「あれ?」 「どうしよう、菜花ちゃん。パパに連絡してみる?」 「大丈夫、菜花はちゃんとお家の鍵持ってるから。もしもおばちゃんがいなくても、ひとりで平気だよ? パパも遅くならないって言ったし…」 「そう? じゃあ、困ったときは園に電話してね。先生たちはまだ残っているから…」 そんな言葉を残してバスが行ってしまうと。あたしは、ほんのちょっとの道のりをお家に向かって歩きはじめた。一本だけ細い道を入ったところにあるのだ。 …と。向こうから小走りに走ってくる人影が…。 「あ、おばちゃんっ!!」 「ああ、ごめんね。遅れちゃった、おばちゃん」 「あのね、菜花ちゃん…実は、おばちゃんたちね、これから急にお出かけしなくちゃいけなくなったの」 「…え?」 「九州のお祖母ちゃんが入院していて、危ないって連絡が来たの。これから飛行機で行かなくちゃならないのよ…どうしよう。お電話したらね、菜花ちゃんのパパは出来るだけ早く戻りますって言うんだけど。飛行機の時間もあって、もう今からすぐに出なくちゃならないの…」
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お家の中は朝出たまんまの状態だった。あたしの使った食器が洗い桶につけてある。洗面所で手を洗ってうがいをすると、園服を脱いだ。トレーナーとスカートに着替える。トレーナーはアップリケのお花がボコボコと付いている可愛い奴だ。ママが衝動買いしたんだって。 リビングに行くと、テレビをつける。でもまだ3時前だから、ワイドショーくらいしかやってない。仕方ないからビデオケースからポケモンのビデオを探して見ることにした。ビデオを入れて、入力切り替えして、2チャンネルにして…あたしだって、そのくらいは出来る。 …今日は、寒いなあ。さすがにエアコンはつけちゃ駄目だから、二階から毛布を持ってきてくるまる。何だかすごく悲しい気分になってきた。 田辺のおばちゃんがとても心配そうなお顔をするので、ついつい「菜花は、大丈夫だよ」と言ってしまった。本当はパパが戻ってくるまで待って欲しかったけど、でも我が儘を言ったら可哀想だから。あたし、いい子にしてるってパパと約束したんだもん。 ああ、パパ、今日くらいは早く戻ってきてくれないかなあ…。
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「もしもし、菜花、大丈夫か?」 「う、うんっ! いい子にしてるよっ!」 「あのな、パパ、これから戻ろうと思ったんだけど。実は営業所のお兄さんが車の接触事故を起こしてね、ちょっとそこまで見に行かなくちゃならないんだ…もう少し遅くなりそうなんだ。大丈夫かい…?」 「…え」 「菜花? 駄目か? …だったら、誰かそっちに行かせるけど…ええと」 パパ、困ってる。すごく困ってるみたい。こんな時、菜花はどうしたらいいの…? 寂しいけど、でも、大好きなパパを困らせたくない。いい子だって言われたい。菜花は今でもパパには二番目の大好き。悪い子になったら、三番目になったり、十番目になったりするかも知れない…っ! 「だ、大丈夫だよっ! パパっ!」 「菜花、いい子で待ってるからっ! 安心してお仕事してっ、大丈夫よ!」 「…そうか?」 「じゃあ、出来るだけ早く戻るからね。火の元には気を付けて、待ってなさい。おみやげも買っていくからね、イタトマのデラックス・ショートケーキでいいかい?」 「うっ、うんっ!」 あたしがお返事するのと、パパの電話が途切れるのが同時だった。
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ひとりぼっちで、夕方にお留守番をするのって、悲しいことだ。あたしはママが病院に行って来るほんのちょっとの時間でも置いて行かれるのが本当は怖かった。ママの赤ちゃんの病院はだいたいはパパが「年休」を取って送り迎えをする。普段は一緒に連れて行って貰えるんだけど「マタニティー講座」の時はパパとママが一緒にお勉強するから駄目なんだって。 …でもっ、でもっ…。 ああん、タケシの寒いギャグにも笑えないよ〜。今日は春菜ちゃんはバレエのお稽古だったよな。遊びになんか行けないし。他のお友達も塾だ、お稽古だって結構忙しい。お電話していなかったら、もっと寂しくなりそうだ。 やっぱり。パパを待ってるしか、ないんだよな…。
…考えてたら、余計悲しくなっちゃったよ〜。 お庭の柵の近くにパパが植えたパンジーがぼんやりとにじむ。寂しくて、悲しくて、気が付いたら涙がたくさん出てきていた。それはこすってもこすっても止まらない。しゃくり声を上げながら、あたしは誰もいないお家の前で泣いていた。
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誰かが、あたしの名前を呼んでる。聞き覚えのある声に顔を上げた。 「あ…」 大通りの歩道橋を越えたところにあるスーパーの買い物袋を持って、緑色のおじさんみたいなジャンパーを着て。見覚えのある、四角い顔。あたしは突然のことに信じられなくて、何度も何度も瞬きしてしまった。 「岩男くんっ…?」 近所に住んでるのは知っていた。園バスで一緒だもん。あたしよりもみっつあとから乗ってくる。いつもおばあちゃんと電信柱の影で待っているんだ。でも、お家も知らないし、もちろん遊んだこともなかった。岩男くんのお家は「謎」なのだ、男の子たちもそう言ってた。 泣きやまなくちゃと思ったのに、知っている顔を見たら、なお涙が止まらなくなった。 「どうしたの? 誰かにいじめられたの…?」 「ううん、パパがいないの…」 「そう…なんだ」 あたしはいっぱい泣いてるのに、岩男くんは少しも慌てたりしないで普通にしてる。しゃべり方もいつもと同じだ。きっとあたしに弟が生まれたことや、ママが入院していて、妹がお祖母ちゃんちに行ってることも知ってると思う。幼稚園ではこの話、有名だから。 「菜花ちゃんのパパ、あとどれくらいで帰ってくるの?」 「…え?」 「う〜…、多分…あと、1時間かそれより、もっと」 「そうかあ」 それは大袈裟だけど、岩男くんは身体が大きいのでよく小学生に間違えられるらしい。誰かが、バスで岩男くんとおばあちゃんが運転手さんと口論しているのを聞いたことがあるって言ってた。小学生なんだから、子供料金を払いなさいって言われたみたい。おばあちゃんが「この子はまだ5歳です」って、保険証まで出していたんだって。 そんなことをあたしが思いだしていたら、岩男くんがこっちを向いた。思わず見つめ返しちゃったら、いつものように恥ずかしそうに真っ赤になって下を向いちゃったけど。 「僕ね、一緒に待ってあげたいんだけど。お肉とか、お魚とか、買っちゃったから。…あの、良かったら、ウチに来る?」 「え…?」 それは、びっくりするような申し出だった。そりゃ、ひとりになるのは寂しいし、絶対に嫌。でも、知らないお家にいきなり行って、大丈夫なんだろうか? 「いいの? 駄目って、言われない?」 きちんとお家の人に聞いてからじゃないと、駄目なんじゃないかな。そう思ったけど、岩男くんは静かに首を振った。 「ううん、ばあちゃん、今日は親戚の家に行ってるから。夜まで戻ってこないんだよ」 私はそれでぐしぐしと顔を拭った。お父さんのみたいな地味なチェックだった。お弁当のランチョンマットよりも大きくて、あたしの涙を全部吸い取ってくれる。 その後、まだ迷っているあたしに岩男くんはいつにないしっかりした声で言う。 「菜花ちゃん、パパに電話出来る? きちんとお伝えしておかないと、心配するでしょう…?」 「あ…うんっ!」 幼稚園では恥ずかしがり屋のおとなしい岩男くんなのに、今はすごく頼もしい。あたしはすっかり嬉しくなって、いつの間にかその申し出を受ける気になっていた。すぐに、電話のところに行って、短縮のボタンを押す。そうするとパパの携帯につながるんだ。 …あれ? 「…どうしたの?」 あたしはまた泣き出しそうになった。 「電波が届きませんって…言ってる…どうしよう」 俯いてしまったあたしに対して、岩男くんはあっさりと言う。 「そう。じゃあ…紙と鉛筆を出して? 僕が書くから、お手紙」 「え…?」 ちょっと、驚いた。当たり前みたいに言うんだもん。 そりゃ、女の子の間では「お手紙ごっこ」が流行している。みんなひらがなは書けるし、カタカナだって書ける子がいる。くもんを習っている子は難しい漢字も書けたりするの。でも男の子はそんなことしない。みんな絵本だって、上手に読めないんだ。まさか、岩男くんに字が書けるなんて思わなかった。 あたしが差し出したメモ帳に、岩男くんは角張ったしっかりした字で、すらすらと書いていく。お家の住所と電話番号みたい。でもカタカナが入っていて、あたしには良く読めなかった。そして、綺麗に並んだ文字はお友達の誰のよりも上手だった。
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お玄関を入って。何だか、ぷうんとひなびた匂いがした。岩男くんの家は1階しかないお家だった。青い瓦屋根にトタンの茶色い壁。田舎のお祖母ちゃんちの納屋みたいだった。鼻をついた匂いは古くなった畳の匂いだとあとから気付く。 「菜花ちゃん、座っていて」 ちっちゃいこたつの前に案内されて、岩男くんは買い物袋を持ってお台所に消えていく。そして、がさがさと音を立てながら、冷蔵庫や棚に買ってきた物をしまっているっぽい。 不思議だなと思った。お家ではそう言うことはパパやママがする。卵のパックなんて、危ないって持たせても貰えない。 「岩男くん、ひとりでお買い物に行ったの? すごいね」 「え…、こんなのいつもだよ?」 ひとりでお買い物に行って、お留守番をする岩男くん。幼稚園にいるときの恥ずかしがり屋さんとは全然違う顔を見た気がする。すごいなあ。 そうだ。 食器棚の中を見て気付く。お茶碗もお湯のみもお椀もふたつ。 岩男くんって、お母さんがいないんだ。死んじゃったのか、離婚したのか分からないって、およそのママたちが言ってるのを聞いたことがある。運動会の時に一度だけ見た岩男くんのパパ。やっぱりおとなしそうな人だった。岩男くんがオトナになったらあんな風になるんだろうなって、思ったよ。 でも、どうしてふたり分なの? おばあちゃんと岩男くん。…お父さんのは? 「岩男くん、おばあちゃんとふたりで住んでるの?」 そう言いながら、こたつの上の陶器の入れ物を開けてみる。つーんとした匂いがした。灰緑のどろどろしたものが入っている。 「うん、父さんは仕事で大阪だから」 「…知らない? ふきのとうのごま和え」 「知らない、これ食べ物なの?」 「菜花ちゃん、もしかして。おやつ、食べてないの?」 静かに聞かれて。もう、頷くことしかできなかった。やだやだ、だって…。 「そっか〜、困ったね…」 「僕はね…白ご飯を盛って、ふきのとうや梅干しで食べようと思ったんだ」 それ、ご飯でしょ。おやつじゃないよ。そう言いたかったけど…その前に岩男くんが一度座ったのにまた立ち上がる。そして、棚を開けてごそごそして。 やがて。真っ赤になりながら、振り返った。
「…じゃ、何もないから。自分たちで、おやつを作ろうか」
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