した。

「電話が、切れた。もしかすると風で電話線が切断されたのかもしれん――困ったなあ……これは」

 口の中でごにょごにょと言っていると、媛子が不思議そうにこちらの顔を覗き込んできた。嵐の夜に浸水してきた場所に取り残されて。この先どうしようと思っているのに。何故、緊張感がないんだ、こいつはっ!?

「どうして〜、いいじゃない、朝まで待てば。その頃には水も引くかもよ? そしたら、私も帰れるし〜今夜はこのまま新婚さんごっこしようよ、先生っ!」

「えっ……、ええっ……!?」

 一はばばんと後ろに下がって、背中を思い切りベッドのヘッドの部分に打ち付けていた。なっ、何を考えてるんだ、このお天気娘が! じっ、自分の言ってることが分かってるのか。しっ、新婚さんって何だよっ、それは!!

「だっ、駄目だ!! 断じて良くない! わっ、分かった――おっ、俺はこれからトイレか風呂場に籠もるぞ! 朝まで出てこないからな! 冗談じゃないぞ、おいっ!!」

 口をぱくぱくして泡を飛ばしながらまくし立てると、視線の先の媛子は不思議そうな顔のまま、ゆっくりと小首をかしげた。だ〜、か〜、ら〜っ! この緊急事態に、そんな可愛い表情をするんじゃない! 馬鹿か、お前は!?

「え〜、どうして? 先生、なにをそんなに慌ててるの?」

 一の心の叫びもむなしく、媛子の態度は変わらない。きょろきょろとした目で、ゆっくりと一の輪郭を辿っていく。きっと水玉のパジャマも視界に入ってるんだ。それはとても惨めだ。

「だってぇ、……先生は商品には手を出さないんでしょ? ならいいじゃない。そういう自信があるんだもん。それに、生島先生も言っていたよ。いくら精力全開の健康な成人男性だって、病には勝てませんよって。今日は先生がどんなにその気になっても襲いかかるだけのパワーはないから安心しなさいって」

「え……、あ……、……はぁ」

 気の抜けた風船のような情けない声を出して。一はタオルケットを持って動き出そうとした身体を元通り布団に戻してしまった。

 

 そうか、よくよく考えたらそうじゃないか。そうだよ、ここにいるのは自分の担任クラスの一生徒。この緊急事態でこういう状況に置かれたが、だからといってなんだと言うんだ。この娘とふたりきりの部屋にいるのはこれが初めてじゃない。たいしたことじゃないんだ、こんなの。

 なっ、何をそんなに焦っていたんだ、自分。まったく馬鹿らしい。こんな風に媛子に真面目にレクチャーされるなんて、情けないったらない。

 

「そっ、そうだよな! はっはっはっ……媛の言う通りだ!」

 そう言って、湯飲みに残っていたお茶をがぶ飲みした。喉がカラカラに乾燥していたので、しみてひりひりする。多分、このお茶もすごい高級品をいれてくれたのだろうが、今の一には味わうゆとりもなかった。何度も深呼吸して、気持ちを整える。そうだ、何てことないんだ。そうだ、そうだ。

 自分がだんだん「教師・権藤嶺一」に戻ってきた気がする。大丈夫だ、とりあえず、朝まで。このテンションを保つのだ。

「そっ、そこの押入の左側に、客用の布団が入ってるから出しなさい。長いこと入れっぱなしだから、多少かびくさいかも知れんが、まあそこは緊急事態だしな! そっ、それから……ええと」

 

 ――がたん! がたがたがた、がん……!!

 その時。建物全体が揺れるような、大きな地鳴りを感じた。何だ何だ、何がどうなっているんだ……!? そう思った刹那――。

 驚いて振り向いた媛子の姿が、ふっと闇に消える。

 

 そう。……一瞬にして、真っ暗闇。さらに信じられない現実が、ふたりの上に降りかかっていた。


つづく♪(040305)

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