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「ホントーにっ!! ごめんなさいっ!!」 「あ、いえ。こちらこそ、ごちそうさまです…」
それからしばらくは、手にしたホットココアをちびちびとすすりつつ、鳩がゴミ箱をあさるのを見ていた。隣りの男も別に何をしゃべるわけでもなく、かといって退屈そうにしているわけでもなく、のほほんとくつろいでいる。 並んで座っているので、ちらと視線をやると見えるのは、肩口の辺りだ。自分よりこんなに大きく見える人間を沙和乃はあまり知らない。 …この人、お金持ち、なんだろうか…? 沙和乃はいわゆる接客業をしている。有名ホテルのフロア係。宿泊施設の方ではなくて、宴会場や結婚式場の担当だ。パーティーや披露宴の飾り付けや配膳、後かたづけなどをする雑用係。 沙和乃の隣りでのほほんとしている男はどう見ても特上の素材を使った特上の仕立てのスーツを着ている。ただ、難点は何故かそれが野暮ったく見えることだが、この際それは脇に置いておこう。 でも、彼を「お金持ち」と思うには他に訳があるのだ。
ただ、そうだからと言って、飲むのをやめる風でもない。ちゃんと一口ずつ飲んでる。ぱりっとしたスーツとスラックスはおろしたてみたい。膝が出てるとかそう言うこともない。
「あ〜あ、失敗しちゃったなあ…」 「こんなん、初めてだわっ! まさか、人を取り違えるとはねえ…」 沙和乃の言葉に反応して、男が振り向く。やはり口元にはほんのりと笑みを浮かべている。この表情はどこかで見たことがあると思った。…そうだ、畏れ多いことではあるが、TVで見る、皇室の方々の表情にそっくりだ。 「取り間違えるって…やはり、あなたも待ち合わせだったんですか? もしや…お見合いだったりします?」 「え…?」 「だって、とても綺麗に着飾っていらっしゃって…良くお似合いですよ? 後ろ姿も素敵だなあと思っていました…」 「え…、は、はあ…?」 初対面で、何も知らない人に、こんな風に言われてしまって。上手く受け答えることが出来ない。女優さんやタレントさんじゃあるまいし、美を褒め称える言葉には慣れていないのだ。しかし、あの全速力に付いてきて、そこまで考えるゆとりがあったというのか? 何者なんだ、この男は。 「実はね」 「僕も…そうだったんですよ」 「…え!?」 「そ…そんなっ。あなた、…やだっ、本当にっ!?」 でもこの人は沙和乃の相手の中王子氏ではない。身長が違いすぎる。と言うことは、同じような人間が同じような場所で、やはり違う人を待っていたと言うことか!? 「ちょっとォ〜、何くつろいでるのよっ!? それを早く言ってちょうだいっ!! ねえ、連絡先は? すぐに電話してっ…私のせいで、縁談が壊れたら困っちゃうわ…」 「いいんですよ、別に」 「良くないでしょうっ!!」 「あなたねえっ! お見合いだって、貴重な出会いの場所なのよっ!! そんな野暮ったい風貌で、今まで彼女も出来なかったんじゃないのっ!! 何、おっとりと構えてるのよっ! 少しは動揺しなさいよっ!」 ああ、何でこんなに口が滑らかに動くんだろう? どうにかなっちゃいそうだ。でも、止まらない。 「あなただけじゃないわ、相手の女性にも迷惑を掛けたでしょう? 時間を割いてあなたのために来てくれるのよ!? もしかして、彼女こそが運命の相手だったかも知れないじゃないのっ! ああ、今からでも遅くないわっ! どうにかしてちょうだいっ!! どうすんのよっ、これを逃して、一生結婚できなかったらどうすんのっ!?」 そこまで言って。はたと正気に戻る…ああ、そうだったか。それは自分にも言えることか…。 「いいのです」 「あなたのほうは? 先様に連絡しなくて宜しいのですか…?」 がっくりと腰を下ろした沙和乃に、男はやわらかい声で問いかける。情けなくて、泣きたいくらいの気持ちになって。それをはーっと息を吐いて誤魔化す。 「もう…いいのよ」 「今までのケーケンで言わせてもらえば。こうやってさい先の悪いスタートが上手く行ったことないの。だから、縁がなかったと言うことになるんでしょうね」 「今までの…経験?」 「そうよ」 「私、伊達じゃないの。誰にも負けないわ、お見合いの回数だったら」 「へえ」 「誰にも負けないなんて…一体、何回くらいの席をもうけてきたのですか…?」 「驚いたって、知らないんだからっ…!」 「今日で、150回っ! ほら、驚くでしょう? 5年間で150回っ!! もう男という男には会ってきたわっ!!」 ぽおんと。水色の空に弧を描く、うすピンクのパンプス。「明日天気になあれ」の仕草で放れば、ゴミ箱の所まで飛んでいく。一度弾んで、表向きに止まった。 「お見事、お見事…」 「でも、僕の方がすごいですよ?」 「僕は、今日で…300回目です。やはり、5年くらいやってますけど…」
「嘘…だって、あなた…まだ若いでしょうに…」 年齢って、いろんな所に出てくる。女性もそうだけど、男性も同じ。確かにお手入れで多少の誤差は出るけど。たとえばいくら綺麗にメイクしても、女性は首筋と手の甲で年齢がばれる。その辺で、どうしても隠しきれないものが出てくるのだ。目尻のシワよりもよっぽど信憑性がある。 男性は、メイクしないから(最近では、男性メイクもあるけど)もっとよく分かる。 「え――?」 「もう、24ですけど…」 …にじゅうよんっ!? ちょっと待て。 24で、5年間で、自分の倍もお見合いしてるのかい!? 5年で150回だって、すごいと思っていた。だってさ、要するに1年で30回、一月に約3回のノルマがあった。まあ、正式なお見合いじゃないのも含まれている、友人の紹介とか。でも、この5年で150人の結婚志願者と出会ったのだ。それで上手くいかないままだった。 しーかーも…、なにっ? 「もう」24と言ういい方はっ!! ふん、こっちなんて、「まだ」29なんだからっ! 悔しいから教えてやんないわっ! 「やはり…生涯の伴侶ですからね。慎重に決めなくてはなりませんよ? …そうでしょう?」 「…ま、そりゃ…そうよね」 「ふふ、意見が一致しましたね?」 「添い遂げるなら、価値観の合う方じゃないと上手くいきません。今までお目にかかってきたお嬢さん方は皆一様に素晴らしい方でしたが、どうしても心を揺さぶるものがなくて…でも」 「やっと、見つけました。あなたこそが、僕の将来のパートナーとなる方です」 跪いたままで、顔を上げてこちらを見る。手入れのされていない太めの眉、眼鏡の奥の瞳。誠実そうな口元。…そして。 あんまりに場違いな、言葉。 「ばっ…なに、冗談言ってんのよっ!? いい加減にしなさいよねっ!!」 「冗談なんかで、言えることじゃないでしょう?」 「是非、正式におつき合いを申し込ませてください。…お名前は? 住所は、親御さんの…」 男性は綺麗な手の女性が好きだ、美しく着飾って、それでもって慎ましやかな女性が好きだ。自分をたててくれる女性が好きだ。だから、その価値観にあうように、いつもいつも気を付けてきた。自分を好きになってもらえば、あとは絶対に上手くいく。燃えるような恋愛だって出来る。 それで。 「是非に」と言われて、プロポーズを受けるのだ。そのシナリオまでが決まっていた。
「ば、馬鹿にしないでよっ!! あんたなんかに哀れまれる筋合いはないんですからっ!!」 取り違えたお見合いで。こんな訳の分からない男に言い寄られて。そんな馬鹿げたことがあるわけないじゃないのっ! 冗談でも許せないわっ! 「ちょっと待ってください…あのっ…!」 そのまま、振り向きもせずにずんずんと立ち去る。このまま、地下鉄に乗って、家に戻ろう。でもってふて寝だ。多分、伯母さんから電話が入るけど、留守電にしとくんだからっ!
…と。バッグの中で携帯が踊り出す。いつもとは違う着信音、聞いただけで相手が分かってしまうフレーズ。 「…もしもし?」
「…坊っちゃま!!」 「何をなさっていらっしゃるのです、先様がこちらまでお出でになってお待ちです…」 「え…」 「先様から、お屋敷にご連絡がございましたので…この爺がお呼び申し上げました。応接室にいらっしゃいます。ただいま、大奥様がお相手を…」 「そう」 「お前は、いつになく乗り気だな。そんなにこの縁談をまとめたいのか?」 その声にいくらかの苛立ちが含まれていることを感じ取ったのだろう。老人が静かに首を振る。 「いえいえ…全ては坊っちゃまのお心のままに。でも、お目にかかれば、必ずお気に召しますとも」 「そうか」 「爺がそこまで申すのなら、お目にかかろう。…でも、それなら僕からもお願いがあるんだけど…」 「はい、何なりと。爺はいつでも坊っちゃまのお心のままに…」 一歩下がって言葉を待つ老人。男はその気配を左の視界の隅に感じながら、長い渡り廊下の向こうに見える庭木に目をやった。
「また、性懲りもなく見合いなんかして。お前、そんなタマじゃないことぐらい、とっくに知ってんじゃないのか…おいっ!」 「お金なんて、ないわよ。この前全部渡しちゃったでしょう? お給料日が来るまでは私、文無しなんだからっ…!」 そう。強いのは自分も一緒だ。そうじゃなかったら、こうやってこの部屋に来ることはないだろう。 「その割には、いい身なりしてんじゃないか、結構高かったんじゃないか? いい根性してるよな、全くとんでもない女だぜ…純ぶって、男に付け入ろうって言うのかい? その金でまた俺に貢いでくれようとは…まあ、誉めてやろうな」 目の慣れてきた暗がりで、ビールを煽っている男と目が合う。安っぽいシャツは、街角で見たものと同じだ。 さっきだって、この男が怖いから逃げたのではない。ただ、あんな風に公衆の面前でなにか騒ぎを起こされたら嫌だと思ったからだ。カッとすると見境のなくなるこの男が、自分の社会人としての地位まで犯そうとするのは許し難かった。それだけのこと。 「…脱げよ」 「…あっ、やっ…!」 「ほおら、お前は俺のもんだろうが。…こんなに反応するのは、どうしてだ? 待ってたんだろ、可愛がってやるよ…」 沙和乃は唇を噛みしめた。声なんて上げてやるもんかと、意地になる。こうなることぐらい分かっていた。身体は自由にされてもいい、でも心は自由にされたくない。 「…くっ…! はあっ…、ああっ…!」 どうして、現れないのだろう…私だけの王子様。私のことを守ってくれる、賢くて逞しい王子様…待ってるのに、ずっとずっと待ってるのに…っ! 男の攻めは執拗で、耐えきれるものではない。いつか支配されていく、女としての自分を悔やみながら陵辱されていく。どす黒い沼の中にずるずると沈み込んでいくように…。
ぐったりと横たわったままの背中に浴びせかけられる声。シーツから立ち上るヤニ臭い香り。いつも通りに後始末までもさせられて、もう涙も出てこない。心の奥であんたとなんて嫌だと叫んでも、それが声にならなかった。
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