TopNovelココロの消費期限Top>ココロの消費期限☆14


…14…

 

 

 次の朝、目覚ましを待たずにふっと目が覚めた。雨は上がり、カーテンの隙間から朝日が漏れている。

「…う…」
 ゆっくりと目を開けてみたら、昨日帰宅したままの服を着ている。メイクすら落としていない。一体何がどうなって…と思った瞬間、昨夜のことがばばばっと蘇った。

「…周!?」
 慌ててリビングに降りてみた。でも、そこにはもう人の気配はなく、ソファーの上にきっちりとたたまれた毛布が重ねられているだけだった。しんと静まりかえった空間が、この家屋に長い間ひとりで暮らし続けている自分を思い起こさせる。数時間前の夜の出来事までが全て夢であったと言わんばかりに。

「あ…」
 毛布の上にちょん、と紙切れが乗っている。手にしてみると、電話の脇に置いてあるメモ用紙に書かれた手書き文字。周五郎のものなんだろうか? きっちりと真面目そうに形良く並んでいる。

『よくお休みのようでしたので、このまま行きます。昨晩は申し訳ございませんでした。 周五郎』

「…な〜んだ…」

 周五郎が寝ていたソファーに倒れ込む。ふわんふわんと身体が上下して、揺れる視界の向こうに花瓶の花が見えた。周五郎がくれた時はしおれきっていたそれが、たった一晩ですっくりと立ち直っている。バラの花びらの一枚一枚に命が宿って、少しほころんできていた。真っ白に見えていたそれも、明るい光の中で眺めると、うすピンクやクリーム色が混ざっている。

 起こしてやろうと思ったのに。別に他意はないけど、何だかちょっといい気分だったかも知れない。簡単な朝食とか作って、テーブルを囲んだりして――。

 …いやいや。

 どうしてそこまでやる必要があるんだろうか? 周五郎が押しかけてきただけなんだから。あの土砂降りの中、庭先に置き去りにしたって良かったのに、わざわざ家に入れてあげて。それだけでも感謝されるべきだ。…そう、それ以上のことは望んではいけない。周五郎も…そして、自分も。

 唇に指を当てる。微かに残る感触。胸に残る痛み。どうして、あんなこと、しちゃったんだろう…?


 …ポーン…。

 時計の音に、ハッとする。心が目を覚まして、現実が頭をもたげてくる。少し首を傾げると、たらしたままの髪がさらさらと乾いた音を立てて肩を流れた。

 何を期待しているの? 何を…どうなって欲しいの、自分は。ぞくぞくっと背筋が寒くなる。確かに、…自分の心が求め始めているものがある。でもそれに向かって手を伸ばしては絶対に駄目。他の奴ならそれでもいいかも知れない、でも…周五郎だけは、駄目。

『お前…男が出来たな? そうだろう…』

 また、あのどろどろとした闇の中に引きずり込まれる気配がする。あの言葉を口にする時、男は確かな感触を得ているのだ。沙和乃の些細な言動や行動の変化を見逃したりしない。もしかしたら、もう動き始めているのかも知れない。もしも、あの男が周五郎のことを掴んだら? …一体どうなるのだろう。

『沙和乃さんに…差し上げようと思って、…』
 淡い笑顔。自分を信じ切って、全力でぶつかってきてくれる。疑うことも知らないで。

 …駄目、もう。これ以上、近くに来たら駄目。私に微笑みかけないで、声を掛けないで。…側に、来ないで…!

 今、この胸にあるもの。この感情は捨てなくてはならない。そうしないと、自分だけじゃない、周五郎にまで被害が及ぶ。振り払おうとしても、すがりつきたくなる。あの瞬間、彼に大きな翼が見えた。自分を包んで守ってくれる大きくて力強い輝きが確かに。…でも。


 しばらくの間、膝を抱えてうずくまっていた。だが、やがて、沙和乃はゆっくりと顔を上げる。そして、何かを決めた目で、もう一度あの花たちを見つめた。

 


 ランドセルを揺らしながら子供たちが目の前を通り過ぎる。がたがたと心地よい音。あの中に詰まっているのは教科書やノートだけじゃない。夢も希望も未来も、この世にあるべきキラキラした美しいものが全部入っている。

 容子の。早く結婚した容子の子供たちはもう小学校に上がっている。そんな歳なのだ。彼らも毎朝こんな風に家を飛び出して行くのか。

 沙和乃だって、そうだった。あの頃はやはり明日に向かって元気よく駆けだしていたと思う。いつからこんな風になってしまったんだろう。時の流れに自分だけが置いてけぼりだ。取り巻いていたはずの全てが、いつの間にか沙和乃だけを残して先へ行ってしまった。

 

 静寂の戻った通学路。ガードレールの向こうの低いところに汚い河が流れている。上流では透明なせせらぎだったのに、河口付近のここまで来るうちにどろどろに汚れてしまう。そうなのだ、美しいものも綺麗なものも時が過ぎれば汚れていく。人の心だって身体だってそうだろう。そうならないで生きていけるのは、限られた選ばれた人間だけだ。…周五郎のように。

 彼はひなたを歩かなくてはならない。いつまでも、どこまでもまっすぐに。

 昨日の雨に洗われた風景がキラキラと輝いている。土手の枯れ草も、木々を揺らす葉も、みんなみんなこぼれんばかりの輝きを見せてくる。やがて天に戻っていく雫もその瞬間まで確かな存在感を示す。人間もそうあるべきだろう。そう訊ねたら、周五郎が大きく頷きそうだ。もしかしたら、一緒に行きましょうと手をさしのべてくれるかも知れない。

 そうしてくれるのも…あと、3日だけだけど。

 ガードレールにもたれ掛かったまま、沙和乃はコートのポケットから携帯を取り出した。電源を入れないまま、その表面を撫でる。もしかしたら、メールが届いているかも知れない。周五郎から。何て言って来るだろう、あの幸せそうな笑顔と、やわらかい寝顔を思い浮かべる。

 どうして、いつのまに。こんなに近くに来たのだろう。あまり度を過ごした接触が、日数を区切った関係に尾を引くと知らないのだろうか。いや、彼の場合、そんな心配はないのかも知れない。彼には…新しい未来が待っているのだから。自分とのことなんて、すぐに忘れてしまって――。

 どろどろな川の流れも、水面は朝日に輝いて、そのきらめきがつーっと長く伸びた。ぼーっと霞んだ視界。今、自分に出来ることはひとつだけ、周五郎のために出来ることはこれしかない。


 想いの全て、振り切るように。

 沙和乃は携帯をそのまま高く放り投げた。丸く大きく弧を描いて落ちていく。そのオレンジ色の夕日のような姿が、ぽちゃっと水面に消えた。


 ふと。視線を感じて振り向く。いつからそこにいたのだろう。今の一部始終を見ていたのだろうか? 白髪の品の良さそうな老人が沙和乃を見つめてゆっくりと微笑んだ。

 


「私は…田所と申します。周五郎お坊っちゃまが、お誕生の頃からずっと身の回りのお世話をさせて頂いております――有泉、沙和乃様、でございますね?」

 雨上がりの公園のベンチはどこも濡れていて、座るところなんてない。行く当てもなしにゆっくりと足を進めながら老人は黙ったままの沙和乃に静かに話し始めた。

 …「爺」と言う人だ。

 見た瞬間に分かった。想像していた通りの人物だったから。丁寧な言葉を使って、低い位置から話をしているように見えるが、その実、沙和乃をぎゅうっと上から押さえつけている態度。目の奥の輝きが、正直怖かった。それだけの威圧感がある。

「昨日は…周五郎様が大変お世話になったそうで…申し訳ございませんでした。主人に成り代わりまして、お詫びとお礼を申し上げます」

「…あ、いえっ…」
 深々と頭を下げられて、どうしようかと思う。もしかして、この人はとんでもない誤解をしているのではないだろうか? 自分と周五郎が…まあ、成人した男と女がふたりきりでひとつ屋根の下で一晩を過ごしたのだ。そう考える方が自然かも知れない。

「そんな、ただ、私は…っ…」
 舌が上手く回らない。しどろもどろってこういうことを言うんだ。自分の顔が赤くなっているのか、青くなっているのか…それも分からないほどに。

 しかし。そんな沙和乃に対して、目の前の老人は小柄な身体にしてどっしりした落ち着きを見せていた。心の見えない顔に笑みすら浮かべている。その唇が静かに動く。

「所詮は、火遊びですから…それくらい、ご承知でしょうね?」

 言いかけた言葉をすっと遮られる。少しこちらに身を寄せた老人が射るような瞳で沙和乃を見た。思わず言葉を飲み込んでしまう。

「有泉様のことは…周五郎様から申しつかってから、大変詳しくお調べさせて頂きました…こちらには一流企業にふさわしい有能な人材がありますからね。表から裏から全て、余すことなく――」

 小脇に抱えていた封筒から、分厚いファイルを取り出す。鼻先まで突き付けられて、でも受け取ることはしなかった。この老人が、一体、何のためにここまでやってきたのか、もうそれは明らかだった。

 沙和乃が力無い瞳で見つめ返すと、老人は静かに微笑んで、そのままそれを元通りに納めた。

「これと同じものを、今朝、お戻りになりました周五郎様にお渡し致しました」
 静かにそう言う。それから今度は胸の内ポケットから、白い封筒を取り出した。薄くて中に何か入ってるのかどうかも分からない。

「どうか、お納めください。そこに必要な額を書いて銀行にお持ち下されば…対処させて頂きます」

「…えっ…!?」

 受け取って、改める。中に入っていたのは額面の記されていない小切手だった。

「そんなっ…私は、そんなこと」

 身体ががくがくと震え出す。老人が何が言いたいのかもう分かりすぎていた。手切れ金だ、周五郎と縁を切って欲しいと言うのだろう。そう言われるとは分かっていた。彼にとって、自分がふさわしくないことは知っている。側にいられないことだって分かっている。

 でも、こんなもの。どうして受け取れるのだろう? 慌てて突き返そうとしたら、強く振り払われた。老人が意図したのかそうでないのか、彼の指の先が沙和乃の頬をかすっていく。鋭い痛みを感じた。

「いえ、あなたは…そんな人間でしょう? 自分の欲望のためになら、人の心も命すらも何とも思わないような」

 沙和乃が視線をそらしたのを見て取って、彼は更に続ける。

「あなたのような方が、ナカノで働いていること自体が情けないことです。さあ、それを持って、どこへでも行ってください。折を見て、ホテルの方は解雇宣告をしますので…どうぞ、その後のことはお気になさらず…」

「そ、そんなっ…!!」

 恐ろしかった、でも、これ以上黙っていることはどうしても出来ない。沙和乃は知らず、大声を上げていた。

「どうして? いくら何でも、仕事まで取り上げることはないでしょう? もう周に会わなければいいんじゃないの!? それだけじゃ駄目なのっ!」

「駄目ですよ」
 沙和乃の言葉になんて、少しも動じることはない。老人はきっぱりと言い切った。

「所詮、あなたにとって仕事はお金儲けの手段でしかないでしょう? でしたら、有泉様には一生掛かっても遣い切れぬほどのものを差し上げます。それで十分ではないですか? 一生涯、遊んで暮らせますよ」

「やっ…やめてっ!! どうしてっ、そんなこと言わないでっ!!」

 沙和乃はそう叫ぶと、白い封筒を男の足元に投げつけた。

「周に会わなければ、いいんでしょう? もう会わないわよっ、一生会わないわ。あなたからそう伝えて貰っていいですからっ…それ以上のことは言わないでっ! お金なんて、いらないっ!」

 涙がぶわっと湧いてきた。こんな失礼な男に対して、泣き顔を見せるなんて屈辱なのに。でも…止まらない。

「周に…あんたのご主人に私がふさわしくないことくらい、言われなくたって分かってるわよっ!! 最初から、分かってるわよっ!!」

 肩で大きく息をした。ここまで言ったら、またなんて言われるだろう。もう頭の中でそんなことを考えるゆとりもなくなっていた。

「そんなものっ、受け取れないわっ! それ持って、とっとと戻ってちょうだいっ!」

 

 さらさらと風が流れる。枝の隙間からこぼれ落ちる日差しが、とても場違いに思える。まぶしい朝、全てを新しくする輝きの中で、どうしてこんなことを言い合っているんだろう。

 しばし、無言でのにらみ合いが続く。瞳と瞳で意識を押し合う。ごくりと息を飲む音までが、辺りに響いていきそうだ。やがて、どちらからともなく緊張した頬に笑みが浮かぶ。それは決して友好のものではないけれど、それでもお互いの気持ちがひとつになった手応えを感じた。

 

「ご承知、下されば宜しいのです…そのお言葉が伺うことが出来て、嬉しゅうございます」

 老人の言葉が、沙和乃の心を突き抜けて、綺麗に洗い流された青い空に吸い込まれていった。

 


「…どうしたの? 沙和乃サン…?」
 その日の夜。店のドアを開けた容子は、口をあんぐり開けてそう言った。

「お願い、今日一晩だけ、泊めて」
 着替えのボストンバッグを手に、沙和乃は思い詰めた表情で言った。


 あのあと、いつも通りに仕事に出かけようとして。ふと思った。もしも、また周五郎が訪ねてきたらどうしよう? 携帯もなくて、連絡の手段がなかったら…ううん、そんなことない。もう彼が来ることはないだろう。自分の過去が詳細に分かったら、誰だって逃げるだろう。

 …でも、もしかして、もしかすると。

 それでもいいって、言われたらどうしよう。それでも、一緒にいて下さいって言われたら…どうしたらいいんだろう。あの目でまっすぐに見つめられたら…きっと、振り払えない。

 夜の公園、静かに揺れるブランコ。黒い鎖のその下に、座っている影がある。沙和乃を見つけて、嬉しそうに微笑んで。ようやく会えたって、言うんだ。親愛を込めて…。

 でも、それよりも。そんな風に期待してしまう自分が悲しかった。家に戻らなかったら、翌日は職場に来るんじゃないだろうか? 1週間は一緒にいるって決めたんだから約束を守って、と言われたら。そんなはずないって、もう来ないんだって、そう思い切りたいのに、出来ない。

 望んではいけないのに、そんなはずないのに。

 ぐるぐる想いが回って…どうしていいのか分からなくなった。ひとりでいたら、泣き出してしまいそうで。一晩中泣いてるかも知れないと思えて。


「…いいわ、入って。雑魚寝だけど、いいよね?」

 何も聞かずに、中に入れてくれる。彼女はいつもそうだった。容子がいたからどうにかやってこられたのかも知れない。誰かの吐息が側に欲しい夜がある。自分だけじゃない、もうひとりの存在が恋しくなる時がある。そんな波が…来ただけのこと。そう信じたかった。

 


 翌日、どうにか仕事が上がって外に出た。どうにもこうにも気力がなくて、清掃会社の仕事の方は休んでいた。こんな気持ちで周五郎の会社になんて行けない。彼の机の上を何でもないように拭くことなんて無理だと思った。

 今日はどうしようかな? 家に戻ってみようかな…明日は水曜日。定休日だ。ホテル業務自体に休みはないのだけど、社員はそれぞれウィークデーに定休日が設定されている。沙和乃はそれが水曜日なのだ。何か大きなイベントがあったりすれば、動いたりするが今はシーズン前で暇な時期だ。それに、今日は上がる時にフロア長に声を掛けられた。

「ねえ、有泉さん」

 思わず、どきっとした。まさか…この前のことで、田所氏が何か根回しをしたんだろうか? 今日限りで解雇とか言われたりするんだろうか。労働基準法に違反している気もするが、そんなこと上手い具合にねじり込まれてしまいそうだし。しかし、幸いにも彼女の口から出てきたのはそんな冷酷な言葉ではなかった。

「いきなりなんだけど…あなた、年休を消化していなかったわよね? 明後日、お休みにしてくれないかしら? 3月になってから休まれるとこっちも大変だし。年休を残したままだと、上が色々うるさいのよ」

「あ、はい…分かりました」
 バタバタしていたから、何だかホッとした。久しぶりの連休だ、どうしよう…何をしようかな? 少しだけど、心が前向きになっていた。やはり、昨日泊まりに行って正解だった。

 …そうなると、やっぱり家に戻った方がいいかも知れない。

 何よりも、テーブルの上に残してきた花が気がかりだった。自分がいないすきに枯れてしまったら悲しい。あの花はただの花じゃないのだ、世界にひとつきりの大切な存在で。もう二度と手に入らないもので…。水を取り替えて、時々は根元をはさんで。出来るだけ長持ちさせたい。

 沙和乃の心は決まった。大通りの方ではなく、駅への近道である裏通りを急いだ。

 


「あ…」

 いつかの公園を横切ろうとして、思わず足を止める。そこには…見覚えのある顔が待っていた。身体から血の気が引いていく。

 沙和乃は手にしていたボストンバッグをぎゅっと抱え直していた。





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