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前髪が額にくっつくくらい、至近距離。あろうことか、心臓が痛いくらいドキドキする。とっぷり日の暮れた藍色の空間、白い息がふたりの間を浮遊していく。 「ば、馬鹿っ!? っんなわけっ…、ないでしょうっ!?」 いい思い出になるかなって、そう思っただけなのに。こんな風に反応されたら、参ってしまう。 「え…、だって…そういうことは、心に決めた素敵な女性とっ…永遠の愛を誓い合ったあとに成すべきことですっ! そうでしょうっ!」 …は、はあ…。 あまりのことに、30秒ぐらい無言になってしまった。その間の呼吸も止まっていたかも知れない。思わず、「はい、そうですね」と納得しそうになったが、おいおいと思い直す。すうううっと、息を吸い込んだ。 「あのねえっ…!」 「あんたとは、今日1日だけって、そう言う約束だったわよねっ? もう次はないのっ! 分かってたんでしょうっ!」 「ほらっ、時間でしょうっ! 帰らないと。あんたも下まで迎えが来るって、言ってたじゃないの? 遅くなって、捜索願なんて出されたら、私が警察に捕まっちゃうでしょっ!」 自分の中に湧いてきた未知なる感情を振り払うように、必死で叫ぶ。うなだれていた背中が伸びて、こちらを向き直る。ああ、もう泣き出しそうだ。涙が目尻まで溢れている。 「沙和乃さん…」 「なっ! 泣いたって…無駄なんだからっ…!!」 どうして、こんなに動揺しなくちゃいけないんだろうっ…。必死で正論を並べながら、ふるふる震える口元を見ていた。薄くて、女の子みたいに綺麗な色をしている。そこから苦しそうに押し出される自分の名前。今までで一番切なく響く。 「本当にっ…もう、おしまいなんですか? 二度と会って頂けないんですか…っ!?」 「そ、そうよっ!」 「分かったでしょう? 今日の一日で。あんたとね、私は住む世界が違うのっ! どこをどう転んでも、あんたと私は釣り合わないのよっ!」 「…そんなっ…」 また、泣く…。 まったく、これはあまりにも反則だと思う。どうして大の男が、こんなに何回もぼろぼろ泣けるんだ? コイツの涙腺はどこまでやわなのかっ…!? 腹が立つのに、それでも吸い込まれそうになる。綺麗な黒い瞳、それが揺れて…沙和乃をまっすぐに見つめているのだ。どうしてもそこから目が逸らせなくなる。 「僕はっ…楽しかったのに。沙和乃さんと一緒にいて、本当に楽しかったのにっ…これでもうお目にかかれないなんて。これからの人生、何を頼りに生きていったらいいんですかっ!?」
緊迫した空気を切り裂くように沙和乃の携帯が震えながら鳴り出した。ハッと我に返って、受信のボタンを押す。しゃべり出す前に、大きく二回深呼吸した。 『やほ〜、沙和乃サン!?』 …!? 沙和乃は思わず携帯を落としそうになった。何なのっ! どうして今頃、掛けてくるのよっ!! 「よ、容子さんっ!?」 「な、…何なの!?」 『今頃さ、タイムリミットじゃないの? もう別れがたくて、ふたりで最高に盛り上がってるんじゃないかと思ってさ…ふふふ、良かったでしょ、彼。いいよね〜もう私がお持ち帰りしたくなっちゃったわよっv』 …は…、あ…。 沙和乃はあまりに耳をそばに寄せると痛いくらい響くので、少し携帯を身体から話した。普通さ、別れがたくて盛り上がっているって思うなら、こんな風に邪魔しないんじゃない? もう、一体何を考えているんだか…。 「…そうね、盛り上がっているわよ?」 「約一名、ものすごく盛り上がって、わんわん泣いてるけど? もう、容子さんからも何とか言ってよ…埒があかないわ…!」 『またまた〜照れなくたっていいのよ〜。沙和乃サン、もう心にもないこと言って…ふふふ』 ――おいおい。 火のないところに無理矢理に煙を立てるのはやめて欲しい。そうじゃなくたって、容子の勝手な思いつきで苦労してるんだ。これ以上はご勘弁願いたい。 『ところでさ、お願いがあるんだけど…ふたりに』 あまりに疲れて、返事をする気力も失せていると、こっちのことには関係なく容子がまくし立ててくる。 「…は?」 『私を助けると思ってさ、来てくれないかな? 来週の水曜日、ふたり揃って朝の8時でいいわ』 「え…ええっ!?」
それに気を取られているうちに…容子からの電話は切れていた。言い返そうと思ったのに、その隙もなかったのだ。
がくっと膝を落としてうずくまったままの沙和乃の背中に、すっかり涙の乾いた声がする。沙和乃たちの会話の流れを全て聞いていたのだろう。何とも清々しく満ち足りた声色だ。 「爺から、呼び出しが来ました。僕、もう行かなくちゃ…あのっ、では失礼しますっ!」 顔を上げることが出来なかった。まんまと載せられたのだ、容子に。そうよ、こんな風に漫画みたいな楽しい話、彼女が逃すわけがない。もう楽しむだけ楽しんでしまおうと思っているに違いない。 ――最低…!! 何しろ、行動パターンは読まれている。定休日だって知っているし。彼女は気の置けない美容師だったから、全ての愚痴を聞いて貰っていた。もう、長いこと…容子が上京して美容師の見習いを始めた19の時からだ。そう、ふたりは偶然にも同級生で。当時、短大生だった沙和乃といっぺんで意気投合したのだ。もう10年のつき合いになる。
「はあ…っ!」 来週の水曜日も潰れるのか、そんなことがあっていいのだろうか。貴重な休みなのだ、貴重な時間なのだ。こんなことに費やしていいはずもないのに…!
デパートの前に横付けにされている黒塗りの車。平べったいのに、異様に内装が広くできている。車内にはドアを開けてくれた運転手の他に、腕組みした老人が座っていた。 「坊っちゃま…立派な紳士たる者、時間にルーズなのは困りますよ。さあ、お時間が迫っております。走りながらですが、お召し替え下さい」 「分かった」 「何ですか…その、不良のボンクラみたいなお召し物は…。爺は情けないですよっ…!」 「え〜、だって…」 「お前、時間を守れば、何しててもいいと言っただろう…?」 「――そりゃ…そうですが…」 「本日はお連れ様がいらっしゃいます。ご立派にエスコートなさいますように…お分かりでございますね? 坊っちゃま?」 「…連れ?」 「はい…そうでございましょう。今夜のようなパーティーは高滝澤家のお嬢様とのご関係を皆様にお披露目するにはまたとないチャンスですよ。主賓の寿賀頭取様もどんなにかお喜びになられることでしょう…」 「おい」 「ご関係って、どういうことだ? いつ僕たちがそんな特別の関係になったんだよ」 「…は?」 「特別な、などとは申し上げてございません。ただ、親しいご友人としてご一緒なさるだけのこと。そうではありませんか?」 その言葉を受けるように車は細い路地に入って、高い塀の脇に止まる。老人が車を降りると、すぐに周五郎の乗り込んだ方のドアを開けた。 「本日はお招きにあずかりまして…光栄ですわ」 周五郎は慌てて声のする方向を見た。 街灯にふわふわと照らし出されたラベンダー色のドレス。シルクの肩掛けを寒さよけにまとってにっこりと微笑む。あどけない表情。 「こんなに早く、再び周五郎様とお目にかかれるなんて。璃慧子(りえこ)、嬉しくってこの数日、なかなか眠れませんでしたのよ…?」 さらさらと闇色のストレートヘアをなびかせて、ほんのり頬を染める。彼女は老人に促されるままに車に乗り込んだ。
容子はもう嬉しくて嬉しくて仕方ないという顔で、ばばんとテーブルの上にそれを出した。 「かっわいいでしょう? 売り出し中のデザイナーの試作品なんだって! 友達から譲り受けたのよ、もうもう私、嬉しくてさ!」 …はあ? 沙和乃と周五郎は話の流れが全然読めずに、思わず顔を見合わせてしまった。
朝、目覚めた途端に、沙和乃はげっそりとしてしまった。あの容子の申し出を断るような命取りなことはしない。やはり自分のことは可愛いのだ。 それでも。ザンザン降りの大雨だったりしたら、それを理由に出来たかも知れない。実際、先週末はものすごい大嵐。ホテルのロビーに流れを止めてしまったお客様の誘導に、ほとほと疲れてしまった。タクシーに誘導するだけでも背中がぐっしょり濡れてしまったのだ。良くもまあ、風邪を引かなかったものだと思う。 もちろん、周五郎は先に店に着いていた。沙和乃を認めるとにっこり微笑んで言う。 「僕、容子さんから1日3回も確認の電話を頂いてたんですっ! モーニングコールみたいで楽しかったけど、あれが沙和乃さんからの電話だったら、もっと素敵だったのになあ…」 「や〜ね〜、もうっ! 周ちゃんは…」
「見て見て〜! ほらほら、もうすっかりペアルックみたいでしょう? 周ちゃんだけをコーディネートするのもいいかと思ったんだけど、今度はふたり分、やりたかったのよ!」 そう言いながら、きちんと色合わせをしたまだら模様のジーンズを取り出す。その上、シャツと同じ模様が胸にプリントされたベージュのトレーナーも出してくる。おいおい、靴下にスニーカーまで付いてるぞ。 「はいはい、沙和乃サンは子供部屋で、周ちゃんは衝立の向こうで。早く着替えて! そしたら準備の出来た方から、ブローとセットをするからね!」
もう周五郎がドライヤーをかけられている。それにしてもふわんふわんとやわらかい髪だ。今までべたべたに横流しにしてあったのが、もったいない。こちらの気配に気付いたのか、振り返って叱られている。一瞬、ぱちっと重なったその視線の嬉しそうなこと。 「沙和乃サンはメークも直すわよ〜。もう、駄目でしょ、ちゃんとホワイトニングしないと、40くらいになって泣くんだからね。せっかく高い試供品をたくさんあげてるんだから、もっと頑張んなさいよね!?」 その後。メイク人形の如く、塗りつけられて。ついでに髪は頭のてっぺんでパイナップルみたいなポニーテールにされた。そのままだとぼわぼわと広がりすぎるので、ごくごく細い三つ編みをいくつか編む。そして一房を結び目にくるくるねじってから巻き付ける。いい加減巻くと、そのあと毛先をぴぴっと立てた。 「ささ。並んで並んでっ!!」 「真司くん〜もう、入ってきていいよ〜」 「ほ〜いっ♪」 ――へ? 驚いて、開くドアの向こうを見る。首から提げたどでかいカメラと、ハンディービデオ。三脚。ずるずると引きずりながら、もさもさとした男の人が入ってきた。年齢は30代後半と言うところか? 「ども〜! シンジです! 本日は、宜しくっ! …うわ、いい感じっ! 容子ちゃん、すごいねっ!」 「…本日、は?」 「そうで〜すっ!!」 容子は、ぱっと紙切れを差し出した。A4の大きさのパンフレットの表紙に『ファミリーアニマルランド』の文字がある。丸々として、ピンク色で。 「アニマルランドでね、今度、旅行会社向けのパンフレットを作るって言って。その写真モデルを探していたの、でも経営難でお金がなくてね〜周ちゃんなら衣装代を出してくれるし、モデル代もいらないでしょ? もう、私、ふたりしかいないって思ったのよねえ〜!?」
「まあ、いいや。勝手にシャッターチャンスを狙いますから、もうお二人は勝手にやって下さい。俺のことは無視してくれていいですっ!」
シンジさんはそう言ってくれたし。沙和乃は最初からやる気ないので、もう早速雑談に入った。ぶらぶらと施設の中を歩きながら、隣りに座る男を肘でつついた。 「ねえねえ、あんたっ!」 …ああん、もう。こうして並べてみると、本当にお揃いだ。ペアルックを着て、レジャーランドに来るなんて、今時中学生だってやらないんじゃないの? 滅茶苦茶恥ずかしいんですけど…。だいたい、周五郎はとにかくとして、どうして私がモデルになんてなるのっ! もうちょっとお金を掛けなさいよねえ…。 「アニマルランドって、あんたの会社のライバルじゃないの? そんなんに、モデルなんて何考えてるのよっ! どうして、容子さんにそう言って断らなかったのっ!」 「え〜でも…」 「容子さん、髪の毛赤くしてくれたし〜僕、普通は眼鏡掛けるし〜…だから、大丈夫ですよ?」 「そう言う問題じゃ、ないと思うんだけどなあ…」 仮にも天下の「ナカノ」だ。そのお偉いさんが、ライバル会社の宣伝をやっていいのか? …いいわけないじゃん。 「それに、僕。沙和乃さんとこうしてまた一日一緒にいられると思うと、もうもう嬉しくてっ! いいんです、会社のことなんて。沙和乃さんのほうが大切ですからっ!!」 「…あのねえ…」 ずれてる、絶対にずれてる。何を考えてるのか、さっぱり分からない。 「言ったでしょう? …あんたと私は住む世界が違うの。もう、私みたいのとこうして付き合ってたら、みんなに白い目で見られるのよ? あんたにはもっともっとお似合いの相手がいるでしょう。で、どうしたのよ、この前のお相手は。やっぱ、振られちゃったの!?」 沙和乃の言葉に、周五郎は不思議そうに反応した。 「え〜、ご存じだったんですか? すごいです。沙和乃さんの仰るとおり、…あのお嬢様とはおつき合いさせて頂いてますが…」 「――つ、付き合ってんの…?」 しかし、周五郎の方は、ぽややんとしてる。沙和乃がどうして驚いているのか、それも分からないらしい。そして、にっこりと微笑むとこう言い放った。 「はい〜、爺はもう乗り気で、絶対まとめると言ってますよ?」
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