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イライラが募ると何もかもが上手く行かなくなる。
――感情なんて、ロッカールームに捨ててこなくちゃ駄目でしょうっ!? さすがのフロア長も沙和乃を呼び止めて小声で叫んだ。そして15分の休憩を申し渡される。この忙しい時間帯にフロアチーフに休憩を取らせるなんて異例の措置だが、それくらい今日の沙和乃は使い物にならないと言うことなのだろう。「どこか具合でも悪いの?」と言う質問には、首を横に振った。体調は決して悪くない。嘘はつけなかった。
夕方から降り出した雨は、沙和乃が帰宅する夜半にはもうすっかり辺りをしっとりと濡らしていた。しぶきが上がるほどの雨足ではなかったが、それでも空間をびっちりと覆い尽くす雨の細糸は傘を差していても、髪の表面やコートの肩口に水滴を付けていく。雨のせいか冷え込みは多少緩んだが、それでも2月の夜は寒々しかった。 沙和乃の付いたため息がそのまま白い息になって辺りを漂う。滲んでくる視界、寒さのために目が潤んだのだと思いたかった。 …相当、懲りたんだろうな。 あれから、何度も確かめてみたが、携帯には一通のメールも入っていない。いつもだったら、慌てて言い訳しながら追いかけてくる男が、呆然としているだけだったし。もう、連絡もしてこないかも知れない。もともとあと3日しかない逢瀬だったけど、それすらもあの一瞬に消し飛んだ。 あのときはもうただただ、ひたすらに口惜しかった。だから、ああやって感情をぶつけることしか出来なかった。でも、言い合っているうちにふたりの間にどうしようもない溝が生じていることにも気付いた。 「…周…」 ふたりで過ごしたほんのちょっとの時間が、楽しくなかったかと言われたら嘘になる。周五郎と一緒にいて、くすぐったくて幸せだったと思う。難しいことを何も考えないから、ままごとのような関係を続けられた。…でも、こんな風に立場の違いを見せつけられたら、もう一緒にいられない。どうしてそれを分かってくれないんだろう。 「馬鹿…」 それに振り回された自分…情けないのに…それでも、何故か寂しくて。どうして寂しい、なんて思うんだろう…? これから、また普通の生活に戻るだけだ。どうせ、1週間だったんだから、こんなのなかったことにすれば…。 ぽろぽろと、視界がこぼれ落ちていく。口惜しい、どうしてか口惜しい…!
「…えっ…」
傘を飛ばして駆け寄ると、かがんで肩を掴む。すると、壁にもたれていた人間がゆっくりと目を開けた。 「さ…わの、さんっ?」 「な、何してんのよっ!? あんた、冷たいわよっ!! ぐしょぐしょじゃないのっ! いつからここにいたのよっ!!」 「え――…」 「あっ…、あのっ!!」 「え…」 何なの? …どういうこと? 沙和乃の頭の中は真っ白になった。差し出されたのは…しおれかかったひと束の花…。雨に濡れて、暗がりでは何の花かも分からないほどだ。白っぽい色合いなことだけがかろうじて認識出来る。 「何よ、これ」 「沙和乃さんに…差し上げようと思って、待ってたんです」 その時、家の前の道を車が一台通り過ぎた。一瞬だけ目の前が明るくなる。くたんと首を垂れたバラの蕾がみすぼらしく照らし出された。 「な、だから…っ! 何なのよっ、今度は。どういうつもりなのよっ!」 いるはずのない男がいた。もう、会わない、絶対に目の前に現れることはないと思っていたのに。自分が帰宅するのをずっと待っていたという。それなら、連絡でもしてくればいいのに。喫茶店でもどこでも時間を潰すようなところはいくらでもあるのに。 芝居じみたことをして、こっちの気を引こうって言ったって、そうは行かないんだからっ…! 多分、相当にきつい表情で睨み付けていたと思う。…なのに。周五郎は沙和乃の方をじっと見ると、ぐっしょりと濡れた頬をふっとほころばせた。 「受け取ってください、…お願いします。僕が、生まれて初めて受け取ったお金で買いました」 その姿と差し出されたものと…あまりにも対照的に。周五郎の表情はとても嬉しそうだった。暗がりをぱあっと明るくするほどのほころんだ顔。そして、戸惑う沙和乃を前に、あれから半日の自分の行動を話し出したのだ。
さすがの周五郎も、あのブレスレットの正規な価格を知ったら沙和乃が受け取らないことくらい分かっていた。もちろん、高価な品だから贈りたかったわけではない。あれが本当に美しいものだから渡したかったのだ。ただ、ちょっと値が張りすぎていただけで…。 「沙和乃さん…」 「…お金…」 どうにかして、お金を調達しようと考えた。もちろん、ポケットに入っているカードを使えば、買えないものなんてないだろう。別荘だって、小型ジェット機だって、クルーザーだって…思いつくものを全て購入してもびくともしないことは分かっていた。それを知りながら、その反面、あまりにも虚しいことだとも知っていた。このカードでどうしても手に入らないものがひとつだけあった。 「――水道管工事でも、ビルの窓ふきでもやって。汗水垂らしてお金を手に入れてご覧なさいよ。そうやって、稼いだもので買った物だったら、なんでも喜んで貰ってあげる…」 沙和乃は確かにそう言った。もしかしたら、と思う。絶対に無理、と言いきられたが、もしもそれを実行出来たら、沙和乃は戻ってきてくれるかも知れない。もちろん、金や権力で縛り付けることだったら可能だ、でもそんなことで手に入れても仕方ない。 「ビルの窓ふき…」 一瞬、ナカノの本社ビルが頭に浮かぶ。確か、外注の清掃会社が入っていたはずだ。そこに頼み込めば、仕事をくれるだろうか…? だが、すぐにそんな甘い考えは打ち消した。だいたい、会社の専務が窓ふきなんてしようとしたら止められるに決まっている。会社関係には顔が割れているのだ。それに、今日はうるさい側近たちを振り切って家を出てきていた。今頃、世話役である「爺」田所氏が、必死にあちこちを探し回っているはずだ。今日は仕事のスケジュールは組まれてなかったが、プライベートなことで色々と自分にさせたいことがあったらしい。 ――時間が、ないのだ。 まだ痛む足を引きずりながら歩き出す。自分の頭の中に入っている知識と情報があまりにも役に立たないものだと悟りながら。
「履歴書を持ってきてください」…当然と言えば当然のことであった。素性の分からぬものなど雇えるか、と言うことなのだろう。周五郎だって自分が雇用主なのだから、それくらいは分かる。でも、今、素性を明かすことは出来ない。それに、もし正直に書けば…冗談とも取られかねない。ナカノの専務が仕事を探しているなんて、どうみても変だ。
何度か容子の美容院の前も通った。でも今日はもともと定休日。周五郎のために服を揃え、セットしてブローしてくれたが、そのあとは家族で出かけると言っていた。仕事がらみではない知り合いなんて、容子くらいしかいなかった。彼女なら知り合いでも紹介してくれたかも知れない。希望の糸は途切れた。 どれくらい歩いたのだろう。何十件の店に入って話をしたのだろう。途中からどこを歩いているのかも分からなくなった。そして、気が付くといつか見た風景が広がっていた。 「あ…」 自分のシャツのポケットには今もあのカードが入っている。それを使って買い物をして、適当なことを言って誤魔化せばいいのだろうか? きちんと働いて手に入れた金で買ったものだと、しらを切れば…いや、そんなことをしていいはずがない。それくらいの演技をするのは朝飯前だったが…もしも彼女を騙せたとしても自分は騙せない。
沙和乃と一緒に遅めの昼ご飯を食べたあの、中華料理屋だ。汚い店だと思ったがとてもおいしくて、ぺろりと平らげてしまった。今は夕食のかき入れ時なのか、ざわざわと明るい声が漏れてくる。そこに行くだけで心が満たされそうだった。あの昼食から何も食べていなかったが、上手そうな香りに反応する感覚もなくなっていた。 「何よ、今、忙しいんだから。乞食みたいななりをしてっ…あんたなんて働かせられないわ」 「だいたいね、金がないから働かせてくれ何て言う奴を引き受けているほど、ウチはおめでたくはないの。悪いけど、他を当たってね」 「あんた、もしかして。この間、沙和ちゃんが連れてきてた坊やだろ?」
「汚れた食器を洗うように言われました。とてもたくさん出るんです。それを洗剤につけて、ひとつずつスポンジでこすって…そのあと乾燥機に並べて。思わず、どうして全自動の食器洗い機にしないのかと聞いちゃいました。怒鳴られましたけど…」 「11時の閉店まで働いたら、腹が減っただろうと食事をくれて…で、千円札を一枚、下さいました」 「――千円…!?」 周五郎がここに着いたのが7時頃だと言ったから、丸々4時間も皿洗いをしたことになる。それで千円? 時給250円っ!? ちょっと酷い気もする。でも、周五郎はとても嬉しそうに微笑んだ。 「もう、どこの店も閉まっていたんですが…ひとつだけ、明日の定休日のために掃除をしているお花屋さんがあって。そこでバケツに残っていた花を譲って頂いたんです。おつりを下さるって仰ったけど、まあいいかって。だって…僕の欲しいのはこれだけだから。あとは取っておいてくださいって…何だかもったいなかったかなあ?」 くくくっと、喉の奥で笑って。それから、もう一度、まっすぐに沙和乃を見つめる。 「沙和乃さん、受け取ってくれますよね? これ、ちゃんと僕が働いたお金で買ったんですよ。少ししかないけど…でも…」
「あ、あのさっ…、こんなに濡れてると風邪ひくでしょ? とにかく中に入って、父の服でも探すから――…」 必死で腕を引くと、周五郎が不思議そうに顔を上げた。 「上がって、いいんですか? でも…」 「でもも、へちまもないでしょうっ!? とにかく、さあ…っ!」 左手で周五郎の腕を掴んだまま、鍵を開ける。またふるふるっと身体を揺する彼が、雨粒をまき散らした。
「とりあえず、それ羽織っていて。お風呂が出来たら呼ぶから温まって。…濡れた服は一応洗濯するからねっ…」 「…何よっ!?」 「とても…素敵な気分です」 「…は?」 「ねえ、…沙和乃さん。僕が、会社を辞めて、お皿洗いの仕事に行ったら…そしたら、毎晩、こうしてお花を買って戻ってくるんですよね? 沙和乃さん…喜んでくれるかな…」 「馬鹿っ! …何言ってんのっ! …そんなこと出来るわけないでしょっ!」 「あんたは、ナカノの専務なんでしょ? そんないい加減なことが出来るわけないでしょうっ! …お風呂、見てくるから」 勢いよく、立ち上がっていた。もう、馬鹿馬鹿しいったらない、そんなことがあるわけないじゃないの。周五郎はナカノにとってなくてはならない人材のはずだ。いくらのほほんとして、見るからに坊ちゃんでも、仕事はそれなりにやってるはずだ。変なこと、言い出さないでよっ! 雨に打たれて頭がおかしくなっちゃったのっ!? それなのに、心臓が知らないうちにばくばく高鳴り始める。周五郎の言っている日本語なんて、沙和乃が認識出来る単語じゃないと思いつつも、言葉通りに受け取ってしまう。…無理なのに、あんなの口から出任せでしかないのにっ! しばらくはとてもリビングに戻ることが出来なくて、洗濯機のぐるぐる回る水面をボーっと見ていた。ブランドモノのシャツ、ネットに入れなくて良かったのかしら? もしかして、ドライ表示だったりして!? …ああん、もうどうなってるんだかっ!!
ようやく呼吸を整えて、リビングを覗く。でも、そこにはスエットの下をかろうじてはいて、上は首から突っ込んだ状態で眠りこけているてるてる坊主がいた。 「ちょっ…、ちょっとぉ〜、周っ! 起きなさいっ! 馬鹿っ! こんなところで寝ないでよっ!!」 ゆさゆさと揺らしてもびくともしない。やだ、嘘でしょっ!? 一風呂浴びたら、運転手でも呼ばせて家に戻すつもりだった。まさか、泊めるつもりなかったのに…でも、今更連絡先なんて分からないし…。 沙和乃はパニックになりながらも、毛布でも持ってこなくちゃと思い直した。ここはこれから真夜中にかけてとても冷える。濡れた身体で風邪でもひいたら仕事に差し支えるじゃないか。一体、何を考えているんだか。
分厚い毛布を二枚掛けると、周五郎の閉じた口元から微かにうめき声が出た。起きたのかな? と思ったがすぐに寝に入ってしまう。規則正しい寝息を聞いているうちに力が抜けて、ソファーの脇にぺたんと座り込んでいた。目の前に周五郎の顔がある。何となくじーっと見つめてしまった。 「まつげ…長いなあ…」 目を閉じていると、ひときわあどけない。本当に24歳の立派な社会人なのか疑わしい。大人と子供がミックスしたよく分からない人間。あるところではすごく頭が切れるのに、もう一方ではとても抜けている。沙和乃を喜ばせようと半日歩き回った上、4時間も皿を洗って、たったの千円を稼いで、あれっぽっちの花を嬉しそうに手渡してくる。 …沙和乃さんに、喜んで欲しくて…。 馬鹿だなあと思う。こんなことをされて純粋に喜ぶのはもっとすれてない女性だ。沙和乃くらいになってしまうと、いくら周五郎が汗水垂らして働いた金で買ったからって、安っぽい花が、あの見事な宝石にも勝るとは思えない。どちらを取るかと言われたら、なんだかんだ言ってもやはりブレスレットかも知れない。…そんな、馬鹿らしい、安っぽい女なのに、自分は。 それでも、周五郎は嬉しそうだった。きちんと働いたこと、それであれだけの花を手に入れたことを心から誇りに思っていた。そうじゃなかったら、ここまで来られなかったはずだ。 頬に指を当ててみる。やわらかい。それでもうっすらと無精ひげが生えだしていて、おかしい。一応、大人なのだ、こんなでも。 「…周、ありがとね…」 そっと囁いてみる。すると、眠ったままの周五郎の口元がふふっとほころんだ。まるで聞こえているみたいに。沙和乃は引っ張られるように身を乗り出すと、そこに自分の唇をそっと押し当てていた。
時計の音が辺りに響いて、ハッと我に返る。顔を上げた沙和乃は自分が何をしたのか、しばらくは分からなかった。
「…嘘…っ…」 確かに身体の奥から湧き出てきた感情があった。でも、それを信じたくなかった。身体が大きく震える。 雨足が強くなったらしい。それが風に煽られて窓に打ち付けてくる。ばりばりと割れるような音がする。心が壊れそうだ。自分の一番奥の大切な部分がヒリヒリと焼けただれていく。
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