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…9…

 

 

 携帯が短いいくつかの和音を奏でる。段々上昇する感じのスタンダードな音色。何の変哲もないが、メールの着信音だ。

『おはようございます、沙和乃さん。いいお天気ですね』

 ポケットから取り出して見ると、液晶画面に浮かび上がる短い文章。思わず、くすっと声を上げてしまった。慌てて周りを見回す。よく考えてみれば、出勤途中で駅前のバス通りを歩いている。いきなりひとり笑いをするのはちょっと恥ずかしい。

『そうね、今日は一日晴れるみたい。仕事中じゃないの?』
 やはり短く返しながら、口元が自然にほころぶ。長い指で必死にボタン操作している姿を想像するとそれだけで楽しくなる。

 


「メ、メール交換しませんかっ!?」
 真顔でそう切り出されたときは、正直面食らった。

 昨日。どういう訳か、世にも奇妙な契約を交わしてしまった。以後、一切つきまとわないのを条件に、1週間だけの恋人をすることになったのである。相手はもちろん、那珂野島原周五郎だ。

 …まあ、あくまでも「振り」でいいらしい。後になって考えたら、かなりヤバイ話だったので焦ったが、思い直してみれば…何しろ「キス」することがそのまま「結婚」に結びつくような男だ。まさに天然記念物、絶滅寸前の保護動物。要するに「身の危険」なんて考える必要もないと言うことだ。

「…あの〜、沙和乃さんっ…」
 焼きそばもたこ焼きもフライドポテトも…もう、経費で落ちるんだから何でも食べてやると言った食欲で食い尽くし、おなかがぽんぽんになった頃。周五郎がおずおずと、その話を切り出した。

「……は……!?」

 たっぷりと30秒くらいは動きを止めていた。からかっているのかとも考えるが、この男の場合はそんな器用な真似が出来るわけもない。真顔で自分を見つめる瞳。黒目がちに潤んで、そして手には入手困難とされている最新式モデルの携帯がある。

「め、メルアドなら教えるわよ? もちろん、それくらいならいいわよ」

 必死で切り返したが、即座にぶんぶんと首を横に振られてしまった。

「ち、違いますっ! 携帯電話のメールのやり方ですっ!」
 携帯を握りしめる指が白んでいる。必死の訴えだ。まさか、こんなことを今更聞かれるとは思わなかった。

 

 どうしてやろうかと思った。でも、冗談で言っているわけではないのだ。そんな器用な男じゃないことくらい、もう分かっている。

 沙和乃はバイトくんに仕事を教えるときと同じように、大きく深呼吸をした。

 それから、自分の携帯も取り出して、一通りの操作を教える。周五郎は何度も何度も間違えながら、それでも的確に飲み込んでいった。呆けているように見えるが、関連づけて覚える頭が出来ている。馬鹿と天才は紙一重、と言う言葉が頭に浮かんできた。

 

「…あんたさ…」

『こんにちは』と言う自分のメールが沙和乃の携帯に表示されたのを確認して、狂喜乱舞する「立派な紳士」に、ため息混じりに話しかける。

「こんなことも知らないで、今までどうやって生きていたの? 学生時代は友達とのやりとりもあったでしょう? 携帯も満足に使えないで…」

「えー…、大丈夫でしたけど」

 周五郎は新しいおもちゃを手に入れた子供のように、まだピコピコと操作している。聞けば、自分への連絡は今も昔も、全て側近を通して伝えられてくるらしい。だから、自分では直接やり取りをすることなどないそうだ。携帯メールでやり取りする、と言うのもTVのCMでやっていたのを見て、憧れたのだという。

 親しく話したり、メールのやり取りをしたりする友人すらいなかったのか。そんなことが本当にあり得るのだろうか? 言付けは全て「爺」と呼ばれる男に集められ、必要のあるものだけを選別されて届けられる。

「それで。そんなで…、あんた、楽しいの? ずうっと、これからもそうなんでしょう?」

 余計なお世話だと思いつつも。ついつい聞いてしまう。想像しただけで、息苦しい。まあ、一流企業の上層部の人間だ。自分とは住んでいる世界が全然違うのだし、そんなの当然なのかも知れない。…でも。

「どうでしょう…。でも、『普通』はどうなのか、なんて分かりませんし」
 周五郎は操作を終えたらしく、ピッとボタンを押して顔を上げた。そこには安堵の色が広がっていて、何だかくすぐったい。

「僕、今こうして、沙和乃さんと一緒にいて。それでとても楽しいから、いいんです」

 …顔の、皮膚の一枚下を流れる血管に、一瞬のうちに血が集まる。かあっと、頬が熱くなって、慌てて両手で頬を押さえた。

 どうして。

 こんなにまっすぐに、見つめてくるんだろう。何で、こんなにまっすぐに心を伝えてくるのだろう。

「…あんたは…」

 言いかけて、着信音に気付く。画面を覗くと、四角いフォント文字がきちっと並んでいた。

 

『あんた、ではなくて、名前で呼んでくださいませんか?』

 


『今、車で移動中なんです。これから、羽田に行って、博多に出張です』
 ボーっと考えているうちに、返事が返ってくる。

 え? 運転中…? と一瞬考えたが、そうかと思い直す。運転手がいるんだろう、多分。

『そうなんだ。じゃあ、もう駅だから。気を付けてね、周。行ってらっしゃい』

 

 名前で呼んでください、と言われても。

『那珂野島原さん』ではあまりに呼びにくいし、どうしたらいいのやら。容子は当たり前のように「周ちゃん」と呼んでいた。でも、なあ…。悩んだ末、『周』と呼び捨てにすることにする。そう告げると、彼は嬉しそうに微笑んだ。

 電源を切ってから、携帯をポケットに戻す。ただの金属の固まりが、ホッカイロのように温かく感じられた。

 


 昼間、休憩に上がったときに、またメールの着信を確かめる。

『無事に着きました。こちらは曇っていて、少し寒いです。沙和乃さんもお仕事頑張ってください』

 …少しずつ、文章が長くなってきてる。そんな成長が微笑ましい。どこに行くにも「爺」と言う側近が付いていくのだと言っていた。どんなに束縛されている環境なのだろう。沙和乃には話を聞いただけで鳥肌が立ちそうになった。メールを思い立ったのも、携帯で話しているとみんな周囲に丸聞こえだからだと言っていた。

 もしかしたら。周は自分と恋愛したいとか思っていないのかも知れない。ただ、誰の監視も受けない自分だけの空間が欲しいだけで…。

『寒いと思ったら、一枚多く着て。今日は泊まりになるの? 無理しないでね』

 そうやって返しながら、自分で自分に笑ってしまった。

 

 こんなやり取りなんて、長いことしてなかった。仕事の愚痴を延々と並べ立てて慰め合っていた友人たちも、ひとり、またひとりと片づいていく。そのあとはダンナの転勤や、出産・子育てと話も合わなくなる。メールや長電話で時間を潰すこともなくなっていく。年賀状と暑中見舞いのやり取りでも残ればいい方だ。それすら、途切れた子たちもたくさんいる。
 若い頃、って言ったら自分が嫌になるけど、この5,6年で沙和乃の周辺は激変した。自分だけが変わらずに仕事している。ずっと続けてきただけなのに、気が付いたら…ひとりだけになっていて。

 何気ない会話を何気ないように返していく。頻繁に携帯でやり取りしたりする。アフターに連絡取って、ご飯食べて、上司の愚痴を言って。

 

 忘れていたかも知れない、そんな時間。

 楽しいなと、思い始めていたのかも知れない。この1週間を楽しく過ごしてみたいと言う欲求が湧いてくる。決められた時間ならいいじゃないか、羽目を外したって。

 携帯メールくらいで、こんな気持ちになってしまう自分が信じられない。自分で自分に苦笑しながら、携帯を制服のポケットに戻した。

 


 辺りはすっかりと闇に包まれている。するりと背の高い高層ビルの通用口から外に出る。大通りに面していたが、人通りもまばらだった。白い気に向こうが霞む。
 ナカノホテルとはかなり違う外装。どこから見ても立派なオフィスビルだ。沙和乃は表に出た途端にびゅうっと吹き込んできた横風にぶるっと肩をすくめた。

「はあ、疲れたなあ…」
 冷たい水を使った指先がじんじんしている。もちろん、手袋で覆ったが、それでも骨まで染み通った寒さはじんじんと痛むのだ。駅までの道を急ごうと思ったとき、ふとポケットの中の存在を思いだした。

『いえ、今日は戻りますよ。明日は朝から会議がありますので。話も早く上がったので、最終よりも早い便に乗れそうです』

 街灯の下、浮かび上がる文字を何度も読み返す。また長くなっている。昼間、沙和乃のメールに返信して、返事が来なかったから、そのままにしてあるのか。

 何か、ひとこと…と、操作を始めて。すぐに取り消す。改めてアドレス帳から名前を探す。確定してダイヤルした。

 発信音を聞きながら、少し迷っている自分に気付く。やっぱりやめようかな? 留守電かも知れないし。もう家に戻って寝てるかも知れない。時計は夜の11時を回っている。彼のようなお子様は寝るのも早そうだ。

「…も、もしもしっ!?」
 5回鳴らして、もう切ろうと思ったとき、甲高い声が響いてきた。うわずっているのか、いつもよりトーンが高い。

「沙和乃さんっ? 今、どこですかっ…もう、家に戻られましたっ!?」
 うわ、何だかものすごく反響している。もしかして、何か建物の中だろうか?沙和乃は少し耳を離していた。

「う…ううん。違うわ、これから駅に向かうの」
 そう言って、さっき出てきたビルを見上げる。これを周五郎が今見ているわけもないのに。

「あんたの…周の会社のビル。本社ビルの…前」

 すると。次の瞬間には、耳をつんざくような絶叫が聞こえてきた。

「えええええっ〜〜〜〜〜〜っ!?」

 今度こそは、手から携帯を落とすかと思った。まだこれは買って4ヶ月のものだ。駄目にしたくない。

「ま、待っててくださいっ!! 動かないでっ…すぐ行きます。5分で――え、5分は無理? …じゃあ、7分でっ!! 待っててくださいっ!!」


 そして。本当に7分後に。

 黒塗りのいかめしそうな車が沙和乃の立っている場所のちょっと手前で止まった。

「沙和乃さんっ!!」
 黒っぽいコートを着て。車の後部座席から、転げるように出てくる。運転手がドアを開けるために車外に出てきたのに、それを待ちきれないように。10メートルくらい走って、気付いたのか振り返り「ちょっと、待っていて」と告げていた。

「うわ、本当だっ! ここ、僕のいつもいるビルなんですよ。どうして沙和乃さんがこんなところにいるんだろう…奇遇だなあ。ああ、でも嬉しいっ! 本当に会えたんだ〜今日は無理だと思っていたのに…」

 そう言いながら、沙和乃に息が掛かるくらい近寄る。何だか急に恥ずかしくなって俯いてしまった。運転手が車にもたれ掛かってタバコを吸いながらこちらを見ている。その視線も気になって。

「お、お帰りなさい…お疲れ様」

 顔を上げれば、嬉しそうなあの笑顔があるのは分かっている。でも、何だかそれが出来ない。どうして、電話をしてしまったのだろう。自分のたった10分前の行動が信じられなかった。

「良かった〜、あのねっ、沙和乃さんにっ! お土産を買ってきたんです、嬉しいっ、今日中に渡せて。はい、これっ!」

 

 …え?

 周五郎がポケットから取り出したのは長細い紙の袋だった。手のひらに少し余るくらいの長さの。お箸…にしては薄いかな? 開けてみると、それは携帯のストラップだった。…でも。

「何? これ…」

「付けてくださいっ! 僕のとお揃いなんですよっ! ほら、可愛いでしょうっ…」
 周五郎は反対側のポケットから、自分の携帯を取り出した。リンリンと転がる鈴の音。そして…その根元にくっついている小さな陶器の人形が…烏帽子を被って、神妙な顔でこちらを見つめていた。

「…菅原くん…!?」

「はい〜、菅原道真ですっ!! 学問の神様ですっ!」

 …あの…?

 確かに九州には太宰府天満宮がある。都を追われた菅原道真が流された先に梅が一晩で飛んでいった、という伝説のアレだ。だから、それを考えれば、携帯ストラップがあってもおかしくはないだろう…でも。どうして、『学業成就』なんだっ!? これから、自分に何かの試験でも受けろと言うんじゃないでしょうねっ!

「他にもね、式部ちゃんとか小町ちゃんとか、色々あったんですけど。九州だから、これにしましたっ! ね、可愛いでしょう…」

「…そりゃあ…、そうだろうけど」
 袋から出して、まじまじと見る。ああん、眉のところが少し歪んでいて変な顔…。

「鈴の付いてるのが、ちょっとうざいわよね…これ」

「…え?」
 人のお土産に難癖を付けては悪いと思うが、百歩譲ったとしても…どうも絶えずリンリン鳴られたらたまらない。仕事中は携帯を常備しないようにしているのでいいけど。

「それが、いいんじゃないですか…」

 周五郎は自分の携帯を耳元で振って見せた。やはりリンリンとうるさい。それから、何かを含んだ表情で、にっこりと微笑んだ。仕事帰りで眼鏡を掛けている。黒縁の奴だ。その奥で、目が細くなった。

「沙和乃さんが好き、好きです…って、言ってるように聞こえません?」

 

 …は、はあ…?

 あまりの言葉に。沙和乃が唖然として周五郎の顔を見上げたとき。向こうで運転手の男が叫んだ。

「周五郎様、これ以上遅くなりますと…田所様の車が先に着いてしまいます。早くお戻りになって下さい」

「…あ…」
 周五郎が腕時計を見て眉をひそめた。

「爺が寄るところがあるというので、別行動をしていたんです。ばれるとまた厄介ですから…運転手が叱られると可哀想ですし…」
 そう言いながら、さっさときびすを返す。そして、飛ぶようなスピードで車のところまで戻っていった。

 …田所様、と言うのが「爺」と言う人なのか。周五郎のお守り役なのか。そう思っているうちに、車が自分を追い越していく。シンデレラを乗せて走っていく馬車? 12時にならないから、まだカボチャに戻らないのか…?

 夢だったのかと思えてくる出来事。しばらくは人気のない歩道に立ちつくしたまま動けないでいた。だけど、沙和乃の手の中には、しっかりと携帯ストラップ「菅原くん」が握られていた。

 


「有泉さん、こんばんは」

 翌日。ロッカールームで一足先に仕事を終えた女性に声を掛けられる。人なつっこい笑顔。沙和乃の方はまだ、勤務中だ。大きめのバケツとモップを両手に抱えている。頭には三角巾、草色のシャツと上着とズボン。背中には「上山クリーニングスタッフサービス」と大きく文字が赤で入っていた。

「あのね、今日はお給料が出る日でしょう? 戻りに守衛さんのところに寄ってくださいって。預かっているそうよ?」

「はい…」
 埃よけに付けているマスクを一度外して返事する。そして、もう一度それをきちんと付け直したとき、その女性は「お先に」と引き上げていった。

 重い掃除機をやっとの事で運びながら業務用のエレベーターで最上階まで上がると、そこは静寂の暗闇に包まれた空間だった。非常口に誘導する常夜灯が足元にグリーン輝きを落としている。廊下の隅っこにあるスイッチで照明を付けて、掃除機をセットした。

 


「ふう…」
 言われたとおりに、仕事を終えると守衛室に行って給料袋を受け取る。お茶をどうぞと椅子を勧めてくれる初老の人の良い警備員の言葉をありがたいと思いつつも辞退して、そそくさとビルを後にした。金曜日はホテルの仕事が早めに終わるため、こっちの仕事にも早く入れる。

 …そうなのだ。アフターに会えない、と告げた理由。

 沙和乃にはもうひとつの仕事があった。もちろん、正社員の副業なんて禁止だ。ホテルの方には内緒でやっている。そのためには出来るだけ人目に付かない仕事を選ぶ必要があった。「灯台もとぐらし」とは良く言ったもので、同じナカノの系列でありながら本社ビルの清掃の仕事は2年続けてもばれていない。派遣会社を通していることもあるのだろう。
 そして、無理を言って現金支給にして貰っている。今時そんな人間は珍しいと言われたが、通帳には必要以上に金を入れたくないのだ。

 このビルの前にいると知ったとき。周五郎はとても不思議そうな顔をした。確かに仕事が上がった後も忙しいとは言った。でもこんな事実があることをどうしても知られたくはなかったのだ。

 …彼は知らないのだ。自分の部屋に毎晩掃除機をかけている沙和乃がいることを。社員が見たこともないだろう清掃会社の制服を着て、夜に働く仕事。


 時計はまだ、7時前。これから寄り道をしても、もしかしたらそのあと会う時間が作れるかも知れない。

 そう考えた瞬間、足が止まっていた。

 周五郎とは今日はお昼にまた、一瞬だけ会った。見積もりを届けるため外出した先で、ランチを取りながらメールしたら、また、7分でやってきたのだ。分かっていた、そこは本社ビルのすぐそばだったから。ガラスを叩かれて、顔を上げる。でも、入ってこようとはしない。

『すぐに、会議が始まるんです』
 ガラス越しに唇が動く。そして、「菅原くん」の付いた沙和乃の携帯を見つけて嬉しそうに微笑むと、そのまま今来た道を戻っていった。それでも名残惜しそうに、何度も振り返りながら。

 …来なくても、良かったのに。そう思いながらも口元が知らずほころんでいる自分に気付いた。

 金曜日の夜だ。予定が入っているかも知れない。でも、少しくらいなら…連絡をして、喜んだ声を上げる周五郎を思い浮かべる。そして、必死にやってくるのだ。息を切らして。小さな子犬が嬉しそうに駆け寄ってくる、そんな仕草に似ている軽やかな足音。

 それを思うと心が和んでくる。あんな風に素直な瞳で慕われたら、誰だってこんな気分になるだろう。自分といるだけで、顔をひと目見るだけで嬉しいと思ってくれるなら。それなら、喜ばせてやりたい。こう言うのを「母性本能」とでも言うのだろうか?


 ――沙和乃さんが好き、好きです…って、言ってるように聞こえません?

 訳もなく、歩きながら携帯を取り出す。小気味のいい鈴の音。それを聞いているうちに、そんな言葉が思い起こされる。…ばかみたい、でも。

 沙和乃は小さくため息を付くと。電源を切った。そして、ポケットの中の給料袋を握りしめると、さび付いた外階段を上っていった。

 


「おおう、待ってたぞ」
 部屋の中から顔を覗かせた男は、いつになく上機嫌で沙和乃を迎えた。

「何だよ、上がれよ? …どうしたんだ?」

 猫の額ほどの玄関に突っ立ったまま、動こうとしない沙和乃に気付いて、男がのそのそと歩いてくる。髪はぼさぼさ、いつ櫛を通したんだろう? 着ている服もその辺に転がっているものを寒さに任せて重ねているような感じだ。よくもまあ、こんな生活をしていて、浮浪者にならないものだと思う。

「き、今日はっ…用事があるのっ! ここで、帰るからっ…!」
 前髪の向こうにある視線が鋭くて、震えが来てしまう。どうしてなんだろう、情けないったらない。でも、ここはどうにか切り抜けなければ…っ!

「あん?」
 何、馬鹿言ってんだ? と言う顔。探るようにこちらを改める。

 沙和乃はポケットに手を突っ込むと、貰ったばかりの給料袋を男の足元に投げつけた。

「お、お金よっ! 今月分の…全部、封も切ってないわっ! だから、いいでしょ。今日は帰るから…」

 すくむ足を引きずりながら、後ずさりする。すぐ後ろにあるはずの玄関ドアがすごく遠い。もちろん、鍵も閉めてない、すぐに飛び出せる手はずだった。

「何だぁ…? このっ! アマっ!!」

 ようやくドアノブに手が掛かったと思ったとき。沙和乃の身体は、がばっと後ろから捕らえられていた。





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