TopNovelおとめ☆Top>おとめ☆注意報・20

…20…

 

 鼓膜の手前で、媛子の言葉が揺れている。何なんだ、今、とんでもないことを言われなかったか?

 多分、今自分は驚いた顔をしている。口なんか半開きになっている。そして……途方に暮れて見つめる先に、まあるい瞳があった。ふたつ並んだ輝きが、まっすぐにこちらを見つめている。

「……え……?」

 

 どういうことだ、前後の話が繋がらないじゃないか。

 以前自分の方から、「もう弁当は受け取らない」と言い放ったことはあった。そうだ、媛子が弁当作りに夢中になりすぎて学業をおろそかにしたときに。だが、あれはもう解禁したはずだ。この連休が明けたら、また毎朝弁当が届くものだと思っていた。

 

 ぼんやりと視線を泳がす一に、媛子はにっこりと微笑みかける。少しベッドに近寄って、マットレスの隅っこに頬を押しつけた。

「先生、知らなかったでしょう? ……私ね、昨日で学校やめたんだ。――あ、ううん。正確には転校、ポピーの高等科に戻るの。最初から決まっていたんだ」

「えっ、――えええっ!?」

 

 ――ちょっと待て。いくら何でもそれはないだろう。

 自分はクラス担任なのだ、そんな重要なことを知らされていない訳がない。だいたい、何が何でこんな中途半端な時期に転校なんてするんだ。親の転勤とかならともかく、媛子の転入先は隣の敷地に立っている学校。こんなの嘘に決まっている。

 

「なっ、何だ。そんなことあるはずないじゃないか。馬鹿だなあ、媛。どうしたんだ下手な冗談言って。寝ぼけているのか、おい?」

 わははははっ、と声を立てて笑おうと思った。だけど……出来なかった。だって、こちらを見つめたままの媛子の瞳はとてもからかっているようには見えなかったから。何かを思い詰めたような、途方もない色をしてる。だけど……どうして。そんな馬鹿な話があるものか。

「……だって」
 白いシーツの上に、媛子はふううっと息を吐いた。波打ったシワの上、銀色の影が少しだけかたちを変える。

「今の高校、公立なんだもん。融通が利かないの、だから駄目」

 

 ――はあ……?

 ちょっと待て。おい、どういうことだ。もしかして、いきなり芸能人になるとか言うんじゃないだろうな? いや、媛子の場合はお笑いタレントの方が似合っているか。まあ、この際それはどうでもいい。公立高校にいられなくなるヤバイ理由なんて、そんなにあるわけないし――。

 

「なっ、何なんだ。いきなり何を言い出すんだよ、媛。何か心配事があるなら、まずは担任である俺に言ってくれればいいんだ。出来る限りの相談には乗るぞ、だから早まるな。頑張って頑張って、やっと入った高校なんだろ!?」

 冗談だと笑い飛ばしたいのに、どう見てもそう言う状況なのに。このいつもとはうってかわってシリアスになってしまった媛子は何なんだ。「うそぴょ〜〜〜んっ!」とか、カラカラ笑い出さないのか。ちょっと間合いが長すぎるぞ。お笑いタレントとしては失格だぞ……!!

「う〜ん、でもね。もう目標はだいたい達成したし。いいんだよ、うん。先生とはこうして仲良くできたし、最後は新婚さんごっこまでしちゃって。もういいんだ、十分だもんっ!」

 

 ――待て。……ちょっと待て!?

 何が十分だというのだ。何も十分ではないぞ。高校生活を2ヶ月半しかやってない新米が分かったような口を聞くな。これから先が、高校生活の醍醐味なんだぞ……!

 一は混乱していた。混乱しすぎて、思考回路がちょっと破綻したかも知れない。気が付いたら、こんな風に口走っていた。

「あ、あのなあ、媛! これから夏休みになる、夏休みにはクラス合宿があるんだぞ。みんなで学校の合宿場に泊まるんだ。楽しいんだぞ、本当に! そして、秋には文化祭に体育祭。学校独自の企画として、ウォーキングラリーもあるんだ。冬だって……なあ、十分なんてそんなことはないんだ。まだ始まったばかりじゃないか、クラスのみんなで一緒に高校生活を楽しみたいとは思わないのか……?」

 必死に説得する自分が、登校拒否の生徒の自宅まで赴き説得したときの姿と重なっていく。全く、何を言い出すんだ。まだ高校生活は序盤じゃないか、俺だって……これからのことを色々考えていたんだからな。転校なんて、そんな馬鹿言い出すんじゃない!

「なっ、何か心配事でもあるのか? ……そうか、一番良くあるのはいじめか。もしや、お前クラスでみんなから……」

 ――いや、それはない。それはないだろう。確かにちょっと存在が浮いている気はしたが、どこかずれてる媛子のお陰で、一の担任クラスは学年でも結束の固く良好な状態になっている。過信は禁物だが、まあ「いじめ」なんて状況は99.9%ないだろうと断言できる。

 今、媛子がいなくなってみろ。みんなが悲しむぞ。お前がいない学校なんて、楽しくないじゃないか。それに……それに、俺自身も。そうだ、自分が何よりも寂しい。媛子は高校に行けば会えるものだと思っていたから。そうでなくなるなんて、考えも付かない。

 まさか、まさか。教師と生徒でいるうちは恋愛対象として見られないと言ったから、それで愛想を尽かしたのか!?

 いや、だからといって、おしまいじゃないだろう。今は確かにそうかもしれない。だが、これから徐々に……徐々に積み重ねていくものがあるはずだ。人間関係は何も「恋愛」だけがかたちじゃない。「師弟愛」とか言う美しい言葉も世の中にはあるじゃないか。

「媛……」

 馬鹿野郎、すぐに冗談だと言うんだ。あのな、こんな緊迫した場面で言うと、妙にリアルに聞こえるじゃないか。外は相変わらず激しい豪雨。まるでこの世に取り残されたたったふたりと錯覚するような状況で、何を言い出すんだよ。本当にいなくなるみたいに思えて来るじゃないか……!

 

「――先生?」
 身を起こして背中を伸ばした媛子が、きょとんとした顔でこちらを見る。一が驚いたりうろたえたりしているのが、とても不思議だと言うように。そして、当たり前のように言う。

「あのね、先生。今度の日曜日ね、私誕生日なの」

「え……、あ。そうか、そうだったな。それは……おめでとう」
 一応、名簿はチェックしている。ちょっと子供じみているとは思うが、朝のHRの時に、その日が誕生日の生徒に一声掛けることにしてるのだ。だから、6月分もチェック済み。媛子の分は翌日の月曜に振り替えるつもりでいた。

 でも、何でいきなり。誕生日と転校は関係ない。やはり、からかわれているのだろうか。

「私ね、16歳になるの。だから……結婚するんだ」

「そうか、それは……じゃない! ――何だっ、それは!!」

 

 ――ちょっと待て。

 何だ、そのおかしな冗談は。冗談にしても間が抜けている。人をからかうならもうちょっとマシなことを考えろと言うんだ。そう……思うのに。それなのに。

 

 媛子は笑わない。ただ、ぼんやりとした目でこちらを見ている。何十回も何百回も辿ったことを繰り返すように。それが当然だと言わんばかりに。

「嘘じゃないよ、満16歳になったらね、保護者の同意があれば結婚できるんだもん。久我の家の女の子はみんな16になったら結婚するんだよ?」

「……え?」

 何だそれは、時代錯誤な。――あ、いや、現代の法律にはのっとっているのだが、やはり変だ。

「私はお兄ちゃんがふたりだし、パパも男の兄弟だけだったから、ウチからお嫁さんが出るのは久々なんだよね〜みんなウキウキしてるよ? お手伝いさんなんか踊ってる。だから、もう明日からはその準備で大変なの」

 そこまで言って、ようやく媛子の顔に少しだけ明るさが戻ってきた。口元がわずかにほころぶ。でも、それにつられてこちらまで気分が浮上することはなかった。

 

 ……だって。

 媛子に婚約者がいるとは聞いたけど、こんなにすぐに結婚するなんて思ってなかったし。しかも高校生だろう、どうして勉学に励む身分にありながら、そんな。どう見ても非現実的だ。

 

「ばっ……馬鹿! よく考えてみろ、なに馬鹿なことを言うんだ!」

 まあ、いつでもどこかぶっ飛んでるおかしな奴だと思っていた。だから、普通の人間とはどこか違う思考回路を持っていても不思議じゃない。そもそも媛子のやることを理解しようとする方が無理というものだ。

 ――だが、しかし。

 少し考えてみれば分かるだろうが! どう考えたって尋常じゃない。この平成の世にいきなり政略結婚なんて、馬鹿らしいとは思わないのか。そりゃ、お家の事情だってあるだろうが、政治家までやっている大会社の家で、どうしてこんなことが行われているんだ。知らないぞ! 聞いてないぞ……!

 

「そ、そうだ! 夏休みにクラスで海に行こうなんて話も出ていたじゃないか!? みんなでな、電車に乗っていくんだぞ。民宿に一泊とかするんだぞ、きっと楽しいぞ。行かないと絶対後悔するからな!」

 まあ、全員参加にはならないと思っているが、そう言うことがあれば媛子は必ず参加すると信じていた。自分は教師の立場で引率することになるんだが、それでも……海だぞ。まさか保健体育の授業じゃあるまいし、競泳用の水着と言うことはないだろう。……とか、実は思考を巡らしていた。

 浜辺でビーチバレーをしたり、波打ち際で貝を拾ったり。浮き輪で波乗りしたり……子供じみているとは思うが、楽しみにしていた。きっと……媛子が一緒にいるんだと思っていた。そうに決まっていると。

「だいたいな〜、少し考えたら分かるだろう!? おかしいじゃないか、16やそこらで自分の一生の伴侶を決めるなんて。お前、言ったじゃないか。婚約者にときめかないって。そんな相手と結婚したら、絶対に破綻するぞ。上手く行くはずないだろう、やっぱりな、きちんと惚れた相手とだな――」

 

 何を大演説してるんだ。大嵐の音をバックに。しかも停電中の室内で。

 だが、言わずにはいられなかった。目の前の女子生徒の曲がった思考をどうにかしたい。……いや、どうにかなるはずだ。だって、間違ってるのは彼女の方なのだから。親は家族は何を考えているんだ。せっかく合格した高校じゃないか。どうして通わせて卒業まで待てないんだ。全く理解できない。

 

「……先生?」

 声を掛けられて、ハッと我に返る。媛子が相変わらずぼんやりとこちらを見ていた。今までの自分の必死の説得など、彼女には右から左に抜けていってしまったようで。何も……変化などない。

「そんなこと言ってもね、これは久我の家のために避けて通れないことなの。きちんと16の誕生日に嫁がないと、とんでもない災いが起こるのよ。ずーっとそうだったんだから」

「は……?」

 

 一はさらに混乱した。なっ、何を言い出すんだ。今は何の時代だ、科学技術が進歩して無人探査機が火星に着陸するんだぞ。月には宇宙ステーションとかも建設されるとかされないとか。かぐや姫だって、一寸法師だって作り話なんだからな。そんな世の中に……何だその「災い」とかいうのはっ!?

 陰陽師の時代の「物の怪」とかじゃないんだぞっ!

 

「ひ、媛? あのな、冗談だろ。そんな話を本気にしてるのか。あのな、そんなわけないんだぞ、あるわけないことに怯えるなんておかしいじゃないか。馬鹿らしい迷信なんかのために、お前がどうして」

 ああ、嘘だと言ってくれ。冗談だったと笑ってくれ。そうじゃないと、どうしていいのか分からない。何で平然とこんな時代錯誤な発言をするんだ。お前、いくら何でもおかしいぞ。

「嘘じゃないもん」

 それなのに、媛子は。くりくりっとした瞳を動かしながら、はっきりと言った。

「お祖父様の一番下の妹……ええとつまり私の大叔母に当たる人がね、禁を破ったんですって。ちゃんと婚約者がいたのに、他の人と駆け落ちしちゃったの。そしたら、久我の家は大変なことになって、先代は二期続けて選挙に敗北するし、家業も傾いて破産寸前まで行ったそうよ。先生はよその人間だから知らないでしょうけど。今から30数年前のことだから、地元に昔から住んでる人はみんな知ってるよ。
 私も当時の大変さは、ちっちゃい頃から使用人のみんなからいっぱい聞かされたわ。あのお祖父様ですら、それを恐れて私に婚約者をあてがったんだもん。まあ、そうでしょ。「16歳までにえっちすればいい」ならまだしも、それだけじゃあ駄目できちんと結婚しなくちゃならないなんて。イマドキそんなこと強行するには、前もってきちんとしかるべき婚約者でも探さなくちゃ駄目だもん」

 ――こんな、こんな馬鹿らしいこと信じてしまえるわけはない。でも、媛子の話を聞いているうちに不思議なほど納得している自分がいた。何故だかは分からない、でも何かの力に導かれている。これで媛子がこの数日元気がなかったのも納得がいく。

 

「だから……ごめんね、先生」
 媛子がまっすぐにこちらを見て、揺れる瞳でそう言った。

「学校、変わっちゃうし。きっと色々と状況も変わるしね、……人妻になっちゃったら、もうお弁当は駄目だよね、普通」

 

 ふうっと、また溜息をつく。媛子はベッドの端に一度顔を埋めた後、少し角度を変えて一の顔を見上げた。

「あのね、先生。私、とっても楽しかった。努力すれば、こんなに素敵な毎日が待ってるんだって分かって、本当に嬉しかったよ。今まで、フェンス越しにしか見られなかった先生とお話しして、名前を呼んで貰って、そのたびにドキドキして。全然脈なしだって分かってたのに、それでも諦めきれなかったの。先生の傍にいたかったの……色々迷惑かけて、ごめんなさい。でも、楽しかったから、ありがとう」

「……媛……」

 かろうじてかすれる声でそう告げた。だがその先の言葉が喉の奥に引っかかって出てこない。何と言ってたところでどうなるものでもない。無理に笑顔を作ろうとする媛子が痛々しくてならないが、それを止める術も思いつかなくて。

 

 ――手のひらで、そっと髪に触れた。くるくるとカールした茶色っぽいそれが絹の糸のように柔らかい。自分と比較しても仕方ないが、どこもかしこも小さめに出来ている。こんなに壊れやすい存在だったのだと改めて気づく。

 

「えへへ、私ね。やっぱり先生のこと、大好きだから。きっと転校しても先生のファンクラブの会長は辞めないんだ。会員番号1番は永久欠番だから、忘れないでね。他の人にあげちゃ駄目だよ……?」

 そんな目で、見るな。胸が苦しくなるだろう。そう告げたいのに、唇が動かない。だのに、一の視線を感じた媛子がまた淡く微笑む。

「先生を好きになるのは簡単だったけど、忘れるのはとっても難しそうだね。私、先生に会いたくなったら、きっと学校まで覗きに行っちゃうと思う。中には入らないけど、剣道場の近くのフェンスの外側から、先生の声を聞いてるんだ。……偶然、剣道着姿の先生が中から出てきたりしたら、嬉しいだろうな」
 一度、言葉が途切れる。少し、視線を落として媛子は続けた。

「でもねぇ……私はもう人妻だから、先生を見つけても大きな声で叫んだりしないから安心してね。もしも……先生と目があったら、一生懸命訴えるから、『大好きっ!』って眼力で。そしたら……先生も何にも言わないで。でも……たまには、にこっとしてくれたら、すごく嬉しいな」

「ひ……め」

 

 馬鹿げてると思う、こんな話は嘘だ、嘘に決まっている。だけど……本当だったらどうしよう。そんなことがあるのだろうか、実際。

 就職して、ふたつ目の学校でこの町に来た。久我商事という名前は以前から知っていたが、だからといってそれ以上の情報は知らされていなかった。もしも自分がもう少し色んな事に興味のある人間だったら、うわさ話くらい耳にしていただろう。だが、忙しい日常ではそんなこともなくただ時間が過ぎていった。

 嘘なら、冗談ならそれでいい。笑い飛ばせば済むのだから。だけど……万にひとつ、これが本当だったら? 媛子が自分とは別の場所に行ってしまってもう会えなくなるのだとしたら、どうしたらいいのだろう。

 ――そんなこと、考えたことはなかった。

 高校に入学した生徒は、一部の例外を除いて3年間の学園生活を営む。自分は今年1年生を受け持って、これから2年3年と持ち上がりで進んでいくつもりだった。だから――3年間、媛子は近くにいるものだと思っていたのだ。……それなのに?

 教室にも校舎の中にも、校庭にも。どこを探しても媛子の姿はない。そんなことがあっていいものなのか――そんな馬鹿な。嘘だ、嘘に決まっている。こんなのは嘘だ。作り話だ……!

 

「……先生?」

 媛子がとろんとした目でこちらを見上げた。眠いのだろうか、そうかも知れない。今は真夜中だし、元より彼女はいくらでも眠れるようなオコサマ体質だと聞いていた。潤んだ瞳から、ぽろんと涙がこぼれ落ちる。頬のラインのカーブを緩やかに越えて、それはぽつんとシーツに小さなシミを作った。

「私……先生に、会いたかった。だから、会えて良かったよ。……ありがとう、今まで」

 それから慌てたように、両手で顔をぐしぐしとぬぐって、鼻をすすり上げる。布団に戻ろうとしたのだろうか、彼女はベッドに手をついて、よいしょと立ち上がった。……顔の、目の高さが同じになる。ふたりにとってはとても珍しいことだ。

 

 刹那、一の呼吸が止まった。

 

「……ひ……」

 言葉よりも先に、身体が動く。気が付くと、腕を伸ばして小さな身体を捉えていた。無意識に、何も考えることもなく。そうすることだけが自然だと何より自分の腕が知っている。

「せっ……、先生……?」

 一体何が起こっているのだろうと言うように。いきなりの状況変化に、媛子は身体をきゅっと固くして震えていた。腕にすっぽりと包み込んだぬくもりがカタカタと音を立てる。だけど、どうして手放すことが出来るのだろう。もしも、今この腕を解いたら、きっと遠くに行ってしまう。二度と触れ合えないほど、遙か彼方に。

 

 だから――こうしているのが、当然なのだ。

 

 どうしたのだろう、体が熱い。何かが内側から湧き上がってくるようだ。ふつふつとたぎるものが、やがて彼そのものを支配し始める。もう……止める術もなく。心から溢れ出た想いが、脳を経由することなく、直接口元から飛び出していた。

「媛――、お前が欲しい。……抱いて、いいか?」


つづく♪(040319)

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