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ぽかぽかと昼下がりの陽気。どこまでも続く、極上の青空。見上げたら、何だか笑いがこみ上げてくる。思わず、くすりと声を立てると傍らを歩いていた足音がぴたっと止まった。 「…また、笑ってる…」 三歩歩いてから立ち止まって振り返る。それから、見上げると…やってもいない悪戯を咎められた子供のような表情が伺えた。 「だって」 「あんたって、すごく面白い。一体、どんなお育ちなんだろう…」
…それが。 この男、地下鉄の切符が買えないのだ。それにはとても驚いた。沙和乃は定期があるので、駅名を伝えて自動改札の前で待ったが、何時になっても戻ってこない。仕方なく券売機の所まで行ってみると、路線図を見上げて呆然としている周五郎がいた。 「ばっかね〜」 「行き先は『学園都市前』…見てご覧なさい、170円。もしも探しにくかったら、隣りに五十音別表示があるでしょう?」 「ああ、はい…」 「どうしたの?」 「あの〜沙和乃さん。カードが入りません」 見ると。彼の手には金色のクレジットカードが握られていた。
地下鉄の駅から出て、家までの道のりにあるラーメン屋さんに入った。中華料理店と一応の看板は出ているが、どう見ても全くのラーメン屋さんだ。沙和乃の家は駅の南側にある山の手ではなくて、裏駅の方をずっと歩いていった住宅街にある。ごみごみした商店街の両脇に軒を連ねる様々な個人商店。その店先を興味深そうにのぞき込む仕草がおかしかった。 「だって…まさか生きてるとは思わなくて…」 「馬鹿ねえ…」 「あっちの果物屋さんなんてね、パイナップルの葉っぱが動くのよ?」 冗談で言ったつもりだった。それくらい分かりそうなものなのに、周五郎の方はマジだ。 「ええええっ! 果物も生きているんですかっ!?」 ―― 一瞬。ラーメン屋を通り越して、精神科に行こうかと思ってしまった。
まず、店頭で、立ち止まったまま動かない。引き戸を自動ドアだと勘違いしていたらしい。もちろん、のれんに隠れていたドアの天井には頭をぶつける。そう言えば、さっき地下鉄でもぶつけていた。学習能力というのもがないらしい。当たった拍子にのれんを落として、店中の注目を浴びる。その視線たちにも驚いていた。工事現場のおじちゃんたちが中心だから、無理もないだろう。 多分、周五郎はこんな感じの店に入ったことがないのだろう。給料日前だから沙和乃にも持ち合わせが少ない。ゴールドカードしか持ってない男の分まで払うとなると、こんな店しか選べない。それにここは汚らしい外装に似合わず、とてもおいしいのだ。スープは3代続いた店主たちが代々研究してきたものだし、麺は手打ち。もちろん、餃子やしゅうまいの皮だって自家製だ。 「…おいしいでしょ?」 「あ…はいっ! おいしいですっ!」 備え付けの銀色の水差しからプラスチックのコップにお冷やを注いでやると、一口飲んで顔をしかめた。さすがに口には出さなかったが。仕方なくウーロン茶を頼んでやる。 「とても庶民的なお店で、正直心配したんですが…すごいです、とてもおいしいです。さすが沙和乃さんですねっ!」 「おいしいですね〜ここの料理人を自宅のキッチンにシェフとして採用したいくらいですっ!」 …やはり、言うことがちょっとずれてる。沙和乃はプラスチックのコップのお冷やを飲みながらそう思った。
まあ、家に上げても良かったんだけど、この辺は結構近所づきあいが盛んな土地柄なのだ。もしも男を連れ込んだなんて分かったら、半径1kmの噂になってしまう。売り時を過ぎようとしている沙和乃の情報は特に高く売れる。あ、売っている人はいないけど、井戸端会議の情報としてはおいしいネタなのだ。これのせいで、何度ひとり暮らしをしたいと思ったことか。 でも近所の同級生の話によると、そんなことをしてもなお大変らしい。あることないこと、とてつもない話になっている。時には他の子とごっちゃになっているときもある。ある子などは、知らないうちにバツイチの子持ちにされていたそうだ。ちなみにダンナはギャンブルに狂った上、女を作って逃げたとされている。おいおい待てよ、お昼のドラマじゃないんだからさ…。 地元に住んでいれば、少なくとも結婚したか、子供はいるかくらいは認識して貰える。沙和乃が毎朝、出勤して夜に戻れば一応オッケーなのだ。
「あ〜、沙和乃さんっ! お帰りなさいっ!!」 「ぎゃあああっ! あんた、なにしてんのよっ!?」 「ば、馬鹿っ! 真っ昼間から、いい大人が何してるのよっ!」 「え〜、だって…」 「ウチの庭には屋内プールはあるのですが、あんな立派な遊具はなかったんですよ…あの高い骨組みみたいな奴にも登ってみたいなあ…」 「あのねえ」 「公園の遊具ではね、普通は大人は遊ばないの。そりゃね、子連れのお父さんとかなら話は別だけど…」 「…そうなんですか」 「僕、危ないからって。公園などで遊ばせて貰ったことなかったんです。どこに行くにも警備の大人が付いてきて、道を尋ねるのもその者たちがやってくれます。駄目だなって思うんですけど…」 おいおい、あんたいくつだよ? そう思ったが、沙和乃はハッとして、辺りを見渡してしまった。 「…ねえっ! まさか…今日もどっかで見張られているんじゃないでしょうねっ!」 ――この男があまりにのほほんとしていたので、すっかり忘れていた。 よくよく考えたら、日本をしょって立つ企業のお偉いさんだ。「何か」あったら大変なのだ。皇族の方はどこに行くにも警護の人間が付いているではないか。あれと同じなのだろうか? スナイパーだか、スイーパーだかって言うんじゃなかったっけ? 忘れたけど。 「え…それは大丈夫ですよ?」 「『7時に祝賀会に出る』ってことにして、それまではフリーにして貰いました。爺に全て申しつけてありますから、大丈夫なはずです。18時15分までは自由なんですから」 「…じ…爺っ!?」 ちょっぴり、シンデレラを見送った王子様の気持ちが分かった気がした。自分が王子様になってどうするんだ…。
ごみごみした裏通り。夜になればネオンがばりばり点いて、怪しげな感じになる。でも昼間なので店のほとんどはシャッターを下ろして静まりかえっている。そんな街角に「営業中」の看板がカタカタと揺れていた。 「うん、半端に時間が余っちゃったし。何か、デートって感じでしょう?」 「う…そうでしょうか?」 臆している男をあとにどんどん階段を下りていった。踏み外しそうな急な傾斜だが、慣れているから大丈夫。押して入るドアの向こうは、信じられないくらいこざっぱりした空間が広がっていた。 「…2号館だって」 「リバイバルの映画館なの。良く来るんだ。金曜日はレディースデーで2本で1000円なのよ?」 「へえ…」 移動時間が長かったのか気が付いたら2時近くなってしまって。今からだとどこに行くにも中途半端だ。茶店で時間を潰すには長いし、かといってウインドショッピングは目の毒だし…周五郎は一文無しだし(カードは持ってるけど、今日は使用不可という条件にしてある、面倒だし)。 画面に浮かんでくる見慣れた映像。ここの館長が特に好きな映画のひとつ、子供たちの青春を描く洋画だ。優しいテーマソングが流れてくる。ほとんど貸し切り状態の館内。座り心地のいい椅子に、身体を沈めた。
「沙和乃さんって。涙もろいんですね…意外です」 「…悪かったわねっ!」 大丈夫だと思った。隣でやってる「タイタニック」だったら、やばかったかも知れないけど。青春ストーリーなのに、そりゃ、ちょっと感動的ではあるけど。泣くようなものではないのかも知れない。でもやはり、最後の字幕を見たら、泣けてきた。隣にいるのが気負わなくていい男だと思うと我慢がきかない。 「あんた、もう時間でしょ? …行けば?」 「え…でも」 「あとちょっと、大丈夫です。…もうちょっとだけ」 子役の男の子よりもずっと切ない表情。心を揺り動かされていた。
デパートの屋上。寂れた遊具たち。真冬の夕暮れあとにここに人影はなくて、こうこうと灯るライトが空しかった。 町中にあって座るところがなく、椅子を探してこんな所まで来てしまった。冷たそうなベンチに座ろうとするとハンカチを敷いてくれる。さっきの鼻水を噛んでしまったのは、沙和乃がカバンに入れたが、そのほかにも持っていたらしい。多分、ティッシュも持っているのだろう。小学生みたいだ。 座ると目線の向こうに街の灯りが見える。ビルの屋上に作られた看板に色とりどりのランプが揺れる。電光掲示板では遠い国の緊迫した情勢のニュースを流している。下の道路を救急車がサイレンを鳴らして通過した。 「ハンカチのお詫び、食べていいよ?」 「え…?」 渦巻きのソフトクリーム。この寒さで少しも溶けてない。でも閉店間近の売店では、もうほとんどのものは売り切れで、これくらいしかなかったのだ。さっきの映画館で奮発したせいか、お財布には350円しか残ってなかった。 「すみません…」 「こんなにカードが役に立たないなんて…知りませんでした」 沙和乃がお財布の中身を気にしていたのに気付いたのか。ショックを隠せない感じだ。 クレジットカードで今まで全てを済ませていたんだろう。それが当然だったのだし、仕方ない。現金が必要なら、側近とやらが出してくれたんだろうし。仕方ない、彼が望んだような場所には行かなかったのだから。 「時間も…あっという間で。これで、おしまいだなんて…僕っ…」 「もう、湿っぽくならないでよね?」 「はい、あんたの番…」 「えっ…!?」 「どうしたの? …嫌いじゃないでしょう。まさか、食べたことないとか言わないでよ?」 「え…でもっ…」 「こ、この続きっ…食べたら…何だか…間接キッスみたいで…」 「…はあっ!?」 「ばっかね〜何言ってんのよ〜今時、こんなことで驚く奴なんていないでしょう?」 ジュースの回し飲みをしてドキドキするなんて、中学生の女子のようだ。一体何を考えているのだろう? 冗談なのだろうか…いや、この表情はマジだ。何だか、おかしい。…え、待てよ? 沙和乃の心にふと浮かんだものがあった。 「もしかして。もしや、だけど…あんた、童貞だったりする? でもって、キスもしたことないとか…まさかねえ…」 言ってしまってから、自分でも馬鹿馬鹿しくなって突っ込んでしまった。立派な成人した男だ。しかも業界のトップ、女なんてよりどりみどりで…。 しかし。 目の前の見てくれだけはいっちょ前、しかし中身は使えない男は、瞬時にゆでだこのように真っ赤になっている。 「そっ…そう言うことはっ! か、軽はずみに…言わないでくださいっ!!」
「は…はあ…そうなの」 あんまりもの迫力に、のけぞってしまう。こんなに率直に反応されちゃうなんて。日本をしょって立つ男なら、多少のジョークは通じた方がいいと思うよなあ…。今日一日が、さながら「びっくり大会」のようだ。どうにもこうにも引っ込みが付かなくなって、受け取って貰えないソフトクリームをひとりで舐め続けていた。
「ねえ、あんた」 「…キスして、あげようか?」 「――えっ!?」
いいじゃん。いい男よ、全く。ルックスも極上だし、容子の腕で完ぺきに仕上がっている。ちょっとずれてはいるけど…よりによって、自分のことをすごく好きだと言ってくれる。デートしないと言ったら、泣き出してしまうし。 こんなにいい思いをさせて貰ったんだし。今日は結構、楽しかったし。ここはご褒美をあげてもいいかなと思った。ジャニーズ顔とキスするのも悪くない。
「あ…あのっ!? さ、沙和乃さんっ!?」 しかし。何とも大袈裟なリアクションで、周五郎は沙和乃の手を取る。そして、ぎゅううっと握りしめてきた。 「な、何っ!?」 だがその沙和乃の余裕も。…周五郎の次の台詞には、さすがに打ちのめされる。 「も、もしかしてっ! 僕のっ…妻となる決心が付いてくれたのですかっ! そうなんですか…!!」
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