…26…
「……先生?」 真っ暗な空間で、腕の中の媛子がもぞもぞっと動く。 何か、楽しくない状況だ。こんな風に梱包されると、とんでもないところに売り飛ばされるような気がしてくる。ぱかっと蓋を開けられたら、サーカスのライオンの檻の中だったらどうしよう。 「なっ、何だ?」 こういうのを本当に「訳が分からない」と言うのだろう。 部屋の窓を開けたら校長がそこにいて、はしごを下りて、導かれるままに移動したら、今度は箱詰めにされてトラックの荷台に押し込まれた。多分、目的地までは30分くらいで到着するとは思うが、定かではない。かなり不安である。 「何か……先生、すごく震えてる。怖いの?」 うわぁ! こんな風に身体を密着されるとかなり辛い。朝から悶々としていたのに、それが復活してしまうじゃないか。余計な酸素を使わないために、出来る限り大人しく動かないでいたほうがいいのだが、となれば、一の頭に湧き上がった欲求だけは果たすわけにはいかない。今ここでは絶対に駄目だ。 「いっ……いやあ、怖いんじゃなくて寒いんだよ、媛」 「うーっ、それに生臭いねえ。何だか、だんだん魚になっていく気がする。どうしよう、マグロになっちゃったら。一切れいくらで売れるかな?」 ――そう言う問題ではないが。マグロな女も嫌いだなとか思う。いや、マグロな女とまみえたことはないのだが、のっぺりして動かないのはちょっとなあと。やっぱり触ると柔らかくて、暖かくて、ぴくぴくっと動くのがいい。媛子みたいなのが。 「……先生は、切り身は嫌だな。どうせなら、丸ごとがいい。媛なら、丸ごと全部欲しいな」
「へっ……?」 真っ暗で、だからどんな顔をしているのかは見えない。でも、驚いた彼女の声が嬉しくて、思わず抱きしめた腕に力を込めてしまった。ああ、やっぱり暖かい。そして、すごく柔らかい。こんな風に抱きしめたいと思っていた。こんなに安心できる存在に出会えて本当に良かったと思う。 「ふふ。先生……あったかぁい……」 やはり、さかなの箱で正解だったかも知れない。すりすりとすり寄られて、一は生々しい臭いに必死で意識を集中した。
時々、車がごとごとっと揺れる。 急ブレーキを掛けたりして、生島の運転はかなり危なげだ。大丈夫なのだろうか、彼に命を預けて。きっと助手席で、勝ち気なきみこが叫び声を上げていることであろう。
――ま、いいか。あとはなるようになる。
とにかく色々なことがありすぎて、駆け足の日々。こんな風にジェットコースターに乗り続けている様な感覚は、媛子に出会ってからずっと続いている。最初は戸惑った、でもいつの間にかそれに慣れていた。そして、もしも今、投げ出されたら、どんなにか辛いだろう。 ずっと、走り続けていた方がいい。死ぬまで、それが続いたっていい。媛子と一緒なら、どこまでも。
***
目の前にずらっと並んだのは、媛子の両親と、その真ん中に祖父。そう……久我商事の頭取にあって、市議会議員、次期の選挙で県議に出馬するとか言っている彼である。3人は久我家の純和風様式の客間で、深々と頭を下げた。
艶々の新しい畳。い草の匂いにむせかえるよう。 奥の鴨居の上には、本物の鷲の剥製が大きく羽を広げてこちらを睨み付けている。床の間に飾られてあるのは家宝と言われている真剣。ここに通されたときに一がそれを見てびくびくっと震えたのを知っている。彼はここまで歩いてくる渡りから久我の庭を見て、そのすごさに驚きおののいていた。
そして、しばらくしてずらずらとやってきた家族の、開口一番がこれだ。 もう、何のことか分からない。いきなりの外泊で、ちょっと緊張していた。もしも事実が知れたら、どうなることかと。なのに、何なのだ? 「よろしく」って……何を?
――え? それって……どういうこと!? 媛子はもう訳が分からなくなって、隣に座る一を見上げた。彼の方も、ちょっとしわくちゃになった背広姿で呆然としている。髪の先から、ぽたんと雫が落ちた。
車は20分後に屋敷に飛び込んだ。いくつもの検問を強行突破したらしく、予想していたよりもずっと早かった。ただ、車体に付いたいくつもの擦り傷。バンパーなどは凹んでいる。 「いやあ〜、実はボク、車線変更も初めてで〜〜〜」 自分たちはあの発泡スチロールの箱から取り出されたまんまだ。だから、すごく魚臭い。でも、いきなりシャワーを使うのもどうかと思うし、とりあえずはと通された客間に座った。 もしかしたら、怒鳴りつけられるかと思っていたので、この家族の反応には驚きを隠せない。
「何を驚いていらっしゃるんです? もう、決まってるじゃないですか。権藤嶺先生がご承知下さるなら、そこにいる孫の媛子をあなたに差し上げますよ。もう、存分にどうぞ――あ、壊さない程度にお願いしますけど。 祖父が一気にそう言うと、両隣の媛子の両親もうんうんと大きく頷いている。
まさか、こんな展開になるとは思わなかった。 30数年前の惨事が真倉の家の仕業だったと校長に聞いたから、こうして無事に久我の家に辿り着けば全てが解決するのかと思っていた。それでも嫁に行けと言われるとは考えていなかったのだ。いいのか、それで。もうちょっと、悩まなくて。
「いやはや……もう、これで真倉の家も終わりでしょうし、因縁も何もなくなったかも知れないのですがねえ。せっかく媛子には花嫁衣装をこしらえましたし、是非晴れ姿を拝みたい。――それに実は、『災い』というのもまだちょっと引っかかりますしな。このご時世ですし、久我家の言い伝えに従うのもいいかと……ふぉっふぉっふぉっ……」 あまりにすんなりと行き過ぎている。 こんなに上手く行っていいのか、普通ガンガン反対されるんじゃないのか? もう、何がどうなってるの、訳分からないっ! ……そりゃあ、先生と離れなくて済むのは嬉しい。学校は転校することに決まっちゃってるし、ポピーに戻ったら、今までみたいに会えなくなる。だからといって、今まで通りの学校でらぶらぶも、ちょっとなあと思うし。
――でもなあ、お祖父様。何を考えているんだろう。こんなに簡単に許される事じゃないよ?
「あっ……あのぉ。それで、本当に宜しいのでしょうか。そのっ、私は教師ですし……年もかなり離れて……」 あああ、男っぽく決めるとか言っていたのに。意表を突かれて、一の方もしどろもどろになってるし。いやだ、いきなり逃げ腰にならないで欲しい。まあ、気持ちは分かるけど。 「何を仰います。もう、ここは権藤嶺先生が頼りなんですわ。今日の追っ手の振り切りも誠に見事でしたよ。一部始終を聞いて、すっかり惚れ込んでしまいました。あれだけたくさんの人間がふたりのために協力してくれるなんて、素晴らしいじゃありませんか。それもこれもふたりの愛が本物だと認識された証拠です。もう、とことん頼みますよ……!」 媛子の祖父はオーバーなリアクションで両手をばっと広げると、そう言って微笑んだ。その笑顔というのが……まっすぐに獲物を見据える鷹の目、と言われたその眼差しをちゃんとたたえていて。実は真正面から見るとかなり怖いのだ。にやり、と口元が動く。
――もしかしたら、と思う。 今日のこの一連のドタバタ。真倉家を壊滅させるために仕組んだことだとの事だったけど、それだけではなかったのかも。媛子の、一の、ふたりの想いがどれほどのものかを知るために、わざわざ窮地に陥れたとは考えられないか。 そうかも知れない。何しろ、相手は媛子の祖父だ。一筋縄ではいかない。普通じゃ考えられないような事も、あっさりとやってのけるのだ。侮ってはならない。
「情けない話なのですが。そこにいる媛子は、去年の婚約成立までは本当に生気の抜けた人形のようでしてなあ……全く覇気はないし、何事にも無気力で。このままでは真倉家に本当に嫁に行ってしまうのではと思いましたよ。まあ『敵を欺くには味方から』と言う感じで何も知らせなかった私どもにも原因がありますが。 一息ついて、目の前の茶碗を口に運ぶ。口ひげに少し雫が付いた。 「驚きましたねえ、ある日突然でしたから。いきなり生き生きして、勉強を頑張ったりして。あまり伸びはありませんでしたが、それでも裏金を使うこともなく合格しました。あんなに必死になる媛子は初めて見ましたよ。本当に……本当に、素晴らしいことです。こんなに嬉しいことはございません。慌てて内々に調査させたところ、何とその原因はあなたにあると言うじゃないですか。先生は媛子の恩人ですね! そうとしか思えませんよ」 そこまで言うことはないだろう、ちょっとひどすぎないか? ――そうは思うけど、かなり当たっているので反論も出来ない。今となっては信じられないけど、一年前の媛子は真倉の元に嫁ぐのが当然だと思っていたのだから。もう、絶対に嫌だけど。 自分でも未だに不思議だ。一を見たあの日から、全てが新しく動き始めた。さび付いていた時計の針がいきなり時を刻みはじめる如く、誰かに言われることもなく自らの意志で進み始めたのだ。
けど……いいのだろうか、こんなで。
媛子がおずおずと見上げると、祖父は満面の笑みで応えた。ああ、やっぱり何かあるぞ? そう思った途端に待ってましたとばかりにしゃべり出す。 「もう、これはとことん付き合って頂いて! 国立の大学にでも入れて頂きたいものですなあ……いや、先生の指導の元、頑張ればきっと行けますよ! 家庭教師を10人付けるよりも、ずっと効率いいと思いますしね。どっちもこっちも節約になって言うことはありません、ふぉっふぉっふぉっ……」
――やっぱり、そこか。さすが、媛子の祖父。目の付けどころが違う。 家庭教師はそのランクにもよるが、媛子が雇っていた者たちは有能だがその分料金も割高だった。それを何人も雇っていたのだから大変な出費だ。今度は一が一手に引き受けてくれるなら、タダじゃないか。こんな安上がりな事はない。 もうっ、ちょっと待ってよ! お金の問題じゃないでしょ?
まあ……先生と一緒にいられるなら、頑張るしかないかなぁ。国立……はさすがに無理かも知れないけど、頑張ればちょっと有名な大学にも入れたり? ああん、そんなことを考えていてどうするの。だから、こういうことは簡単に決めていい話じゃなくて……!
「はっ……はぁ?」 この事態を一体どのように受け止めたのか。一は首をかしげながらも、神妙に頷いてる。すると今度は、祖父の隣にいた媛子の母親も声を上げた。 「んまあ! お義父様……! どうしましょうっ、久我の家から国立大学へ……。素晴らしいですわ、東大かしら、京大かしらっ……! でもぉ、さすがに京都は遠いですわ。媛子がそんなに離れてしまっては、私はもう寂しくて仕方ないです」 「何を言ってるんだ、お前。新幹線ならすぐだぞ。何なら、その4年間だけ、京都に住むというのもいいなあ。どうせなら大文字焼きを庭から見られるような土地を購入してだなあ……」 父親までが、張り切っている。 どうなってるんだ、もう。「取らぬ狸の皮算用」にもほどがあると言うものだ。一が目を白黒させているのが、気が気ではない。どんなにか呆れていることであろう。
恐る恐るその顔を覗き込むと、彼はすこし引きつった笑顔でこちらに振り向いた。そして、耳元でそっと囁く。 「なんか……媛が増殖したみたいで、すごい家族だな。これからが、とても楽しみになってきたよ」
庭先のししおとしの音が、「カポーン」と客間に響き渡った。
***
たっぷりした造りのダイニングテーブルの上、山積みの参考書と問題集。両手両足をバタバタさせて、媛子は悲鳴を上げた。
だが、そんなのはいつものこと。一は全く取り合わずにテキパキと食後の後片付けをしてる。食器を次々に洗い上げる様も職人芸。これを媛子がやると、毎回何枚もの皿が成仏してしまう。 和食は媛子の方が得意であるが、洋食は一の方がずっと腕が上だということが判明した。よって、食事当番は交代制。でも、後片付けは一の担当になっている。
「馬鹿、何を言ってるんだ? これくらいの問題、眠りながら足で解けるだろう。もっとよく考えろ」 「……おいおい。最大値を求める問題だろうが、これでは放物線が逆だ。この場合の関数グラフはコップじゃなくて、山。大丈夫なのか、期末は3日後だぞ?」 ノートのグラフに大きく赤ペンでばってんを書かれて、媛子は悲痛な叫び声を上げた。 「うええええっ! ……だってぇ、ポピーってカリキュラムが違うんだもんっ! 今まで先生が教えてくれたのと違う単元から入ってるし。いくら勉強しても、追いつかないよ〜元の学校に戻りたいーっ!」
情けない声で呻きながら、それでも必死で問題に取り組む。ここで音を上げるわけにはいかないのだ。 もう、信じられない。期末テストで一番を取らないと、新婚旅行に行けないなんて! お祖父様ってば何を考えていらっしゃるのだろう……!
「ほらほら、頑張れ」 がたがた。椅子を引いて、はす向かいに一が座る。それから、媛子の頭にぽんと手を乗せた。 「その頁が全部終わったら、ご褒美をやろう。……そうだな、今日は一緒に風呂にはいるか! じゃあ、俺もさっさと仕事を片づけるかな」 そう言って、紙袋から持ち帰りの仕事を取り出す。媛子が期末の勉強なら、一の方は期末テスト作りだ。水色の5ミリ方眼用紙を取り出す。 「……先生、すごい読みにくい字。それじゃあ、問題を判別するまでに時間が掛かって、みんなが文句言うよ〜っ!」 媛子も負けずに逆襲。ミミズの行進を横目で覗く。
……ああん、この問題なら解けるんだけどな。数学も先生に教えて貰った方がずっとよく分かるのに。それに、何だか新婚さんぽくないんだよなあ。せっかく家に戻ってきて一緒の時間を過ごせるのに、毎晩毎晩これじゃあ嫌になる。 でもっ、仕方ない。同じ高校の教師と生徒じゃ……色々と支障がある。媛子の祖父があちこちに手を回して、ふたりの関係は公にならないようになっているが、それも学校が違うからやってられる。
あれから半月、あっという間に期末シーズン。 今でも時々、これが夢だったらどうしようかと思う。こんな風に頑張れば手に入る未来があったなんて。信じたことが全部本当になっていく。
……諦めなくて、良かった。
「うるさいな、数学の問題は色々な記号とか小さい数字とかあって、パソコンじゃ上手く表示できないんだ。専用のソフトを使いこなすより、手書きの方が楽なんだよ!」 言い訳しつつも、恥ずかしそうに隠す仕草が可愛い。思わず吹き出しちゃったら、じろりと睨まれた。 「こいつ〜! そんな生意気なことを言うと、ほらっ、こうだぞ!」 一の腕がにゅっと伸びてきて、媛子は慌てて飛び退く。 「いやぁんっ、どこ触ってるのよ、先生のえっち! 信じられない、私は真面目な女子高生なのに〜〜〜!」
***
ふたりはその後、こんな風に暮らしていたりする。媛子は予定通り、16歳の花嫁になって、転校先のポピーでは超優等生として「希望の星」とか言われている。 ふたりのことは、一応「秘密」とされているんだけど、……結構知れ渡ってるかも。もちろんマスコミ対策は、媛子の祖父が完璧にしてくれる。 一はあの校長や同僚の先生たちにからかわれながらも、この頃では授業中にのろけ話をすることもあるらしい。「何だか、前よりも丸くなったけど……顔を真っ赤にしてヘラヘラするのはちょっと怖いわ」と呆れた声できみこが教えてくれた。同じ学校にいなくても、そんなわけで一の情報は媛子に筒抜けだ。
ふたりがこの先、どんな「おとめ☆」な生活をしていくか、それは内緒。でも、媛子は数年後、進学先の大学で「ゴンちゃん」って呼ばれているらしい。
だって、彼女のフルネームは「権藤嶺媛子」……になっちゃったんだもんね。
おしまい♪(040328)
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