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「ねえええっ!! 容子さんっ! ちょっと、助けてっ!」 とっぷり暮れた夜の闇に忽然と浮かぶ硝子張りの建物。純白の外壁、並んだプランターにスミレの寄せ植え。 入り口には「Closed」の札がかかっている。でも、そんなのは気にも留めず、沙和乃はドアを乱暴に押していた。 「あらあ〜、沙和乃サン。何よぉ〜、今日はもう看板よ…」 ぽとぽとぽと。フロアマットの上に落ちるしずく。それは裏通りの公園からずっと続いている。井戸から這い出てきたお岩さんというか、生ゴミを集めて回ってるゴミ収集車というか…。 「…何? それ…」 「う〜、ちょっと落っことしちゃったの…」 容子さん、と沙和乃に呼ばれた店員の女性が、店に備え付けの真っ白なバスタオルを数枚持ってきてくれた。それを頭に乗っけられても、男はかみ合わない口元でガクガクしているだけだ。
その一瞬の出来事を、沙和乃は薄暗い公園で呆然と見ていた。時間にしたらあっという間だったと思うのに、スローモーションで行われていくその行為はあまりにも緩やかで途中で助けてやろうとかそう言う気にもならなかった。 立ち上がれば膝くらいまでの深さしかないその水場から四つんばいになって身を起こし、無言のままで体勢を立て直す。でも…どこから見ても全身ぐっしょり…。 さっきまで逃げていた。この男とは関わりにならないしようと思っていた。今だったら逃げられる、男もこの格好のままでは追っては来ないだろう。そんなことをしたら、オカルト映画も真っ青だ。 …でも。 「…ねえ」 「え…」 「ちょっと、来てちょうだい」 それだけ言うと、くるっと背を向ける。そのまま、前に踏み出す。引く腕に抵抗はない。その代わり、ずぶずぶと音がする。水にはまったままの靴で、それでも付いてきてくれているのだ。薄暗い裏通り。吹きすさぶ風。男の身体がぶるぶると震えるのが腕越しに伝わってくる。 …ああ、私、何してるんだろ? 何とも情けない気分で、沙和乃は歩道のタイルを見つめていた。
「衝立、立てたから。あの影で着替えて? そのままだと風邪引いちゃうわ…」 「あ…はい」 「んじゃあ、悪いけど。私はガキ共に餌の支度してくるわ。沙和乃サンはその辺でくつろいでいて」 時計を見る。もう7時だ。そりゃあ、子供は腹を空かせるだろう。沙和乃だって、3時の休憩にちょっとお菓子をつまんだだけで立ちっぱなしの重労働をしていたのだ。思い出したようにおなかの虫がくうと鳴く。ああ、雑誌のグルメ情報がさらに腹に響く…。 だからと言って。 衝立の向こうの気配を確かめる。 一応、自分で着替えているらしい。あのスーツ、高いんだろうなあ。どうしよう、クリーニングが「おしゃれ着あらいコース」で割高だったら。それより「手洗い・雅コース」でさらに高かったら…給料日前なんだよなあ、参ったなあ…。でも、こっちに原因があるんだし、弁償だろう。かといって、このまま捨てて帰ったら、容子にどやされるだろうし…。 考えていたら薄暗い気分になったので、また女性週刊誌に目を落とす。どうにも馬鹿馬鹿しいったらない芸能人夫婦の痴話喧嘩。どうして「友人A」まで出してきてこんなにもり立てるかなあ…いい加減にしろよなあ、とか思いつつ、ついつい見入ってしまう。結局、どうでもいいような解説でまとめてあるんだけど。 「すみません…終わりました」 やがて。 申し訳なさそうな声がしたので、反射的に顔を上げる。鼻先まで落ちた髪をかき上げた男。しかし、彼の瞳に映っているのは呆けた沙和乃の顔。 …がたんっ! 次の瞬間、思わず椅子から立ち上がっていた。そうしてしまうほどの衝撃があったのだ。そのまま、数歩、後ずさりする。手にしていた雑誌は床にばさりと落ちていた。 「…あんた、誰?」 「…あ、ええと…」 口をぱくぱくさせている沙和乃に対して、もごもごと口ごもる男。ふたりが会話不成立で立ち会っていると、そんなことも知らず奥からバタバタと足音がした。容子が両手に皿を持って来たのだ。 「多めに作ったから、食べてよ。簡単なので申し訳ないけど」 「あっら〜、結構イケメン? 沙和乃サン、どこで拾ったのよ、この子…」 そう。 この男。落ちかけた前髪、どうしてか外した眼鏡(あとで、ダイブの時にフレームが壊れていたこと、判明)。容子の夫の綿シャツとジーンズを着込んで、立っている男…。 何というのか違う、まるで…別人っ…! 沙和乃は慌てて視線を落とす。もう直視できる状態ではなかった。 彼女の視界に次に飛び込んできたのは、ホカホカと湯気を立ててるスパゲッティ…この香りはどう見ても缶詰のミートソースを絡めた感じだ。でも、おいしそう。と思えてしまう空きっ腹が悲しい。 「…とりあえず」 「頂きましょうか?」 「どーぞ、どーぞ…」 「あ、はい…」 「あの、ところで…これは、おいくらですか?」
「え〜、でも…」 「た、ただでものを恵んでもらうことは出来ませんし…」 正直、こんなに服装で人間が変わるとは思わなかった。一夜を共にした女性が明るい朝日の中で見たら別人になっていた、とは男たちの間でよく聞く話だ。沙和乃だって同僚の女の子たちの「使用前・使用後」の様変わりに唖然としたことは一度や二度じゃない。…でも、男性がこんなに変化するものだとは。 「あのねえっ…!?」 「人の好意をね、そう言う風にお金でさっさと解決しようとするんじゃないのっ!」 そう言えば、この男。この前も自販機の前で、120円を払うと言って駄々をこねたっけ。あそこで払われたら訳が分からなくなってしまうのに。説得するのが大変だった。 「そ…そういうものなんでしょうか…?」 「女性に…お金を使わせるなんて…そんな」 「若造のくせに」 「結構、言うじゃないの?」 面倒くさそうに髪をかき上げてちらと見ると、男がちょっと怒った顔でこちらを睨んでいた。顔がトマトのように真っ赤になっている。 「僕はっ! …若造じゃありませんっ! 立派な紳士ですっ! 紳士は女性をリードして、しっかりと立ち振る舞うものでしょう…!?」 ――言ってることが、若造じゃん。 そう言いたかったけど、あんまり可哀想に思えて黙っていた。 「はいはい」 「あんたの言い分は分かったわ。お茶でも貰ってきてあげる」 「…馬鹿にしてる…」 「沙和乃さん、僕のこと…一人前の男性としてきちんと見て下さってないでしょう?」 「へ?」 その通りなんだけど。思いっきり、そう言うつもりで振る舞ったんだけど。あまりにストレートに指摘されて、思わず浮いた腰をもう一度椅子に沈めてしまった。いいや、お茶はあとで。 「どうしてそんな風に小馬鹿にするんですか? 失礼でしょう…」 「あのねえ〜?」 ふと見ると、客が忘れていったものだろうか? 台の上にメンソール系のタバコとライターが置いてある。腕を伸ばしてそれを手にした。小道具としては申し分ないだろう。 「じゃあ、あんたは…どうして私のこと、追いかけ回すのよ? 馬鹿にされるって怒るくらいなら、さっさとどっか行けばいいじゃないの? 自分のやってることの方が馬鹿なことだって、いい加減に気付きなさいよね!?」 「え…だって…」 「沙和乃さんは、とても素敵で魅力的な女性です。ひと目見たら、忘れられませんよ…」 そう言って頬を染め、潤んだ瞳で見つめてくる。…その、はっきり言って…アイドル雑誌のグラビアに載っていてもいいような…顔で。 まずい。 はっきり言って、ジャニーズ系は好きだ。一時、「SMAP」の追っかけもどきをやっていたこともある(さすがに年甲斐もないと思って、やめたが…今でもキムタクを見るとときめく)。嵐の新譜だって、カラオケの十八番だ。 ……眼鏡を外して、髪型をちょっと変えて、服装が替わっただけじゃないか。 すっかり、「みにくいアヒルの子」が 白鳥になってしまった。こりゃ、マジでヤバイのだ。 「でもさ、そろそろ、その幻想も崩れ去ったでしょう…?」 ほら、ご覧なさい。男共は嫌いでしょう? タバコを吸う女。あんたみたいな堅物だったら、これで一発ね。意識してるのを隠しながら、口元に笑みを浮かべた。しかし、余裕のあったのもそこまで。 …点かない。 「あれ? …どうしたんだろう? ガスがないのかなあ…」 男が見てる。そう思えば、もっと焦ってくる。…ああん、もう。やめようかな、と思ったとき。今まで黙っていた男が、おもむろに口を開いた。 「沙和乃さん…タバコって、口にくわえて息を吸い込みながらじゃないと点きませんよ…?」 「…え?」 「…し、知ってるわよっ!? それくらいっ!!」 「あ…慣れない味だから、ちょっとびっくりしたわ」 「そうですか…? じゃあ、僕も味見しようかな…火、くれます?」 「あげるわよっ! ほらっ!?」 …ぼっ…。 「き、きゃああああっ!?」 ――そして。 ちりちりと、焦げる匂い。あの、鼻を突く、何とも言えない…気持ち悪い…。
注意一秒、怪我一生。 一瞬にして。男の前髪が何十本、何百本という範囲で焼けていた。
男はてるてる坊主状態にケープを被せられて、ちょこんと鏡の前に座っていた。 とんでもない時間外労働だ。明日は月曜日だから、子供たちの学校の支度もあるはずなのに。まあ、それでも職人根性でどうにかしてくれる。沙和乃にとって、容子はとても頼りになる女性だった。 「…君、申し訳ないけど…これじゃあ、もう横に流すのは無理よ? 髪型変えないと対処できないけど、いいわね? 今時、7:3なんてねえ…変だし、いいんじゃないの?」 「でもさ、この僕ちゃんが、例の『取り違え事件』のご当人だとはね。沙和乃サンが話してくれたのと、だいぶ違うじゃない? 何? …私に横取りされると思って、いい加減に言ったんでしょう?」 あの日のショックな一幕は誰かに話さなくちゃどうにもならなそうだった。そして、全てを分かってくれるのはこの美容師しかいない。翌日、カラーリングをするという名目で、もうべらべらと全部話していたのだ。 「…そんなじゃないわ…」 「あの…」 「僕、ちゃんと名前があります。きちんと呼んでくださいっ!」 …は!? 思わず容子と顔を見合わせてしまう。鏡の中の男はふくれっ面だった。「君」とか「あんた」とか「僕ちゃん」とか…そう言う風に呼ばれて、相当面白くなかったらしい。 …そう言えば、名前なんて、聞いてなかったわ? ようやくそのことに気付いた。もしかしたら、一生気付かなかったかも知れない。と言うか、沙和乃にとってはそれほど重要なことでもなかったし…。 「なかのしまばらしゅうごろうですっ!!」 「え…?」 「なかの…くん?」 『那珂野島原周五郎』 …じゃなくて、あの…、あのっ!? 『ナカノ・コーポレーション 専務』…って、あんた、何ですかっ!? 「これ…お父さんの名刺とか、どっかで拾ったとか…言わない…よね?」 一応、確認する。でも男はさらにふてくされた声で言う。失礼ないい方をしたんだから、当たり前だろう。 「…僕のですっ!」 でもっ、でもっ…!? ああ、容子があきれ果てた顔でこちらを見ている。ああん、知らなかったんだよ〜何にも知らなかったんだよ〜っ!? お見合いが300回!? そりゃそうかも知れない、だって、この男の妻になりたいと思う女性は山ほどいるはずだ。300回どころか1000回だって頷ける。毎日だって、1時間ごとだって、ありえる。
レジャー施設だけでも国内外に10以上あり、ホテル業、アパレル業…もう、何から何までやってる。マンスリーマンションなんてこの不況下にものすごい勢いで急成長していて。誰だって知ってる、知らないわけない。もちろん、容子だって…沙和乃だって…だって。
沙和乃の勤務するのは、世界に百何十あるナカノホテルのひとつだったり…して。そして、目の前にいる男はホテルの堅物オーナーよりもずっとずっと偉い、もしかして、もしかしなくても、見えないくらい高いところにいる…人物!? こりゃ。 バイトくんが粗相をして、始末書と減給のレベルじゃない。
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