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「……繭子……さん?」 突然、聞いたこともない名前を出されて、何が何だか分からない。媛子の表情をうかがってみたが、彼女もきょとんとしている。 校長はそんな媛子を見て、おやおやと言う顔になる。 「そうですか、久我さんは繭子さんの名前をご存じないんですね? ……まあ、仕方はありませんけど。あのですね、私は新卒の春、彼女と出会ったのです。そう……桜の花が咲き乱れる校庭で、初めて彼女と出会いました。初めての職場、そして彼女は私にとって初めての生徒でした」 「……?」 媛子と一だけではない。久我元主将をはじめ、はしごをかついだ剣道部員までが、しーんとして校長を見守っている。
もともとこの人は平教員の時代に国語教師だったと言うだけあって、いきなりロマンの世界に話が飛ぶことが多かった。その道に詳しい者ならいざ知らず、ほとんどの人間には全校朝会の壇上から万葉和歌の講釈をされても、ぽかんとするしかない。
「雪の如く花びらの舞い散る木の下、美しい黒髪をなびかせて彼女は振り向きました。ええ、もう……桜の精と見紛うほどに、その姿はどこまでも可憐に愛らしかったです。 どうでもいいが、こんなところで延々と語っていられても困る。このままだと、いくらあの蝋人形でもこちらの異変に気づくはず。ドアを無理矢理にこじ開けられ、部屋の中に踏み込まれたら、逃げ出したことがばれてしまう。 「しかし……何しろ、彼女は良家のお嬢様。ご両親が決めた婚約者がいらっしゃって、16になったらお嫁入りすることになっていると言われて――」
――ちょっと待て。 その話は、聞いたことがある。というか、はっきり言って、媛子のそれとそっくりじゃないか。と、言うことは? まさか……もしかして。
「あ、あの……校長。その『繭子さん』とは、もしや……」 恐る恐る訊ねると、彼は嬉しそうに頷いた。 「はい――久我さんのお祖父様の末の妹に当たる方。今も多少はシワが増えましたが、とても素敵な女性ですよ。そして……私の最愛の妻です」
――えっ!? ええええええええっ!!!! と、言うことは、言うことはっ……!?
「こっ、校長!! 校長って、もしかして……!?」 「はい――」 ほっほっほっ……と、お得意の高笑いをしてから、校長は得意気に一の質問に答えた。 「お察しの通りですよ。私は久我のお嬢様の駆け落ち相手です」
何が何で、――どうなっているんだか。ここに来て、とんでもない人間に出会ってしまった。 今から遡ること35年ほど前、久我家の婚礼間近の末娘が突然失踪した。その相手が、こんなに近くにいたなんて。しかも、こんな風にのほほんと。媛子の話によれば、その事件のあと、久我家は大変な目に遭ったと言うじゃないか。 それが、よくもまあ、こんな風にしゃあしゃあと久我家のお膝元で県立高校の校長なんてしていられるものだ。全く現実離れしているにもほどがある。
「だけど、早まったことをしてしまったと思っていますよ。……皆様にも大変なご迷惑をお掛けしてしまいましたからね。まあ、あれも愛のなせる技。焦がれる心が、導いた若き日の過ち……それもこれも今では素晴らしい思い出です。私たちはあれから、大変な苦労を致しまして……」 「あのー、校長……」 上司だし、いつもなら無駄話を聞くのも仕事だと割り切るが、今はちょっとご遠慮願いたい。「大変な苦労」の辺りはまた今度改めて、と言うことにして、話を進めて貰うことにした。 「あ、ああ……そうですね。ともあれ、繭子さんのお兄様……つまり久我さんのお祖父様に当たられる方が、私たちのことを手を尽くして探し出してくださって。その後、教員採用の試験を受け直し、今では校長まで進むことが出来ました。ですから、今回のことはせめてものご恩返しと言うことで。ここの高校に赴任したのも、実を言うとあの御方が手を下されたことでね……私はおふたりをしっかりと見守るためにやってきたのですよ」 「は、はぁ……」 何か、話が噛み合わない。その30数年前の末お嬢様と言えば、久我家を窮地に陥れた大元となる存在だろう。となれば、ここにいる校長……つまり駆け落ち相手も、久我家にとっては許し難い存在のはずだ。全く分からない。 「さあ、ともかくは急ぎましょう。こちらです」
話の見えないふたりを取り残して、校長はさっさと歩き出す。だけど……そっちの方向は大通りとは逆の――。 「ほらほら、何をしてるんですか。ぼんやりしている場合ではありませんよ?」 振り向いて急き立てる校長の背後から、ばらばらと複数の足音が響いてきた。 「こっ、校長。やはりこちらからが宜しいようです。見張りが手薄になってますからっ! 大通りの方は完全包囲ですから、やばいですよ!」
――うわ、うわわわっ! これまたどうしたことか。 やって来たのは、1年の教科担当の先生方。古文に地理に英語に……とにかく、いつぞや一に媛子の授業態度の悪さを訴えた面々だ。みんなハンカチで汗を拭き拭き、息を切らしている。 みんな、今日は開校記念日で休みのはずなのに。揃って何をしているんだ。
「ほほう〜、やはりそうですか。よろしい、推測通りですね。では行きましょうか?」 軽い足取りの背中が、どんどん遠ざかる。足音が付いてこないことに気づいたのか、また少しして振り返る。 「何をしていらっしゃるんですか、ふたりとも。久我さんの御屋敷に行きたいのでしょう。だけど、もう簡単にはいきませんよ。あんな風にいつまでものんびりとしていらっしゃるから、もう町中に真倉の人間が溢れています。
え……? それは……どういう?
話は見えないが、何だか導かれるままに校長の後を追っていた。肩を並べるところまで追いつくと、また話し出す。 「実はね、繭子さんの婚約者も真倉の人間だったのです。もう落ちぶれて、どこかに行ってしまいましたが……何しろ、破談になったことを妬んで、あれこれと画策して久我家の事業を潰そうとしたらしいですからね。姑息な手段で、なかなかに手強かったらしいですが、繭子さんのお兄様の方が一枚上手でしたね。 「えっ……、ええっ!? でもっ……どうして? お祖父様が……!?」 「ふふふ、……それは、ですねぇ……」 「ご本人に直接伺うのが宜しいと思いますよ? ただし、辿り着けたらの話ですけど――どうも、そこら中に検問がもうけられているようです。怪しい車は片っ端から止められて、トランクの中まで調べられるらしいですよ。これも先生方が調べてくださいました。それに、おふたりの顔写真はそこら中に張り出されていますし、……さて」
そこで、一度足を止める。下がって、と目で指示されてこちらも立ち止まると、目の前の道を黒ずくめの男たちが集団で駆け抜けていった。 冗談の様な話だが、どうも全くのでたらめではないらしい。まあ、あんな風に媛子の婚約者が一の部屋の前まで押しかけてきた時点で、少し普通じゃなかった。
「久我の家とは現在、一切の連絡が付かなくなっています。これも真倉が電話会社に手回しした結果です。もう、これは直接久我頭取の下に乗り込むしか方法がないわけですが……」 「先生……どっ、どうしようっ……!?」 媛子は一の腕にしがみついて、今にも泣き出しそうだ。
どういう事なんだろう、媛子の祖父も何をしているんだ。真倉のやりたい放題で、こちらが大変な目に遭っているというのに、助けもよこさないなんて。どう考えても、今の久我商事の力を持ってすれば、真倉の家なんて簡単にひねり潰せるはず。 ―― 一体、何を考えているんだ。どうしたいのだ。
「だっ……大丈夫だ、大丈夫だぞ、媛っ! お前が心配することなんてない、俺がどうにかしてやる。だから、そんな悲しそうな顔をするな、大丈夫だ!」 全然大丈夫じゃない。真倉の手下に見つかったら、もうそこでおしまいだ。でも、ここで諦めるわけにはいかない。だが、どうしたらいいのだ。下手な変装をしたくらいでは絶対に見つかる。 「そうですよ、権藤嶺先生」 校長が、そんなふたりを見つめながら、しっかりとした口調で言った。 「久我の頭取はあなた方をお待ちです。どうにかして、御屋敷まで辿り着かなくてはなりません。そのためには……無茶はいけませんよ? 味方はたくさんいます、みんなで勝利を勝ち取りましょうっ……!!」
何か、ひとりで盛り上がっている。正直、この状況から浮いているとしか思えない。 それに――媛子の家まで、どんなに最短距離を見繕っても、10キロはある。歩いたって、何時間もかかるし、だいたいそこら中に敵(?)がいるんじゃ、逃げようがない。それに、ここから久我家に行くまでの間には大きな河が横断している。そう、昨日溢れたというあの河だ。橋の全てに真倉の人間が張り込んでいると言うのだ。どうしても橋を渡らないと、あちらには行けない。 先導する先生方が、携帯で連絡を取り合いながら、安全な道を選んでくれる。入り組んだ裏道。だが、やはり時々は真倉の者たちに出会いそうになる。そうこうしながら、一団はどうにか住宅地の真ん中にぽっかり空いた空き地までたどり着いた。
――と、その時。 ぶおんと大きなエンジン音が響いた。遙か向こうから砂煙を上げつつ、一台の小型トラックが走ってくる。……ええと、あれは――。
やがて。目の前に横付けされたその車から、転げ落ちるようにひとりの男が降りてきた。 「すっ、すみませんっ……! 検問を避けるために、大回りをしたら時間が掛かりました! お待たせ致しました――!!」 「さっ、佐伯っ!? ……やだ、あなた、どうしたのっ!?」 媛子が慌てて駆け寄る。彼は媛子のお抱え運転手、佐伯であった。だが――この男は確か、真倉に買収されたのではなかったか? どうして、こんな風にやってくるんだ。 彼は、ぼろぼろに泣き崩れながら、必死に叫んだ。 「おっ、お嬢様ぁ〜〜〜っ! すみませんでしたっ、私が間違っていました! やはり、お嬢様が一番大切ですっ! どこまでも付いていきます、ほら! 車も準備しました!」 ――車って。 媛子と一は目の前のそれを見た。これって……いつもこの辺を走っている、シロイヌ宅配便の配達車……!? 「こっ、校長先生に! おふたりを隠して運べる車を何か探してこいと言われまして……でも、なかなか思い浮かばないままで。で、ようやく知り合いから、この車を借りてきたんですっ! ほら、これならオッケーですよ……!」 ――そうか? 荷物に紛れて隠れるなんて、当たり前すぎてすぐに見つかりそうだ。せめて4トントラックの荷台に砂利を積んでくるとか、気が付かなかったのか。あ、大型トラックでは、免許が違うから駄目か。
校長に諸先生方、そしてはしごをかついだ剣道部員。忘れてはいけない媛子と一。 一同に白い目で見つめられて、佐伯は青ざめている。しかし、気は弱く融通は利かないが情に厚い彼は、必死で叫んだ。 「なっ、何ですかっ! よく見てください! これは冷凍車です。シロイヌ支社に一台しかない超クール車両なんですからね!!!」 「あ……あのぉ……、佐伯?」 媛子はとことこと歩いていって、息が切れてぜいぜいと四つんばいになっている彼の肩に手を置いた。 「こんなのに乗っかったら……私たち、凍っちゃうよ? 嫌だよ、冷凍人間になるのは」 「えーっ、ええええっ!? ……凍りますかっ? ――凍ります……よねえ……あははははは」 しーんと静まりかえった人垣の真ん中で、佐伯は乾いた笑い声を上げた。
――と、そこに。 今度はけたたましいハイヒールの音が響いてきた。サラサラの髪をなびかせてやって来たのは……。 「な〜に言ってるんですか、久我さん、権藤嶺先生! ほらっ、家庭科室から担いできました、超特大発泡スチロールの箱! それから保健室で毛布を借りてきたわよ!!」 大型冷蔵庫ほどの大きさのあるそれを担ぎ上げた姿に、校長が賞賛の拍手を贈る。 「ほほう……さすが、野山先生ですねえ。さすが、『お嬢』と言われるだけのことはありますなあ。さあさあ、おふたり。どうぞ、中へ――」
……いいのかっ!? そんなことで。 酸素量のこととか、色々心配な要因がありそうな気がする。だいたい、これは魚の入っていた箱だろう。生臭いぞ!
ふたりが躊躇しているのも構わず、校長はどんどん話を進めていく。 「で、どうしましょうか? 残念ながら、久我さんの運転手である佐伯氏は真倉側に顔が割れてます。そんな方が運転していたら、真っ先に疑われますねえ。……代わりに、どなたか――」
この問いかけには、真っ先に手を挙げた男がいる。 「はいは〜い! ボクが行きま〜す! 免許持ってきたし、何より、目立たないことでは自信ありますっ! よく受け持ちクラスの生徒にも忘れられますから!!」 1年A組の担任・化学教師の生島が元気よく叫んだ。……ちょっと、そんなことは自信たっぷりに言わないで欲しいが。 「いやあ、嬉しいなあ。もしかして、ボクって今回の功労賞になれるかな? な〜んか、張り切っちゃうぞー!」
彼が佐伯からキーを受け取ってチャラチャラと喜んでいると、また新たなる足音。今度はスニーカーだ。 「な〜に言ってんのよ! ひとりで楽しいことしないでちょうだい!!」 人垣に飛び込んできた、ひとりの女性。ライトブルーと白のしましまストライプ。シロイヌ宅配便の制服を着込んで颯爽と現れたのは、媛子がよく知っている人間だった。 「あれぇ……、きみちゃん!? 親戚の法事はどうしたの?」 媛子の問いかけに、きみこはおかっぱ頭をぐるんと揺らして言い放った。 「馬鹿言わないでよ! こんな楽しいことがあるのに、悠長に念仏なんて聞いてられますかって言うの! もう、速攻で戻って来ちゃったわよ。
それから、こちらにくるんと振り向く。にまっと微笑んで。 「さあ、媛子。あんたの『らぶらぶパワー』とやらを、最後まで楽しませて貰いましょうか? まったくねえ、堅物ゴンちゃんを目覚めさせちゃうなんて、あんた最強だわ!」
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シロイヌ宅配便の超クール便が、空き地を出発した。一路、久我の御屋敷に向かって。
つづく♪(040327)
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