TopNovelココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆4


…4…

 

 

「ねえええっ!! 容子さんっ! ちょっと、助けてっ!」

 とっぷり暮れた夜の闇に忽然と浮かぶ硝子張りの建物。純白の外壁、並んだプランターにスミレの寄せ植え。

 入り口には「Closed」の札がかかっている。でも、そんなのは気にも留めず、沙和乃はドアを乱暴に押していた。

「あらあ〜、沙和乃サン。何よぉ〜、今日はもう看板よ…」
 店内を掃除していた女性が、箒とちりとりを手に振り向く。しかし、彼女の言葉はそこで一度途切れた。

 ぽとぽとぽと。フロアマットの上に落ちるしずく。それは裏通りの公園からずっと続いている。井戸から這い出てきたお岩さんというか、生ゴミを集めて回ってるゴミ収集車というか…。

「…何? それ…」
 たっぷりと30秒の沈黙の後、それでも彼女は接客業特有の機敏な反応で立ち直った。

「う〜、ちょっと落っことしちゃったの…」

 容子さん、と沙和乃に呼ばれた店員の女性が、店に備え付けの真っ白なバスタオルを数枚持ってきてくれた。それを頭に乗っけられても、男はかみ合わない口元でガクガクしているだけだ。

 


 どういう神経してるのか、途中で止まればいいのに…この男ときたら頭から噴水の中に突っ込んだかと思ったら、ずるっと足を取られて全身を水に沈めてしまった。

 その一瞬の出来事を、沙和乃は薄暗い公園で呆然と見ていた。時間にしたらあっという間だったと思うのに、スローモーションで行われていくその行為はあまりにも緩やかで途中で助けてやろうとかそう言う気にもならなかった。

 立ち上がれば膝くらいまでの深さしかないその水場から四つんばいになって身を起こし、無言のままで体勢を立て直す。でも…どこから見ても全身ぐっしょり…。

 さっきまで逃げていた。この男とは関わりにならないしようと思っていた。今だったら逃げられる、男もこの格好のままでは追っては来ないだろう。そんなことをしたら、オカルト映画も真っ青だ。

 …でも。

「…ねえ」
 沙和乃は噴水の柵から出てきた男の手をぐいと引いた。それはぐっしょり濡れていて、その上ちょっと青っぽいコケのような匂いがした。

「え…」
 男が微かに反応する。その表情はすっかり落ちてしまった前髪で全然確かめられない。

「ちょっと、来てちょうだい」

 それだけ言うと、くるっと背を向ける。そのまま、前に踏み出す。引く腕に抵抗はない。その代わり、ずぶずぶと音がする。水にはまったままの靴で、それでも付いてきてくれているのだ。薄暗い裏通り。吹きすさぶ風。男の身体がぶるぶると震えるのが腕越しに伝わってくる。

 …ああ、私、何してるんだろ?

 何とも情けない気分で、沙和乃は歩道のタイルを見つめていた。

 


「…これ。ダンナので悪いんだけど」
 容子は一度店の奥に下がって、一揃えの服を持って戻ってきた。

「衝立、立てたから。あの影で着替えて? そのままだと風邪引いちゃうわ…」

「あ…はい」
 大きな体でうなだれて、雨に打たれた柳の木のようだ。彼は容子の言葉に素直に従って、服を受け取った。

「んじゃあ、悪いけど。私はガキ共に餌の支度してくるわ。沙和乃サンはその辺でくつろいでいて」
 そう言って容子は下がってしまう。

 時計を見る。もう7時だ。そりゃあ、子供は腹を空かせるだろう。沙和乃だって、3時の休憩にちょっとお菓子をつまんだだけで立ちっぱなしの重労働をしていたのだ。思い出したようにおなかの虫がくうと鳴く。ああ、雑誌のグルメ情報がさらに腹に響く…。

 だからと言って。

 衝立の向こうの気配を確かめる。

 一応、自分で着替えているらしい。あのスーツ、高いんだろうなあ。どうしよう、クリーニングが「おしゃれ着あらいコース」で割高だったら。それより「手洗い・雅コース」でさらに高かったら…給料日前なんだよなあ、参ったなあ…。でも、こっちに原因があるんだし、弁償だろう。かといって、このまま捨てて帰ったら、容子にどやされるだろうし…。

 考えていたら薄暗い気分になったので、また女性週刊誌に目を落とす。どうにも馬鹿馬鹿しいったらない芸能人夫婦の痴話喧嘩。どうして「友人A」まで出してきてこんなにもり立てるかなあ…いい加減にしろよなあ、とか思いつつ、ついつい見入ってしまう。結局、どうでもいいような解説でまとめてあるんだけど。

「すみません…終わりました」

 やがて。

 申し訳なさそうな声がしたので、反射的に顔を上げる。鼻先まで落ちた髪をかき上げた男。しかし、彼の瞳に映っているのは呆けた沙和乃の顔。

 …がたんっ!

 次の瞬間、思わず椅子から立ち上がっていた。そうしてしまうほどの衝撃があったのだ。そのまま、数歩、後ずさりする。手にしていた雑誌は床にばさりと落ちていた。

「…あんた、誰?」

「…あ、ええと…」

 口をぱくぱくさせている沙和乃に対して、もごもごと口ごもる男。ふたりが会話不成立で立ち会っていると、そんなことも知らず奥からバタバタと足音がした。容子が両手に皿を持って来たのだ。

「多めに作ったから、食べてよ。簡単なので申し訳ないけど」
 容子は沙和乃の目の前のテーブルにその二枚の皿を置いた。

「あっら〜、結構イケメン? 沙和乃サン、どこで拾ったのよ、この子…」
 そう言っている、口元が楽しそうだ。彼女は興味津々の視線で、男と沙和乃を交互に眺めている。特に初めて出会った、男の方を…。

 そう。

 この男。落ちかけた前髪、どうしてか外した眼鏡(あとで、ダイブの時にフレームが壊れていたこと、判明)。容子の夫の綿シャツとジーンズを着込んで、立っている男…。

 何というのか違う、まるで…別人っ…!

 沙和乃は慌てて視線を落とす。もう直視できる状態ではなかった。

 彼女の視界に次に飛び込んできたのは、ホカホカと湯気を立ててるスパゲッティ…この香りはどう見ても缶詰のミートソースを絡めた感じだ。でも、おいしそう。と思えてしまう空きっ腹が悲しい。

「…とりあえず」
 ちらっと、瞬間だけ顔を見て言う。凝視は出来ない、いくら何でも。

「頂きましょうか?」

「どーぞ、どーぞ…」
 容子はフォークを差し込んだ状態の皿を男の前にも差し出した。

「あ、はい…」
 そう返事すると、男は勧められた椅子にも座らず、おもむろに小銭入れを取り出した。

「あの、ところで…これは、おいくらですか?」

 


「ばっかねえ〜、あんたっ!?」
 空きっ腹だった、と言うのもあるが、膝を組んだ状態でがつがつとかき込む。

「え〜、でも…」
 一方、向かいの席では、膝をぴったりとくっつけた姿勢でおとなしくフォークを使っている男がいる。ちょっと心配したが、小指を立ててフォークを持つとか、そう言うことはしてない。一度に絡めるパスタの量は沙和乃の半分くらいだが、綺麗に巻いては口に運ぶ。口元も綺麗だ。沙和乃なんてお手ふきがケチャップ色になるくらい何度も口を拭っているのに。

「た、ただでものを恵んでもらうことは出来ませんし…」
 彼の視線がこちらを向いたので、慌てて顔をそらした。ああ、何を焦っているんだろう…!?

 正直、こんなに服装で人間が変わるとは思わなかった。一夜を共にした女性が明るい朝日の中で見たら別人になっていた、とは男たちの間でよく聞く話だ。沙和乃だって同僚の女の子たちの「使用前・使用後」の様変わりに唖然としたことは一度や二度じゃない。…でも、男性がこんなに変化するものだとは。

「あのねえっ…!?」
 多忙な職場の悲しさか、すっかり身に付いてしまった早食いでさっさと皿を空けると、沙和乃は苛立ってそう叫んでいた。

「人の好意をね、そう言う風にお金でさっさと解決しようとするんじゃないのっ!」

 そう言えば、この男。この前も自販機の前で、120円を払うと言って駄々をこねたっけ。あそこで払われたら訳が分からなくなってしまうのに。説得するのが大変だった。

「そ…そういうものなんでしょうか…?」
 沙和乃が食べ終わったことに気付いたのだろう。男のフォークの動きが早くなる。

「女性に…お金を使わせるなんて…そんな」
 どうにか平らげたようだ。舐めたように綺麗な皿を置きながら、彼は沙和乃の顔色をうかがっている。瞬きするとびっちりと生えたまつげが綺麗に揺れる。それを意識してしまう自分に気付いて、また視線をそらした。

「若造のくせに」
 口をついて出てきてしまった言葉。何しろ毎日、バイトくんたちの扱いで参っている。若い男は苦手だ。

「結構、言うじゃないの?」

 面倒くさそうに髪をかき上げてちらと見ると、男がちょっと怒った顔でこちらを睨んでいた。顔がトマトのように真っ赤になっている。

「僕はっ! …若造じゃありませんっ! 立派な紳士ですっ! 紳士は女性をリードして、しっかりと立ち振る舞うものでしょう…!?」

 ――言ってることが、若造じゃん。

 そう言いたかったけど、あんまり可哀想に思えて黙っていた。

「はいはい」
 沙和乃はふたり分のお皿を下げようと立ち上がる。

「あんたの言い分は分かったわ。お茶でも貰ってきてあげる」

「…馬鹿にしてる…」
 沙和乃が喉の奥でくすりと笑ったのが分かったのだろうか? 吐息混じりの拗ねた声。

「沙和乃さん、僕のこと…一人前の男性としてきちんと見て下さってないでしょう?」

「へ?」

 その通りなんだけど。思いっきり、そう言うつもりで振る舞ったんだけど。あまりにストレートに指摘されて、思わず浮いた腰をもう一度椅子に沈めてしまった。いいや、お茶はあとで。

「どうしてそんな風に小馬鹿にするんですか? 失礼でしょう…」

「あのねえ〜?」

 ふと見ると、客が忘れていったものだろうか? 台の上にメンソール系のタバコとライターが置いてある。腕を伸ばしてそれを手にした。小道具としては申し分ないだろう。

「じゃあ、あんたは…どうして私のこと、追いかけ回すのよ? 馬鹿にされるって怒るくらいなら、さっさとどっか行けばいいじゃないの? 自分のやってることの方が馬鹿なことだって、いい加減に気付きなさいよね!?」

「え…だって…」
 男は恥ずかしそうに俯いた。ほんの少し前までは胸くそ悪いと思っていた態度なのに…姿が変わると、ちょっと可愛く思えてしまうのはどうしてだろう。

「沙和乃さんは、とても素敵で魅力的な女性です。ひと目見たら、忘れられませんよ…」

 そう言って頬を染め、潤んだ瞳で見つめてくる。…その、はっきり言って…アイドル雑誌のグラビアに載っていてもいいような…顔で。

 まずい。

 はっきり言って、ジャニーズ系は好きだ。一時、「SMAP」の追っかけもどきをやっていたこともある(さすがに年甲斐もないと思って、やめたが…今でもキムタクを見るとときめく)。嵐の新譜だって、カラオケの十八番だ。

 ……眼鏡を外して、髪型をちょっと変えて、服装が替わっただけじゃないか。

 すっかり、「みにくいアヒルの子」が 白鳥になってしまった。こりゃ、マジでヤバイのだ。

「でもさ、そろそろ、その幻想も崩れ去ったでしょう…?」
 見せつけるようにタバコを一本取る。見たことのない薄緑のそれは、普通のものよりかなり細長い。外国タバコかなあ。そう思いながら、左手でかちかちと100円ライターを使う。思い切り、男の視線を意識しながら。

 ほら、ご覧なさい。男共は嫌いでしょう? タバコを吸う女。あんたみたいな堅物だったら、これで一発ね。意識してるのを隠しながら、口元に笑みを浮かべた。しかし、余裕のあったのもそこまで。

 …点かない。

「あれ? …どうしたんだろう? ガスがないのかなあ…」
 淡い炎は点いてるのか点いてないのかも分からない。いつまで経っても、タバコの端は赤くならないのだ。さりげなく呟いたつもりの声が、かなり震えているのが自分でも情けなかった。

 男が見てる。そう思えば、もっと焦ってくる。…ああん、もう。やめようかな、と思ったとき。今まで黙っていた男が、おもむろに口を開いた。

「沙和乃さん…タバコって、口にくわえて息を吸い込みながらじゃないと点きませんよ…?」

「…え?」
 顔を上げたら、くすくすと笑いを堪えてる男と目が合ってしまった。瞬時に、顔がかあっと熱くなる。

「…し、知ってるわよっ!? それくらいっ!!」
 言われたとおりにやってみると、難なく、ぽっと明るい炎が灯った。ホッとしたのも一瞬で、次の瞬間に思い切りむせ込んでしまった。

「あ…慣れない味だから、ちょっとびっくりしたわ」
 しっかりとばれていそうな気もするが、とりあえず言い訳する。男は嬉しそうに微笑むと、自分も一本取った。

「そうですか…? じゃあ、僕も味見しようかな…火、くれます?」

「あげるわよっ! ほらっ!?」

 …ぼっ…。

「き、きゃああああっ!?」
 思い切り振り回したのがいけなかったのか? 火柱がものすごい勢いで上がってしまった。

 ――そして。

 ちりちりと、焦げる匂い。あの、鼻を突く、何とも言えない…気持ち悪い…。

 

 注意一秒、怪我一生。

 一瞬にして。男の前髪が何十本、何百本という範囲で焼けていた。

 


「ああん、もう…沙和乃サン…」
 容子は心底呆れた様子ではさみを使う。

 男はてるてる坊主状態にケープを被せられて、ちょこんと鏡の前に座っていた。

 とんでもない時間外労働だ。明日は月曜日だから、子供たちの学校の支度もあるはずなのに。まあ、それでも職人根性でどうにかしてくれる。沙和乃にとって、容子はとても頼りになる女性だった。

「…君、申し訳ないけど…これじゃあ、もう横に流すのは無理よ? 髪型変えないと対処できないけど、いいわね? 今時、7:3なんてねえ…変だし、いいんじゃないの?」
 そう言いつつも、もう選択させる意志もないらしい。はさみ使いがとても潔い。次に沙和乃の方に話しかけてくる。

「でもさ、この僕ちゃんが、例の『取り違え事件』のご当人だとはね。沙和乃サンが話してくれたのと、だいぶ違うじゃない? 何? …私に横取りされると思って、いい加減に言ったんでしょう?」

 あの日のショックな一幕は誰かに話さなくちゃどうにもならなそうだった。そして、全てを分かってくれるのはこの美容師しかいない。翌日、カラーリングをするという名目で、もうべらべらと全部話していたのだ。

「…そんなじゃないわ…」
 セルフサービスよ、と容子が持ってきたインスタントコーヒーの瓶を開けてざらざらとカップに入れ、ポットのお湯を注ぐ。面倒なのでそのまま飲んだら、ものすごく苦かった。

「あの…」
 男がもぞもぞしながら、脇から口を挟む。

「僕、ちゃんと名前があります。きちんと呼んでくださいっ!」

 …は!?

 思わず容子と顔を見合わせてしまう。鏡の中の男はふくれっ面だった。「君」とか「あんた」とか「僕ちゃん」とか…そう言う風に呼ばれて、相当面白くなかったらしい。

 …そう言えば、名前なんて、聞いてなかったわ?

 ようやくそのことに気付いた。もしかしたら、一生気付かなかったかも知れない。と言うか、沙和乃にとってはそれほど重要なことでもなかったし…。

「なかのしまばらしゅうごろうですっ!!」

「え…?」
 それほど、早口だったわけでもない。でも全然聞き取れなかった。

「なかの…くん?」
 接客業10年以上ばりばりの容子ですら、眼をぱちくりさせてる。男はケープの下で手をごそごそっとやって、容子に名刺を差し出した。それを一応形式でうやうやしく受け取った彼女が、あ、と声を上げた。一瞬、顔色が変わる。そのあと、無言で沙和乃にそれを手渡してきた。

『那珂野島原周五郎』
 普通サイズの名刺に縦一杯に並んでいる文字。これが姓と名だろうか? でもどこで切るんだろう…!?

 …じゃなくて、あの…、あのっ!?

『ナカノ・コーポレーション 専務』…って、あんた、何ですかっ!?

「これ…お父さんの名刺とか、どっかで拾ったとか…言わない…よね?」

 一応、確認する。でも男はさらにふてくされた声で言う。失礼ないい方をしたんだから、当たり前だろう。

「…僕のですっ!」

 でもっ、でもっ…!?

 ああ、容子があきれ果てた顔でこちらを見ている。ああん、知らなかったんだよ〜何にも知らなかったんだよ〜っ!?

 お見合いが300回!? そりゃそうかも知れない、だって、この男の妻になりたいと思う女性は山ほどいるはずだ。300回どころか1000回だって頷ける。毎日だって、1時間ごとだって、ありえる。


 ナカノ・コーポレーション――リゾート事業を幅広く展開する総合会社。

 レジャー施設だけでも国内外に10以上あり、ホテル業、アパレル業…もう、何から何までやってる。マンスリーマンションなんてこの不況下にものすごい勢いで急成長していて。誰だって知ってる、知らないわけない。もちろん、容子だって…沙和乃だって…だって。


 そうなのだ。

 沙和乃の勤務するのは、世界に百何十あるナカノホテルのひとつだったり…して。そして、目の前にいる男はホテルの堅物オーナーよりもずっとずっと偉い、もしかして、もしかしなくても、見えないくらい高いところにいる…人物!?

 こりゃ。

 バイトくんが粗相をして、始末書と減給のレベルじゃない。


 沙和乃は。目の前の全てが一瞬でモノクロになり、がらがらと音を立てて崩れる様を感じていた。

<< BACK   NEXT >>


Novel Indexココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆4