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「沙和乃さ〜んっ!?」 …あ、髪の色が明るくなってる…容子さんてば、本当にやったのね。沙和乃はそれが日の光の加減でないことを、手を額にかざして、さらに眼を細めて確認した。 久しぶりにぽかぽかと暖かい日差し。ウイークデーのまっただ中、水曜日の朝11時。オフィス街は閑散としている。 その明るい日差しの中で、彼はこの前までのダサダサスーツではない。レザー素材の明るめの茶色のジャケットは、ハワイアンキルトで何とも言えないおかしな模様が白く浮き上がっている。ラーメンどんぶりの渦巻きみたいなのはともかくとして、二の腕の所の壊れたインディアンの酋長みたいな顔は何だろう。誰だ、こんな図案を考えたのは。短めの裾はフリンジになっていて、前はダッフルコートみたいなボタン留め。 どー見ても、そこら辺を歩いてる若者だ。まあ、スタイリスト(?)付きなのだから、当然と言えるけど。 「…合格、でしょうか?」 「眉も、剃ったの?」 凝るなあ、容子さん。いちいち変わった部分を確かめてしまう。あの、生まれたときからそのまんまです、みたいだったぶっとい眉毛が、おでこのラインに沿って綺麗なカーブを描いている。細すぎず、太すぎず。絶妙なバランスで。 で…どうしてないんだよ? 目の周りの黒枠…というか、コイツ、眼鏡どうしたの?? 「あ、ああ…アレは、伊達ですから」 「…は?」 沙和乃は口をあんぐりと開けたまんま、きらきらの瞳を思わず凝視してしまった。ときめきの視線に射抜かれて、慌てて目をそらす。
…何でなんだよっ!? 知的に見えるとか、そう言う理由で伊達眼鏡をするんなら、頷ける。でも、はっきり言ってこの男の眼鏡はださい男の代名詞みたいなものだった。どうせならもっと素敵なファッションフレームはいくらでもあるだろうに、どうしてあんなのをかけていたのか?
「で、合格ですか? どうですかっ!?」 は、恥ずかしそうに髪をかき上げる仕草が香取慎吾くんみたいだぞ(何となく)。ああん、もう、どうしよう…そう思いつつ、沙和乃は日曜日の容子の提案を恨めしく思い返していた。
「…は?」 「周ちゃんさ〜、沙和乃サンに会いに来てくれたんでしょう? あんまりつれなくしたら、バチが当たるんじゃないの?」 45度の角度になって流し目する。実は若気の至りで、結構名の知れた黒ずくめお姉ちゃんだったという過去があるらしい彼女。凄むと怖いのだ。 それに…何と言うことか、あっという間に「ちゃん」付けになっていたりする。このことは、容子が周五郎を非常に気に入ったことを意味していたりして。 ゴォンというドライヤーの音。首筋に熱風が当たったのか、男が首をすくめる。くすぐったそうだ。
口では敵わないことが分かっているから、心の中で沙和乃は呟く。 ちょっと考えれば、分かりそうなものだけど。この異常な状況。とても尋常とは思えない。いきなり取り違えてしまった男が、5歳年下のお坊っちゃまで。…しかも日本の頂点にも立とうという一流企業の二番目に偉い人で…。 ギャグで済まそうと言うならいいだろう。ちょっと悪ふざけがする気もするが、オトナとしてこれくらいのジョークには乗ってあげてもいい。でも、それを持っても、沙和乃には時間がないのだ。どうにかしたいのだ。叔母さんにはお見合いの1ヶ月停止を通達されてしまったが、まあ、他にもツテはある。一流企業に勤務する友人。持つべきものは友達だ、こう言うときに役に立つ。 …こんな場違いな男に引っかかっている暇ないのよ。
そりゃあさ、忙しい日常で、使えないダンナと激うるさいガキ共に囲まれて、彼女だって娯楽が欲しいのだろう。でも、自分で遊ばれちゃ、たまったもんじゃないっ! 「あのさ〜、容子さん…」 「沙和乃サン、定休は水曜日だったよね?」 「あ…うん」 「ねえ、周ちゃんは? 専務なんて暇なんでしょ? 時間作れないかなあ、水曜日…」 「え…あのっ…」 「夜の7時からは祝賀会があるんですが、そのほかはどうでも調整できるようなスケジュールです」 ちらっと覗いた頁には、スケジュールらしいものが細かい字で律儀に書かれている。今時、手書きの手帳か…電子手帳とか使うのかと思った。まあ、そんなものを使っていたら、さっきのダイビングでおじゃんだったかも知れないけど。 「そっか〜、良かったっ! じゃあ、水曜日の朝8時半にここに来てっ! お姉さんが腕によりを掛けて、格好良くしてあげるからっ!」 満面の笑みで周五郎に告げてから、こちらにくるりと振り返る。その目は一転して姉御視線だ。 「沙和乃サン、ダサイ男は嫌いなんだよね? そうなんだよね?」 …まあ、そうです。出来ることなら、格好いい方がいいです。でも…? 「私、なんだか盛り上がってきたわっ! 周ちゃんをとびきりのいい男にしちゃうから! 今日は時間がないから諦めるけど、髪ももっと明るい色にして…服もね、選んでおくわ。素材がかなりいいんだもん、絶対にイケるってv」 「…へ?」 話が見えない。だから何だというのだろう? 周五郎がいい男になったからと言って、沙和乃には全然関係ないのに…!? 「ねえ、周ちゃん?」 「沙和乃サンとデート、したいよね?」
…ななななな…? 何なの!? 煽らないでよ〜、ほらっ、鏡の中では一瞬で真っ赤になってボーっとしてる男がいる。本当にその気になったら、どうするのよ〜〜〜〜っ!?
「そっ…それはっ! もちろんですっ、そんなことが出来たら、夢みたいですっ!」
――だ〜〜〜〜〜っ…、ほら、言ったこっちゃない…。
「うんうん、分かるわ〜そうよねぇ…」 「ね、沙和乃サンっv ここは私の顔を立てると思ってさ、いいじゃない、ちょっとゲームをしましょうよっ♪」 「…はあっ!?」 なっ!? 何を言い出すんだっ…! すっかり血の気の引いて青ざめた沙和乃の顔を、容子の視線が辿る。 「水曜日の11時に、周ちゃんをとびきりの男にしておくわ。それで沙和乃サンが合格点を出したら、1日付き合ってあげなさいよ。どうせ、何も予定入れてないんでしょう?」
容子の心意気がそのままかたちになったのが、今、目の前にいる男だ。自分でもかなりの出来だと思っているのだろう、今までで一番の希望に満ちた瞳をしている。それを一瞬見上げて、視線を落とす。ああん、もう。どうしたらいいんだかっ…。 正直言って、かなり激しく好みの仕上がりだ。容子は沙和乃の好みなんて熟知している、それなりの素材の男を仕立て上げるのは朝飯前だろう。だからといって、これはすごすぎる…。 もしも。街角で声を掛けられたら…キャッチセールスでも付いていってしまいそうだ。まかり間違えば、100万円の着物だって、高級羽毛布団だって買ってしまいそうだ。しかもリボビング払いの莫大なローンを組んで。 でも…そんなこと、言えるわけないじゃない。こんな男と付き合っていられますかって。 「…全然、好みじゃないわ。残念だったわねっ!」 吐き捨てるように言うと、顔を上げた。必要以上に身長がある人間は苦手だ。167センチの沙和乃が見上げてしまう身長なんて、邪魔なだけだろう。バスケのレギュラーとかなら意味あるけど、この男はその手のスポーツは苦手だと思う。 思い切り、冷たく言ったのに。それなのに、男はにこにことこちらを見ている。すごく余裕だ。何考えているんだろう…? 挙げ句、くすっと声を立てて笑う。何っ!? 失礼しちゃうわっ! 「何よっ!?」 「…嘘でしょう? 沙和乃さん、心にもないこと言ってる…」 「沙和乃さんは、しらばっくれようとするとき、髪の毛を指に絡めて、くるくるってするって。容子さんに聞きましたよ?」 「え…?」 慌てて、手元を確認する。沙和乃の右手の人差し指はウエーブヘアを絡め取っていた。 「ね、合格でしょう? そうでしょう?」 「…知りませんっ!」 「沙和乃さんも…すごく可愛いですよ? 嬉しいな〜」 …え? これは「かろうじて、電車には乗れるかな?」程度の普段着だ。お見合いの時みたいにかしこまる必要ないし、さっさとゲームとやらを終わらせて家に戻ろうかと思っていた。久々の休日なんだ、やりたいことはいっぱいある。両親が地方勤務で自分しかいない家。掃除だってしなくちゃ。 薔薇模様のえんじ色のシャツ、デニムのロングスカートは滅茶苦茶なはぎ方で、色々な色や模様の布が重なり合って出来ている。裾もわざとギザギザしている。ウエストには買った頃の流行でチェーンまで付いてる。ほとんど、家着だったりする。 まあ、…いつもよりは数段、若作りだとは思うけど…。 まじまじと見られると、恥ずかしい。思わず、視線が足元だ。きっとものすごい猫背になってる。
「ほら、早く行きましょうよ」 そんな沙和乃の心内なんてすっかり無視して。自然に左手を取る、周五郎の右手。大きくてすべすべしてる。身体がでかいんだから当たり前だけど、手もかなり大きい。沙和乃も女性にしては手のひらが大きくて、そこら辺の男共よりも逞しいくらいなんだけど。これは太刀打ちできない大きさだ。 「えっ? …ちょい待ちっ! あのねえ…どこ行くのよっ!」 「駅前のホテルの最上階に、フレンチのレストランがあるでしょう? あそこのVIPルームでランチを食べましょう? 電話すれば、部屋は用意してくれるから…ナカノのホテルでも良かったんだけど、それじゃあ、沙和乃さん、知り合いがいっぱいで困るかなと…」 「あ〜、ちょっとっ! 待ちなさいよねっ! あんたっ!?」 「ねえ、こんな格好でホテルのレストランなんて入れないわよ? つまみ出されるわよっ!?」 「え? そんなの」 「滝口のおじさんにひとこと言えば、通してくれますよ? だから、大丈夫…」 「え…」 「午後は、今、来日している劇団の舞台に行きましょうか? 3回ほど見せて貰いましたが、面白かったですよ? 子役の子も可愛かったし…」 今度は予約のチケットが売り出しスタート3分で完売してしまったという舞台の話を始める。沙和乃の職場でもそのチケットを手に入れるために色々と苦労した同僚がいた。ダフ屋で買おうとしたら、立ち見席が10万円とか言われたとか? まあ、本場までみんな見に行くほどの人気劇団だ。ワールドカップのチケットか宝くじ当たり券並みの倍率だったらしい。 もう沙和乃の頭の中はごちゃごちゃと混線状態。しかもこれらのことを鼻にかけて偉そうに言うんならまだいいが、この男の場合はすらりと言ってのける。肩に力が入らず、のほほんと…。 「あっ、あのっ…!?」 「僕は7時から予定がありますが、その前に軽くディナーもいいですよね? う〜ん、どこにしようかなあ…沙和乃さんはどんなものが好みですか? 中華? イタリアン? それとも和食かな…ふぐ料理のおいしい店がありますから、そこにしましょうか…?」
沙和乃は。どうにかしなくては、と思った。このままではこの男のペース。もう見てくれではどうみても合格点、花丸3つだ。その上、ぽんぽんと魔法のように、TVのグルメ番組でしか見たこともないような店の話なんかを出された日にはどうしていいのか分からない。ああ、干してきた布団、どうしよう。本当にすぐに戻るつもりだったのに…!
「ち、ちょっとっ!? …待ちなさいよねっ!」 必死で左手を振って、男の手を解く。そして、言葉を遮られて、ぽかんとしている周五郎にずいっと近寄った。 「あんたっ! 私をなんだと思っているの!? こんな格好で色々連れ回して、恥でもかかせたいのっ!?」 「…え?」 「そ、そんな…僕はただ、沙和乃さんと一日ご一緒できるなら、最高に楽しんで満足して頂こうと思って…」 いきなり怒鳴られて、しゅんとしてる。ああ、その悲しそうな目でこっちを見たって無駄だからねっ! …実はそそられてしまうんだけど、無駄なんだから〜〜〜〜っ! 「あのねえっ! この格好はね、河原にでも寝っ転がって、コンビニのお弁当でも食べるようなスタイルなの。あんたの言うような、洒落臭い場所なんて似合わないのっ! あんたも格好を変えたんなら、それくらいは考えなさいよねっ!」 「は、はあ…」 「私、あんたなんかと付き合ってられないわっ! あんただって、そうでしょ? お似合いのお嬢様とどこにでも行きなさいよっ!」
しばらく歩いて気付く。背後から物音がしない。追いかけてくるとか、そう言うこともないのか。狭い公園の出口はすぐで、車止めの前で振り返った。その瞬間、ぎょっとする。 「さ、沙和乃さん…っ…」 ばちっと目が合ってしまって、そらせなくなった。 だって。周五郎がぼろぼろと涙を流しているんだから。真っ昼間の公園で、大の男が。しかも、がたいもでかい男が。顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっている。ああ、広い肩を震わせて…。 「ぼっ、僕っ…楽しみにしていたのにっ、昨日は嬉しくて、一晩中眠れなかったのにっ…! 格好いい男になれば、一日おつき合いしてくださるんじゃなかったんですかっ…?」 そこまで言うと、ずずずっと鼻をすすり上げる。全くみっともない格好だ。こんな態度は「格好いい男」じゃないと言うことに気付いてないのか?
…私、悪くないもんっ…。 大きく深呼吸しながら、何度も反芻する。男に泣かれて、同情なんてしないんだから、絶対に。勝手に泣いていればいいじゃないのっ…!
なのに。足が知らないうちに前に出ていた。 「…馬鹿っ!」 これは、自分のために流している涙だ。この男は本当に、沙和乃に会いたくて、会いたい一心で髪型も変えて、ついでに色も変えて、やってきたのだ。 …そう思えば、可愛いとしか言えない。正直、ここまで一途に思われた経験は29年の人生で初めてだ。「胸がきゅんとする」と言う、少女漫画的な心境に覆われつつある自分が恐ろしい…。
だから。 ちょっと、茶目っ気が出てしまったのかも知れない。我ながら不本意だと思う。でも、沙和乃はようやく顔を上げた男に、いつの間にか話しかけていた。 「…今日は、私の行きたいところに行っていい? だったら、付き合ってあげてもいいけど」
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