…23…
……眩しい。 目の前が真っ白に輝いている気がする。もしかして、ここは天国だろうか。――そんなはず、ないんだけど。だけど、真っ白。
媛子はけだるい身体を横たえたまま、うっすらと目を開けた。白いカーテンの向こうにオレンジ色の輝きが宿っている。ああ、雨が止んだんだな。あれだけ降ったから、きっともう空の水瓶が空っぽになってしまったんだ。そんな気がする上天気。 「ううっ……、んっ!」 「――えっ……!? ……いったぁ……」 思わず起きあがった。身体にパチパチっとスイッチが入る。でも、その瞬間におなかの奥に感じたしびれる痛み。おへその下にひりひり感が広がっていく。それを必死で堪えながら、媛子はぐるりと自分のいる部屋の中を見渡した。
――先生……?
記憶がだんだん蘇ってくる。ここは一の部屋。 昨日のお昼頃、化学の生島先生に付き添われて初めて上がった場所。一がいきなり高熱を出して倒れたから、媛子はずっと介抱をしていた。 いつの間にか、何だかお嫁さんみたいだなとか。先生のお嫁さんになれたら、こうやって病気の時は看病するんだなとか、考えてた。苦しそうにしている人を前に不謹慎だと思っていたけど。もう、最高の最高に素敵な気分だった。 雨が止んで、朝が来て。……で、先生がいないよ? いつの間にか、だぼだぼなTシャツを着せられていた。もちろん、媛子には肩が落ちてしまうくらい大きすぎるけど、その代わり膝まで隠れる。半袖のはずが肘まで来てるし。広いベッドの上、ひとりぼっち。変だなあ、眠るまでは先生がいたのに。ぎゅううっと抱きしめてくれていたのに。あれも夢? ……あれは全部夢……? ううん、だったら、このおなかの奥が痛いのは何? 夢なんかじゃないよ、絶対。
――私、先生と……。
「あっ……」 じんわりと、悲しい気分がこみ上げてくる。 そうか。先生、もしかして、熱が下がって。具合が良くなって。そしたら、気づいたのかも知れない。知らないうちに、とんでもないことしちゃったなあって。それで……びっくりして、どこかに行っちゃったのかな? もう、私の顔も見たくないって思ったのかな……? ああ、きっとそうだ。そうに決まってる。だって、先生は一生に一度の素敵な恋をして、その女性とだけ、いっぱいいっぱい愛し合うんだって、言ってたもん。ずっと、そう思っていたのに、ものすごい失敗しちゃったって、きっとがっかりしてる。 ――やっぱ、やめてって言えば良かったのかも。先生違うよって、言ってあげれば良かったのに。 でもでも、言えなかったんだもん。すごく嬉しかったんだもん。先生が「欲しい」って言ってくれて、気持ちよさそうにしてくれて。私の方は痛くて痛くてそれどころの騒ぎじゃなかったけど……それでも嬉しかったんだよ。
えっちなことって、想像していたよりもずっと生々しくて、全然素敵じゃなかった。心と心が寄り添うんじゃなくて、身体と身体がぶつかり合う。お相撲さんの取り組みみたいに。気持ちよくなろうとする先生と、痛いの我慢するのに必死だった私。思い出してみると恥ずかしくなっちゃうけど……だけど、それでも。 真倉様とするまえに、先生と出来て、良かった。どうせ真倉様は女の人と今までにいっぱいえっちしたんだもん。モテモテで来る者拒まずで。週刊誌にだって載ったりしたもんね、青年実業家と女優Aの密会とか。別に腹も立たなかったけど。むしろ……腹も立たない自分が嫌になったけどね。 おなかの奥の痛みだって、関節の痛みだって、肌の表面がこすれたあとだって大切な思い出だから。ずっと消えなければいいのにな……。
――じゅうじゅう。 ああ、窓の外で、スズメが鳴いてる。気持ちのいい朝だもんな〜、……でもちょっと、違う気がする。 ――じゅうじゅう。 台所の方から、音がする。スズメが台所にいるんだろうか。いや、そんなはずもないだろう。台所にいたら焼き鳥にされてしまう。それに、スズメはこんな風に鳴かないし……ああ、何だかすっごくいい匂いがしてきた。 媛子は身体をずらしてベッドを降りた。 足を床に着いたら、またずきんとおなかの奥が痛む。そろそろと、出来るだけ身体に響かないように進んでいく。「じゅうじゅう」の音の方向に。
***
台所、キッチンセットに向かって、こちらに背中を向けてる人。大きな大きな背中。白と水色のしましまのエプロンを付けてるのが後ろ向きでも分かる。同じ色の三角巾も被ってる。
――これは、誰……?
多分、この部屋には自分以外にひとりしかいないはずだ。だから、その人なんだと思う。広い背中を見ても、きっとそうかなって。――でも。どうして、何してるの? 入り口の柱につかまったまま、声も出なかった。びっくりしすぎて。 夕食を作るとき。重くてなかなか持ち上がらなかったから使うのを断念した鉄製のフライパンを軽々と扱う。そりゃそうだ、力持ちなんだもん。このくらい、当然だ。何か、嬉しそう。鼻歌なんか歌ってる。とても……落ち込んでるとか、ショックを受けてるとか、そんな風じゃない。 「――おっ、媛! やっと、起きたか」 ようやく、こちらに気が付いて振り向く。朝の日差し、今までで一番素敵な笑顔。一度でいいから、あんな風に笑いかけて欲しいって思っていた、特上の微笑み。 「どうした〜? 何だか難しい顔してるな。どうだ、どこか痛いところでもあるか? ……だいぶうなされていたようだが、もう平気か?」 しゃこしゃこしゃこ。フライパンをこする音。あ、そうだ。朝ご飯作るって約束したのに、寝坊しちゃったんだと思い出す。せっかくの「新婚さんごっこ」だったのに……でも。 「……先生、何してるの……?」 見れば分かる。これは料理をしている姿だ。でも、訊ねずにはいられない。頭の中で結びつかないんだから、一と料理が。まあ、ここに家庭科教師の野山がいきなり立っていたら、それはまた別の意味でびっくりだが。 「うん? これは……それだ。もうすぐ出来るからな、楽しみに待ってろ。先生のスペシャルモーニングだぞ」 そう言ったかと思うと。いきなりフライパンの柄をコンコンと叩いた。と思ったら……ぽぉん! フライパンから黄色い固まりが飛び出して、一の右手の皿がそれをキャッチした。千切りのキャベツ、斜め切りのキュウリ、串切りのトマト。そして……黄金色のオムレツ。
何が起こっているのか。媛子にはまだ理解できなかった。 やっぱり変だ、首から下が別の人間になってしまったのか。いや、どこをどう見ても一の腕で一の手のひらで。目の前にいるのは丸のまま「権藤嶺一」という人間だと思うんだけど。やってることが、違う。チョークを持って黒板に公式を書いているとか、剣道場で竹刀を振り回しているとか、そう言うのなら分かるが。どうして朝の台所で、フライパンを持っているのだろう。
「ほ〜ら、すごいだろう? 綺麗な焼き色が付いてるけど、中はしっとりとろとろの特上品だぞ。先生の自信作なんだ、味も保証済みだからな!」 「……」 嬉しそうな笑顔と、それからよだれが出そうになるくらい美味しそうなオムレツを交互に見つめて。そして、それでも何て言ったらいいのやら。 申し訳ないけど、一がこんな風に料理をするとは思っていなかった。だって、朝もろくに食べないことが多いって言ってたし、昼ご飯はコンビニ弁当だし。夕食だって、外食が中心だったはず。でも、これは……とても素人の仕事には見えない。 「どうしたんだよ、いつもの元気はどこに行った。驚くことはないだろう……そんなにおかしいか?」 オムレツだけじゃなかった。野菜スープにフルーツサラダ。ホテルの朝食メニューのように綺麗にテーブルに並んでいる。真ん中に、まだパリパリ言ってそうな焼きたてのクロワッサン。 「良かったよ、駅前のパン屋は開いていたから。嵐の後なのに、きちんと営業するなんて、さすが商売人だな。もう道路もすっかり水が引いていたぞ。ちょっと距離があったが、ひとっ走りしていい運動になったなあ」 すぐ傍にコンビニがあるのに、そこじゃなくてわざわざ遠くのパン屋さんまで行ったんだ。そりゃ、駅前のあの店は美味しいと評判だけど。歩いて往復したら30分くらい掛かりそうなのに……。 「俺な、ずっと考えてたんだよ。嫁さんを貰って、いつもうまい晩飯を食わして貰えるようになったら。そのお返しに……毎朝は無理だけどな、こんなゆっくり出来る休みの朝には、嫁さんをいつまでも寝かせておいて、代わりに朝飯を作ってやろうって」 ……すごい。テーブルの上には何と花まで飾ってある。もちろん、昨日の晩まではなかったものだ。どこから取り出したんだ、このランチョンマット。しかも無地とチェックの二色使いだ。おそろいのフォークにスプーン。パンを入れた籠の中にはレースペーパーまで敷いてある。 「そのために初心者の料理教室にも通ったんだぞ、アフター5に開校している奴にな。結婚を控えた若い女性の中に混じって、そりゃ恥ずかしかったけど、何しろ夢だから頑張ったぞ そうしたら、なかなか筋がいいから教師なんて辞めて講師になったらどうだ、なんてスカウトされたりしてな。断るの、大変だったんだから。ついでにテーブルコーディネートの教室にも顔を出したぞ。こういうのはやはり、極めないと駄目だからな。 ――どうだ、なかなかのもんだろう……?」
わっ……駄目。 キラキラとまるで雑誌の写真のような朝のテーブルが、ぼんやりと霞んでいく。唇が震えて、声が出ない。目の前の人が、あんなに嬉しそうにはしゃいでいるのに。それを見ているだけで、もう、胸がぎゅうぎゅういっぱいになって――。
「うわっ! うわわわ……! どっ、どうしたんだ、媛!? 何だ何だっ……、どうしたんだよ!」 ぼろぼろと目の前の風景が崩れていく。もう、……どうしていいのか分からなくて。ただ、泣きたい気分で……。 「せっ……先生っ……、ごめんなさぁいっ……!」 涙と鼻水が一緒になってしたたり落ちる。目の周りが痛いのは、昨日もいっぱい泣いたからかも。悲しくて、悲しくて。……やだっ、こんなの……! 「ひっ、媛! おっ、おいっ!?」 慌てて駆け寄ってきた一は、自分の両手がフライパンとフライ返しでふさがっているのに気づいて、一度レンジの所までそれを置きに行く。そのあと、どたどたと戻ってきて、媛子の肩を掴んだ。 「なっ……何で泣く!? どうしたんだ、何がそんなに悲しいんだ。何でお前が泣くんだよ! 何なんだよっ……」 ゆさゆさと肩を揺すられて、そのたびに、もっともっと悲しくなる。あとからあとから溢れてくるもので手首までぐしょぐしょ。もうどうしようもなくて、シャツの裾を持ち上げて、ぬぐった。 「そっ、そうか! こ、後悔してるのか……、それは困った。今更そんなことを言われても、もう返せるもんじゃないんだぞ、こういうのは返品不可でな! ……それに、それに。俺はすごく気持ちよかったし……いや、それはこの際関係ないんだが。とにかくな……っ!」 「うっ、ううん。違う、違うのっ……!」 何か、話がずれてきた。これ以上、道を外すと修正がきかなくなる。媛子は嗚咽を上げながらも、大きく頭を横に振った。 「せっ、先生が悪いんじゃないのっ……悪いのは私なのっ! だって、だって。先生、夢だったのに。一生に一度、運命の女性と巡りあって、素敵な恋愛して結ばれるって。その人とだけ、いっぱい愛し合うんだって……言ってたのに……っ!」 ここにいるのは私じゃ駄目。もっと、先生にふさわしい、別の人。 その人との素敵な時間を迎えるために、先生は今までたくさん努力してきた。……なのに、どうして。どうして、私が無理矢理に割り込んじゃったの。先生の大切な夢を、いくつもいくつも壊して。一番最初をたくさん貰って。
……嬉しかったけど、申し訳なくて。 だって、初めてって一度しかないのに。全部、貰っちゃったら、先生の大切な人が可哀想……っ!
「ごめんなさい、ごめんなさいっ! こんな……こんな風にまでしてもらって。私、こんな、……ずるいことしちゃいけないのに。大切な『一番』なのにっ……、ごめんなさぁい……!」
朝ご飯、すごく美味しそう。それにこんな素敵なテーブルで、愛する人とふたりきり。見つめあって、笑顔とおしゃべりでキラキラと輝く時間。これこそ、欲しくて欲しくてたまらなかった、一生に一度の恋。叶うはずのないと思っていた夢。 ――でも、もう駄目。先生からはいっぱい貰ったから、もうおしまいにしなくちゃ。あとは取っておかなくちゃ駄目だよ。私なんかのために全部無駄にしないで。大切にして……っ!
「――媛……?」 すぐ近くで声がした。顔を覆っていた指の隙間から、そろ〜っと覗く。……うわっ、思い切り屈んでる。目の前に顔がある。すごく近い。 「何を言ってるんだ、媛。俺の夢はひとつも壊れてないだろう」 ……ふわり。頭の上に大きな手のひら。 「ここにいるぞ、だから大丈夫だ」
「……え……?」
何を言ってるんだろう、どうしてそんな。媛子はいきなりの発言に泣くのも忘れて顔を上げた。にっこり、やっぱり特上の微笑みがそこにある。 「媛が、俺の大切な女だ。――やっと、気づいたよ」 ぐいっと胸の中に包み込まれる。しましまのエプロン、オムレツの匂いがする。卵の、くすぐったい香り。暖かくて、すごく安心できる場所。先生の腕の中はいつも眠くなる。身体の緊張が抜けちゃうんだ。
……でも、でもっ! 違う。そんなの嘘っ、駄目だよ先生っ……!
「やあっ、嘘よ、嘘っ! そんなに違う。だって、私、真倉様と結婚するんだもん。それはもう決まってるんだもん。だから駄目っ、私もう帰るっ……!」 必死でもがくけど、まるで網の中の魚だ。どこにも逃げ場はない。捕らえられて、腕の中。絶対に間違ってるって分かってるのに、どうにもならない。 「馬鹿言え、よく考えてみろ。そもそも結婚というのはだな、世界中で一番好きな人とするものだ。媛の一番好きな奴は誰だ? それを考えてみたら答えは出るだろう」 一の声はすごく落ち着いていた。と言うか、まるで公式の説明をしてるみたいだ。教科書にとっくに書いてあることを説明する時のように、迷いがない。――どうして? どうして、急にこんなことを言い出すの? 誰が一番好きかなんて、そんなの分かり切ってる。私の心の中にはひとりの人しか住んでない。……でも、駄目なんだもん、その人じゃ。だから、諦めようって思ったんじゃない。 「……違うよ、先生。絶対に、違う。だから、離して。先生でも間違うことはあるんだよ……私じゃないから、先生の相手。もっと、別にちゃんといるからっ……!」 きつく抱きしめられたら、心がくっついてしまいそうだ。そんなになったら、離れられなくなる。駄目、絶対に駄目っ! 「――何言ってるんだ、馬鹿だな。媛よりいい女はこの世にいないんだよ。先生だって、まだ自分で自分に納得がいかないけど……お前を絶対に他の奴には渡せない。それだけは本当だ」 まだ熱があるんだろうか。それともいきなりの高熱で、脳細胞の大切な部分が修復不可能なほど破壊されてしまったとか。 だって、違うんだもの、昨日までの先生と。全然、別の人みたいなんだもん。嵐が面倒なことを全部洗い流してくれた今朝の青空のように、すっきりと澄み渡っている。 「……う……」 そ、そう言われちゃうと、どうにもならない。 だって、好きなんだもん、すごくすごく好きなんだもん。先生と離れなくて済むなら、とっても嬉しいよ。……だけど、本当に? そんなことが叶うの……!?
「よしっ! そうと決まれば、まずは腹ごしらえだ。食い終わったら、あとのことを考えるぞ」 さあさあ、と椅子を引いて座らせてくれる。ああ、どうしよう。すごくいい匂いっ! 駄目っ、食欲が……ああ、気が付いたら、フォークを手にしてる。
まだ迷いがある。と言うか、こんなの信じられない。 でもっ、……信じてみたい。一体、何がどうなったんだろう。昨日の夕食に何か変な食材を使ったっけ……? 一晩経ったら、いきなり人格が変わってしまった一に戸惑いながらも。媛子はとりあえず、自分の空きっ腹を解消することを選んだ。
つづく♪(040324)
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