TopNovelココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆3


…3…

 

 

「それ、鳳凰の間に運んでちょうだい」

「ビールの追加はまだ? ねえ、もう最後の1本を開けちゃったのよっ!」

 給仕室と宴会場を結ぶ裏の廊下は、ばたばたと走り回る人間で溢れていた。式場や宴会場では柔らかな身のこなしで一流の給仕をこなす。でもその裏側ではおしりに火の点いたような騒ぎだ。
 今日は4つの大宴会場がフル回転で、全部で15のパーティーと披露宴が組まれている。招き入れるお客様の人数も千を越えるが、ひとつの会場に配置される職員の量も半端じゃない。皆、担当の会場別に男性はタイ、女性はチョーカーの色を変えてある。そうしないと100名以上の従業員が入り乱れていてどうにもならない。

 そんな人の波をぬいながら、お皿を積んだ大型ワゴンを操る。簡単なように見えて、プロ級の技を要求される仕事だ。とてもバイトくんには任せられない。洗い場でこのお皿をすぐに片づけないと、次の宴会に差し支えるのだ。まったくこんなところで経費節減をしなくてもいいと思うのだが。

 あれから1週間。当然のことながら、お見合いを仲介してくれた伯母さんにはこっぴどく叱られた上、この先1ヶ月間の「紹介停止」を通達された。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。本当に嫌になる。

 沙和乃の紅色のチョーカーには遠くからでも分かる薔薇の花が付いている。もちろん造花だがこれが「朱雀の間・責任者」の印になる。ホテルの式場はどこもそうだが、人手が必要なのは休日だけだ。平日に結婚式や祝賀パーティーをやる人は稀だから。この職に就いて5年、沙和乃は正社員であることもあり、たくさんのバイトくんやパートさんをまとめる立場になっていた。
 平日は来る週末に向けての発注や式次第の段取り、職員の配置に心を砕く。何しろこの界隈でも「一流」と呼ばれるホテル。お値段も半端じゃないが、その分それなりのものを要求される。沙和乃を含めて10人いるフロアチーフのうち、今日は早番と遅番で合わせて7名が出勤することになっている。

 

「ねえ、有泉さんっ! ちょっと!?」
 角を曲がったところで、いきなり初老の女性に呼び止められた。彼女がフロア長であることはすぐ分かる。制服であるビロードのワンピースが深緑だからだ。その上に真っ白なエプロンを付ける。中世ヨーロッパのメイド服のようなデザインだ。頭にはレースのフードも付ける。沙和乃のようなロングヘアはお団子しなければならないことになっていて、だから今日の彼女はひっつめヘアだ。

「はい?」
 最初に見たときは、東京ディズニーランドのホーンテッドマンションの衣装かと思ったこの制服。沙和乃が身につけているのは同じビロード素材でもワイン色だ。スカートはふわっと広がっていて、中にはペティーコートもはく。上半身は身体にぴたっと付いているので、スタイルが良くないとちょっと見苦しい。ま、大きくふくらんだスカートでウエストの太さも隠せるのだが。

「すぐに下のフロアに行ってちょうだい」
 フロア長は腰に手を当てて、ぴしゃりと申しつける。ぴぴっと背筋を伸ばしている小柄な女性が、時として自分よりもずっと大きく見える。これが威厳というものだろうか?

「…は?」
 厳しい断定調のいい方に、思わず息が止まった。

「あの、でも今、持ち場の方が…」

「そんなの私が代行しますからっ。上司命令です、すぐに行きなさい」

「は…はぁ…」
 呆然としているうちに、ぱしっとワゴンの持ち手を奪われてしまった。

 きびきびと去っていく後ろ姿を見送る。いきなり呼び出し。考えられるのは、お客様のクレームだ。何か粗相があったのだろうか、気が付かなかったが。中にはバイトくんがちょっとビールを飛ばしただけで「責任者を出せっ!」とわめき出す方もいる。そう言うときは状況に応じてお偉いさんが対応するのだが、一応会場責任者もその場に呼ばれるのだ。

 

 参ったなあ…また始末書と減給かなあ…。

 苦虫をかみつぶしたようなオーナーの顔を想像しつつ、沙和乃は職員用の非常階段を下りていった。

 


 ――しかし、そこにいたのはクレームおじさんではなかった。

 

「やあ」

 階段下で待っていたその人物は沙和乃を視界に捉えるとにっこり微笑んだ。思わず、階段あと数段のところで足を止める。いや、腰が引いたという方がいいかも…?

「探しましたよ、大変でした。でも、再びお目にかかれて光栄です、僕のシンデレラ」

 げげっっ!! なななな…っ!? 何で、あんたがっ!?

 まさか、コイツがいるとは思っていなかった。もう二度と会うことはないと思ったのに、だからあんな風に邪険にあしらったのにっ! 実は台詞もものすごく変だったのだが、あまりの驚きにそこまで突っ込むことも出来なかった。階段の手すりを掴んで、かろうじて姿勢を保つ。

 黒縁の眼鏡、野暮ったいスーツ…色が違うから多分、別の服なんだろうけど…やはりださださ。まさか、再び出会うことになろうとは思わなかった。出来ることならこの男と話をしているところを誰かに見られたくない。

 まあ、かなりの面食いだと思う、自分でも。ただ、この男のレベルは「クラスにいてもお近づきにはなりたくないタイプ」ア〜ンド「まかり間違って告白なんてされた日には速攻でごめんなさい」だと言ってしまっていい。

「今更…何なのよっ! それもこんな忙しい時間に呼びつけるなんてっ!」

1週間前、人違いで連れ回して、その上甘い缶紅茶で手を打ったことを恨んでいるのか? あれだけぴしゃりとはね除けたのに…もしかして、今流行りの若者の逆ギレ(そう言う風には見えないが)!?

「沙和乃さんに会いに来たんじゃないですか。探したんですよ、本当に…」

 どうにかして。この状況を切り抜けようと思考を巡らせている沙和乃に、男は春の霞のようにやわらかく微笑みかけた。全くもって、邪心のない表情だ。

 その上、もっと信じられないことをのたまう。のほほんとした声で。

「ねえ、これから出かけませんか? 僕はあなたともっと話がしたいです。ようやくこうして巡り会えたんだ…この日をどんなに待ち望んだことか――」

 昼下がりのきらきらした日差しが磨き上げられた窓越しに注ぎ込む。眼鏡の奥、くるくると動く濡れた瞳がじっと沙和乃を見つめた。子犬のように澄んだその色は何者をも魅了してしまう魔力を秘めている。おっとりとした物言いに反して異様に強引。訳の分からない台詞をのたまいながら、男は歩み寄って沙和乃の右手を取った。

 体中の力が抜けていきそうになり、慌ててかぶりを振る。ひー、ギリギリの精神状態。

 …いかん、いかん。

「あのっ…、私、仕事中ですので…」
 やばいぞ、気を抜くと男のペースになってしまう。ちょっと席を外してきただけの勤務中。早く戻らないと上では大宇宙戦争状態だ。今日は特に危険なバイトくんが下に付いている。それこそクレームでも出ていたら大変だ。

 それなのに。目の前の男は全く動じず、握りしめる手にいっそう力を込めた。

「大丈夫です、きちんとそのことはここの総支配人に話を付けてあります。沙和乃さんのお仕事は今日は上がりでいいそうです。ですから、すぐに支度をしてください」

 

 ――は…?

 あんまりの変化球に我を忘れていた沙和乃は、一気に正気に戻った。と言うか、怒りのスイッチがばしっとオンになっていた。

「何よっ! それ…」

 総支配人って…ここのホテルのオーナーの都築様のこと? オーナーの口利きなら、先のフロア長の言葉も頷ける。

 まあ、それはいい。それはいいだろう。でも、この押さえつけたような態度は一体何!? この男、何を知っていて、こんな行動に出てるの…!?

「馬鹿言ってるんじゃないわよっ! あんたねえ、何様のつもりっ!? 今日は仕事が詰まっていて、本当に大変なのっ!! 現場の大変さを知らないオーナーに話を付けたって、どうなることでもないでしょう? たかがフロア係って、舐めてるの!? いい加減にしなさいよねっ!!」

 ――ばんっ!

 思い切り足を踏み込んだ。ローヒールのパンプスであるが、かかとが広い分、大きな響く音が出る。ヤクザの姐さんの「お控えなすって」のポーズだ(映画の中でしか見たことないが、ちょっと気取ってみた)。

「え…?」
 男の方は言葉の勢いに押されて、すっかり呆けている。どうして沙和乃が怒り出したのかも分かっていない様子だ。まあ、分かっていないから、こんな馬鹿げたことをのたまうのだろう。付き合ってらんない。

「勤務中なのっ!! 分かったら、さっさとどっかに行ってよっ!!」
 そう言いきると、男の手を振り払った。

「いきなり出てきて、何言い出すのよっ! あんたにしたことは悪かったと思うけど、もう済んだことでしょう!? もう金輪際、私には関わらないでちょうだいっ!!」
 仕事が忙しくてイライラが募っていたことも災いして、いつもよりもさらにきついいい方になってしまったと思う。でも、もういい。どうにかしてこの男を振りきって仕事に戻らなくちゃ。

 

「沙和乃さんっ!!」

 制服であるロングのスカートを翻して、階段を登りかけると。まだ、男の声がすがりついてくる。ええい、しつこい奴っ!!  振り返って、キッと睨み付ける。

「…なんか、まだ言いたいことでもあるのっ!?」

 男の顔から笑顔が消えて、まるで水を頭から浴びたように打ちひしがれていた。捨てられた子犬みたいに。思わず、ふっと後悔が心をよぎる。言い過ぎたかなとか思ってしまう。

「す、すみません…あのっ、それじゃあ…今日は何時で上がりなんですか? それまで、待ってますから…あの…」

 多分、彼は悪気があってやったのではないのだ。ただ、知らないでもやってはならないこともある。そして、賢明にもその失態に気付いて反省している。素直な性格だ。

 最後の光を託した瞳が揺れている。眼鏡の奥で、結構大きくて、ちゃんと二重で。吸い込まれそうになって、かろうじて体勢を立て直す。

「…そんなの、分かるわけないでしょ!? 下手したら、夜の9時10時までかかることだってあるんだからねっ!」

「待ってます」
 向き直った沙和乃の背中にか細い、でもしっかりと意志を持った声が投げかけられる。

「何時になっても、待ってます。だから…」

 振り返らなかった。今度、振り返ったら負けだから。…だって、この男は私の王子様ではないのだ。それだけは確かだ。こんな男じゃ私を救ってくれない。

 階段は途中の踊り場で向きを180度変える。その先に行けば、もう男からはこちらの姿が見えないはずだ。一度、立ち止まって耳を澄ます。ことりとも音がない、追って来はしなかった。

 


 その日、沙和乃が仕事を上がったのは夕方の6時前だった。朝の7時からの勤務だったが、休日なんてこれでも早く上がった方だ。遅番の社員が入ってきたので、最後の宴会ではバックに回っていた。でも足は棒みたい、肩も凝っていてすごく重い。ああん、これが歳を重ねると言うことなのかとちょっと落ち込む。

 ロッカールームで着替えた後。沙和乃はふうっとため息をついた。

 …あの男。待ってるのかしら?

 ハンドバッグを肩から提げて、帰路につく。ずっとひっつめていると痛いので髪も解いて垂らしていた。いつものように従業員用の通用門から外に出る。もう、冬の日はすっかりと暮れて、その上身を切るような北風が吹き荒れていた。髪がふわっと舞い上がるので、慌てて押さえる。コートの襟も立てて。

 表通りと反対側の少し細い寂しい道だ。申し訳程度に植わっている街路樹の影に、視線を泳がせて姿を探してしまう。どきどきしながら、右を向いても左を向いても誰もいない。

 

 な〜んだ、口ばっかりじゃないの。そう言うもんなのよね?

 心のどこかで残念に思っている自分に驚きつつも、沙和乃は胸をなで下ろしていた。

 

 あのとき、男がやってきたのには驚いた。どうやって自分のことを探し当てたのだろう。何にも知らないのに。仕事のことも、住所も、名前だって教えていない。それなのに…?

 彼は沙和乃を見つけた。この砂浜の砂粒のように無数の人間がひしめき合う世界から。あんなに邪険にして、芝居じみたプロポーズを蹴散らして去った自分を探してくれたのだ。

 …ちょっとだけ、感動していたのかも知れない。どう見ても好みじゃないし、お近づきになりたくない野暮ったい男だったけど。それでも彼は沙和乃を見つけて、嬉しそうだった。あんな風に身体全体で喜ばれたら悪い気はしない。

 …でも、そこまでなのよね。

 一度ならず、二度までも冷たく突き放してしまった。仕事が終わるまで待つという声にも答えなかった。だったら彼が待っていないのは当然なのだ。

 …まあ、「待ってる」と言ったところで「どこで」かは確認しなかった。あの男がぼんやりとホテルフロントのロビーとかで待っていたら、沙和乃とすれ違うこともないのだ。ああ、あの馬鹿ならやりそうな気がする。それを確認するまでもないだろう。こう言うのを「縁がなかった」と言うのだ、お見合いでは。


 吹きすさぶ北風にきゅっと唇を噛みしめる。アフターに職場の人と飲みに行くこともなかったから、こうして家路を急ぐときもいつもひとりだ。大通りへ向かうためにホテルのビルづたいに歩道を折れる。そして。街灯に照らされた花壇のふちに佇む人影を見た。

「沙和乃…さん…」
 影がゆらりと立ち上がる。蛍光灯の寒々しい光に浮かび上がるのは昼間見たのと同じスーツ。ふわふわと辺りに散らばる白い息。それは綿菓子みたいに彼にまとわりついて、すぐには姿を消さない。

 ――いたっ!!

「良かった、やっと――」

 その言葉を最後まで聞かずに、沙和乃はくるりときびすを返した。そして、今歩いてきた道を慌てて戻り始める。

「沙和乃さんっ!! …待ってくださいっ…」
 人気のない裏通りにふたつの足音がこだまする。裏から行くと地下鉄の駅まで少し遠回りになってしまう、でも仕方ない。

 暖かい暖房から外に出たので、足がもつれる。それに北風に向かって歩くかたちになるので、さらに歩きにくい。小走りになっているつもりだが、流れていく風景があまりにも緩やかだ。

「探したんですよっ! 本当に。手がかりが何もなくて、一瞬聞いたあなたの名前しか、分からなくて。その響きだけで、もう死にものぐるいで探したんですっ!! 側近たちも無理だって言ったけど、諦められなかった。だって、あなたはこの街のどこかにいるんですから。絶対にいるんですから…!」

 

 …どうして、逃げているのだろう。自分が逃げる必要なんてないのに。ついさっき、この男の姿を探していたのに、次の瞬間には逃げている。高鳴る胸は急に動いたせいか、他に理由があるのか。

 

 車止めを通り抜け、公園に入る。真ん中に噴水がひとつあるだけのちいさな造り。この街は「水の杜」をうたって整備されている。仙台でもないのに。だからやたらとそこら中に噴水が多いのだ。しょぼしょぼと水音がするその脇を通り抜けようとしたとき、後ろからぐいっと引っ張られた。

「…きゃっ…」
 引きつれて、足が止まる。ひらひらとなびいていたロングコートを引っ張られたのだ。50メートル以上あったふたりの距離はあっという間になくなっていた。

「どうして…逃げるんですかっ!?」
 さすがに息が上がったらしい。ぜいぜいと苦しそうに呼吸を繰り返す。何、頑張ってるんだ、この男は。そんなに頑張って追ってきて何になると言うのだ。

「僕は…、ずっと待っていたのに。逃げるなんて、酷いじゃないですかっ…!?」

 そう言いながら、ハナをすすり上げる。もしかしたら、泣いているのかと思った。そのくらい切ない声で。でも、沙和乃は冷たく言い放っていた。

「待っていてくれなんて、頼んでないわっ! …あんたになんて、会いたくなかったわよっ!」

 そっちが「どうして逃げるのか」と聞くなら、こっちは「どうして追いかけるのか」と問いただしたい。何が楽しくて、こんなことをするのだ。だいたい、この男は変わっている。沙和乃があの日、引っ張り回したときだって、黙ってどこまでも付いてきた。あんまり素直に付いてくるから、人間をひとり引っ張っているのも忘れてしまったぐらいだ。

 沙和乃がぐるっと振り向くと、コートを離した彼の手が所在なげに浮いていた。すっかり乱れて額にかかった髪、俯いて表情も見えない。

「でもっ…僕は。僕は会いたかったんですっ! 会いたくて、会いたくて、仕方なかったんですっ…!!」

 そう言って。暗がりからぬっと腕が伸びてきた。黒っぽいスーツなのでそう言う風に見えるらしい。一瞬、その指先が沙和乃の頬をかすめる。氷のような冷たさにぞっとして思わず振り払っていた。

「…やめてよっ!?」

 軽く払ったはずだった。なのに、男の身体は信じられないくらいに簡単に傾く。沙和乃の目の前で、綺麗に弧を描いて落ちていく。

 そして。

 

 …ザンッ…!!

 一瞬の水音にハッと我に返る。

 

「え…?」

 沙和乃はそれほど怪力じゃない、そう信じたい。いくら宴会場でお皿を10枚20枚と積んで片手で持ち運んでも、それほど力持ちではないと思っていた。…だけど。

 その、「自称」ひ弱な? 沙和乃の細腕に振り払われた大きな男の身体は。そのまま、すぐ脇の噴水の水の中に頭からダイビングしていた。

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