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宝石店のショーケースの中なんて、そんなに頻繁に覗いているわけではない。だいたい、デパートのそういうコーナーでも、ちょっとでも足を止めようものなら店員がささっと近寄ってくる。何としてでも買わせてみせるっ…、と言う執念みたいなものを感じて怖かった。
純白の布をドレープをきかせて敷き詰めたその中は、花や貝殻、綺麗なリボンまでも散らして、主役たちを演出していた。そして、それらに負けることなく存在感をアピールしているジュエリーたち…。 …え? はたと気付いた。何これ、品物に値段が付いてないじゃないの? そうよ、あれもこれも…値札が付いてるのなんてひとつもない。じゃあ、どうやって選べと言うの? もしかして、こう言うところに来る客は目が肥えていて、見ただけで値段が分かるのかしら? 手にして、実はものすごく高価だったりしたら…どうするの? 「何、驚いているんですか?」 …まあ、婚約者でもない女連れで来て、これだけ冷静に対応されると困るけど。だいたい、考えてみれば、あの女性と昨日来てるんじゃない? 見るからに偉そうなさっきの男性店員は、おなかの底で何を考えているんだろうか。おくびにも出さないところがプロだなと思ってしまう。 でもって、私の立場は? もしかして…愛人とか。それどころか、婚約が決まったところで過去を清算するために手切れ金代わりに高価な品をたかる女…? やだなあ、すごい惨めかも知れない。周五郎と一緒にいると、自分が情けなくなるばかりだ。自分のフィールドにいる分にはいいんだけど、こうして彼のエリアに連れ込まれると途端に縮こまってしまう。 ああん、もう…嫌だなあ…。 沙和乃はぶんぶんと首を振って、雑念を払った。周五郎から離れるように、反対回りに歩き出す。ガラスケースの中から、キラキラと光が溢れているみたいだった。もう二度と入ることも出来ない超高級会員制の宝飾店だ。老後の自慢話にここはとくと拝見、と行こうじゃないか。そうやって見ていると、だんだん落ち着いてきた。 だいたい、お金持ちしか来ないお店なら、値札が付いてなくたって当然だ。みんなお金のなる樹を持っているんだから。カード破産なんて縁のない、生粋のお金持ち。
虹色の大きな貝殻の中に、ころんと置かれたピンク色の固まりがあった。…これは、珊瑚だろうか。それにしても、綺麗な色、綺麗なかたち。普通、珊瑚と言ったら、茜色なのかと思っていた。でもこれは綺麗なベビーピンク。どんな風に加工してあるのか、まん丸だ。パチンコ玉くらいの大きさと言ったらいいのだろうか。 「どうしたんですか?」 「これ…珊瑚かな? とても綺麗ね…」 「お気に召しましたか」 「お客様…失礼致します…」 こちらの返事も待たずに、その店員は沙和乃の手を取る。そして慣れた手つきでくるんとブレスレットを手首に回して留め金を固定した。それは二重になっていて、細い方の輪が緩やかに手首に回り、長い方の輪には互い違いにピンクの珠と透明な石が並んでいた。手を下にするとそれが綺麗なラインで手の甲に掛かる。見せ方まで考慮された逸品だった。 「良くお似合いになりますよ? 沙和乃さんは華奢だから…こういう細い造りがぴったりですね」 そんな気恥ずかしくなるような行為まで振り払うことが出来ない。金色の細い流れがとてつもなく優美に絡みつく。高級品なんて、見たこともましてや触ったこともなかった。珊瑚がこんな美しくなるんだ。沖縄の土産物屋さんで見たのとは似ても似つかない。 「あ…外さなくていいですよ? そのままお持ち下さい」 「え…でも…」 強気に出たいのに、もうひとりの自分が邪魔をする。実はかなり気に入っていた、自分で払える金額だったら、譲って貰いたいと思うくらいだ。ジュエリーには不思議な魔力があって、見る人を引きつけるものがあると言うけど、本当にそうかも知れない。30を前にして、頑張ってきた自分にこれを贈りたいと思った。 一体いくらするんだろう…? 珊瑚だったら、ピンキリなのだろうな。この前後輩がボーナスで買ったリングと言うのを見せて貰ったけど、あれは10万くらいだって言ってた。かなり大きなモノだったから…それよりはこれ、小さいし…。その分、いくつも付いてるけど、でも…。 「これは沙和乃さんのものですよ。沙和乃さん以外に似合う者はいません」 「…周…」 痛いところを突かれた、と言う感じだった。どうしようもなく欲しくなったものを、自分に似合うと言われたら、もう引き返せなくなる。 「ここは僕に仕切らせてください、お願いします」
スマートな身のこなしで女性店員と話を進める周五郎の背中を見つめながら、沙和乃はボーっとしていた。右腕が妙に熱い気がする。これがストーンパワーという奴だろうか…いやいや、珊瑚は石ではないのかな? 彼の胸から当然のように金のカードが出てきた気もしたけど、見てみないふりをした。そう言えば、周五郎が沙和乃の目の前でカードを使うのは初めて。今まではそれを禁じていたんだから当たり前だ。
沙和乃が最初に目を留めた品物であんなにあっさりと同意するなんて。ちょっとしか覗いてないけど、見るからに高価そうな緑や赤や紫の石がたくさんあった。指の先くらいの大きさがあるものもあったし。 ナカノの専務ともなれば、あまり安っぽいものは困ると駄々をこねるんじゃないかと思ったのに…。 まあ、いいか。沙和乃は自分の腕を何度も眺めながら、弾む心を隠せなかった。
男は沙和乃の腕に光るものを満足そうに眺めてから、お世辞だけではないような喜びを含んだ声で、話を続けた。 「さすが、周五郎様、お目が高いですね…このような貴重品を…」 「…え?」 「こちらは昨日入荷したばかりでして。本当に、運が良くないと手に入らないものなんですよ? ご自分のものにしたくても出来ない方はたくさんいらっしゃるでしょう。ここにも『ナカノ』の総力をあげて、ようやく揃えたんですよ?」
沙和乃が必死で聞き返すと、男がおやおやという表情を見せた。 「…ご冗談を。これは珊瑚などではありませんでしょう、コンクパールですよ…?」 「…え?」 「あの…」 「で…このコンクパールって…そんなに珍しいものなんですか…?」 沙和乃の問いかけに。その男性店員は、ますます驚いた顔で答えた。 「そりゃあ、そうですよ。あのですね、コンクパールというのはカリブ海かメキシコ湾の辺りにだけ生息する『コンク貝』と言う巻き貝から取れる天然の真珠なんですよ。アコヤ貝などの二枚貝と違って巻き貝では養殖も出来ませんしね。装飾品になりうるほどの良質のものは年間に数百ほどしか取れないといいます」 「そ、それって…」 「もともと、コンク貝は食用でしたから、乱獲で数が減ってしまったんですね。稀少性で言えば、ファンシーカラーのダイヤモンドにまさるとも劣らないと言えますよ?」 「ファンシーカラーの…」 ピンクダイヤ、って聞いたことがある。ものすごいお金持ちが買う奴だ。普通の自分たちみたいな庶民だったら透明なダイヤですら、一生ものだ。いや、一生に一度も危ないかも。 それに。もしかして、もしかしなくても…これは信じられないくらい高価なものではないのか? そう思った瞬間、右腕がずしっと重くなった。…で、きらっと心の袋の一枚奥をえぐられるような不安が走る。
「あのですね…レディーは贈り物の価値なんて探るものではないと…」 …ええと、一万円…のわけないし。10万? まさか100万っ!? 「それほどのレベルになりますと…パールの間に施されているのもダイヤですし…少なく見積もって一千万程かと」 「…ちょっ…!?」 もがもが…、もうちょっとで高尚な店内で叫び声を上げるところだった。男の咄嗟の判断で沙和乃の口が塞がれる。 「お、お客様…他の方のご迷惑になりますから――」 「だ、だって…っ…!」 「周が…あの、周は何にも知らなくて…今頃、困っているんじゃないかと。だって、見た目は珊瑚と変わらないし」 沙和乃は周五郎を止めなくてはいけない。こんなもの、自分で払える額ではない。周五郎だって、さすがに困るだろうし…。でも男性店員は、そんな彼女を静かに制する。 「…専務は、ご存じですから。これは、専務から全てお取り置きするようにと言われていたものです。何しろ、稀少な品ですから、昨日ディスプレイしてからというもの、もう来る方が全て足を止められてご購入を希望されますので大変だったんですよ?」
「昨日、こちらに下見にいらっしゃって、一通り回られて。で…やはり、この品が宜しいと。大切なお客様をお連れするからそれまで誰にも譲らないようにときつく仰られて…」 「え…」
かーっと顔が熱くなる。血液が上昇した感じ。頭が重くなって、クラクラする。
「私は、受け取れないわ。…周が来たら、そう言って」 「ちょっ…!? お待ち下さいませっ、あのっ…お客様っ!?」 その声を背中に受けながら、沙和乃は入ってきたドアを抜けて、入り口への通路を駆けだしていた。
どこまで計算していたんだろう。もしかしたら、自分は周五郎を甘く見ていたんじゃないだろうか? いくら親族経営の企業だとはいえ、それなりの采配がふるえないようだったら、天下の「ナカノ」を取り仕切ることは出来ないだろう。
外に飛び出した時にはもう後ろに周五郎が追いついていた。これ以上逃げようにも、コンパスにも足の速さにも持久力にも違いがありすぎる。 「…周っ!?」 「沙和乃…さん?」 「どうなさったんですか? あの…どうして…」 「あんたっ! 知ってたんでしょうっ、あれが珊瑚じゃないって。知っていて、しらばっくれたんでしょうっ! 何のつもりなのよ、一体っ!!」 裏切られたんだと思った。可愛い顔をして、人なつっこく近づいてきて。何でもあなたのお気に召すままですよ…とか振る舞いつつ、実はこちらの首に鎖を付けていたのか? 「私、聞いたんだからねっ! あのブレスレット、ものすごく高価なものだってっ!! あんた、それを知っていて、私に黙っていたでしょっ!」 「あ…そうか」 「そんな、いいじゃないですか。沙和乃さんが気に入ってくださったなら、それが一番ですよ。別に、金銭のことなんて気にしないでください。ちゃんと僕個人の支払いですし…お気になさらないでください」 何でもないように、笑ってる。それが信じられなかった。 「…っ! 馬鹿っ!!」 「さっ…!」 「人の顔を札束で叩くような真似をして、何がそんなに嬉しいのっ!? 貧乏な庶民に恵んでやろうって言うなら、いい迷惑だわっ! いい加減にしなさいよねっ!!」 「そんな…」 「金に物を言わせようとする人間は、一番嫌いっ!! だから、周だってもう大嫌いよっ!!」 「沙和乃さんっ…」 「そんな、…そんなじゃないんですっ。ぼ、僕はただっ…沙和乃さんに喜んで欲しくて。綺麗なものを差し上げたら、きっと気に入って頂けるんじゃないかって。食べ物はすぐになくなっちゃいますけど、もしも宝石だったら、いつまでも僕のことを思いだして貰えるんじゃないかって。だから…」 「それがっ! 分かってないってことなんじゃないのっ!」
やっと。…やっと、少しだけ、その光が見えてきたと思ったのに。
「うっ…そんな…」 「そんな言い方しなくたって…だって、僕にだって…沙和乃さんに喜んで頂きたいんですっ。僕は、沙和乃さんとご一緒出来て、本当に嬉しい、毎日が楽しくて仕方ないんです。だから、…だから、僕に出来ることだったら、何でもしたい。こっ…恋人だったら、一度くらい贈り物を差し上げてもいいんじゃないんですか…?」 「この気持ちを…かたちにしてはいけないんですかっ…?」
沙和乃は心の中で呟いた。そんなこと、言ったって…あんなの私が欲しいものじゃない。かたちどった心を貰ったって、全然嬉しくない。そりゃ、欲しいものはある。ずっと待ち望んでいたものはある…でもそれは、周五郎の金のカードでは絶対に買えないものだ。 多分、そう言っても、この男には分からないだろう。理解出来ないことで混乱させても気の毒だ。
吐き捨てるようにそう言った。そして、うずくまったままの周五郎をその場に残して、さっさときびすを返す。 「…ま、そんなの周には絶対に無理。だから、私と周は住む世界も感覚も違うってことなのよっ! もう分かったでしょう!? 私だって、分かりすぎたわよっ!!」 「そんな…」
振り向いては駄目、そう思った。今振り向いたら、きっと引き返してしまう。拾った捨て犬をもう一度捨てに行く時は、段ボール箱を置いたら、振り向いては駄目。知らんぷりをして、行き過ぎなくちゃ。 周五郎が、悪気があってあんなことをしたのではないと言うことは分かってる。分かっていても、許せなかった。…そして、そんな自分の態度も許せなかった。
※『コンクパール』については野間美由紀さんの『ジュエリーコネクション6「香港翡翠幻想」』(白泉社文庫・Silkyシリーズ)巻末のエッセイから引用しました。とっても素敵なお話がたくさんありますので、どうぞご覧下さいね。一話読み切りなのでお気軽にどうぞv
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