TopNovelココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆10


…10…

 

 

 自分が甘い人間だと言うことは、重々承知していたはずだった。どうにもならない、とんでもない場所まで追いつめられて初めて気付く。そんな馬鹿げた行動が今の状況を造り出しているのである。

「やっ…やあっ! 離してっ! 帰るのっ…!」
 沙和乃は慌てて身体をよじるが、そこは歴然とした体力の差があった。しっかりと押さえつけられていては、身動きが取れない。

 話を素直に聞き入れてくれる様な相手ではないのだ。それは分かっていた。かといって、今夜ここに来なければ、どんなことになるか知れない。職場まで怒鳴り込まれたらと思うと、こうするしかないのだ。苦労して築いた今の職場でのポジションを失いたくはない。普通の思いやりを持っていれば、そんなことをするはずもないが、この男が尋常な精神を持っていないことなど、とっくに知っていた。

「何、照れてんだよォ…俺様が可愛がってやろうって言ってんのに」
 言葉は優しい、でも沙和乃の身体に回った手のひらはブラウスの裾から入り込み、容赦なく身体のふくらみを鷲掴みにした。

「…っ、痛っ…!」
 ざらざらの指先が先端に触れると、自分の意志に関係なく湿った声が出る。滅茶苦茶に揉み上げている様でいて、実は計算された動き。さらに首筋に生ぬるい息が掛かり、舌が這ってくる。

 このまま流れに身を任せてしまうことが得策だと言うことは知っている。下手に刃向かうとどういうことになるか、それも。男との関係を続ける上で、悟りきっていた。目をつむっていれば、そのうち終わる。穴蔵生活で体力がなくなったのか、このごろの男は以前と比べて行為が長く続かなくなっていた。

 …でもっ、嫌っ。

「予定があるのっ…、ねえっ! 離してよっ!!」
 どうしてもこの束縛から逃れたい。沙和乃は身体を大きく揺らして、網の目の間をすり抜けようとした。普通にやっても駄目だと気づき、次は膝をがくっと落としてみる。これは効果があった。すぽっと抜けて、男の足元に身体が落ちた。

「な…?」
 激しい動きが止まる。恐る恐る振り返ると、男はその場に突っ立っていた。慌てて転がったバッグを掴む。ドアノブに手を掛けた。

「おっ、お金なら、何でもするっ! 約束する…、でもっ…こう言うのはもう嫌っ…やめてっ…!」

 身体の奥から噴き出した必死の訴えだった。男の所有物として為すがままに従っていた日々。何度もこう言いたかった、でも怖くて。どうしても、言葉を飲み込んでいた。それが、今、震えながらも自分の中の本当を口に出来る。確かに変化している、沙和乃の内面。

 ふっと、吐息が漏れる。男は口の端をくっと持ち上げて、笑った表情を作っていた。「笑っていた」ではない、「笑い顔を作っていた」と言う表現が正しい。

「よォ…、沙和乃さん、よ…」
 上半身を腰から折って、こちらに顔を突き出してくる。

「お前…誰に向かって、ものを言ってんだ…!?」

 自分を捉えようとする双の瞳が、怪しげな光を放つのを見逃すことが出来なかった。

「聞いてんだろう…がっ!」

 ――ばんっ…!!

 安普請のアパートだ。沙和乃の身体がドアに激しく叩き付けられた音は、全ての部屋に届いているのかも知れない。

「あ…」
 あんたよ、と言えばいいのに。そんな簡単な言葉ですら自由に扱うことが出来ない。強く掴まれた両方の手首がぎりりと骨のきしむ音を上げた。

「お前がさ、こうして今いられるのは誰のお陰だか、分かってんだろうな? 分かってて、そんな恩知らずなことをぼざくんだな? たいした女だよ……!」

 手首の束縛が外れた。と思った瞬間に、ばちばちとブラウスのボタンが視界に飛び散っていった。腰から下で何かが破ける音がする。力任せにストッキングが裂かれているのだと認識するまでに少しばかりの時間が掛かった。

「…いい格好だぜ。そそられるよ…」

 次は肉をえぐられるのだと思った。腕にはごわごわとした感触がある。コートに袖を通したままなのだ。それなのに、衣服の前を破かれて、肌が露わになっている。

 男は素早く沙和乃の腰に腕を回すと、そのまま白い布を裂いて落とした。そして、沙和乃の背と腰をドアに強く押し当てて支える。足を左右に大きく広げられ、腹部の圧迫される異様な体勢で身体を開かされていた。

「やっ…、やだっ…! あっ…!」
 一瞬の間をおいて、身体の芯を貫かれていた。どんっ…と鈍い音が背筋に走る。そのまま、何度も深く突かれた。動きに合わせて、中が空洞の金属板が、音を立てる。後頭部と背中はそのたびに打ち付けられて気が遠くなってきた。脳震盪を起こし掛けていたのかも知れない。

「おらおらっ! 鳴けよっ! 鳴いてみろよっ!! 欲しいんだろうがっ! 俺はお前をこんなにしてやれるんだぞ!?」

 もっとだ、ほらっ…! ごうんごうんと頭の中に響き渡る音。声を上げたら、この行為をアパート中の者に知られてしまう。そんなのは嫌だ、そう思うのに。男は沙和乃の願いを打ち砕くように、煽るように叫ぶ。ここの住人と階段や通路ですれ違うことは稀だったが、皆に色の目で見られている気がして口惜しかった。

「あっ…、はっ…、はあっ…!」
 噛みしめる口元から、それでも漏れる声。受け入れたくないのに、愛撫のなしに突っ込まれていながら濡れてしまう身体。こんなのが自分なのか、自分はここまで来てしまったのかと絶望的な気持ちになる。

 悪魔のような身体になど触れたくなかったが、何かを掴んでいなければどんどん腰が落ちてしまう。背中が滑り落ちる瞬間に本能的に腕が伸びて、男の肩に手を置いた。くっ、と乾いた笑いが耳元に届く。安定したことで、動きは更に加速した。快楽がどんどん泡立って、心と身体を支配し始める。もう、自分の意識を手放してしまいたくなった。…でも。


 いつまでも堕ちない沙和乃に苛立ちながら、男が自分の欲望を解放させた。

 束縛が解け、ずるずると冷たいタイルの玄関に背中から落ちていく。朦朧とした意識の中を漂う。腰から下の覆いを取り払ってしまった部分が、ひんやりと汗を蒸発させた。瞼を開けてみても、滲んだ視界には何も見えない。

 次の瞬間に。ぎっと、頭部全体に痛みが走った。

「ぎゃっ…!!」
 思わず、悲鳴を上げた。堪えようのない感覚に。

「おねんねには早いんだよっ! ほら、こっちに来いっ!!」
 髪を掴まれて、生ゴミの袋のように投げ出される。行き着いた先は、冷たいテーブルの上。そこにうつぶせに倒される。胸が氷のように冷え切った硬質な素材に当たって、かたちを潰した。

「や…やだっ…! やめてっ…!!」
 ガラスの天板にしがみついて、力無くかぶりを振る。涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

「あ…そうか」
 カチ、とライターの音がする。一仕事を終えて、一服するつもりなのだ。沙和乃の抵抗が男の欲望に火を付けてしまったのか。これはいつまで解放されないか分からない。今から気が遠くなりそうだった。

「お前…男が出来たな? そうだろう…」

 …どくっと、胸が鳴る。でも、身体は微動だにしなかった。もしも反応すれば、男の言い分が正しくなってしまう。それに…これは、違う。そうじゃないから。

 沙和乃が黙っていると、男は煙をわざとこちらに吹きかけて、片手で後ろ向きに突きだした尻を撫でた。

「自分のことをわきまえず、またマジだなんて言い出すんじゃねえだろうな? どこのどいつだ? …金持ちか? 金持ちだったら、お前ひとりで上手い目にあうなんて許さねえからなっ!!」

 ガラスのフチを握りしめた手の甲が白くなっている。それを呆然と沙和乃は眺めていた。

「ち…違うわっ!! そんなんじゃないのっ! もう嫌になっただけ。あんたの好きにされるのはもうたくさんなのっ…!!」

「ほお…?」
 男は沙和乃の髪を後ろに引くと、青ざめた顔をのぞき込んだ。そこに吐き出した煙を吹きかける。容赦なく吸い込んでしまい、激しくむせ込んだ。

「どこのどいつだろうな? 俺の女に手を出すのは。思い知らせてやらなけりゃならなそうだな…!」
 食い入るような目だった。飲み込まれてしまいそうな。巨大な恐怖に押しつぶされそうになる。

「違うって…っ! 言ってんでしょう? 男なんていないわ、もうたくさんなのっ!!」
 自分の声が震えているのが分かる。でも必死だった、必死にならないと、崩れてしまいそうだった。

「…お前さんは、たくさんでもなあ…」
 男は灰皿にタバコを押しつけてもみ消すと、沙和乃の肩を掴んで起こした。座り込んだまま顔を上げると、情けなくへたり込んだ男自身が目の前にかざされる。ティッシュでお互いの欲望を簡単にぬぐい取っただけのそこは、何とも言えないすえた匂いがした。

 思わず顔をしかめる沙和乃に、男は勝ち誇った顔で見下ろしながら言い放った。

「俺は、たくさんだなんて思ってねえからな。ハナからお前は俺のものだ、俺がお前の全てを支配するのは当たり前のことなんだろう? 救ってやった恩を忘れたのか? そんなじゃ犬以下じゃねえか…」

 ハッとして、顔を上げた。男の目は有無を言わせぬ独裁者の色をしていた。

「…ほらよ、可愛がって大きくしてくれねえか。そうすりゃ、もうお前の中に突っ込んで、一暴れ出来るだろうが? お前もすぐに俺が一番だと気付くぜ? 共犯者じゃねえか、そうだろう? もうお天道様の下を闊歩出来る身の上じゃねえんだぞ。お前には俺しかねえんだからさ、他の男がお前を受け止めるはずはねえじゃないか、俺だけだ、分かるな…?」

 …それは、呪文。男の切り札。分かっていた。

 沙和乃はまず、舌を使って男の表面を丁寧に舐め上げると、次に全体を口に含んだ。

 


 …息が白い。もう、日付が変わる頃だった。足元がふらつく。でも、もう少しだ、もう少しで家まで辿り着く。

 真冬で良かったと思う。あんな格好のままでは外も歩けない。ふくらはぎまで覆うロングのコートが、内部の乱れたものを全て隠してくれた。電車で二駅戻って、駅の構内を足早に通り過ぎる。それから、家まで。ほとんどシャッターの下りた裏駅の商店街を気力だけで歩いていた。
 髪も乱れ、メイクも落ちていたが、それは都会の海の中。誰も他人のこと何て気にしてない。救いと言えばそれだけだった。ううん、日付が変わる前に解放されただけでも良しとしなければ。これ以上の行為は明日の仕事に差し支える。

 …電話を。

 とうとうすることが出来なかった。メールの一通も。あの部屋のドアを開ける前は、少しばかりの希望があった。でも…こうなってしまってはもう、何もかもがどうでも良くなっている。携帯の電源を入れて、チェックする気力も失せていた。

「…う…っ…!」
 駅からいくらか歩いて人通りが途絶えると、沙和乃の頬には幾筋もの新しい流れが出来ていた。遠くに続いていく街灯が滲んで光の帯が流れる。


 いつかどこかに。

 王子様がいるのではないかと思っていた。最初のうちは、この人か、いやこの人かと…期待した。でも、そうではなかったのだ。人を見る目がないのかも知れない。幸せになりたくても、その手段が分からなくて立ち往生してしまって…。

 そう、人を見極める才には恵まれていなかった。だって、あの男ですら、最初は希望の光に見えたのだから。泥沼から自分を引き上げてくれたときは、あの野性的な眼差しにすがっていた。ゲームの先を読めない人間だから、今日の自分を思い浮かべることが出来なかったのだ。


 幸せに、なりたい。そう望むことはもう出来ないのかも知れない。

「こんないい身体、してんだからな…」
 行為の最中に、男は沙和乃の顎を押さえ持って言う。

「地味に掃除婦なんてしねえでさ、もっと稼いで来いよ? お前なら、まだまだ男を悦ばせることが出来んじゃねえか? その方が楽が出来て、お前もいいだろうし。今はさ、フリーで出張サービスでも何でも方法はあるんだぜ…」

 …身体を、売れと言うのか? 曲がりなりとも、自分の女と言っている人間を。他人の欲望に晒して、代償を得ろと。そんな男だった。自分は手を汚さずに、沙和乃ばかりが苦汁を飲まされ続けた。

 そう…なってしまってもいいかも知れない。そこまで堕ちればもう怖いものなどなくなる。王子様なんて、もう来るわけないんだから。もうすぐ、12時の鐘は鳴る。でもまだ沙和乃の元にはカボチャの馬車さえ、到着しないのだ。


 すすり泣く自分の呻きに混じって。どこからか金属のきしむ音が聞こえてきた。

「…え?」

 人の気配がする。まさか、そんなはずはない。だって…空気も凍り付くような真冬なのに。身を震わせると辺りの気体の粒がさらさらと音を立てて崩れていくような。ぼうっとした視線を、音のする方向に向けた。

 ――嘘。

 足を止めて、目をこらす。目のフチがひりひりして痛い。こんもりとした常緑の植え込みの茂みの向こう、微かにうごめくものがある。木の枝の下、黒い鎖が二本、スローモーションで振り子運動していた。

 自分を取り巻いていた凍った空気がゆらりと流れて、まるで液体みたいに想いが流れ出していく。どこから…? 一体どこから? そして…どこへ?

「さ、沙和乃さんっ!!」

 がしゃんと、大きな音がして。それから、その影は自分で自分の奏でた音にびっくりするように、きょろきょろと辺りを見渡した。この辺はご近所さんがうるさいからと、沙和乃がこの前言ったことを気にしているのか。

 周…。

 沙和乃は動けなかった。公園の入り口に立ちつくしたまま、呆然と眺めている。後ろに街灯があるからきっと顔は暗くて向こうからはよく見えないはず。でも沙和乃の方は彼の顔が明るく良く見えていた。

「あ…」
 三歩くらい前に出て。それから、ハッとした表情になって立ち止まる。一瞬浮かんだ喜びの色が、ふっと引いていった。

「ご、ごめんなさいっ! すみませんっ…、こんなことをしちゃ、いけないって。そのくらい分かっていたんですっ…」

 動かない沙和乃の態度を拒絶と取ったのか、周五郎は申し訳なさそうに俯いた。前髪が顔に掛かってふるふると揺れている。

「…え?」
 沙和乃の方はいきなり謝られて、訳が分からない。戸惑いのかたちが音になった。

「さ、沙和乃さんが、いいよって言ってくださったわけでもないのに、会いに来ちゃいました。こんなの、マナー違反だって思ったんです、でもっ…会いたかったんですっ…!」
 そこまで言うと、眼鏡を外してごしごしと顔を手の甲で拭っている。もう泣いてるのか、まったく涙腺が弱いんだから。

「待ってたんです、沙和乃さんが連絡くれるの。でも、いつまで経っても来ないから…だから、自分からかけちゃったんですけど、圏外で…メールを送っても全然返ってこないし…っ! もう、嫌われちゃったのかなって、思ったんですけど…でもっ、でもっ…会いたかったんですっ…ここで待ってたら、もしかしたら通るんじゃないかなって。お家に灯りもついてないから…きっとまだ戻ってないんだろうって…」

 声が涙に負けて、出てこなくなる。鼻をずるずるすすって、顔を両手でごしごし拭って。肩で息をしてる。大きく揺れてるその輪郭が、でっかい身体のはずなのに、とても心許なく思えて。

 ふたりの間の空気が揺れている。漂っていく心。目をこらさないと表情も分からない距離を置いて。

「明日、一日、忙しくてっ…昼間も予定が入っちゃって、夕方からは大阪でレセプションで…あ、会えないんですっ、大切な一日なのにっ…! 口惜しくてっ、仕事なんてほっぽって、沙和乃さんとずっと一緒にいたいのにっ…でもっ、僕はちゃんとした社会人だから、沙和乃さんに嫌われないようにちゃんとしなくちゃって…! さ、沙和乃さんっ――…」

 周五郎が顔を上げた。涙の滝の中に目と鼻と口が付いている。

「もう、2日も過ぎちゃいましたっ…あと、5日しかないですっ…! 一週間なんて、本当にあっという間で…だから、お願いしますっ、嫌いにならないで下さいっ…!」

「…周…」

 何と言ったらいいのだろう。こんな自分、想われる価値もないのに。もしも、今までの時間、自分が何をしていたか知ったら、どんなに軽蔑されるのだろう。…ううん、自分の存在自体が、今までの全てが、彼に向かって胸を張れるものじゃない。

 知らないから。彼は、汚い世界や裏の人間を知らないから。だから、目の前の、自分の周りがみんな綺麗に見えるんだ。だから、自分のことも…あんなにまっすぐな目で見てくれるんだ。

「怒ってないよ、周…」
 ため息と共に、そう告げていた。

「え…!?」
 周五郎が顔中で驚いている。

 沙和乃はコートの襟元をぐっと押さえた。もちろん、中が見えないように、ボタンは全部きちんと付けていたけど、それでも、襟元は心許ない。自分の裏側を彼には決して知られたくないと思った。

「怒ってないから、安心して。だいじょうぶ、一週間の約束はちゃんと守るから…」

 周五郎からは自分の顔なんて見えないんだけど、それでも精一杯微笑んだ。彼が、綺麗だと思ってくれるなら、そんな自分になろう。彼の前でだけ、真っさらな自分になりたい。

 

「さ、沙和乃さん〜〜〜〜っ!」
 大股で走ってくる。まっすぐにこちらを見て。何だか、1年ぶりか10年ぶりに出逢ったみたいだ。

「…れ?」
 ごくごく近くまで来て、足を止める。周五郎の顔に喜びとは別のものが浮かんだ。沙和乃の背後から降り注ぐ蛍光灯の光が綺麗な色に染めた髪を、透き通らせる。彼自身が、輝いているみたいだ。白い光の中に立っている。瞳がきらきらして、少女漫画みたいだ。

「何で…泣いてるんですか? もしかして、誰かに、いじめられたんですか…?」

 不思議そうに顔をのぞき込まれて、ハッとする。ああ、そうだった…あんなに泣いたんだから、全てがぼろぼろだ。とても見るに耐えない顔になってるはず。髪もほつれているだろう。慌てて、コートの袖口で頬をごしごしした。

「…あ、違うわっ。そんなんじゃ、ないから――」
 何度か深呼吸して、ようやく落ち着いてきた。もう一度、深く息を吸い込んで吐き出すと、今度は自然に笑顔になれた。

「沙和乃さん…?」
 白い息の向こうから、周五郎の声がする。照らし出されてすっきりした輪郭のフチに、金色に光る産毛。

「…周に、会いたかった。だから、…泣いていたんだわ」

 そう言うことにしちゃってもいいかなと思う。だって、たった7日間なんだもの。あと、5日しかないんだもの。無感情で回り続ける時の針が、大切な時間を流していく。それを止めることは神様にだって出来ない。

「周…」
 子供みたいな男だけど、身長差はしっかり20センチ。こつんと額をぶつけるのは首の下だ。ここまでがたいのいい男は今までいなかったなとか思う。それなりに筋肉もあるのか、背中に腕を回してみてもいっぱいいっぱいだ。金持ちのボンボンはもやしっ子かボンレスハムかと思っていたけど、そう言うわけでもないらしい。

「うわっ…! あ、あのっ…、沙和乃さんっ!」
 周五郎は身体の横で漫画みたいに腕をバタバタとしている。赤くなったり青くなったり、と言う感じで焦りまくっている。身体もコチコチになって、ちょっと可哀想だ。

 …こういうときはさ、ぎゅっと抱きしめてくれればいいのにね。

 それをこの男に欲求するのはちょっと無理かなと思う。ひんやりと頬が冷たくて、その上を新しいものが流れていく。あとから、あとから、止めどなく。ずたずたに切り裂かれた心が、それでも求めるものがある。まっすぐなものを信じてしまうのは、まだ青い証拠かも知れない…。

 背中に体温を感じることはついになかったけど。水底のような真冬の深夜。ごわごわの上着越しに確かに感じるぬくもりを、しばらくの時間、ふたりで共有していた。





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