|
|||
自分が甘い人間だと言うことは、重々承知していたはずだった。どうにもならない、とんでもない場所まで追いつめられて初めて気付く。そんな馬鹿げた行動が今の状況を造り出しているのである。 「やっ…やあっ! 離してっ! 帰るのっ…!」 話を素直に聞き入れてくれる様な相手ではないのだ。それは分かっていた。かといって、今夜ここに来なければ、どんなことになるか知れない。職場まで怒鳴り込まれたらと思うと、こうするしかないのだ。苦労して築いた今の職場でのポジションを失いたくはない。普通の思いやりを持っていれば、そんなことをするはずもないが、この男が尋常な精神を持っていないことなど、とっくに知っていた。 「何、照れてんだよォ…俺様が可愛がってやろうって言ってんのに」 「…っ、痛っ…!」 このまま流れに身を任せてしまうことが得策だと言うことは知っている。下手に刃向かうとどういうことになるか、それも。男との関係を続ける上で、悟りきっていた。目をつむっていれば、そのうち終わる。穴蔵生活で体力がなくなったのか、このごろの男は以前と比べて行為が長く続かなくなっていた。 …でもっ、嫌っ。 「予定があるのっ…、ねえっ! 離してよっ!!」 「な…?」 「おっ、お金なら、何でもするっ! 約束する…、でもっ…こう言うのはもう嫌っ…やめてっ…!」 身体の奥から噴き出した必死の訴えだった。男の所有物として為すがままに従っていた日々。何度もこう言いたかった、でも怖くて。どうしても、言葉を飲み込んでいた。それが、今、震えながらも自分の中の本当を口に出来る。確かに変化している、沙和乃の内面。 ふっと、吐息が漏れる。男は口の端をくっと持ち上げて、笑った表情を作っていた。「笑っていた」ではない、「笑い顔を作っていた」と言う表現が正しい。 「よォ…、沙和乃さん、よ…」 「お前…誰に向かって、ものを言ってんだ…!?」 自分を捉えようとする双の瞳が、怪しげな光を放つのを見逃すことが出来なかった。 「聞いてんだろう…がっ!」 ――ばんっ…!! 安普請のアパートだ。沙和乃の身体がドアに激しく叩き付けられた音は、全ての部屋に届いているのかも知れない。 「あ…」 「お前がさ、こうして今いられるのは誰のお陰だか、分かってんだろうな? 分かってて、そんな恩知らずなことをぼざくんだな? たいした女だよ……!」 手首の束縛が外れた。と思った瞬間に、ばちばちとブラウスのボタンが視界に飛び散っていった。腰から下で何かが破ける音がする。力任せにストッキングが裂かれているのだと認識するまでに少しばかりの時間が掛かった。 「…いい格好だぜ。そそられるよ…」 次は肉をえぐられるのだと思った。腕にはごわごわとした感触がある。コートに袖を通したままなのだ。それなのに、衣服の前を破かれて、肌が露わになっている。 男は素早く沙和乃の腰に腕を回すと、そのまま白い布を裂いて落とした。そして、沙和乃の背と腰をドアに強く押し当てて支える。足を左右に大きく広げられ、腹部の圧迫される異様な体勢で身体を開かされていた。 「やっ…、やだっ…! あっ…!」 「おらおらっ! 鳴けよっ! 鳴いてみろよっ!! 欲しいんだろうがっ! 俺はお前をこんなにしてやれるんだぞ!?」 もっとだ、ほらっ…! ごうんごうんと頭の中に響き渡る音。声を上げたら、この行為をアパート中の者に知られてしまう。そんなのは嫌だ、そう思うのに。男は沙和乃の願いを打ち砕くように、煽るように叫ぶ。ここの住人と階段や通路ですれ違うことは稀だったが、皆に色の目で見られている気がして口惜しかった。 「あっ…、はっ…、はあっ…!」 悪魔のような身体になど触れたくなかったが、何かを掴んでいなければどんどん腰が落ちてしまう。背中が滑り落ちる瞬間に本能的に腕が伸びて、男の肩に手を置いた。くっ、と乾いた笑いが耳元に届く。安定したことで、動きは更に加速した。快楽がどんどん泡立って、心と身体を支配し始める。もう、自分の意識を手放してしまいたくなった。…でも。
束縛が解け、ずるずると冷たいタイルの玄関に背中から落ちていく。朦朧とした意識の中を漂う。腰から下の覆いを取り払ってしまった部分が、ひんやりと汗を蒸発させた。瞼を開けてみても、滲んだ視界には何も見えない。 次の瞬間に。ぎっと、頭部全体に痛みが走った。 「ぎゃっ…!!」 「おねんねには早いんだよっ! ほら、こっちに来いっ!!」 「や…やだっ…! やめてっ…!!」 「あ…そうか」 「お前…男が出来たな? そうだろう…」 …どくっと、胸が鳴る。でも、身体は微動だにしなかった。もしも反応すれば、男の言い分が正しくなってしまう。それに…これは、違う。そうじゃないから。 沙和乃が黙っていると、男は煙をわざとこちらに吹きかけて、片手で後ろ向きに突きだした尻を撫でた。 「自分のことをわきまえず、またマジだなんて言い出すんじゃねえだろうな? どこのどいつだ? …金持ちか? 金持ちだったら、お前ひとりで上手い目にあうなんて許さねえからなっ!!」 ガラスのフチを握りしめた手の甲が白くなっている。それを呆然と沙和乃は眺めていた。 「ち…違うわっ!! そんなんじゃないのっ! もう嫌になっただけ。あんたの好きにされるのはもうたくさんなのっ…!!」 「ほお…?」 「どこのどいつだろうな? 俺の女に手を出すのは。思い知らせてやらなけりゃならなそうだな…!」 「違うって…っ! 言ってんでしょう? 男なんていないわ、もうたくさんなのっ!!」 「…お前さんは、たくさんでもなあ…」 思わず顔をしかめる沙和乃に、男は勝ち誇った顔で見下ろしながら言い放った。 「俺は、たくさんだなんて思ってねえからな。ハナからお前は俺のものだ、俺がお前の全てを支配するのは当たり前のことなんだろう? 救ってやった恩を忘れたのか? そんなじゃ犬以下じゃねえか…」 ハッとして、顔を上げた。男の目は有無を言わせぬ独裁者の色をしていた。 「…ほらよ、可愛がって大きくしてくれねえか。そうすりゃ、もうお前の中に突っ込んで、一暴れ出来るだろうが? お前もすぐに俺が一番だと気付くぜ? 共犯者じゃねえか、そうだろう? もうお天道様の下を闊歩出来る身の上じゃねえんだぞ。お前には俺しかねえんだからさ、他の男がお前を受け止めるはずはねえじゃないか、俺だけだ、分かるな…?」 …それは、呪文。男の切り札。分かっていた。 沙和乃はまず、舌を使って男の表面を丁寧に舐め上げると、次に全体を口に含んだ。
真冬で良かったと思う。あんな格好のままでは外も歩けない。ふくらはぎまで覆うロングのコートが、内部の乱れたものを全て隠してくれた。電車で二駅戻って、駅の構内を足早に通り過ぎる。それから、家まで。ほとんどシャッターの下りた裏駅の商店街を気力だけで歩いていた。 …電話を。 とうとうすることが出来なかった。メールの一通も。あの部屋のドアを開ける前は、少しばかりの希望があった。でも…こうなってしまってはもう、何もかもがどうでも良くなっている。携帯の電源を入れて、チェックする気力も失せていた。 「…う…っ…!」
王子様がいるのではないかと思っていた。最初のうちは、この人か、いやこの人かと…期待した。でも、そうではなかったのだ。人を見る目がないのかも知れない。幸せになりたくても、その手段が分からなくて立ち往生してしまって…。 そう、人を見極める才には恵まれていなかった。だって、あの男ですら、最初は希望の光に見えたのだから。泥沼から自分を引き上げてくれたときは、あの野性的な眼差しにすがっていた。ゲームの先を読めない人間だから、今日の自分を思い浮かべることが出来なかったのだ。
「こんないい身体、してんだからな…」 「地味に掃除婦なんてしねえでさ、もっと稼いで来いよ? お前なら、まだまだ男を悦ばせることが出来んじゃねえか? その方が楽が出来て、お前もいいだろうし。今はさ、フリーで出張サービスでも何でも方法はあるんだぜ…」 …身体を、売れと言うのか? 曲がりなりとも、自分の女と言っている人間を。他人の欲望に晒して、代償を得ろと。そんな男だった。自分は手を汚さずに、沙和乃ばかりが苦汁を飲まされ続けた。 そう…なってしまってもいいかも知れない。そこまで堕ちればもう怖いものなどなくなる。王子様なんて、もう来るわけないんだから。もうすぐ、12時の鐘は鳴る。でもまだ沙和乃の元にはカボチャの馬車さえ、到着しないのだ。
「…え?」 人の気配がする。まさか、そんなはずはない。だって…空気も凍り付くような真冬なのに。身を震わせると辺りの気体の粒がさらさらと音を立てて崩れていくような。ぼうっとした視線を、音のする方向に向けた。 ――嘘。 足を止めて、目をこらす。目のフチがひりひりして痛い。こんもりとした常緑の植え込みの茂みの向こう、微かにうごめくものがある。木の枝の下、黒い鎖が二本、スローモーションで振り子運動していた。 自分を取り巻いていた凍った空気がゆらりと流れて、まるで液体みたいに想いが流れ出していく。どこから…? 一体どこから? そして…どこへ? 「さ、沙和乃さんっ!!」 がしゃんと、大きな音がして。それから、その影は自分で自分の奏でた音にびっくりするように、きょろきょろと辺りを見渡した。この辺はご近所さんがうるさいからと、沙和乃がこの前言ったことを気にしているのか。 周…。 沙和乃は動けなかった。公園の入り口に立ちつくしたまま、呆然と眺めている。後ろに街灯があるからきっと顔は暗くて向こうからはよく見えないはず。でも沙和乃の方は彼の顔が明るく良く見えていた。 「あ…」 「ご、ごめんなさいっ! すみませんっ…、こんなことをしちゃ、いけないって。そのくらい分かっていたんですっ…」 動かない沙和乃の態度を拒絶と取ったのか、周五郎は申し訳なさそうに俯いた。前髪が顔に掛かってふるふると揺れている。 「…え?」 「さ、沙和乃さんが、いいよって言ってくださったわけでもないのに、会いに来ちゃいました。こんなの、マナー違反だって思ったんです、でもっ…会いたかったんですっ…!」 「待ってたんです、沙和乃さんが連絡くれるの。でも、いつまで経っても来ないから…だから、自分からかけちゃったんですけど、圏外で…メールを送っても全然返ってこないし…っ! もう、嫌われちゃったのかなって、思ったんですけど…でもっ、でもっ…会いたかったんですっ…ここで待ってたら、もしかしたら通るんじゃないかなって。お家に灯りもついてないから…きっとまだ戻ってないんだろうって…」 声が涙に負けて、出てこなくなる。鼻をずるずるすすって、顔を両手でごしごし拭って。肩で息をしてる。大きく揺れてるその輪郭が、でっかい身体のはずなのに、とても心許なく思えて。 ふたりの間の空気が揺れている。漂っていく心。目をこらさないと表情も分からない距離を置いて。 「明日、一日、忙しくてっ…昼間も予定が入っちゃって、夕方からは大阪でレセプションで…あ、会えないんですっ、大切な一日なのにっ…! 口惜しくてっ、仕事なんてほっぽって、沙和乃さんとずっと一緒にいたいのにっ…でもっ、僕はちゃんとした社会人だから、沙和乃さんに嫌われないようにちゃんとしなくちゃって…! さ、沙和乃さんっ――…」 周五郎が顔を上げた。涙の滝の中に目と鼻と口が付いている。 「もう、2日も過ぎちゃいましたっ…あと、5日しかないですっ…! 一週間なんて、本当にあっという間で…だから、お願いしますっ、嫌いにならないで下さいっ…!」 「…周…」 何と言ったらいいのだろう。こんな自分、想われる価値もないのに。もしも、今までの時間、自分が何をしていたか知ったら、どんなに軽蔑されるのだろう。…ううん、自分の存在自体が、今までの全てが、彼に向かって胸を張れるものじゃない。 知らないから。彼は、汚い世界や裏の人間を知らないから。だから、目の前の、自分の周りがみんな綺麗に見えるんだ。だから、自分のことも…あんなにまっすぐな目で見てくれるんだ。 「怒ってないよ、周…」 「え…!?」 沙和乃はコートの襟元をぐっと押さえた。もちろん、中が見えないように、ボタンは全部きちんと付けていたけど、それでも、襟元は心許ない。自分の裏側を彼には決して知られたくないと思った。 「怒ってないから、安心して。だいじょうぶ、一週間の約束はちゃんと守るから…」 周五郎からは自分の顔なんて見えないんだけど、それでも精一杯微笑んだ。彼が、綺麗だと思ってくれるなら、そんな自分になろう。彼の前でだけ、真っさらな自分になりたい。
「さ、沙和乃さん〜〜〜〜っ!」 「…れ?」 「何で…泣いてるんですか? もしかして、誰かに、いじめられたんですか…?」 不思議そうに顔をのぞき込まれて、ハッとする。ああ、そうだった…あんなに泣いたんだから、全てがぼろぼろだ。とても見るに耐えない顔になってるはず。髪もほつれているだろう。慌てて、コートの袖口で頬をごしごしした。 「…あ、違うわっ。そんなんじゃ、ないから――」 「沙和乃さん…?」 「…周に、会いたかった。だから、…泣いていたんだわ」 そう言うことにしちゃってもいいかなと思う。だって、たった7日間なんだもの。あと、5日しかないんだもの。無感情で回り続ける時の針が、大切な時間を流していく。それを止めることは神様にだって出来ない。 「周…」 「うわっ…! あ、あのっ…、沙和乃さんっ!」 …こういうときはさ、ぎゅっと抱きしめてくれればいいのにね。 それをこの男に欲求するのはちょっと無理かなと思う。ひんやりと頬が冷たくて、その上を新しいものが流れていく。あとから、あとから、止めどなく。ずたずたに切り裂かれた心が、それでも求めるものがある。まっすぐなものを信じてしまうのは、まだ青い証拠かも知れない…。 背中に体温を感じることはついになかったけど。水底のような真冬の深夜。ごわごわの上着越しに確かに感じるぬくもりを、しばらくの時間、ふたりで共有していた。
Novel Index>ココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆10 |