TopNovelココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆13


…13…

 

 

 イライラが募ると何もかもが上手く行かなくなる。


 その日、沙和乃は一番上等の客に使うケーキ皿を3枚も割った。その上、こともあろうに料理を運び入れる会場を取り違えてしまう。セッティングを始めてすぐに気付いたから大事には至らなかったが、やはり15分ほどのタイム・ロスが生じ、式進行に多少の遅れを出した。当然、始末書ものだ。オーナーの裁量次第では減給処分にもなり得る。

 ――感情なんて、ロッカールームに捨ててこなくちゃ駄目でしょうっ!?

 さすがのフロア長も沙和乃を呼び止めて小声で叫んだ。そして15分の休憩を申し渡される。この忙しい時間帯にフロアチーフに休憩を取らせるなんて異例の措置だが、それくらい今日の沙和乃は使い物にならないと言うことなのだろう。「どこか具合でも悪いの?」と言う質問には、首を横に振った。体調は決して悪くない。嘘はつけなかった。

 


「…ふう」

 夕方から降り出した雨は、沙和乃が帰宅する夜半にはもうすっかり辺りをしっとりと濡らしていた。しぶきが上がるほどの雨足ではなかったが、それでも空間をびっちりと覆い尽くす雨の細糸は傘を差していても、髪の表面やコートの肩口に水滴を付けていく。雨のせいか冷え込みは多少緩んだが、それでも2月の夜は寒々しかった。

 沙和乃の付いたため息がそのまま白い息になって辺りを漂う。滲んでくる視界、寒さのために目が潤んだのだと思いたかった。

 …相当、懲りたんだろうな。

 あれから、何度も確かめてみたが、携帯には一通のメールも入っていない。いつもだったら、慌てて言い訳しながら追いかけてくる男が、呆然としているだけだったし。もう、連絡もしてこないかも知れない。もともとあと3日しかない逢瀬だったけど、それすらもあの一瞬に消し飛んだ。

 あのときはもうただただ、ひたすらに口惜しかった。だから、ああやって感情をぶつけることしか出来なかった。でも、言い合っているうちにふたりの間にどうしようもない溝が生じていることにも気付いた。
 周五郎を頭ごなしに罵倒することはなかったのかも知れない。だって、彼は彼なりに今までの自分が生きてきた環境のやり方で沙和乃に接して来たんだろう。あの男が悪意を持って、行動することはない気がする。いつもそれなりの礼儀はわきまえているのだ。ただ、それが食い違っているだけで…。

「…周…」
 見上げると墨色の一角、街灯に照らされた空間から無数の透明な糸が落ちてくる。頬に当たっても痛くないほどの柔らかなそれが一粒目に落ちて、やがて温かい水になって流れていく。つつっと、頬を伝って。違うわ、泣いてるんじゃないの。雨粒が流れてるだけよ。…と、自分に何度も言い聞かせた。

 ふたりで過ごしたほんのちょっとの時間が、楽しくなかったかと言われたら嘘になる。周五郎と一緒にいて、くすぐったくて幸せだったと思う。難しいことを何も考えないから、ままごとのような関係を続けられた。…でも、こんな風に立場の違いを見せつけられたら、もう一緒にいられない。どうしてそれを分かってくれないんだろう。

「馬鹿…」
 勝手に1週間だけの恋人になってくれと言い、そしてまた勝手にその関係を打ち消そうとする。…いや、別に彼はそんなつもりはなかったんだろうけれど、結果的にはそう言うことになった。まあ、金持ちらしい気まぐれと言えばそこまでだろう。

 それに振り回された自分…情けないのに…それでも、何故か寂しくて。どうして寂しい、なんて思うんだろう…?

 これから、また普通の生活に戻るだけだ。どうせ、1週間だったんだから、こんなのなかったことにすれば…。

 ぽろぽろと、視界がこぼれ落ちていく。口惜しい、どうしてか口惜しい…!



 いつかの公園を抜けて、すぐに家の前に辿り着く。辺りが暗くなると独りでに点くソーラーの常夜灯。庭先でぽーっと光っている。もしかしたら公園で待っているのかと思ったが、雨に濡れる園内に人影はなかった。だが、カバンから鍵を取り出そうとした時、軒下の植え込みががさがさと音を立てた。

「…えっ…」
 最初は猫か犬でもいるのかと思った。たまによその家の飼い猫が遊びに来ていることがある。でも、こんな雨の中…沙和乃は目をこらした。グリーンのチェックの見慣れたシャツの柄が見えた。…嘘っ…。


「ち、ちょっとっ!! 何なのよっ、あんたっ!!」

 傘を飛ばして駆け寄ると、かがんで肩を掴む。すると、壁にもたれていた人間がゆっくりと目を開けた。

「さ…わの、さんっ?」
 目の焦点が合ってない。まだ頭が動いてないみたいだ。しゃがみ込んでうとうとしていたんだろうか?

「な、何してんのよっ!? あんた、冷たいわよっ!! ぐしょぐしょじゃないのっ! いつからここにいたのよっ!!」

「え――…」
 周五郎はぷるぷるっと首を振った。辺りにしぶきが飛び散る。そこで、ハッと気付いたらしい。

「あっ…、あのっ!!」
 彼はそこまで言うと、沙和乃の前に片腕を突き出した。

「え…」

 何なの? …どういうこと? 沙和乃の頭の中は真っ白になった。差し出されたのは…しおれかかったひと束の花…。雨に濡れて、暗がりでは何の花かも分からないほどだ。白っぽい色合いなことだけがかろうじて認識出来る。

「何よ、これ」
 正直に思ったままを口にしていた。言ってしまってから、ちょっと冷たすぎたかなと反省してしまう。

「沙和乃さんに…差し上げようと思って、待ってたんです」

 その時、家の前の道を車が一台通り過ぎた。一瞬だけ目の前が明るくなる。くたんと首を垂れたバラの蕾がみすぼらしく照らし出された。

「な、だから…っ! 何なのよっ、今度は。どういうつもりなのよっ!」

 いるはずのない男がいた。もう、会わない、絶対に目の前に現れることはないと思っていたのに。自分が帰宅するのをずっと待っていたという。それなら、連絡でもしてくればいいのに。喫茶店でもどこでも時間を潰すようなところはいくらでもあるのに。

 芝居じみたことをして、こっちの気を引こうって言ったって、そうは行かないんだからっ…!

 多分、相当にきつい表情で睨み付けていたと思う。…なのに。周五郎は沙和乃の方をじっと見ると、ぐっしょりと濡れた頬をふっとほころばせた。

「受け取ってください、…お願いします。僕が、生まれて初めて受け取ったお金で買いました」

 その姿と差し出されたものと…あまりにも対照的に。周五郎の表情はとても嬉しそうだった。暗がりをぱあっと明るくするほどのほころんだ顔。そして、戸惑う沙和乃を前に、あれから半日の自分の行動を話し出したのだ。

 


 沙和乃が怒りにまかせて罵倒して、あの場を去ってしまってから。やはりしばらくはあまりのショックに周五郎は立ち上がることが出来なかった。何が何だか分からないと言った方が良かったかも知れない。

 さすがの周五郎も、あのブレスレットの正規な価格を知ったら沙和乃が受け取らないことくらい分かっていた。もちろん、高価な品だから贈りたかったわけではない。あれが本当に美しいものだから渡したかったのだ。ただ、ちょっと値が張りすぎていただけで…。

「沙和乃さん…」
 相当に怒らせてしまったなと思った。あれはもう許してくれないかも知れない。ホテルに乗り込んだら、勤務中だと追い返されそうだし、かといって電話しても出て貰えないだろうし、メールしてもそのまま削除されてしまうかも知れない。

「…お金…」
 立ち上がったら、足が痛かった。思い切り蹴られたところだ。ズボンをまくり上げたら青あざになっているかも知れない。でも、それよりあの沙和乃が最後に見せた表情が胸に突き刺さった。

 どうにかして、お金を調達しようと考えた。もちろん、ポケットに入っているカードを使えば、買えないものなんてないだろう。別荘だって、小型ジェット機だって、クルーザーだって…思いつくものを全て購入してもびくともしないことは分かっていた。それを知りながら、その反面、あまりにも虚しいことだとも知っていた。このカードでどうしても手に入らないものがひとつだけあった。

「――水道管工事でも、ビルの窓ふきでもやって。汗水垂らしてお金を手に入れてご覧なさいよ。そうやって、稼いだもので買った物だったら、なんでも喜んで貰ってあげる…」

 沙和乃は確かにそう言った。もしかしたら、と思う。絶対に無理、と言いきられたが、もしもそれを実行出来たら、沙和乃は戻ってきてくれるかも知れない。もちろん、金や権力で縛り付けることだったら可能だ、でもそんなことで手に入れても仕方ない。

「ビルの窓ふき…」

 一瞬、ナカノの本社ビルが頭に浮かぶ。確か、外注の清掃会社が入っていたはずだ。そこに頼み込めば、仕事をくれるだろうか…?

 だが、すぐにそんな甘い考えは打ち消した。だいたい、会社の専務が窓ふきなんてしようとしたら止められるに決まっている。会社関係には顔が割れているのだ。それに、今日はうるさい側近たちを振り切って家を出てきていた。今頃、世話役である「爺」田所氏が、必死にあちこちを探し回っているはずだ。今日は仕事のスケジュールは組まれてなかったが、プライベートなことで色々と自分にさせたいことがあったらしい。
 今、会社関係の場所に顔を出せば、すぐ彼に連絡が行ってしまう。そうしたら、10分後には迎えの車が来て連れ戻されてしまう。そんなのは嫌だった。どうにかして、自分の力で動きたい。

 ――時間が、ないのだ。

 まだ痛む足を引きずりながら歩き出す。自分の頭の中に入っている知識と情報があまりにも役に立たないものだと悟りながら。



 やはり、コトはそんなに単純に行くものではなかった。自分ひとりで街中を歩いてみる。様々なレストランに喫茶店にブティック。この不景気ではあったが、それでもたまにアルバイト募集の張り紙のあるところが見つかる。
「アルバイト」という言うもの自体を経験したことはなかったが、一応単語としては知っている。時間給で働く仕事だ。もともとは「内職」を意味していたらしいが、現在では学生の仕事を指している。学生じゃない場合は「パート」になるらしい。正社員と違い保障はないが気軽に働けるので、若者を中心に人気があるらしい。
 とにかく、何か仕事を探して働いて、現金を手に入れよう…そう考えた。しかし、張り紙を見て、仕事をしたいと告げると…途端に、困ったことが生じたのだ。

「履歴書を持ってきてください」…当然と言えば当然のことであった。素性の分からぬものなど雇えるか、と言うことなのだろう。周五郎だって自分が雇用主なのだから、それくらいは分かる。でも、今、素性を明かすことは出来ない。それに、もし正直に書けば…冗談とも取られかねない。ナカノの専務が仕事を探しているなんて、どうみても変だ。
 掃除でも何でも、本当に仕事は選ばないと言っても、それでも不審の目で見られて追い返された。こちらが声を掛けた時は客だと思ってにこやかな態度で接してきた店員も、話をすると豹変する。途端に人を見下したような顔になる。そんな扱いを受けたことはなかったから、驚きの連続であった。



 …気が付くと…もう、とっくに夜になっていた。雨も降り出してくる。

 何度か容子の美容院の前も通った。でも今日はもともと定休日。周五郎のために服を揃え、セットしてブローしてくれたが、そのあとは家族で出かけると言っていた。仕事がらみではない知り合いなんて、容子くらいしかいなかった。彼女なら知り合いでも紹介してくれたかも知れない。希望の糸は途切れた。

 どれくらい歩いたのだろう。何十件の店に入って話をしたのだろう。途中からどこを歩いているのかも分からなくなった。そして、気が付くといつか見た風景が広がっていた。

「あ…」
 そこはひなびた駅前の通りだった。沙和乃と初めてふたりきりで1日過ごした時、連れてこられた街…沙和乃の家のある界隈。今にもそこに彼女が現れそうだった。だが、時計は7時過ぎ…遅番で仕事に入った彼女が戻るのは深夜になると言う。いるわけない…いても合わせる顔はない。
 あまり高い建物もなく、空が広い。緩やかに広がる街並みは、沙和乃のやわらかさを思い出させる。でも自分にとって、今はとても遠いものだった。

 自分のシャツのポケットには今もあのカードが入っている。それを使って買い物をして、適当なことを言って誤魔化せばいいのだろうか? きちんと働いて手に入れた金で買ったものだと、しらを切れば…いや、そんなことをしていいはずがない。それくらいの演技をするのは朝飯前だったが…もしも彼女を騙せたとしても自分は騙せない。


 …それでも、会いたくて。どうにかして、もう一度会いたくて。


 その時。ガラガラとシャッターを下ろし始めた八百屋の向こうに、ぽーっと赤く灯った光を見た。



 そこは周五郎にも覚えのある店だった。

 沙和乃と一緒に遅めの昼ご飯を食べたあの、中華料理屋だ。汚い店だと思ったがとてもおいしくて、ぺろりと平らげてしまった。今は夕食のかき入れ時なのか、ざわざわと明るい声が漏れてくる。そこに行くだけで心が満たされそうだった。あの昼食から何も食べていなかったが、上手そうな香りに反応する感覚もなくなっていた。
 裏口から出てきた出前持ちの店員に声を掛けると、うるさそうにあしらわれる。でもしつこく頼むと面倒くさそうに店のおかみさんらしい人を呼んでくれた。

「何よ、今、忙しいんだから。乞食みたいななりをしてっ…あんたなんて働かせられないわ」
 周五郎の必死の頼みに少し心を動かしながらも、その女性は言った。

「だいたいね、金がないから働かせてくれ何て言う奴を引き受けているほど、ウチはおめでたくはないの。悪いけど、他を当たってね」
 さっさと話を切り上げられる。追いすがろうとした鼻先で、ドアが閉まる。ああ、もう駄目だと思った時、もう一度、そこがばんと開いた。立っていたのはがっしりした体格のこわそうな男。

「あんた、もしかして。この間、沙和ちゃんが連れてきてた坊やだろ?」
 店長だと名乗ったその男は、眉間に皺を寄せながらも周五郎を厨房に入れてくれた。

 


「…で、どうしたのよ?」
 沙和乃は中腰の姿勢のまま、周五郎をのぞき込んだ。あの店は、自分が学生の頃にバイトしたこともある、それに子供の頃からの馴染みで何度となく食べに行っている。でも、あのとき連れていた周五郎を店長がきちんと覚えていたなんて。

「汚れた食器を洗うように言われました。とてもたくさん出るんです。それを洗剤につけて、ひとつずつスポンジでこすって…そのあと乾燥機に並べて。思わず、どうして全自動の食器洗い機にしないのかと聞いちゃいました。怒鳴られましたけど…」
 くすくす、と自分の言葉に笑っている。肩を揺らすが、疲れているのか弱々しい。

「11時の閉店まで働いたら、腹が減っただろうと食事をくれて…で、千円札を一枚、下さいました」

「――千円…!?」

 周五郎がここに着いたのが7時頃だと言ったから、丸々4時間も皿洗いをしたことになる。それで千円? 時給250円っ!? ちょっと酷い気もする。でも、周五郎はとても嬉しそうに微笑んだ。

「もう、どこの店も閉まっていたんですが…ひとつだけ、明日の定休日のために掃除をしているお花屋さんがあって。そこでバケツに残っていた花を譲って頂いたんです。おつりを下さるって仰ったけど、まあいいかって。だって…僕の欲しいのはこれだけだから。あとは取っておいてくださいって…何だかもったいなかったかなあ?」

 くくくっと、喉の奥で笑って。それから、もう一度、まっすぐに沙和乃を見つめる。

「沙和乃さん、受け取ってくれますよね? これ、ちゃんと僕が働いたお金で買ったんですよ。少ししかないけど…でも…」


「あ…ありがと…」
 もっと気の利いたことを言えばいいのに。沙和乃は何だか言葉が出てこなかった。顔も強ばっていたかも知れない。

「あ、あのさっ…、こんなに濡れてると風邪ひくでしょ? とにかく中に入って、父の服でも探すから――…」

 必死で腕を引くと、周五郎が不思議そうに顔を上げた。

「上がって、いいんですか? でも…」

「でもも、へちまもないでしょうっ!? とにかく、さあ…っ!」

 左手で周五郎の腕を掴んだまま、鍵を開ける。またふるふるっと身体を揺する彼が、雨粒をまき散らした。



 玄関で脱げる程度に脱いで貰い、バスタオルで身体を拭かせた。風呂に湯を溜めつつ、父親のタンスを漁る。ただ、周五郎は長身なので、入るかどうか。とりあえずくたびれたスエットを用意した。

「とりあえず、それ羽織っていて。お風呂が出来たら呼ぶから温まって。…濡れた服は一応洗濯するからねっ…」
 Tシャツに下着姿という情けない格好でリビングのソファーに座り込んでいた周五郎は、沙和乃の方を見て少し微笑んだ。とても嬉しそうで、こちらが恥ずかしくなる。

「…何よっ!?」
 とりあえず、とお茶をいれて。それを渡しながら、睨み付ける。でも周五郎は感情が切れてしまったようにただ、笑うだけだ。

「とても…素敵な気分です」
 訳の分からないことを言って、ソファーに身体を沈めた。目が眠そうにとろんとしてきている。

「…は?」

「ねえ、…沙和乃さん。僕が、会社を辞めて、お皿洗いの仕事に行ったら…そしたら、毎晩、こうしてお花を買って戻ってくるんですよね? 沙和乃さん…喜んでくれるかな…」

「馬鹿っ! …何言ってんのっ! …そんなこと出来るわけないでしょっ!」
 また、おかしなことを言い出すから、必死で言葉を遮った。

「あんたは、ナカノの専務なんでしょ? そんないい加減なことが出来るわけないでしょうっ! …お風呂、見てくるから」

 勢いよく、立ち上がっていた。もう、馬鹿馬鹿しいったらない、そんなことがあるわけないじゃないの。周五郎はナカノにとってなくてはならない人材のはずだ。いくらのほほんとして、見るからに坊ちゃんでも、仕事はそれなりにやってるはずだ。変なこと、言い出さないでよっ! 雨に打たれて頭がおかしくなっちゃったのっ!?

 それなのに、心臓が知らないうちにばくばく高鳴り始める。周五郎の言っている日本語なんて、沙和乃が認識出来る単語じゃないと思いつつも、言葉通りに受け取ってしまう。…無理なのに、あんなの口から出任せでしかないのにっ!

 しばらくはとてもリビングに戻ることが出来なくて、洗濯機のぐるぐる回る水面をボーっと見ていた。ブランドモノのシャツ、ネットに入れなくて良かったのかしら? もしかして、ドライ表示だったりして!? …ああん、もうどうなってるんだかっ!!


「…周? あの、お風呂――」

 ようやく呼吸を整えて、リビングを覗く。でも、そこにはスエットの下をかろうじてはいて、上は首から突っ込んだ状態で眠りこけているてるてる坊主がいた。

「ちょっ…、ちょっとぉ〜、周っ! 起きなさいっ! 馬鹿っ! こんなところで寝ないでよっ!!」

 ゆさゆさと揺らしてもびくともしない。やだ、嘘でしょっ!? 一風呂浴びたら、運転手でも呼ばせて家に戻すつもりだった。まさか、泊めるつもりなかったのに…でも、今更連絡先なんて分からないし…。

 沙和乃はパニックになりながらも、毛布でも持ってこなくちゃと思い直した。ここはこれから真夜中にかけてとても冷える。濡れた身体で風邪でもひいたら仕事に差し支えるじゃないか。一体、何を考えているんだか。


「…うんっ…、沙和乃さん…」

 分厚い毛布を二枚掛けると、周五郎の閉じた口元から微かにうめき声が出た。起きたのかな? と思ったがすぐに寝に入ってしまう。規則正しい寝息を聞いているうちに力が抜けて、ソファーの脇にぺたんと座り込んでいた。目の前に周五郎の顔がある。何となくじーっと見つめてしまった。

「まつげ…長いなあ…」

 目を閉じていると、ひときわあどけない。本当に24歳の立派な社会人なのか疑わしい。大人と子供がミックスしたよく分からない人間。あるところではすごく頭が切れるのに、もう一方ではとても抜けている。沙和乃を喜ばせようと半日歩き回った上、4時間も皿を洗って、たったの千円を稼いで、あれっぽっちの花を嬉しそうに手渡してくる。

 …沙和乃さんに、喜んで欲しくて…。

 馬鹿だなあと思う。こんなことをされて純粋に喜ぶのはもっとすれてない女性だ。沙和乃くらいになってしまうと、いくら周五郎が汗水垂らして働いた金で買ったからって、安っぽい花が、あの見事な宝石にも勝るとは思えない。どちらを取るかと言われたら、なんだかんだ言ってもやはりブレスレットかも知れない。…そんな、馬鹿らしい、安っぽい女なのに、自分は。

 それでも、周五郎は嬉しそうだった。きちんと働いたこと、それであれだけの花を手に入れたことを心から誇りに思っていた。そうじゃなかったら、ここまで来られなかったはずだ。

 頬に指を当ててみる。やわらかい。それでもうっすらと無精ひげが生えだしていて、おかしい。一応、大人なのだ、こんなでも。

「…周、ありがとね…」

 そっと囁いてみる。すると、眠ったままの周五郎の口元がふふっとほころんだ。まるで聞こえているみたいに。沙和乃は引っ張られるように身を乗り出すと、そこに自分の唇をそっと押し当てていた。


 …ポーン…。

 時計の音が辺りに響いて、ハッと我に返る。顔を上げた沙和乃は自分が何をしたのか、しばらくは分からなかった。


「…私っ…!?」
 自分の唇に指を添える。微かに残る感触。それがじんと胸を突いた。さっと顔から血の気が引いていく。慌ててリビングを飛び出すと、二階の自分の部屋に駆け上がり、ベッドに潜り込んで、頭まで布団を被った。

「…嘘…っ…」

 確かに身体の奥から湧き出てきた感情があった。でも、それを信じたくなかった。身体が大きく震える。

 雨足が強くなったらしい。それが風に煽られて窓に打ち付けてくる。ばりばりと割れるような音がする。心が壊れそうだ。自分の一番奥の大切な部分がヒリヒリと焼けただれていく。


 …涙が止まらなかった。




<< BACK   NEXT >>


Novel Indexココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆13